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「ならまち」の神さま−2

2006.10参詣

 「ならまち」の神さま−1に引き続いて、「ならまち」の南地区にある神社を紹介します。

神社・位置図(南部分)
K皇大神宮社

L鎮宅霊符神社

M率川神社

N御霊神社

O白山神社(元興寺町)

P八王子社(納院町)

Q白山神社(川之上突抜町)

R井上神社

S崇道天皇社


奈良町−皇大神宮社 K皇大神宮社−−脇戸町
 ※祭神−−倭文大神(シトリオオカミ)・天照皇大神(アマテラススメラノオオカミ)
        ・蛭子大神(ヒルコオオカミ)

 脇戸町の通りから狭い路地を東へ入った処にあるが、ちょっと見つけにくい。
 覆屋の奥に小さな祠が3基祀られ、天井から下がった提灯には「倭文大神」「脇戸町町内安全」「火の用心」とある。
 奈良市史には、「社名・皇大神宮社、中央に倭文大神、右に天照大神、左に蛭子大神を祀る」とあるが、他に資料なく祭神由来・鎮座由緒などの詳細不明。

 シトリ大神とは、記紀神話の葦原中国の国譲りに際して、最後まで抵抗した星の神(アマツミカホシ)を、タケミカヅチ・フツヌシ2神の命によって屈服させた建葉槌命(タケハツチ)という神の別名が、シトリ大神だというが、一般には織物の神として祀られることが多い。
 シトリとはわが国古来の織物の一種で、赤・青などに染めた麻糸などで織りだした乱れ模様の布で、神事に用いる御幣にはこの布を垂らしたとか、これでつくった衣服を着た人の罪や穢れが祓い清められるというように、霊的な呪力をもった布と考えられていたという。

 当地以外も倭文大神を祀る神社は幾つかある(奈良市西九条町・鳥取県東条湖畔など)が、いずれも織物に従事した古代氏族・倭文氏の後胤が奉祀していたというから、当地にも織物関係の人々が住んでいたのかもしれない。

 合祀されているヒルコ大神はいわゆる「エビス神」で、イザナギ・イザナミが国生みのとき最初に生まれた神だが、脚が立たない不具の子だったため葦船に乗せられて流された神。西宮神社の祭神・エビス神と習合しているから、エベッさんとして祀られたのかもしれない
奈良町−皇大神宮社
奈良町−鎮宅霊符神社 L鎮宅霊符(チンタクレイフ)神社−−陰陽町
 ※祭神−−天御中主神(アメノミナカヌシ)

 「ならまち」中央部の西寄りにあるが、鎮宅霊符(チンタクレイフ)とは珍しい社名である。古史書・元要記(鎌倉時代)によれば、
 『鳥羽院の御宇、永久2年(1117)正月、興福寺に行疫神(コウエキシン、疫病神)の社壇が建立され、南都四家の陰陽師(オンミョウシ)がこれを祀った』
とあり、これが当社の前身だという。
 強力な行疫神を祀ることで、その力によって流行病などもたらす疫病神を退散させようとする呪的行為である。
 奈良市史によれば、
 「かつての陰陽町には多くの陰陽師が住み、彼らが陰陽道で崇めるチンタクレイフ神を祀ったもの」
とあり、ちょっと特殊な神社といえる。

 霊符とは、道教で強力な霊力をもつとして崇拝される一種の“お札”で、その霊力を信じて奉祀すれば、天災人禍を除き、妖魔を退散させ、難病死病を治癒し、長生不老の福寿を得さしめ、国家太平をもたらすという。
 霊符にはいろんな種類があるが、中でもチンタクレイフは最強の霊力をもつとされ、中国では漢の時代から朝野にわたって広く信仰され、わが国には推古天皇の時代に百済から伝来したというが、その真偽は不明。その後中世になって、神道(アメノミナカヌシ)・仏教(ミョウケンボサツ)と習合し一般に広まったといわれる。

 明治の神仏分離によってチンタクレイフ神が邪神とされたことから、アメノミナカヌシを主祭神とする神道系(星田妙見など)とミョウケン菩薩を主尊とする仏教系(能勢妙見など)に別れたという。当社本殿背後に
 『北辰鎮宅霊符尊星・抱卦童子爾卦童郎・主命主宰九宮尊星』
と並記する小祠があり、かつては神道・仏教・陰陽道などが習合した社であったことを示唆している。

 拝殿前に阿吽形の狛犬2躰が鎮座しているが、いずれも他では見られないコミカルな顔をしていて面白いが、その由来は不明。
奈良町−鎮宅霊符社・狛犬
阿形狛犬
奈良町−率川神社 M率川(イサカワ)神社−−西新屋町
 ※祭神−−事代主神(エビス神)

 ならまち庚申堂の斜め向かいにあるが、白壁瓦葺きの塀に囲まれ神社の雰囲気はない。門から覗くと、赤い鳥居と覆屋・石灯籠が見えるだけで詳細不明。
 「ならまち」の西にある同名の率川神社(百合の花をもって祀る三枝祭サエグチマツリで有名)の境内に「率川阿波神社」がありコトシロヌシ(エビス神)を祭神とするから、これを勧請したのかもしれない。
奈良町−御霊神社 N御霊(ゴリョウ)神社−−薬師堂町
 ※祭神−−本殿−井上皇后(イガミコウゴウ)・他戸親王(オサベシンノウ)・事代主神
         左殿−早良親王(サワラシンノウ)・藤原大夫人・藤原広嗣
         右殿−伊預親王・橘速勢(タチバナハヤナリ)・文屋宮田麻呂

 「ならまち」南地区のほぼ中央部に位置する神社で、元興寺の一つ南の街区に当たる。
 御霊とは、奈良末から平安にかけて、朝廷を舞台とする政争に敗れたり無実の罪をかけられたりして憤死した人々の霊(怨霊)を指し、これらの怨霊が天変地異・疫病流行などの災厄を及ぼすとして朝野を問わず人々に畏れられたという。
 朝廷では、これらの御霊を鎮魂慰撫して社会不安を除くため、各地に御霊を神として祀る神社を建立したが、当社もそのひとつ。

 当社の表札には『桓武天皇勅願所』とあり、由緒書きには
 「桓武天皇の延暦19年(800)に宇智郡(現五條市)の御霊神社から元興寺南大門前に勧請したが、元興寺大火とともに焼失し、室町末期の宝徳3年(1451)に現在地に再建・遷宮した」
とある。
 桓武天皇は、わが子への譲位を願って皇太子だった弟の早良親王を葬ったことなどから、最も御霊を畏れたといわれている。
 ただコトシロヌシは御霊ではなく、これが本殿に合祀されている理由は不明。
奈良町−御霊神社
奈良町−白山神社(元興寺町) O白山神社−−元興寺町
 ※祭神−−白山比売命(菊理媛命ククリヒメ)

 率川神社を南に下った処にある神社で、傍らにイチョウの古木があり、赤い鳥居の奥に小祠が見える。奈良市史に
 「昔、元興寺が飛鳥から遷座してきたとき、当社も遷座した」
とあるだけで、他に資料が見当たらず詳細不明。
 白山神社ならびに祭神については後述。
奈良町−八王子社 P八王子社−−納院町
 ※祭神−−大山咋神(オオヤマクヒ)

 納院町辺りを歩き回ったが、民家にはさまれた小さな畠の隅にある壊れかけた小祠以外に神社らしいものは見当たらない。故に、これが八王子社という確証はない。

 奈良市史によれば、
 『御霊神社の摂社で、八屋神社(ハチヤ)または蜂屋神社と呼ばれ、近江坂本の日吉八王子から勧請された』
という。
 祭神・オオヤマクヒとは、比叡山登録にある日吉(ヒエ)神社・東本宮の主祭神で、古事記に『大山咋、亦の名、山末之大主。近淡海国(チカツオオミノクニ)の日枝山に坐す』とあるように“山の神”であり比叡山の地主神でもある。
 その山の神が当地に祀られる理由は不明だが、オオヤマクヒを祭神とすることからみると、オオヤマクヒの荒魂を祀る日吉神社の摂社・牛尾神社(旧名:八王子社)を勧請したのかもしれない。
奈良町−白川神社(川之上突抜町) Q白山神社−−川之上突抜町
 ※祭神−−白山比売命(ククリヒメ命)

 「ならまち」の南端東寄り、建てこんだ民家の間にあって道路からは直接見えない。境内に立つ榎の巨樹が目印で、狭い路地を入った奥に鎮座するが、遷座由緒など不明。社殿脇に、『八朔(ハッサク)や 神饌のくさぐさ もちよりて』と刻んだ石碑が立っている。

 白山神社とは、加賀の白山比売神社を総本社とする白山信仰に連なる神社である。
 白山比売神社は、は、加賀・美濃・越前の国境にある白山(H=2700m)を神体山とする信仰にはじまり、奈良時代初期(717)に泰澄が開いたとされる山岳修験の霊山だったが、明治の神仏分離によって神社となり、山の神・シラヤマヒメを主祭神として今に至っている。

 白山と書いてハクサンあるいはシラヤマの読みがある。民俗学ではシラヤマの“シラ”には死を前提とした「生まれ変わり」、いいかえれば「死と再生」の意があるという。
 そこからみて、シラを冠する白山は単に白い雪をかぶった高山というより、此岸(生)と彼岸(死)の境界に位置する霊山であり、そこに坐すシラヤマヒメもまた境界に坐す山の神ということができる。

 一方、シラヤマヒメと習合しているククリヒメとは、イザナギが亡くなったイザナミを追って黄泉国(ヨミノクニ=死者の国)に赴き、見るなの禁忌を犯して逃げ帰る際、この世と黄泉国との境界にある泉津平坂(ヨモツヒラサカ)でイザナミに縁切りの呪言を言い渡すが、そのとき両者の間を取りもった神とされ、そこから当社の由緒書きには「ククリヒメは、イザナギ・イザナミの縁をとりもった神で、縁結び・良縁祈願にご利益が厚い」と記している。

 このように、ククリヒメもまた黄泉国(彼岸)とこの世(此岸)の境界にあって両界をとりもつ神であり、この“境界に坐す神”ということからシラヤマヒメと習合したのではないかと思われる。
奈良町−井上神社 R井上神社−−井上町
 ※祭神−−井上皇后(イガミコウゴウ)・他戸親王(オサベシンノウ)

 「ならまち」南端を東西に走る道路に面した井上町集会所に沿った狭い参道の奥に鎮座する。奈良市史によれば、
 「かつて御霊神社が当地にあったが、宝徳の大火での伽藍焼失の後、元興寺観音堂近くに遷ったため、旧社地である当地に2神のみを祀った」
とあり、当社も御霊社のひとつである。

 祭神の井上皇后は聖武天皇の皇女で、天智天皇の皇孫・白壁王に嫁し、王が光仁天皇として即位するにより皇后となったが(770)、難波内親王を呪詛したとの疑いをかけられ、その子で皇太子であった他戸皇子とともに廃位され、幽閉の地で皇子とともに変死したという(773)
 その後、落雷・風水害・地震・日食などの異変が続き、これらを井上皇后母子の祟りと畏れられ、両者を神として祀ることで鎮魂が図られたとされる。
 わが身は皇后、子は皇太子という母子に難波内親王を呪詛する理由はなく、帝位をねらう山辺親王(後の桓武天皇)と、それを担ぐ藤原一門の陰謀に陥れられた事件という。
奈良町−崇道天皇社 S崇道天皇(スドウテンノウ)−−西紀寺町
 ※祭神−−早良親王(サワラシンノウ、追号:崇道天皇)

 井上神社前の道路を南へ渡った東寄りに位置し、朱塗りの鳥居をくぐった参道奥に鎮座する。由緒書には、
 「当社は第51代平城天皇の大同元年(806)の創立にして、50代桓武天皇の皇弟・サワラ太子の霊を鎮め祀る」
とある。
 サワラ親王は光仁天皇の第2子で、兄・山部親王(ヤマベシンノウ)の即位(桓武天皇)によって皇太子に立てられたが、長岡京造営長官・藤原種継の暗殺事件(785)の首謀者として乙訓寺に幽閉され、淡路へ流される途中に淀川べりで憤死し、淡路へ葬られた悲劇の親王。
 その後、桓武天皇の皇子・安殿親王(アテシンノウ、後の平城天皇)の病や天変地異の続発などがサワラ親王の祟りとされ、その鎮魂のために「崇道天皇」が追号され(800)、その後両を祀る神社が建てられたが、当社もそのひとつ。
 サワラ親王の死は、わが子へ譲位したいという桓武天皇の執念と、藤原氏内部の勢力争いがもたらした悲劇とされる。 
奈良町−崇道天皇社

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