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夜都伎神社
A:夜都伎神社--奈良県天理市乙木町
B:十二神社--奈良県天理市竹之内町
C:八剣神社--奈良県天理市田井庄町
                                                                  2014.04.10参詣

 延喜式神名帳に、『大和国山辺郡 夜都伎神社』とある式内社で、論社として上記3社がある。社名は“ヤツキ”と読む。

【夜都伎神社】
 JR桜井線・長柄駅の北東約1.6km。山辺の道の西を平行する県道51号線の東側に立つ朱塗りの鳥居をくぐり東へ進み、山辺の道(標識あり)を超えてすぐに二の鳥居が南面して立つ。

※由緒
 夜都伎神社境内に掲げる案内には、
  「天理市乙木村の北方、集落からやや離れた宮山(たいこ山)に鎮座し、俗に春日神社といい、春日の四神を祀る。
 乙木には、もと夜都伎神社と春日神社の2社があったが、夜都伎神社の社地を竹之内の三間塚池(サギヅカイケ)と交換して春日神社一社にし、社名のみを替えたのが現在の夜都伎神社である。
 当社は、昔から奈良春日神社に縁故が深く、明治維新までは、当社から蓮の御供えと称する神饌を供し、春日からは61年毎に若宮社殿と鳥居を下げられることが例となっていたと伝える」
とあるのみで、その創建由緒・年代等は不明。

 当社に関する資料として、
*大和志(1734)--今乙木村に在り、宮社乙木明神と称す
*大和名所図会(1791)--夜都伎神社 乙木村にあり、今乙木明神と称す
*神社覈録(1870)--夜都伎は仮字也、祭神詳ならず。乙木村に存す、今乙木明神と称す
*大和志料(1914)--乙木宮山にあり。式内村社たり。祭神詳ならず
などがあり、乙木村にあって神仏習合期(江戸時代まで)には乙木明神と呼ばれていたという。

 案内中段にいう「乙木には、もと夜都伎神社と春日神社の2社があったが、云々」にかかわって、諸資料は
*天理市史(1976)
  「乙木には、いまよりも東方に集落があり、東西にて夜都伎神社と春日神社と二社をもっていたが、竹ノ内の十二神社の項でのべたように(下記)、夜都伎神社の社地を、竹ノ内の三間塚池と交換して、春日神社一社だけにし、社名のみをかえたのが現在の夜都伎神社である」

*日本の神々4(1985)
  「口碑によれば、当社はもともと春日四神を祀る春日神社で、竹之内町の十二神社が式内・夜都伎神社であったという。即ち、現十二神社がかつての乙木の産土神であったが、後世、竹之内が三間塚池と乙木領の十二神社社地とを交換したというのである。
 現在も十二神社の西方の森のなかに乙木へ通じる参道の石段が残っている。また、現夜都伎神社へ登る石段の中途の西側に、一時遷座したことがあると伝える場所が存在する」(式内社調査報告-1982-にも同意文あり)

*奈良県史(1898)
  「口碑では、本来の式内夜都伎神社は東方の十二神社で、十二神社は乙木村に属していたが、社地を竹之内三間塚池と交換して竹之内領となったので、村落内の春日神社を夜都伎神社と改めたという(奈良県の地名)
 なお、この式内社を田井庄町の八剣神社に充てる説もある」
という。

 これらを要約すれば、
 嘗ての乙木村には、集落の東西に夜都伎神社と春日神社の2社があり、東方の現十二神社の鎮座地にあったのが嘗ての夜都伎神社で、延喜式にいう式内・夜都伎神社は是を指す。

 その旧社地と、すぐ南の竹之内領にあった三間塚池一帯の地とを交換し、夜都伎神社は西方にあった春日神社に合祀され、春日の社名を夜都伎に変更し、夜都伎神社の旧社地には十二神社を遷した、
となる。

 両社の位置関係は、右略図にみるように、十二神社の地は竹之内町に属するものの乙木町内に舌状に突出しており、その南にある三間塚池は乙木町に属しているものの竹之内町内に食い込んだ形で、一見して不自然な形をしており、領域の変更があったことを示唆している。
 交換の理由は不明だが、乙木村における農業用水の確保に関わってのことかといわれている。


 
三間塚池
(左手奥が十二神社鎮座の森)

 ただ、この領域の交換は乙木・竹之内両村間でのことであって、旧夜都伎神社とは無関係のはずで、神社はそのままであってもおかしくはない。
 旧夜都伎神社が西方に遷ったのは、その氏子が乙木村民であったためとも思われるが、それを証するものはなく、また、それが何故春日神社への合祀という形でおこなわれたのかもはっきりしない(十三塚池付近であってもおかしくはない)
 現夜都伎神社石段の途中に、夜都伎神社が一時遷座した跡があるというから(日本の神々4)、当初は別社として遷座したとも思われるが、今、それらしき痕跡はみえず、詳細不詳。

 旧夜都伎神社跡は旧社地として残してもおかしくないのに、そこに十二神社を遷座させた理由、また、十二神社の元地が何処にあったのかなど不明(奈良県史は乙木村に、日本の神々は古くから竹之内村にあったという)

 当社案内をはじめ諸資料ともに、夜都伎神社の社地と三間塚池との交換により云々というが、管見した限りでは、その理由・経緯などを説明する資料はない。

 なお、この社地交換の時期については不詳だが、天理市史は、文禄4年、延宝7年(1679・江戸前期)の検地帳を根拠に「延宝以降のことであろう」というが(下記)、他に傍証となる資料はない。


 当社が合祀されたという春日神社について、日本の神々4には
  「春日大社文書(江戸時代以降の文書集というが詳細不明)によれば、乙木荘は春日大社と興福寺大乗院の所領とあり、従って、ある時期に春日の神を勧請して春日神社が創建され、ために村落の東の十二神社の地と北の現社地に夜都伎神社と春日神社の二社が並立していた時期があったのではなかろうか」
とあり、また、
  「文永2年(1265・鎌倉中期)裏文書に見える乙木荘条理坪付図の、道路沿いに2基の鳥居が描かれ、そのうち下の鳥居(二の鳥居)の位置が現在の鳥居位置と同じであること」(式内社調査報告、下鳥居との小字名があるという)
から、鎌倉時代以前から現在地にあったようで、明治維新までは61年目毎に春日若宮神社の社殿と鳥居が下付される例があり、乙木荘から春日大社に「蓮の御供」と称する神餞を献じていたという。


 なお、当社に関連する神社として、当社の東北方約4km余り、県道267号線を東へ竹之内峠から天理ダムを越えた先・長滝町日の谷に龍王神社との神社があり、
 石上振神宮略抄(1720・江戸中期)
  「夜都留伎(ヤツルギ)は水雷神で日の谷に鎮座する」
とある夜都留伎神社に比定され、
  「ごく最近まで(戦前までか)、乙木の人々は、旱魃のとき雨乞いのために竹之内峠を越え、そこに詣でていたという。この龍王神社を夜都伎神社の上社的存在と考えるなら、“夜都伎”は本来“夜都留伎”であった可能性がある」
という(日本の神々4、なお、ここでいう竹之内峠とは、大阪と奈良を結ぶ竹之内街道で知られる竹之内峠ではなく、天理市東方の峠)
 この夜都留伎は八剣に通じ(いずれもヤツルギ)、論社・八剣神社はこの龍王神社を勧請したものという(下記)

※祭神
 今の祭神は、
  ・武甕槌命(タケミカツチ) ・経津主命(フツヌシ) 天児屋根命(アメノコヤネ) ・姫大神
の所謂・春日四神となっているが、古来からの諸説として、
 *夜都伎神社が合祀された春日神社の祭神を充てる説
  ・春日四神--神社明細帳(1879)
  ・建御雷神(タケミカツチ)--明治15年調書(1882)
  ・建伊賀津知命(タケイカツチ)--大和名所旧跡案内(年代不明、江戸時代か)
   これらは、当社の主体を春日神社とみたもので、夜都伎神社本来の祭神ではない。
   また、タケミカツチ・タケイカツチとは春日四神の中心・武甕槌命(タケミカヅチ)のことで、春日四神と同意。
 *夜都伎神社としての祭神説
  ・屋就神(ヤツギ)--神名帳考証(1813・伴信友)・神社覈録(1870)
  ・箭就宿禰(ヤツギ スクネ)--神名帳考証(1733・度会延経)
   ヤツギ神の出自・神格については、多神社皇子神説・天明豊玉命説など諸説がありはっきりせず、当社との関係も不明。社名・ヤツギからの類推であろう。
  またヤツギスクネは、ヤツギを名乗ることからだろうが、出自等詳細は不明。
 *当社本来の社名をヤツルギとみての説
  ・夜都留伎神(ヤツルギ)--石上振神宮略抄(1720)・山部郡誌(1919)
   論社・八剣神社とも通じるが、夜都伎社=夜都留伎社とする確証はない。
   なお、夜都留伎社と目される長滝町の龍王社の祭神は水雷神(水神)という。
 *祭神詳ならず--・神社覈録・大和志料
などがあり、定説となるものはない。

 現在の社殿構成が春日四神を祀るものであり、夜都伎神社に相当する社殿がないことから、夜都伎神社本来の祭神は不詳とするのが妥当かもしれない。

※社殿等
 二の鳥居を入り、参道の石段を登った上が境内で、境内右手(東側)に茅葺きの拝殿、その奥、朱塗りの板塀に囲まれた本殿域(正面中央に朱塗小鳥居あり)に社殿5宇が西面して鎮座する。社務所は無人。

 本殿域は高い塀で囲まれており全体を見渡すことは不能。
 各社殿の祭神名は不明だが、式内社調査報告によれば(以下同じ)
 ・中央--武甕槌命社--大きな社殿で、春日造・朱塗・桧皮葺
 ・右(南)2宇--(内側より)姫神社・経津主命社--春日造・朱塗・桧皮葺、中央に比して小さい
 ・左(北)2宇--(内側より)天児屋根命社・金比羅社(末社)--春日造・朱塗・桧皮葺、中央より小さい
という。
 この社殿構成は、当社が元春日神社であったことからのもので、春日神社に合祀されたという夜都伎神社の社殿とおぼしきものは見えない。
 なお、最左にある末社・金比羅社は元薬師堂(神宮寺的存在か)境内にあったもので、明治8年頃に廃堂になったため、当社内に奉遷したものという。


夜都伎神社・一の鳥居 
 
同・二の鳥居
 
鎮守の森(右端に二の鳥居が立つ)

同・拝殿 
 
同・本殿域 
 
同・左2社
(金比羅社-末社・天児屋根命社)
 
同・武甕槌命社
 
同・右2社
(姫神社・経津主命社)

◎末社
 ・八坂神社(祭神:牛頭天王)--本殿域の左に続く区画に鎮座する小祠、正面に朱塗りの鳥居あり
                     金比羅社と同じく元薬師堂境内にあったものという。
 ・鬼子母神社--本殿域の左前にある小祠、勧請由緒・時期等不明

 拝殿前に石灯籠4基が並ぶが、刻銘は春日社とあり、夜都伎神社との石灯籠は見かけなかった。


末社・八坂神社 
 
末社・鬼子母神社

春日社銘の石灯籠 

【十二神社】
 夜都伎神社の東南約500mにある式外社。東から延びる尾根の突端部(明神山・H=140m)に鎮座する。

 国道169号線・三昧田交差点から県道267号線(横川三昧田線)を東へ、突き当たりにある竹之内環濠集落(入口に集落の案内あり)の中を抜け、その先の三間塚池の南西角(高い土手になっている)を左(北)へ入り、池西側を道なりに東へ回り込んだ処にある神社への細い道(畦道状の小路で参道とは見えない)を左(北)へ進んだ先、尾根裾の樹木に隠れるように鳥居が立っている。

※由緒
 境内に由緒等を記した案内なし。
 天理市史(1976)によれば、
  「三間塚の北方、谷を一つへだてて乙木との境界に近く、奥深い“明神の森”に鎮座する。景勝の山麓地で、もと指定村社である。
 伝えるところによれば、延喜式内社の夜都伎神社が当社で、乙木の産土神であったのを後世、竹ノ内が三間塚池と交換したという。・・・ここから西へ、乙木にむかう一筋の参道の跡があり(現地確認できず)、しかも竹ノ内に通ずる参道が、いまも怪しげな事から、前記のことが裏付けられる。 

 竹ノ内の産土神が、もと白山神社であったことは、文禄4年(1595)の検地帳に『村中氏神白山神社除地』と記され、また、延宝7年(1679)本田平八郎検地の際も、同様であることからも明らかで、十二神社と三間塚池との交換は、延宝以降のことであろうが、それ以降ながく村に二社があったことから、明治41年(1908)12月1日、白山神社を十二神社の境内社・七柱神社に移し合祀した」

 日本の神々4は
  「文禄4年や延宝7年の検地帳などには竹之内村の氏神として白山神社がみえ、この村には古くから十二神社と白山神社が併存していたが、明治41年に十二神社に合祀された」
という。

 この由緒からみると、当社が式内・夜都伎神社の論社とされるのは、現鎮座地が式内・夜都伎神社の旧社地ということからと思われ、それ以外に当社を論社とする理由は見当たらない。

※祭神
   国常立尊(クニノトコタチ)・国狭土尊(クニノサヅチ)・豊斟渟尊(トヨクムネ)・泥土煮尊(ウヒジニ)・沙土煮尊(スヒジ)
   ・大戸道尊(オオトノジ)・大戸辺尊(オオトノベ)・面足尊(オモダル)・惶根尊(カシコネ)・伊弉諾尊(イザナギ)
   ・伊弉冉尊(イザナミ)・大日孁貴尊(オオルメムチ)

 書紀にいう神代七代十一神にオオヒルメムチ(アマテラス)を加えて12座としたもので、社名も十二神を祀ることによる。
 ただ、当社に十二神が祀られた由緒は不明で、式内社調査報告に
  「神代七代十一神に大日孁貴尊を加えて十二神とするのは、明治期のさかしらである」
とあるが、これらの諸神を祀る由緒などは不明。

※社殿等
 山麓の鳥居を入り折れ曲がった参道を登った上が境内。
 境内正面に拝殿(切妻造・瓦葺)が、その奥、斜面を一部整地し、ブロック塀に囲まれた中に朱塗りの本殿(春日造・銅板葺)が鎮座する。

 
十二神社・鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿
◎末社等 
 本殿の左にある小祠。

 祭神名は不詳だが、山辺郡誌によれば、
 彦火瓊瓊杵尊・彦火火出見命・鸕鷀草葺不合尊
 ・皇大神・天忍穂耳命・白山比咩命・倉稲魂命
という。





末社・七柱神社

十二神社銘石灯籠

多賀神社銘石灯籠

【八剣神社

 近鉄天理線・天理駅の南東奥700m、天理駅の南を東西に通る道を西へ、地蔵前交差点を南へ、二つ目の道を西へ入った北側にある森の中に鎮座する。

※由緒
 境内に掲げる案内には、
  神代のむかし、素盞鳴尊八岐大蛇退治したまいき。大蛇身を変え、天に昇りて神剣となって布留川の上流八箇岩に天降りしを水雷神とあがめ、貞観年間(859--77)に、この地に天神として祀られた
  もと村社で、五穀豊穣・邪霊退散・招福の守護神として尊信された」

 石上振神宮略抄(1720)には、
  「夜都留伎神は八岐大蛇の変身にて、神躰は八比礼(ヒレ)・小刀子なり。乃ち八剣(ヤツルギ)の神と申す。
 神代の昔、出雲の簸谷の八岐大蛇は一身にて八岐あり、素盞鳴尊剣を抜きて八段に切断し給しか、八身に八頭が取り付き、八の子蛇となりて天へ昇りて水雷神と化して、天叢雲の神剣に扈従して、当国布留川上の日ノ谷都祁郷に属すに臨幸ありて鎮座す八龍王八箇石是也
 貞観年中(859--77)に吉田連が族・都祁の村公庸敬が、神殿を造りて神格を為して八剣神と申す。今の田井之庄の八頭神殿是也」(日本の神々4)

 大和志料には、
  「八龍神社  石上神宮略抄に曰く、八劔神劔一座田井庄村に在り、・・・当国布留川上の日谷都祁郷に属すに臨幸あり鎮座す。
   貞観年中、吉田連が族・都祁村公神殿を造り神格をなして八剣神と申す。今の田井庄村八頭神社是也」
とある。

 ここでいう布留川上の日の谷というのは、夜都伎神社の上社的存在とされる龍王神社が鎮座する長滝町日の谷の地と思われ、そこには水雷神を祀る龍王神社と、スサノオに切断された八岐大蛇の分身・小蛇が降臨したとの伝承をもつ“八つ岩”と称する磐座があり(ネット資料、現地未見)、その長滝町に伝わる八つ岩に関わる民話(ネット資料)には、略抄がいう当社由緒と同じものがあるという(当社に加えて、石上神宮摂社・出雲建雄神社の由緒にもなっている)

 これらからみると、当社は長滝町日の谷に鎮座する龍王神社の水雷神を勧請したもので、当社が式内・夜都伎神社の論社とされるのも、日の谷の龍王神社が式内・夜都伎神社の上社的存在とされることからであろう(上記)

 因みに、当社の祭祀氏族・都祁村公とは、都祁村福住里にいた氏族で、天平2年(758)に都祁村公の姓を賜ったというが(日本の神々4)、略抄に“吉田連の族”とあることから、古代豪族・和爾氏に連なる一族かと思われるが、姓氏録などにその名が見えず、詳細は不明。
 今、天理市東北部にある福住町(国道25号線が横断し、氷室神社がある)が都祁村公の旧地かといわれ、長滝町の東北方に隣接していることから、そこに住んでいた都祁村公一族が平野部に移り、長滝町の水神を奉じて当社を創建したかと思われる。

※祭神
  八剱神
 現在の祭神は八剱神というが、上記のように水雷神とする資料もある。
 水雷神とは雷神・龍神と同意で、龍はまた蛇でもあり、いずれも水神として崇められており、スサノオに斬られた八岐大蛇が8匹の小蛇となって長滝村日の谷に降臨し、その神々(龍神)を勧請したのが当社であることからみて、八剱神と水雷神とは異名同体とみるべきであろう。

※社殿等
 南側道路から入って右に鳥居が西面して立ち、傍らの石標には「式内村社 八剱神社」とある。
 境内左に拝殿(切妻造・瓦葺)、その奥、ブロック塀に囲まれた中に本殿(春日造・銅板葺)が、その右に末社・春日神社、同四柱神社(祭神名不明)が、いずれも南面して鎮座する。

 
八剱神社・鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿
 
四柱神社(本殿左)
 
春日神社(本殿右)

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