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和爾下神社
上治道宮--天理市櫟本町櫟本宮山
祭神--素盞鳴命・大己貴命・櫛稲田姫命
下治道宮--大和郡山市横田町治道
祭神--素盞鳴命・大己貴命・櫛稲田姫命・横田物部命
                                                                 2014.02.12参詣

 延喜式神名帳に、『大和国添上郡 和爾下神社二座』とある式内社。社名は“ワニシタ”と読む。
 通常、祭神二座とは、一つの神社に祭神二座を合祀していることを指すが、当社は、二座が別々の地(天理・櫟本町、大和郡山・横田町)に鎮座し、上治道宮(カミハルミチノミヤ・上治道天王社ともいう)・下治道宮(シモハルミチノミヤ・下治道天王社ともいう)と称している(なお、治道をジドウと読む場合もある)。両社間の距離は約2.5km。

※由緒
 今、和爾下神社は東西二社にわかれて鎮座するが、延喜式編纂当時から2社だったのかどうかは不明。

 ただ、江戸中期の地誌・大和志(1734)には
  「和爾下神社二座 一座 櫟本村に在り、上治道天王と称す。近隣五村共に祭祀に預かる
              一座 横田村に在り、下治道天王と称す。十一村共に祭祀に預かる」
 また大和名所図会(1791)には
  「和爾下神社二座 横田村と櫟本村とにあり、治道天王と称す。神名帳に出」
 大和志料(1914・大正初)には
  「和爾下神社 延喜式に和爾下神社二座とあり、一座は櫟本町治道にありて、俗に上治道天王と称す。一座は大字横田治道山にありて下治道天王と称す。共に村社たり。
 祭神は素盞鳴命・大己貴命・稲田姫の三神を祭ると云う」
とあり、いずれも和爾下神社二座は櫟本と横田の二ヶ所に一座ずつ鎮座しているという。

 和爾下神社との呼称は、上治道社の北北東約1kmに鎮座する和爾坐赤坂比古神社(当社の北北東約1km)が和爾町の台地の上にあるのに対して、地形的にみて当該2社共に低地にあることから“和爾の下に坐す神社”の意味で和爾下と呼ばれ、
 また、上・下治道社の呼称は、“東方を上、西方を下とする概念によるもので、江戸時代中期頃から起こったものと認められる”とあり(式内社調査報告・1934)、古くから2社が併立していたと思われる。


【和爾下神社(櫟本)(上治道宮-カミハルミチノミヤ)
 JR桜井線・櫟本駅の南南東約1km、国道169号線(南北)に県道192号線(東西)が突き当たる和爾下神社前交差点の東側に朱塗りの大鳥居が立ち参道(一般道路と変わりはない)が始まる。
 大鳥居から約300mほど進んだ左手にある石燈籠2基の間を左(北)へ折れて参道を進み、右手に西面する二の鳥居をくぐって左折(北へ)次に右折し(東へ)、長い石段を登った上が境内。

 古代には、古代の官道・上ツ道(カミツミチ・南北方向)が当社の東側を通っており、上ツ道と北の横大路(ヨコオオジ・東西方向)とが交差する要衝の地にあったという。

 境内に掲げる案内によれば、
  「神護景雲3年(769)東大寺領の櫟庄の水を引くため、高瀬川の水路を今の参道に沿った線に移し、道も新しく真っ直ぐに作られたもので、この森を治道の森といい、宮を治道社といった。
 和爾下神社古墳の上に祀られた神社で、櫟本の地方にいた一族の氏神であったが、今は櫟本町の鎮守の神社である。
 この治道社(春道社とも書く)の祭神・素盞鳴命の本地が牛頭天王であるので、天王社ともいわれ、ここに建てられた柿本寺との関係で柿本上社ともいわれた。
 明治初年に、延喜式内の和爾下神社がこれに当たると考証されて、社名を和爾下神社と定めた」

 また、天理市ホームページ・和爾下神社の項には、
  「櫟本の町中を流れている高瀬川に沿った長い参道があって、東の治道山に鎮座。
 寿永2年(1183・平安末期)藤原清輔の弟・顕昭(ケンショウ)が著した“柿本朝臣勘文”によると、
  『清輔が語っていうに、大和国へ下向したとき古老から聞いたが、添上郡石上村(櫟本町の南に石上町あり)の傍らに社があり、春道社という。その中に寺があって柿本寺といい、人丸の堂である。その前の田の中に小塚があって人丸墓という』
との記事があり、この記事により石上村付近の治道の森に、治道社(春道社)と柿本寺があったことがわかる。
 この社は、東大寺山丘陵の西に位置する古墳の上に祀られていて、櫟本地方にいた豪族の氏神であったが、今は櫟本の鎮守」
とある。

 当社案内・天理市HP共に、当社は“櫟本一帯にいた古代氏族が氏神として祀ったも神社”というが、諸資料によれば、当地にいた氏族とは古代の豪族・和爾氏と同族である柿本氏といわれ、その柿本氏が祖神を祀ったのが当社で、柿本寺はその氏寺で、当社の神宮寺的な寺であったと思われる(明治初年の神仏分離により廃され、今当社近くに遺構があるという)

 当社が、案内にいう奈良時代の水路改修工事の時に実在したかどうかははっきりしないが、奈良中期頃の創建と思われる柿本寺跡から出土した古瓦の文様が奈良時代の様式であることから、当社の祭祀も極めて古いといってもいいだろうという(式内社調査報告)

 当社に関係する氏族・柿本氏について、古事記・孝昭天皇の段に
  「孝昭天皇の皇子・天押帯日子命(アメノオシタラシヒコ)は春日臣・・・柿本臣・壱比韋臣(壱比葦臣-下治道社に関係)・・・の祖」
として、和爾氏系16氏の一としている。
 また新撰姓氏録(815)には
  「大和国皇別 柿本朝臣 大春日朝臣同祖 天足彦国押人命之後也 敏達天皇御世 家門に柿樹有り、為に柿本臣氏という」
   (大春日朝臣 左京皇別 孝昭天皇皇子・天足彦国押人命より出ず--和爾本宗家の直系氏族らしい)
とある。
 また、HPがいう“人丸”とは歌聖・柿本人麻呂(660頃--720頃)を指す。

 当社は、東大寺山古墳群の一画にある“和爾下神社古墳”の後円部の上に鎮座する。
 
 境内に掲げる和爾下神社古墳の案内(天理市教育委員会)には、
  「東大寺山丘陵の西麓台地上に築造された前方後円墳で、全長約120m、後円部径70m、高5m、前方部幅50mである。端部が両側へ開く特異な形態である。
 当古墳と、東大寺山古墳・赤土山古墳及び総合開発センター内に所在する古墳などにより東大寺山古墳群を構成している。
 当古墳から東北約800mには和爾の集落があるが、この周辺一帯は、古代大和政権の一翼をになった和爾氏の本拠地と推定され、東大寺山古墳群は和爾氏の奥津城と考えられる」
とある。
 ここで、“前方部端部が両側に開いている”というのは、所謂・バチ型古墳といわれるもので、上記案内は「築造時期は4世紀末から5世紀初頭と推定」というが、箸墓古墳に見るようにバチ型古墳は古墳時代最古段階(3世紀後半頃か)の古墳とされている。

側面から見た形状
(盛り上がった墳丘の上が境内)


【和爾下神社(横田)(下治道宮-シモハルミチノミヤ)
 櫟本町の和爾下神社(上治道社)の西約2.5km、和爾下神社前交差点から県道192号線(古代官道・北の横大路に相当か)を西行した道路の北側、横田町の東端・櫟枝町との町界近くに鎮座する。

 境内にある案内には、
  「この森は下治道宮といい、まほろば歴史神話と聞くが、古代6世紀ころ、横田物部氏の円墳の丘に和爾下の神社を安置されしと昔人の言い伝えに聞く。
 尚、この神社の崇敬者は、京都の南山城方面より祝園一帯、大和は添上・山辺両郡と広い範囲に及ぶ氏子崇敬者と聞く」
とあるが、6世紀創建とする確証はない。

 資料・日本の神々4(1985)には、
  「横田の和爾下神社が鎮座する横田の地は、現在の櫟枝町(横田町の東隣)を中心とした壱比韋臣(櫟比とも、イチヰ、柿本氏などと同族)の根拠地であり、弥生時代の下池遺跡が示すように古くから集落が営まれていたが、一帯は奈良時代に東大寺領となり、神護景雲3年(769)から翌年にかけての大規模な灌漑工事によって添上郡屈指の荘園となって、中・近世には横田郷として櫟本郷とともに繁栄した」(式内社調査報告も略同意)
 また、ネットにみる横田町の案内には、
  「(横田町は)道と中道を結ぶ道路と、法隆寺から櫟本に通ずる東西の道路の交差点に当たり、古くから交通の要地として栄えた土地で、饒速日命の後である横田物部氏が勢力を張っていたところと云われている。・・・
 下治道天王社(和爾下神社)を中心とする横田郷は、共同防衛のため数(12村)が集まって団結を結んだもので、平野部では屈指の大村であった」(大意)
とある。

 これによれば、当社は本来、和爾氏に連なる柿本氏などと同族の櫟比氏が、その祖神を祀ったも神社だったが(創建時期は不詳)、後に、物部氏系の横田物部氏が関与する神社へと変貌したようで、
 大和志料には、
  「按ずるに、横田は横田物部氏の住居にして、饒速日命に関係あること横田塁に述ぶるが如し。
   而して筒井雑記(1570・戦国末期)に当村の事績を記して、
    当村鎮守 下治道 牛頭天王と云ふ 又の説横田物部社とあり  
                    慶長已後春日社領御寺務御殿御支配 添上郡横田村
とあり、此の一説によれば物部氏の祖神を祭れるものなり。後考を俟つ」
 同じく横田塁(城塞)の項には、
  「治道村大字横田にあり。横田氏これに依る。郷土記に横田平城(地名)横田治部(人名)(あるは) 即ち是也
   横田氏は本姓物部にして天孫降臨の時随従せし二十五部の一なる横田物部の苗裔なりと云ふ」
とある。

 ここでいう天孫降臨とは、記紀にいうニニギ尊による降臨ではなく、先代旧事本紀にいう饒速日命(ニギハヤヒ)の降臨のことで、命に随従した25氏の中に横田物部の名があるが、旧事本紀以外にはみえず詳細不明。
 ただ、ネット資料(国中の人々)によれば、
  「横田氏は横田平城と呼ばれた横田環濠集落を本拠とした有力土豪で、・・・横田和爾下神社の神官として春日神人に連なっていたと伝えるが、確証はない」
とあり、この横田氏が横田物部氏の後裔らしい。

 横田環濠集落とは中世の頃に形成された環濠集落で、ネット資料(横田環濠-気分はコクジン)に記す見取り図によれば、環濠北側沿いの街道(旧横大路らしい)が東部で環濠内に取りこまれ、その街道北側に当社が鎮座し、当社の南に市場がある交通・交易の要衝となっていて、中央部南張出部に横田氏の城館・辰巳城があったという(見取り図を旧状を残す今の街区に当てはめると、東西約400m・南北最大約250mほどか)

※祭神
 今、当社の祭神は、両社共に
 ・素盞鳴尊(スサノヲ)
 ・大己貴命(オオナムチ・スサノヲの御子)
 ・櫛稻田姫命(クシイナダヒメ・スサノヲの后)
というが、江戸時代までの当社が“上・下治道天王社”と称していたことからみると、江戸期までは防疫神・牛頭天王(ゴズテンノウ)を主祭神としていたと思われ(櫟本では気づかなかったが、横田社頭の石燈籠には「牛頭天皇」とある)
 明治初頭の神仏分離により仏教色の強いゴズテンノウが排斥されたことから、同体とされるスサノヲに変わったものであろう(備後国風土記・蘇民将来条参照)

 この主祭神・ゴズテンノウというのは、疫病などの流行に対処できなかった古代の人々が、それを押さえ込んでもらうために、より強力な疫病神であるゴズテンノウを勧請したもので(時期不明・中世から近世初頭の頃か)、当社本来の祭神ではない。

 延喜式神名帳に“祭神二座”というのがどのような神々かは不詳だが、式内社調査報告によれば、
 ・櫟本和爾下神社の神官・辰巳筑前が提出した報告書(明治7・1874)
   本社--天足彦国押人命(アメノタラシヒコ クニオシ)・彦姥津命(ヒコハハツ)・彦国葺命(ヒコクニブク)
   若宮--難波根子武振熊命(ナニワネコ タケフルクマ)
 ・新撰姓氏録考証(明治33・1900)
   和爾下社(横田)の神官は櫟井氏(櫟比氏)にして、祭神は天帯(足)彦国押人命・日本帯彦国押人命(ヤマトタラシヒコクニオシ)の二座
とあるという。

 これらはいずれも和邇氏が祖神とする神々で、管見した和爾氏系図(真偽不問)によれば、
  孝昭天皇(5代)--天足彦国押人命--○--彦姥津命--彦国葦命--○--難波根子武振熊命--
                                 --○--春日和爾深目 →春日氏・和邇部氏など
                                    |--春日人華(読み不明) →柿本氏・櫟比氏など
という(当社関係のみ記す)
 なお、考証にいうヤマトタラシヒコクニオシ命とは、アメノタラシヒコクニオシの同母弟で後の孝安天皇(6代)を指す。
 ただ、孝昭・孝安両天皇は所謂欠史9代として、その実在が疑問視されている天皇であることから、和爾氏が孝昭天皇から出たというのには疑問がある。

 和爾下神社が和爾氏一族が奉斎する神社であることから、これらの神々が本来のものであったと思われるが、
 ・延喜式神名帳に祭神二座とあるのに三座が祀られていること
 ・大和志などの記述からみると、櫟本・横井の2社は、和爾下神社の祭神二座を一座ずつにわけて、それぞれの社に祀ったというが、今は両社とも同じ神々を祀っていること
など、史料と現在の祭神とが整合しない。

 愚考すれば、櫟本の和爾下神社は、柿本氏がその祖神・天足彦国押人命を主祭神として祀ったもので(延喜式に二座とあるうちの残り一座の神名は不明だが、上記系図の中の一であろう)、それと同時期か、あるいは遅れて、同族の櫟比氏が別社(あるいは分社)として横田の地に神社を創建して同じ神を祀ったものと推察され、大和志料などが祭神各一座とするのは、延喜式に二座とあることから、これを一座ずつにわけて祀ったと誤解したものであろう。

 なお、横田の和爾下神社の祭神に横田物部命とあるのは、後世になっての横田物部氏の関与により、その祖神として追祀したものであろう。

※社殿等
【和爾下神社(櫟本)
 石燈籠2基に挟まれた参道を北に進むと、右手に西面して二の鳥居・三の鳥居が立ち、その突き当たりを左折(参道に末社数社が点在する)、突き当たりを右折し長い石壇を登った上が境内。

 境内正面に拝殿(入母屋造・瓦葺)、その奥に本殿(三間社流造・一間向拝付き・桧皮葺、国指定重要文化財)が、いずれも西面して鎮座する。ただ、瑞籬の隙間が狭く本殿の形状はよく見えない。
 本殿左(北側)に小祠・若宮社(攝社か、祭神不明)がある。


和爾下神社(櫟本)・大鳥居
(参道は一般道路となっている) 
 
同・参道入口
(両側に大きな石灯籠あり)

同・二の鳥居 ・三の鳥居
(突き当たりに十二神社あり)

同・拝殿

同・本殿
 
同・若宮社

◎末社
 二の鳥居・三の鳥居をくぐり左に折れた参道に、十二神社・厳島神社・琴平神社・熊野神社・稲荷神社の小祠が点在する。社名のみの表示で祭神名等は不明。

 
末社・十二社
 
末社・厳島社
 
末社・琴平社・熊野社
 
末社・稲荷社

 資料によれば、他に大年社・恵美須社・住吉社・天照皇太神宮・金比羅社・猿田彦社があるというが、境内には見当たらない。

◎石碑・「影媛あわれ」

 参道の途中に「影媛あわれ」との石碑が立つ。
 影媛(カゲヒメ)とは武烈天皇即位前紀に登場する女性で、書紀に
  「武烈天皇は物部麁鹿火(アラカヒ)大連の娘・影媛を娶ろうとしたが、媛は平群の真鳥大臣の子・鮪(シビ)と通じていたので意に添わなかった。歌垣の場で、媛を巡って鮪と歌問答した天皇は、媛が鮪の結ばれていることを知って怒り、鮪を奈良山で殺した。
 それを知った影媛は殺された処まで追っていき、悲しみの歌を歌った。
  『石の上 布留を過ぎて薦枕 高橋過ぎ 物多(モノサワ)に 大宅過ぎ 春日 春日過ぎ 妻隠(コモ)る小佐保を過ぎ 玉筍(タマケ)には飯さへ盛り 玉盌(タマモヒ)に水さへ盛り 泣き沾(ソボ)ち行くも 影媛あわれ』
(石上の布留から高橋・大宅・春日・小佐保を過ぎ、死者に供える美しい食器に食物を盛り、美しい椀に水を盛って、泣きぬれて行く 影媛はああ)
 埋葬も終わって、家に帰ろうとする影媛は、
  『つらい事だなぁ 今はわが愛する夫を失ってしまった』
 とむせび泣いた」(大意)
とある。   

石碑刻文

 この伝承と当社との間に直截な関係はなく、当社にこの歌碑が立つ由縁は不詳だが、脇に立つ案内には、
  「ここ櫟本は、山辺の道と都祁山道との衢(チマタ)に当たり、当時の政治・経済・軍事・文化の要衝で、都祁山道をはさんで、南には物部氏、北に和珥氏がおり、この辺りが勢力の接点であった。
  媛は、その山辺の道を泣きながら行ったのであろう」
とある。

【和爾下神社(横田)

  県道192号線(福住横田線)北側に立つ朱塗りの鳥居が立つ、その左に「式内 和爾下神社」の社標が、鳥居の両側に「牛頭天皇」と刻した石燈籠一対が立ち(安政6年-1859-寄進・江戸後期、右写真)、江戸時代の当社が牛頭天王社と称していたことを示している。
 なお、境内に立つ他の石燈籠には「治道社」とある。

 広い境内の正面に割拝殿(切妻造・間口四県・瓦葺)、その奥、朱塗り瑞籬に囲まれた石壇上が社殿域で、その中央に朱塗りの本殿(一間社流造・銅板葺)が鎮座する。末社等は見えない。
 
和爾下神社(横田)・鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿

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