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庚申信仰/ならまち庚申堂
奈良市西新屋町39
本尊:青面金剛
付−−奈良町資料館・北向庚申堂・元興寺小塔院跡
                                                   2021.03.25再訪改訂

 近鉄奈良駅の南約600m、通称「ならまち」のほぼ中央にある小堂。
 近鉄奈良駅東の商店街を南下、次の信号を越えて少し行った右側の柱に掲げる「絹の屋←」との赤い表示のある角を左折、次の角を右折した小路の右側に東面して鎮座する。社頭に吊されている赤い提灯が目印。
 なお、“ならまち”とは行政上の町名ではなく、この辺り一帯を指す通称。

※縁起
 堂前に掲げる縁起によれば、
 「庚申縁起によれば、文武天皇の御代(697--707)に疫病が流行して人々が苦しんでいたとき、元興寺の高僧・護命僧正が仏にその護りを祈っていると、1月7日に至り、青面金剛が現れ『汝の至誠に感じ、悪病を払ってやる』と告げて消え去り、まもなく疫病が治まった。この感得の日が“庚申年”の“庚申日”であったという。
 それ以来、人々はこの地に青面金剛を祀り、疫病をもってくるといわれる三尸(サンシ)の虫を退治して,健康に暮らすことを念じて講をつくり仏様を供養した、と伝えられている」
とある。
 この縁起は、霊示をうけた僧名と祭神・青面金剛の名が出てくるところが四天王寺庚申堂の縁起と違うだけで、顕現年次などの内容は同じであり、四天王寺庚申堂縁起に準拠したものと思われる。

 しかし、
 ・霊示をうけた僧・護命僧正が属していた元興寺は、蘇我馬子が6世紀末に飛鳥に建立した法興寺(現飛鳥寺)を、平城京遷都後の養老2年(718)に平城京に移した寺であり、縁起にいう文武天皇の御代には当地にはなかった
 ・元興寺の高僧・護命僧正とは、元興寺の僧・護命僧正を指すと思われるが(元興寺小塔院の住職という)、その生没年は奈良時代末(750)から平安前期(834)であり、文武天皇の御代には未だ生まれておらず、
 当堂の開基を文武天皇の御代・護命僧正によるとするのはおかしい。
 なお、今当堂の南西に「小塔院跡」との史跡がある(下記)

 日本三大庚申堂のなかで最古とされる大阪・四天王寺の庚申堂の開基が、文武天皇の大宝元年(701)1月7日の庚申年・日ということから(京都・八坂庚申堂も同年としている)、当堂もそれに準拠して文武天皇の御代としたものと思われるが、文武天皇の御代に庚申年はなく(直近の庚申年は21年後の養老4年-722)、いずれも伝承にしか過ぎない。

 当庚申堂の開基年次に関する資料は皆無に近いが、管見した資料としては
*庚申堂も奈良町の一部で、元興寺の大半が焼失して建物が建てられ、奈良町の中心部が成立した室町時代以降ということになる。
  江戸時代には、現世利益があるとして庚申信仰が広まり、庚申の日の夜には寝ずに一夜を明かす守庚申を行った。
  そして、くくり猿信仰が生まれた。(Wikipedia)
*元興寺は平安遷都の際に奈良市内に移転、仁和元年(1153)の地震で堂宇が倒壊、再建された堂宇も宝徳3年(1451)の土一揆で焼失してしまった。
  その際、この町の住民が戦火の中から青面金剛を救い出し、寺院の手をかりずに、町民だけで代々これを密かに守り伝えて今日に至っているという。(庚申信仰・1989)
がみえる。

 これによれば、当庚申堂は、室町中期の土一揆による元興寺の焼失以降、焼失した境内に民家が建てられ奈良町の原形が形成される中で、住民の手によって祀られたと思われる(今も附近の住民の手で管理されているという)
 ただ、戦火の中から青面金剛を救い出したとあることをみると、それ以前から何らかの形であったかもしれない。

◎庚申信仰
 庚申信仰の原点は、人の体内に住む三尸の虫が、庚申の夜、人が寝ている間に抜けだして、人の寿命を支配する天帝に人が犯した罪業を報告に行く。天帝は、これを受けて罪業の軽重によってその人の寿命を短くする。
 だから、庚申の夜には寝ずに徹夜して、三尸の虫が抜けだすのを防ぎ延命長寿を願うというものだが、(別稿・庚申信仰参照)
 後世になると、庚申の神である青面金剛に願って体内の三尸の虫を退治してもらい、延命長寿を願う信仰へと変化している。
 当堂の縁起をみるかぎり、その信仰は三尸の虫の退治に重点を置いた庚申信仰といえる。


※祭神
   青面金剛 (別稿・庚申信仰参照)

 今の堂内には、須弥壇中央に青面金剛尊、左右に吉祥天女像・地蔵菩薩像が祀られているが、吉祥天女・地蔵菩薩を祀る由縁は不明。
 ただ、江戸時代の古図には“吉祥堂”とあるというが、元興寺小塔院が別名・吉祥院と呼ばれていたというから、その焼失後、祀られていた吉祥天女像を当堂に移したかと思われるが詳細不詳。


※堂舎等
 ならまち庚申堂は切妻造・亙葺きの小堂で、軒下中央に「庚申さん」、その左右に「青面金剛」・「吉祥天女」・「地蔵菩薩」と墨書した赤い提灯が下がっている。


ならまち庚申堂・社頭 
 
同・正面
 
同・正面入口部

 正面の格子戸は常時閉まっているが(地元の方々が管理しているためいう)、格子の隙間から覗いた内陣には、須弥壇の中央に青面金剛、左右に吉祥天女・地蔵菩薩をおさめる厨子が3基並んでいるが、尊像を見ることはできない。(尊像については下記・奈良町資料館参照)

 正面格子戸の前に数多くの身代わり猿が下がり、その前に、3匹の猿に支えられた香炉(線香立て)がある。
 なお、中央に掲げる扁額は達筆だが「申守」と読める。


庚申堂・内陣 

身代わり猿 

猿が支える香炉 

 なお庚申堂の屋根の上には、見ざる・言わざる・聞かざるの三猿が座り、左右の軒先にも猿が座っている。


屋根の上の三猿 
 
同・三猿

軒先の猿 

◎身代わり猿(くくり猿)
 身代わり猿とは、青面金剛のお使いとされる猿を象った“お守り”・“縁起物”で、真っ赤な座布団の四隅を折り曲げて一つにくくり、その間に白い顔を付けて“手足をくくられた猿”を表したもので、
 堂前の案内には、
 「三尸の虫は猿が嫌いだという。猿が仲間と毛づくろいしている姿が、三尸の虫を捕って食べている格好に見えたので、恐れをなして逃げてしまうというわけである。
 そこで人々は、いつも家の軒先に猿を吊して悪病や災難が近寄らないようにと、おまじないをしている」
とある。

 そんな縁起物が千羽鶴を吊すように、当庚申堂はもとより周りの商店・民家の軒先にも数多く吊されており、そのさまは、ならまちを飾る風物詩であるったが、再訪した今は猿の赤色が褪せているものも多く、且つ数も少なったように感じられた。

 当地では「身代わり猿」と称しているが、猿の背中に願い事を記して吊せば願いが叶うとして「願い猿」とも呼ばれる。
 一般には、手足を括られていることから「くくり猿」と呼ばれることが多い。

*民家の軒先に吊された身代わり猿

       

 猿は人間に最も近いとされるが、畜生の浅ましさから本能(欲望)のおもむくままに行動し、人間もほっておけば欲望のままに行動しようとする。
 人間の身代わりに猿の手足を括ることで、人間のなかにある邪欲が動き出さないようにと念じたのか“身代わり猿”だという。
 また古来から、赤は僻邪(ヘキジャ)の色とされ厄除けに験があるとされてきたし、猿と難を“去る”との語呂合わせから縁起の良い動物とされ、坂本の日吉神社では猿は山王の使いともされてきた。
 災厄を除いてくれる神のお使いということかもしれないが、赤いくくり猿を疫神、特に疱瘡神(赤で象徴される)に見立て、それを縛ることで疫神や疱瘡神を押さえ込もうとする願いも込められている、ともいえる。

 ちなみに、伊豆の旅先で似たものを見た。当地では『さるっ子』と呼んでいたが、赤い綿入れで猿の姿を作った縁起物が数十個吊されていた。ただ四脚はくくられていない。
 博物館の説明では、“猿”と難を“去る”との語呂合わせから縁起がよいとされ、これを飾った船は海難事故に遭わないという。

◎蒟蒻(コンニャク)
 奈良市史によれば、当庚申堂では春・秋の庚申日には大根と蒟蒻の接待があったという(今は中止されているらしい)
 堂前の案内には、
 「悪病や災難をもってくるという三尸の虫はコンニャクが嫌いだったので、人々は庚申の日にコンニャクを食べて退治した」
とある。

 おもしろい説明だが、庚申信仰とコンニャクとの間に接点はない。
 あえていえば、コンニャクが体内の砂を払うという俗信から、コンニャクを食することで体内に居る三尸を虫を排除しようとしたのであろうか。


【奈良町資料館】  
   奈良市西新屋町14-2

 ならまち庚申堂へ曲がる角を直進した右側(南側)に「奈良町資料館」があり、入口の右上に掲げる案内には、
 「昔、南都七大寺の元興寺の金堂(本堂)が此処に建っていましたが、1451年の乱(宝徳元年の土一揆)で焼亡してしまいました。
 その後、この跡地に人々が生活するようになり奈良町として栄えました。
 この資料館は、その当時の用具類や店屋・職人等が使用していた商店の看板類を多数展示しています」

 また頂いた栞に
 「明治40年、ならまちで蚊帳を製造する南蚊帳として創業。
 先代が蚊帳の行商販売で日本の各地に残された古い町並みや文化財を見聞し、保存の大切さを痛感し、その後自宅の一部に資料館を造り、ならまちで貴重な資料・民具・絵看板などを無料で公開展示しております」
とあるように、この資料館は私設のそれであるにもかかわらず無料で開放されている。

 館正面は昔の木戸を模したもので、傍らの案内には「町内の住民は町をまもるたるに、このような木戸を造り通行人を改めました。これが奈良町木戸です」とある。
 入口上部の鴨居中央に「吉祥堂」との扁額が、右の柱に「奈良町資料館」との看板が掛かり、鴨居の下には多数の見代わり猿が吊り下がっている。

 当資料館とならまち庚申堂との間に直接的な関係ないが、当館に祀られている青面金剛像・吉祥天女像を拝観するために訪れた。。

 
奈良町資料館・正面
 
同・入口部

 館内は幾つかのコーナーに分かれているが仕切りなくやや雑然としている。
 館内の一番奥に「庚申堂」を象ったコーナーがあり、中央本尊(青面金剛立像)が入った厨子が、その左右に脇侍(力士像)が立ち、背後に庚申日に信仰対象として用いられたとおぼしき青面金剛を描いた掛軸が数葉掛かっている。
 なお、館員の方の話では「昔、奈良町にあった七躰の青面金剛像の一つを移したもの」とのことらしいが、この青面金剛像とならまち庚申堂との関係は不明。

 
庚申堂・全景
 
同・正面

青面金剛像 

 背後・側面に並ぶ青面金剛像を描いた掛軸には、上部に本尊の青面金剛像が、その左右に二童子、下に四鬼神・三猿・鶏などが描かれ(下写真)、陀羅尼集経にいう儀軌と合致している。


     

 資料館内のあちこちに身代わり猿が吊されて華やかに館内を飾り、お土産としても大小の身代わり猿が販売されている。

       


 その他、館内に入った正面に等身大の「吉祥天女立像」が立ち、栞には
 「1451年に焼失した元興寺の吉祥堂を平成元年に再建。吉祥天女は良縁・心願成就などの高徳があります」
とある。
 当館正面の扁額に「吉祥堂」とあるのは、是によるものか。

 吉祥天女像の右に「江戸時代絵看板」のコーナーがあり、昔、商店の店先に掲げていた商品を象った看板が並んでいる。
 また、木戸を入った右に「とげ抜き地蔵」が鎮座しており、他にも「鍾馗像」「仁王像」などが見られる。


吉祥天女立像 
 
江戸時代の絵看板

とげ抜き地蔵立像 


【北向庚申堂】
   奈良市三棟町2
  主祭神−−青面金剛

 ならまち庚申堂の南南西約100m、ならまちの南部にある「誕生寺」の山門前に『北向庚申堂』という小さな祠がある。
 祠が北を向いていることからの呼称であろうが、北を向いてコンニャクを食べるのと同じく、古く、神格化された北極星が庚申尊(青面金剛)と同一視されていたからかとも思われる。
 ただ、当地に庚申堂が建立された由緒等は不明。


左:誕生寺山門、右:北向庚申堂 

北向き庚申堂・正面 
 
同・側面

 庚申堂内陣には、須弥壇に中央に厨子に入った六臂の青面金剛が二童子を従えて立ち、下に四鬼神・三猿が従い、
 厨子の左に薬師如来像2躰、右に弘法大師座像が鎮座している。

 
同・内陣
  青面金剛像 

 堂前の石香炉(昭和9年奉納)の基壇には「奉納 北向、青面金剛・薬師如来・弘法大師」とあるが、薬師如来・弘法大師を祀る由縁は不明。

 また、堂の右前には上部に三猿を彫りこんだ古い石碑が立っている。
 三猿像の下に「記念」とあるから何かの記念に建立されたと思われるが、文字が摩耗していて判読不能。

 ちなみに誕生寺とは「異香山法如院誕生寺」と称する浄土宗の尼寺で、当麻曼荼羅伝承の主人公・中将姫(伝747--75)の誕生地といわれ、道から少し入った処に「中将姫誕生霊地」との石碑が立ち、寺には中将姫関連のものが多いという。

堂前の香炉 

三猿を刻む石碑 
 
中将姫誕生霊地の石碑

誕生寺山門 


【元興寺小塔院跡】
   奈良市西新屋町45

 ならまち庚申堂の南西約100m、近鉄奈良駅東の商店街を南下した東側に低い門柱一対が立ち(奈良市音声館の向かい側)、傍らの案内には、
 「この付近は、奈良時代(8世紀)には元興寺の境内だった所で、金堂の西南に位置しており、小塔院(別名:吉祥堂)がありました。
 小塔院には、現在、元興寺(中院町)にある五重小塔(国宝)が安置されていたと考えられています。
 当小塔院は、現在は真言律宗の寺院ですが(門柱に真言律宗 小塔院とある)、境内は元興寺の遺構として史跡に指定されています。(昭和40年指定)
とあり、その前に『史跡 元興寺小塔院跡』の標柱が立つ。

 小塔院とは、称徳天皇(764--70)が百万塔を納めるために建立されたもので、「西小塔院」もしくは「吉祥堂」とも呼ばれたといわれたが、宝徳3年(1451)の土一揆の際に焼失したといわれ、
 現存する元興寺遺構である元興寺極楽堂(現元興寺)・元興寺塔跡・小塔院跡3箇所の一つという。

 ちなみに塔院に納められたという百万塔とは、称徳天皇が恵美押勝(藤原奈良麻呂)の乱(天平宝字8年・764)で亡くなった人々の供養のために製作して諸寺(元興寺もその一つ)に祀らせた百万基の木製小塔で(続日本紀・宝亀元年-770条に、完成した百万塔を諸寺に納めたとある)、中に陀羅尼経典を納めたという。

 
元興寺小塔院跡・入口

同・標柱 
 
百万塔
(九州国立博物館蔵)

 門を入り緩やかな坂を登った上の境内は荒れていて(突然一頭の鹿が現れて吃驚した)、その一画に古びた堂舎が建っており、宝永4年(1707)に建立された虚空蔵堂(Wikipedia)が是かと思われるが、案内等なく詳細不明(閉まった扉の隙間から覗いても中は真っ暗)

 当小塔院は、ならまち庚申堂建立に関わりのある元興寺僧・護命僧正が住んだところといわれ、いま、堂舎裏の草むらのなかに宝篋印塔と「護命僧正」と刻んだ石碑が立ち、当跡地と護命僧正との関係を示唆している。


小塔院跡に建つ堂舎 
   堂舎裏の宝篋印塔と石碑

 なお、入口南の角を東に折れた道の北側にも「史跡 小塔院跡」との石柱が立ち、荒れた小堂が建っている。
 内陣にみえる厨子の中に地蔵像とおぼしき石像他が数基祀られており地蔵堂かと思われる。
 この小堂は、小塔院境内にあったかと思われるが、如何なる経緯で現在地に祀られたかは不祥。


地蔵堂? 
 
同・内陣 

[付記]
 今回訪れたならまち庚申堂・奈良町資料館・元興寺小塔院跡は、いずれも西新屋町にある。
 この町について、街角で見かけた案内には、
 「西新屋町  
    この町は一名吉祥堂町とも鍛冶町ともいわれていた。
   吉祥天をまつる吉祥堂があったためで、鍛冶町の名も数軒の鍛冶屋があったところから、里人達はそう呼んだという。
   現在町の中程に、吉祥天・地蔵菩薩・青面金剛を安置した庚申堂がある」
とあり、かつてのこの辺りが小塔院(別名・吉祥堂)を中心とした集落であったことを示している。

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