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山辺御県坐神社
A:天理市別所町県谷
B:天理市西井戸堂町大門
祭神--建麻利根命

 延喜式神名帳に、『大和国山辺郡 山辺御県坐神社 大 月次新嘗』とある式内社だが、論社(後継候補社)として上記2社(上記A・B)があり、いずれとも決め難いという。社名は“ヤマノベノミアガタニマス”(又はヤマノベノミアガタノ)と読む。

由緒
 当社は、大和国にある6ヶ所の御県(ミアガタ)の守護神として設けられた御県坐神社の一社。
 御県とは、延喜式の祈年祭祝詞(トシゴヒノマツリノノリト)に、
  「御県においでになる皇神(スメガミ)等の前に、『高市・葛木・十市・志貴・山辺・曾布と御名を申してお祭り申し上げます所以は、この六の御県に生育する甘菜辛菜の蔬菜類を持ち参り来たって、皇御孫命(スメミマノミコト)の長久の召し上がりものとして、召し上がられます故に、皇孫等のその恩賴に対する御礼として、皇御孫命の立派な幣帛を捧げ献ります次第です』と・・・」
とあるように、朝廷に蔬菜などを供給する朝廷直轄地(御料地)をいう。

 当社を含めて御県神社6社の創建年次は不明だが、書紀・孝徳天皇大化元年(645)8月5日条に、
  「国司に対して、倭国の六の県に遣わされる使者は、戸籍を造り同時に田畑を検地せよ」
と命じていることから、7世紀中頃にはあったと思われるが、確証はない。

 当社についての史料上での初見は、天平2年(730)・大倭国正税帳(正倉院文書)
  「山辺御県神戸 稲二六二束□把半 租十束 合二七二束□把半 用四束祭神 残二六八束□把半」
とある記録で、次いで新抄格勅符抄の大同元年(806)(奈良時代以降、社寺に与えられた封戸の記録)には
  「山辺御県神 二戸」
とあり、当社が8世紀にあったことは確かといえる。
 また、当社に対する神階授与記録として、三代実録・貞観元年(859)正月27日条に
  「大和国従五位下・・・山辺御県神・・・従五位上を授く」
とあるが、その後の昇階記録等は見えず、所在地を含めて不明となったという。

 当社の論社(後継社候補)として
 ・大和志(1734・江戸中期)
   「山辺御県坐神社 西井戸堂村に在り」
 ・大和志料(1914・大正初期)
   「山辺御県坐神社 山辺村大字別所県谷に在り 亦云ふ、二階堂村大字井戸堂に在りと、拠なし 
               当国六御県神社の一にして山辺御県神を祭る」
の2説(天理市別所町・同西井戸堂町)があるが、その比定根拠ははっきりせず、いずれとも決し難い。


※祭神
 今の祭神は建麻利尼命(タケマリネ)となっているが、当社祭神については次の4説があるという。
 ・建麻利尼命--神名帳考証(1733・江戸中期)・神社明細帳(1879・明治12)
 ・豊宇気比売(トヨウケヒメ)--特撰神名帳(1876・明治4)
 ・山辺御県神--大和志料(1914・大正3)・山辺郡誌(1919・大正8)
 ・祭神不詳--神社覈録(1870・明治3)

 タケマリネ命とは、先代旧事本紀(天孫本紀、9世紀前半)
  「(饒速日命6世の孫)建麻利尼命 石作連・桑田連・山辺県主等の祖」
とあることから、山辺御県を管理経営した山辺県主(アガタヌシ)がその祖神を祀ったとするもの。
 これにによれば、命がニギハヤヒ6世の孫とすることから物部氏系の神となるが、命をアマテラスの孫・火明命(ホアカリ)6世の孫(ニニギ尊の兄弟)とする資料もあり、とすれば天皇家に連なることになる。
 これは、旧事本紀がニギハヤヒの本名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊として、これを書紀(一書6)にいう天照国照彦天火明命(火明命の別名)と同一神とみることからのもので、本来は別神であろう。
 ただ、山辺県主に関する資料が殆どないことから(新撰姓氏録にもみえない)、タケマリネ命(山辺県主)がどちらの系譜に属するかは不明。
 
 トヨウケヒメとは穀物神だが、当地が朝廷に食料を貢進する御県であることから、蔬菜の生育を守護する神として、朝廷に関係の深いトヨウケヒメ(伊勢外宮の神)を充てたものだろうが、それが創建当初からものかどうかは不明。

 山辺御県神は、記紀などにみえる特定の神ではなく、在地の地主神(穀物・蔬菜の生育を守護する神か)を御県の守護神としたもの

 タケマリネ命・トヨウケヒメいずれかを当社祭神とする確証はなく、あえて特定すれば山辺御県神となるかと思われるが、これとて確証はなく、祭神不詳というのが順当かもしれない。

【山辺御県坐神社(別所町)】
                                                                 2014.03.04参詣

  JR桜井線・天理駅(近鉄天理駅)の北東約1.5km、JR線の東を平行する国道169号線・別所バス停のすぐ南の広い道路を東へ、
 山の辺小学校東南部に接する駐車場の東側の小路を柵に沿って北へ(小学校と駐車場の間に別所錐子塚古墳あり)
 駐車場を過ぎた先に広がる田畑の右手(東方)に見える尾崎山の麓に鎮座する(一の鳥居へ至る小路あり)



別所錐子塚古墳

尾崎山

 一の鳥居脇に立つ『式内 山邊御縣坐神社』との石柱以外に案内表示なく、創建年代・沿革など不詳。
 資料によれば、明治初年までは社殿なく、玉垣を設けて後方の尾崎山を御神体として奉斎し、通称・玉垣宮と称していたが、明治13年頃に玉垣内を発掘したところ刀剣・金環などが出土したので、発掘を中止し、そこに本殿を造営したといわれ、本殿後方の玉垣の外に磐座の遺址が保存されている(下記)(日本の神々4・1985)

 ただ、明治以前に当社を山辺御県坐神社とする記録はなく、現存する石造物の刻銘にもみえない。この神社を式内・山辺御県坐神社とするのは大和志料・山辺郡誌で(式内社調査報告・1982)、当地の字名・県谷からの推測らしい。

 字名・県谷ということを以て、当社を式内・山辺御県坐神社とするには根拠薄弱というべきだが、
 ・明治13年(1880)頃、玉垣内を発掘したところ刀剣・金環等が出土したこと(学術的な調査はなかったらしい)
 ・本殿背後、玉垣の外に磐座跡ともとれる石組遺構があること
 ・背後の尾崎山頂に円墳(規模不明)が、西方・北方に前方後円墳(別所鑵子塚古墳L=57m・別所大塚古墳L=115m)などがあること
等からみて、尾崎山を神奈備として遙拝する神マツリの場、あるいは当社境内にあった墳墓の拝所があったとも思われ、それが当社の前身かもしれない。

※社殿等
 西から一の鳥居を入り参道を進むと二の鳥居があり境内に入る。
 境内左手(北側)が社殿域で、横長の拝殿(切妻造・瓦葺)、その後ろ玉垣に囲まれた中に本殿(春日増・銅板葺)が、いずれも南面して鎮座する。

 本殿背後、玉垣の外に磐座(イワクラ)あるいは磐境(イワサカ)の痕跡かと思われる石組(人の手で置かれた感が強い)があり、齋宮と称している。
 明治13年の玉垣内の発掘で刀剣・金環等が出土し、発掘を中止して本殿を建てたということから、この場所に磐座あるいは磐境を設けて、背後の尾崎山を神奈備山として遙拝した神マツリ祭祀に関係するものと思われるが、詳細は不明。

 
山辺御県坐神社・入口
 
同・一の鳥居
 
同・二の鳥居(左の建物は拝殿)
 
同・拝殿

同・本殿

同・本殿背後の石組

◎末社
 本殿の左手(西側)、本殿域とは区画を異にし、玉垣に囲まれて末社3宇が鎮座する。いずれも明治42年(1909)9月に勧請されたものという。明治末期の神社整理統合政策によって当社内に遷されたものであろう。
 各社殿(春日造)に神社名の表示はないが、資料によれば次の3社という。
 ・中央--菅原神社
   もと字殿浦にあったもので、通称・天神社又は天満宮。
 ・左(西側)--春日神社
   もと字北浦にあったもので、通称・北浦の宮
 ・右(東側)--熊野神社
   もと字六丁の市場垣内にあったもので、通称・六丁宮、祠は2社に比べて小さく簡素な造り。


同・末社3宇
 
末社・春日社(左)
 
末社・菅原社(中央)
 
末社・熊野社(右)

【山辺御県坐神社(西井戸堂町)】
                                                                  2014..04.10参詣

 近鉄天理線・前栽駅の南約1.8km、駅の東を南北に走る道路(旧中ッ道・橘街道)を南下、井戸堂集落の中央を走る道路の西側にある森の中に鎮座する。
 一街区を占める森を、南から西側へ回り込んだ道路の脇に鳥居が立つ。

 当社の創建由緒・年代などは不明だが、社頭に掲げる案内には、
  「祭神  建麻利根命
   由緒  式内の古社  寛弘4年(1007)関白藤原道長が吉野金峯山詣での途中、ここで宿泊になり、かつては社勢も盛んであった。
 境内の観音堂には十一面観音像(重要文化財)が祀られている。
 境内社に春日神社・厳島神社が祀られている」
とある。

 当社に関する資料として、日本の神々4には
  「当社を中心として、西井戸堂町と東井戸堂町にアカタ、吉田町にミクリ、合場町に北田部・南田部、富堂町に三宅の小字が現存し、町名にも田・田井庄・田部などがあり、これらの地名が一円に存在することは、この一帯に山辺御県が存在していたことを物語っているのであろう。
 井戸堂の地名の起源となったとされる観音堂下の井戸や、境内地や周辺に山辺御井の伝承をもつ井戸があることも、当社が古社であることを思わせる」
とあるが、井戸らしき痕跡には気づかなかった。

 当社は江戸時代には白山大権現と称していたようで、奈良県史には
  「慶長12年(1607)の棟札銘や寛政4年(1792)の石燈籠銘によると、白山大権現と称した時代もあったことを示す。
 御堂関白記(藤原道長の日記・998~1021が現存)の寛弘4年(1007)8月4日条に、“藤原道長が金峰山詣での途次、井外堂(井戸堂)に一泊した”とあることから、当社に著名な大寺院があったと考えられ、地名よりして観音堂の鎮守としての神社ではなかったかと推察できる」
とあり、

 日本の神々4は、
 ・布留社古文書に「白山大権現両井戸堂村」とあり、更に「中社・氏神白山大権現一社 弁才天一社 拝殿一カ所 観音堂一カ所 十一面観音脇立二体 釣鐘堂 行者堂」とあり、
 ・山辺郡誌に記されている社寺取調書上書の絵図に、南の鳥居を入った正面に観音堂が北面し、西側に大日堂・薬師堂・行者堂、東側に釣鐘堂、境内東北隅に妙観寺が配されていることから
 観音堂の本尊・十一面観音は白山権現の本地とされるが、その観音像の制作年代から推して、かなり古い時代に白山権現が勧請されたものと想像され、道長の金峰山詣での際には、すでに多くの社寺が並び建っていたものと思われる」
という。

※社殿等
 鳥居(左前に山辺御県坐神社との標柱が立つ)を入って参道を北へ進んだ先が境内。
 境内の右側(東側)に拝殿(入母屋像・唐破風付・瓦葺)が、その奥、玉垣に囲まれた中に本殿(唐破風付き流造・銅板葺)が鎮座し、その右前に「式内大社山辺御県坐神社」との標柱が立つ。本殿域に入れず詳細不詳。

 本殿の左右に小祠2宇が鎮座するが、詳細不明。

 
山辺御県坐神社(西井戸堂町)・鳥居
 
同・拝殿

同・本殿 

◎観音堂

 鳥居を入った参道の正面に観音堂があり、堂の左前に「植福山妙観寺」との石碑が、右前に十三重塔が立つ(右写真)
 また、観音堂の左には鐘楼があり、鐘が吊されている。

 堂前にある案内には、
  「西井戸堂町の妙観寺は長谷寺小池坊の末寺でしたが、明治になって廃寺となり、今は観音堂が残っています。
 本尊の十一面観音像は檜材を用いた寄木造りで像高244.8cmになります。天平時代に造られた塑像の心木を用いて造られているのが特徴です。云々」
とあり、観音像の写真が載せられている。
観音堂本堂

◎万葉歌碑
 参道を入った左手に万葉歌碑が立ち 、傍らの案内板には次のようにある。
 *万葉遺跡(右歌碑)
  飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去(イ)なば 
          君があたりは 見えずかもあらむ
  (明日香の古京を捨てて行ったら あなたのあたりは 見えなくなりはしまいか)
 この歌には、「和銅3年春2月、藤原京から寧楽宮に遷った時に、神輿を長屋の原に停めて旧都藤原を振り返って作った歌」との詞書きがあり、元明天皇の御製という(巻1-78番)。 

 *山の辺の御井
    山辺の 御井を見がてり 神風の 伊勢処女(イセヲトメ)ども 相見つるかも
     (山辺の 御井を見に来たついでに 水を汲みに来ていた伊勢の乙女たちに 逢ったことだ)
 詞書--和銅5年夏4月、長田王を伊勢の斎宮に遣はす時に、山辺の御井にして作る歌(巻1-81番)

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