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角 刺 神 社
奈良県葛城市忍海
祭神--飯豊青命
付--飯豊天皇埴口丘陵
奈良県葛城市北花内
                                                     2019.06.4参詣

 近鉄御所線・忍海駅の西約140m。駅東の国道24号線を北上、橋を渡ってすぐの辻を左折(西)、川沿いに進み3っめの橋の角を右折(北)した都久辺りに鎮座する。葛城市歴史博物館の西隣りにあたる。式外社

※由緒
 社頭の案内には、
 「第22代清寧天皇が崩御された時、皇太子億計王(オケノミコ・仁賢天皇)と皇子弘計王(ヲケノミコ・顕宗天皇)互いに皇位を譲り合い、なかなか御位に就かれないので、姉君である飯豊青命(イイトヨアオ)が代わって、この地で朝政を執られました。
 日本書紀には、
  『倭辺(ヤマトベ)に見が欲しものは 忍海(オシヌミ)の この高城(タカキ)なる角刺(ツヌサシ)の宮』
とあり、大層立派な建物があったようです。
 飯豊青命の執政期間は短く、わずか十ヶ月余りで崩御され葛城埴口丘陵(カツラギノハニクチノオカノミササギ)に葬られました。北西約900m先にある飯豊天皇陵がそれです。
 飯豊青命は、記紀では天皇として認められていませんが、天皇扱いになっている歴史書も古来より数冊残されており、史上初の女性天皇として、その歴史に注目が集まるところです」
とある。

 案内にいう「倭辺に見が欲しものは・・・」との歌は、書紀・顕宗天皇5年春1月条に記す歌で、その意は
 「大和の辺りで 見ておきたいものは 忍海の地の この高城にある角刺の宮である」
で、この忍海の地に角刺宮と称する立派な宮殿があったことを詠っている。

 この角刺宮について、江戸時代の地誌には
 ・和州旧跡幽考(1681)
  「角刺宮  忍海村に在り 西に西辻村 東に東辻村 南(北の誤り)に南花内村などといふあり 
         此の忍海村や 皇居の跡にこそあらめ」
 ・大和志(1734)
  「角刺宮  忍海村に在り 清寧天皇崩ず 皇子億計弘計兄弟 位を相譲ること十有月 姉飯豊尊此に於いて政を聴く
         今 村民祠を建てて之を祭る 域内に寺有り 忍海寺と称す」
とあり、当地に飯豊青命が朝政を聴いたという角刺宮跡があり、そこに村人が祠を建てたというのはありうることだが、その創建時期は不明。

 当社拝殿におかれていた「角刺神社略伝記」には、当社創建の由緒として
 「清寧天皇が崩御されると、億計王・弘計王は互いに天皇の位を譲り合って、天皇のいない状況となってしまいました。
 そこで飯豊女王が。しばらくの間、天皇になることとし、この忍海村に角刺し宮を起きました。(中略)
 この年の11月に、飯豊天皇は崩御され、葛城埴口丘陵に葬られました。
 その後、臣下たちに神懸かりがあって、飯豊天皇が自分の御霊を祀りなさいとお命じになられたので、角刺宮の跡に社を造り、その御霊をお祀りすることになりました」
とある。


※祭神
   飯豊青命(イイトヨアオ)
    別名--飯豊皇女・飯豊尊・飯豊女王・飯豊郎女・青海郎女・忍海郎女(オシミノイラツメ)・忍海飯豊青尊など

 飯豊青命の出自については2説がある。
 ・古事記(履中記)
  「天皇 葛城曽都比古の子・芦田宿禰の女・黒比売命を娶して生みましし御子、市辺押歯王(イチベオシハ、市辺押磐・市辺押羽とも)、次ぎに御馬王・次ぎに青海郎女、亦の名飯豊郎女」
 ・書紀(履中紀)
  「芦田宿禰が女黒媛を立てて皇妃とす。妃 磐坂市辺押羽皇子・御馬皇子・青梅皇女[一に曰く 飯豊皇女といふ]を生めり」
とあり、履中天皇段では、記紀ともに飯豊青命は履中天皇の皇女だという。

 ところが、
 ・古事記(清寧記)
  「市辺押歯王の女・忍海郎女 亦の名飯豊王 葛木の忍海の高木の角刺宮に坐しき」
 ・書紀(顕宗紀)
  「市辺押磐皇子 蟻臣の女荑媛(ハエヒメ)を娶す。三男二女を生めり。居夏姫・億計王・弘計王・飯豊女王[亦の名・忍海辺郎女]・橘王と曰す。一本に 飯豊皇女を以て億計王の上とす」
とあり、ここでの飯豊青命は市辺押歯命の御子(履中天皇の孫)となっている。

 このように、飯豊青命の出自には2説があるが、
 ・扶桑略記(1097・平安末期)--市辺押歯皇子女 去来穂天皇(履中)孫 母荑媛(ハエヒメ)
 ・先代旧事本紀大成経(1679発見、江戸幕府から偽書として刊行が禁止された)--磐坂市辺押羽皇子女 母仁賢顕宗同産嬢也
など、市辺押歯皇子の女とする資料があり、
 また扶桑略記(1097頃)によれば、飯豊青命は“清寧天皇5年(484)11月に御年45歳で崩された”とあり(下記)、これから逆算すれば誕生年は西暦439年となり、履中天皇(在位400-405)の2代後の允恭天皇の御代(418--53・履中の末弟)にあたることから、飯豊青命は世代からみて市辺押歯皇子の御子とみるのが順当かもしれない。

 なお、当社では飯豊女王は市辺押歯(磐)皇子の御子で億計王・弘計王の姉、母方の祖は葛城襲津彦(カツラギソツヒコ)に連なるとして、配付資料・飯豊女王関係系譜には次の系譜を載せている。
   仁徳天皇--履中天皇--市辺押磐皇子---飯豊女王・億計王・弘計王
 葛城襲津彦--葦田宿禰--蟻臣--荑媛-|


 案内は、“飯豊青命がこの地で朝政を執られた”というが、それに至る経緯について、古事記には
 ・市辺押歯皇子が、皇位継承候補者を抹殺しようとする大長谷王子(後の雄略天皇)の謀略によって、淡海の蚊屋野で殺された
 ・それを知った億計王・弘計王の二人は大和を逃げ出して、山城の狩羽井(京都・山城町)から交野の玖須婆(枚方市楠葉)を経て播磨国に至り、その地の住人・志須牟(シジム)の家に入って、身分を隠して馬飼い・牛飼いとして使われた(安寧記)
 ・清寧天皇は5年1月に崩御されたが、皇位を継承する王はおらず、飯豊青命は、葛城の忍海の高木の角刺宮に居られた
 ・その頃、播磨国の長官であった山部連小楯(ヤマベノムラジオタテ)が志須牟の家の新室の宴に出席して、竈のそばに居て火を焚いていた少年二人(億計王・弘計王)に舞を舞うように命じた
 ・そこで兄の億計王がまず舞い、次ぎに弟の弘計王が舞いながら、「私らは、天下をお治めになった伊耶本和氣(履中天皇)の御子、市辺の押歯王の子です」
と名乗った
 ・それを聞いた小楯は驚いて、仮宮殿を作って二人を住まわせるとともに、早馬を仕立てて大和に知らせた
 ・その知らせを聞いた叔母の飯豊青命は喜んで、二人を葛城の角刺宮に上らせた(清寧記)
とあり、
 書紀には
 ・清寧天皇2年 播磨国司山部連の先祖伊予来目部小楯が縮見屯倉首(シジミノミヤケノオビト)の新室の祝いの場で、億計王・弘計王を見つけ(その経緯は古事記に同じ)、大和に報告した
 ・それをうけた天皇は喜んで、「吾に子なし、以て嗣(ミツギ)とせむ」と二人を呼びよせ、同3年億計王を皇太子に任じ、弘計王を皇子とした
 ・清寧天皇5年春一月 天皇崩御
 ・この時、億計王と弘計王は互いに皇位を譲り合い、長らく位に就かれなかった
 ・ために、両王の姉・飯豊青命が、忍海の角刺宮で仮に朝政をご覧になり、自ら忍海飯豊青尊と名乗られた
 ・同年11月 飯豊青尊は崩御され、葛城の埴口丘陵に葬られた
 ・同年12月 億計王他のたっての要請により弘計王が即位(顕宗天皇)された(顕宗紀)
とある(いずれも大意)

 億計王・弘計王出現の経緯は記紀ともに同じだが、その時期について、古事記は聖明天皇没後とし、書紀では天皇生存中とする違いがある。

 ここで書記がいう“忍海の角刺宮で仮に朝政をご覧になった”というのが、いかなる形のものか、天皇として即位されていたかどうかは不祥(皇統譜に飯豊天皇の名は見えない)
 ただ、古事記下巻の冒頭に、
 「大雀皇帝(仁徳)より豊御食炊屋比売命(用明)に尽(イタ)るまで凡そ十九天皇」
とあり、仁徳から用明までの天皇は19代とあるが、現皇統譜には18人の天皇しか記されておらず、あるいは飯豊青命を加えて19代と数えたのではないかという。

 また、平安後期以降の古資料には飯豊天皇あるいは清貞天皇とするものがあり、
 ・扶桑略記(1097頃)
 「飯豊天皇 [廿四代 女帝 清寧天皇養子 履中女]
   甲子歳(484・清寧天皇崩御年)春二月 四十五歳にして即位
   顕宗天皇仁賢天皇兄弟相譲りて皇位に付かず。その姉豊青姫天下の政を覧る
   同年冬十二月 天皇四十五歳で崩 大和国葛木埴口丘陵に葬る」
 ・皇胤紹運録(1426・室町前期)
 「飯豊天皇 [青尊・アオミコト]  
   又豊青姫と号す 忍海辺女王是也 清寧崩後 仁賢・顕宗兄弟相譲りて即位せず 仍って姉豊青姫 二月より天下の政を摂る 十一月崩四十五歳」
 ・大成経
 「清貞天皇  諱(イミナ)青海媛尊 又飯豊皇女 諡(オクリナ)清貞天皇 
          天皇御宇 一年に足らず 故に古人議して皇代に入れず」
とあるように、飯豊青命は天皇であったとする資料もある(在位:清寧天皇崩後の5年2月から同11月までの約10ヶ月)

 加えて、
 ・飯豊青命の尊称に、天皇あるいはそれに準ずる人に用いられる“尊”の字が使われていること
 ・宮内庁が管理する飯豊青命の墓が『飯豊天皇 埴口丘陵』(ハニクチノオカノミササギ)と記され、そこに“飯豊天皇”とあり、天皇の墓を示す“陵”と表記されていること(下記)
などからみて、同命が短期間とはいえ天皇であった蓋然性は高いかと思われる。

 因みに、中国の古代文字・金文での“陵”は
 「神を祀る建物と、神が上り下りする梯子を組み合わせた文字で(右が神マツリの建物、左が神が降下する梯子を示す)、降下してきた神霊を迎えて祀るところ」を意味し、
 そこから、現人神である天皇の墓を陵(ミササギ)というようになったという(常用字解・2003)
  
 
金文・陵

 飯豊青皇女について、清寧紀3年条に
 「秋7月、飯豊青皇女が角刺宮で男と交合(マグワイ)されたが、人に語って『人並みに女の道を知ったが、別に変わったこともない。以後男と交わりたいとも思わぬ』といわれた」
とのエピソードが記されている。

◎播磨国風土記
 億計王・弘計王の二人が播磨国で名乗り出たことに関連して、播磨国風土記美嚢郡・志深里(シジミノサト)条に、
 「於奚(オケ)・袁奚(ヲケ)の天皇(スメラミコト)たちがこの国におられたわけは、
 二人の兄弟が志深村の首長宅の新室の祝いの席での祝辞(家誉めの言葉)の最後に、『大和に坐しし市辺の天皇の御足末(ミアナスエ) 奴僕良麻(ヤッコラマ)』と名乗りをあげ、山部連小楯に迎えられて都に帰り、母親・手白髪命(世代が違い伝承の間違いであろう)と再会され、
 その後、皇子たちは再び還り下って宮をこの土地に造っておいでになった。だから高野の宮・小野の宮・川村の宮・池野の宮がある」
との伝承が記されている(大意)
 ここにいう高野宮以下の4ヶ所について、書紀にも
 ・顕宗紀--或本に云 弘計天皇の宮二所あり、一の宮は小郊(オノ=小野)に、二の宮は池野にありといふ
 ・仁賢紀--或本に云 億計天皇の宮二所あり、一の宮は川村に、二の宮は縮見の高野にあり、その殿の柱今に至るまでに朽ちずといふ
とあり、その宮地が播磨国風土記にいうそれと合致することから、記紀・風土記が編纂された8世紀初頭頃には顕宗・仁賢両天皇の宮が播磨国にあったとの伝承があったと推測されるが、その真否は不明。

◎地名・忍海について
 当地・忍海は、明治30年(1897)まで大和国忍海郡(和名類聚抄-937-には「於之乃美・オシノミとある)と称していた地域で、北の葛上郡、南の葛下郡に挟まれた4郷をもって構成され、大和国15郡のうち最小の郡であったという。

 配付資料・「忍海の歴史」に
 ・歴史上、最初の実在人物とされる葛城襲津彦が5世紀のはじめ頃、新羅から連れ帰った人が住みついたのが忍海の始まりとされています。
 ・その人たちは、鍛冶仕事に従事する渡来系集団として活躍したそうです。
とある。

 地名・忍海の初見は、書紀・神功皇后摂政5年条に記す
 「襲津彦は新羅に行き多大浦(タノオオウラ)に陣し草羅城(サワラノサシ)を攻め落として還った。このときの捕虜たちは、今の桑原・佐糜(サビ)・高宮・忍海(オシウミ)などの四つの村の漢人(アヤビト)らの先祖である」
という。

 ここでいう新羅から連れ帰った捕虜について、谷川健一氏は
 ・葛城襲津彦が連れ帰った漢人たちは、神功紀では新羅の捕虜のように記されているが、それは事実でなく、加羅から日本に渡来してきた鍛冶職人であったと思われる
 ・忍海に住む忍海漢人が鍛冶技術者として日本古代に活躍してきたことは知られている
として、葛城の忍海一帯には朝鮮半島から渡来した鍛冶職人等が居住・活躍していたのではないかと推測している(青銅の神の足音・1989)

 上記の飯豊青皇女の系譜で、母方の祖を葛城襲津彦に結びつけているのも、襲津彦が連れ帰ったという忍海漢人との関係からとも推測できる。


※社殿等
 近鉄忍海駅前広場を左(北)へ、橋を渡ってすぐの道路を左(西)へ、近鉄線を越えて二つ目の角を右(北)へ入った先に鎮座する(入口の右角に警察駐在所がある)

 南面する正面入口には鳥居はなく、「角刺神社』と刻した石柱が立つのみ。
 なお、参詣の栞登載の「明治時代の古絵図」によれば、社殿全体の構成は現在と殆ど変わっていないが、鳥居と拝殿との間が広く描かれている。

 
角刺神社への入口付近
(奥が神社入口、右は警察駐在所)

同・正面入口
(石標のみで鳥居はない)
 
明治時代の古絵図
(参詣の栞より転写 右が北)

 入口を入った左に手水舎、その右に立つ小さな鳥居に近接して切妻造・平入りの拝殿が、その奥、ブロック塀に囲まれた中に本殿が、いずれも東面して鎮座する。
 ただ塀が高く、見えるのは屋根のみで社殿全体の実見は不能。
 上記古絵図からみれば、妻側に向拝を有する一間社切妻造と思われ、今見える屋根の形からみて変わってはいないと思われる。

 
同・境内全景
(左:手水舎、中央:拝殿)
 
同・拝殿
 
同・本殿
(見えるのは屋根のみ)


◎ご神木
 境内には、幹に注連縄を張り廻したご神木が2本ある。
 一本は拝殿右手の大木だが、基幹部が地表に沿って横に延び、途中からL字型に曲がって空に向かっている。これが自然の姿か、盆栽のように人の手が加わったてのものかは不明だが、珍しい形をしている。
 もう一本は境内右手にある古木で、幹の上部が枯れ落ちている。


L字型神木 
 
同左・基幹部
 
境内右手のご神木

◎鏡池

 境内の東に『鏡池』と称するほぼ円形の池がある。

 当社配布の資料には(拝殿前に参詣の栞他数葉の資料があり、自由にお取り下さいとある)
 「境内にある鏡池は、飯豊青命が毎朝 鏡代わりに使ったと池と伝えられています。
 また、この池は蓮池とも呼ばれていて、當麻寺の中将姫が曼陀羅を織るための蓮糸をこの池から採ったといわれています」
とある。 

 なお、参詣の栞には
 「嘗ての鏡池は現在より大きく、南北約15.5m、東西約23mもありました」
とある。

鏡 池 

◎忍海寺(ニンカイジ)
  境内右手に横長の建物があり、入口には『忍海寺』との扁額が掛かっている(寺名はオシミではなくニンカイと称している)
 参詣の栞によれば、
 「平安時代以降、神仏習合の考え方から神社とお寺が同じ敷地に建てられるようになりました。
 忍海寺では、その様子が現在まで残っています。
 本尊の十一面観音立像は、飯豊天皇のお顔をうつしたものとの言い伝えがあります」
とある。

 忍海寺に関する資料は皆無に近いが、唯一管見した新纂浄土宗大事典には、
 「忍海寺は葛城市平岡の極楽寺(浄土宗)の末寺であった。
 言い伝えでは、聖武天皇の頃、横佩くの右大臣藤原豊成(704--68)の娘である中将姫(747-75)が出家し、天平宝字7年(763)、當麻寺において太曼陀羅を感得したとき、忍海寺の庭前にあった蓮実をとって化尼・化女に捧げて、曼陀羅の地糸として供えたとされている。
 元禄時代には庭に小さな池があって“村寺之池”と名付けられていたが、当時すでにかつての蓮根は絶えて、他の池から移植した蓮根に変わっていたらしい。
 昔より草堂があるにもかかわらず、檀越がいないため僧侶は住していなかったが、寛文年間(1661--73)に道空という者が住して以後は僧侶が相続した。
 本尊は十一面観音菩薩立像。飯豊青皇女をまつる角刺神社とともに建っている」
とあるが、今は正面扉が閉まっていて内部の様子はみれない。 


忍海寺 
 
同・扁額
 
同・十一面観音

◎分水石
 社殿の反対側に、幾つかの石造物が並ぶ一画があり、そこに『分水石』との石造物がある。
 資料・『分水石と忍海村の義民 九平さん』には
 「忍海を東西に流れる安位川と、集落の西を南北に通る高野街道が交わる所の近くに、東へと分かれる水路があります。
 水路の途中に忍海と東隣りの村とに水を別ける分水石が設けられ、そこは『戸分ケの分水石』と呼ばれていました。
 ところが文政11年(1828)にその分水の割合をめぐって、両村の間に争いが起こり、分水の割合を、忍海村は忍海四分七厘・隣村五分三厘と、隣村は隣村六分・忍海四分と主張しました。
 この争いは、2年後に御所町の問屋・新五左衛門の仲裁で、忍海村の主張通りに決着しましたが、その理由として義民・九平さんの話が伝わっています。
 両村か争っていたとき、火柱を立て、それを抱きかかえる者がいれば、その村の主張を聞き入れると決められていました。
 そこで忍海村の九平さんが名乗り出て、犠牲的精神をもって火柱に抱きついたので、忍海村の主張通りになったといわれています。
 九平さんはその後、当時としては長生きして明治8年(1875)12月8日に亡くなりました。
 戸分ケの分水石は、住宅団地ができる折に撤去されましたが、九平さんの事蹟を忘れないように当社境内に移設したのが、この分水石です」
とある。

 分水石は、平たい石の両端に突起がある形で、突起部分に彫られた溝の幅で、左右に水を別けたのかと思われるが、その詳細は不明。 

 
左:忠魂碑・中央下:庚申塚・右下:分水石

分水石 
 

義民 九平さんの火柱抱き
(資料転写)


【飯豊皇女陵】 北花内大塚古墳
  葛城市北花内(近鉄御所線・近鉄新庄駅の南南西約500m)
  葛城山麓から東へ延びる尾根が途切れた盆地平野部の微高地に位置する。
 飯豊青皇女の陵について、書紀・顕宗天皇段に
 「清寧天皇5年冬11月 飯豊青尊は崩御された。葛城の埴口丘陵(ハニクチオカノミササギ)に葬った」
とあり、宮内庁は、近鉄御所線・新庄駅の南約400mほど(角刺神社の北約1km)にある古墳が是だとして、『飯豊天皇 埴口丘陵』として管理している(考古学上では北花内大塚古墳という)

 
飯豊天皇埴口丘陵
石標

同・拝所正面 
 
同・拝所側面

 墳形--前方後円墳 (前方部は南西方に面する)
  ・墳長:約90m、後円部径:約50m、前方部幅:約70m、周濠幅:約10~15m、埋葬施設不明
  ・周濠内及び周辺から出土した遺物として円筒埴輪・形象埴輪・笠形木製品等があり、
  ・埴輪の形式から5世紀末葉から6世紀前葉の築造と考えられ、
  ・記紀に伝える飯豊青皇女の時期と合致することや、角刺神社との地理的関係からみて、
  ・飯豊青皇女の陵墓として間違いないだろうという。(天皇陵総覧・1994)

 陵へは、北側の道路(右写真の右上)から入り、突きあたりから周濠沿いに右(西)へ、前方部西角を左折した先の前方部中央に拝所があるが、柵の中に鳥居が立つのみで建造物等はない。
 陵の北・東西面は民家が近接していて、墳形の一部が南側の道路からみえるのみ。

 
陵北側・後円部先端部分
(左写真の中央部上部付近)
 
陵前方部遠望
(南側道路より)

航空写真(ネット地図転写)
下方・前方部中央が拝所

◎地名・花内について
 当陵が位置する北花内(当地の南に南花内あり)の花内について、
 ・飯豊天皇の陵名・埴口(ハニクチ)が訛って花内(ハナウチ)となったという説
が定説のようになっているが、資料・角刺神社略伝記には
 ・ある日、角刺宮を出て秋津嶋でゆっくりとした時間を過ごし、忍海部の磐船などをご覧になられていたとき、南の方から桜の花びらが飛んできて、天皇の盃に落ちた。天皇は趣のあることと思い、歌を詠まれた
 このことから、その地を花落(ハナオチ)と呼んでいたが、後に花内に改められた
との伝承が記されている。
 ただ、当陵を埴口丘と称した理由等が不明のため、上記のいずれが事実なのかは不明。

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