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「ならまち」の神さま−1

2006.10参詣

 近鉄奈良駅の南一帯を通称「ならまち」と呼ぶ。その昔、南都仏教の大寺として隆盛を誇った元興寺が、平安京への遷都あるいは室町時代の大火などで衰微するに伴い、その境内が民家に浸食されてできた古くからの町で、今では、レトロな気分を味わえる観光スポットとして多くの観光客を集めている。

 なお元興寺とは、飛鳥にあった法興寺(飛鳥寺)を平城京遷都に伴い当地に遷して元興寺と改称した寺(715)で、東大寺に次ぐ南都仏教の中核的寺院として栄えた大寺。今の元興寺は、昔の一坊・極楽坊を継承する寺で、世界文化遺産(1998指定)

 奈良ということもあって町中には寺院が多いが、小さな神社もまた点在している。神社というより“祠”というのが妥当といったものが多いが、「ならまち」の隠れた一面として簡単に紹介する。まずは北側の半分から。

神社位置図(北半分)
奈良町−位置図
@手力雄神社

A采女神社

B隼神社

C八王子神社
(元林院町)

D宗像神社

E恵比寿神社

F大福稲荷神社

G猿田彦神社

H大国主神社

I住吉神社

J厳島神社


奈良町−手力雄神社1 奈良町−手力雄神社2 @手力雄命神社−−橋本町
 ※祭神−−手力雄命(タヂカラオノミコト)
 三条通の北側、土産物店にはさまれた急な階段を上った築地の上に鎮座する。すぐ背後は興福寺会館。
 タジカラオ命は、天岩屋神話で、岩屋の扉を引き明けて隠れていたアマテラスを連れ出した力持ちの神。そんな力持ちの神が当地に祀られている由緒は不明。
 また当社は、春日大社の境外末社とされているが、タヂカラオと藤原氏の氏神である春日神社との関わりも不明。
奈良町−采女神社
本殿(北側道路より)
A采女神社−−樽本町
 ※祭神−−采女命(ウネメノミコト)
 三条通りの東詰、猿沢池の東南角に鎮座する。 伝承では
 「平城天皇(806〜09)のころ、帝の寵愛を受けたある采女が、その後のお呼びがないことを悲しんで、猿沢池に身を投げて死ぬという悲劇があり、死んだ采女の霊を慰めるために建てられた宮」
という。

 今の社は池に背を向けて建っているので、池側の道路から入ると社殿背面が見える。
 由緒書によれば、
 「(死んだ采女が)自分が身を投げた池を見るのは忍びないと、一夜の内に社殿の向きを変えた」
とある。もともとは池を背にして建っていたが、池の周りに道が付けられたのでこうなったのであろう。

 能に、この悲劇を題材とした『采女』(ウネメ)がある。猿沢池を訪れた僧の前に采女の亡霊が現れ、わが身の悲恋を嘆き、帝の心変わりを恨むが、僧の供養を受けて成仏し、舞いながら池のなかに消えていく、というのが粗筋である。
 また、10世紀末の歌集(拾遺集)にも、この伝承を主題とした和歌2首がある。
 ・吾妹子(ワガモコ) 寝くたれ髪を猿沢の 池の玉藻と見るぞかなしき−−柿本人麻呂
  (あの愛しい乙女の乱れ髪を 猿沢の池の水藻に見るのは悲しいことだ)
 ・猿沢の池もつらしな 吾妹子が 玉藻かつかば 水も干(ヒ)まなし−−帝
  (猿沢の池を見るのは悲しい あの愛しい乙女が水藻の下になっているのだから、水が涸れてしまえばいいのに)

 猿沢池には古くからの水神信仰があり、この池の水は竜宮に通じているという。水辺で神の衣を織りながら神の来訪を待つ巫女(機織姫)という古代伝承が、帝のお出でを待つ采女に重ねられた伝承であろう。
 なお、ウネメとは、天皇の後宮に仕えた地方豪族出身の女官。
奈良町−采女神社2
西側道路より(社殿背面が見える)
奈良町−隼神社
左:隼神社、右:地蔵堂
B隼神社−−角振新屋町
 ※祭神−−隼総別命(ハヤブサワケノミコト)
 「奈良町」の西寄りの中街道を少し南へ入った処に、民家に囲まれて鎮座している。朱塗りの鳥居・木柵をもつ覆屋の中に古びた祠が収まっている。由緒書など何もない。

 奈良市史によれば「この神社は角振(ツノフリ)明神あるいは角振隼明神とも呼ばれる。
 ツノフリ神とはホスセリ命の御子、隼神は父で、父子二座を祀る」とあるが、ツノフリ命・ハヤブサ命ともに記紀神話・風土記などに見えず、よくわからない。
 ホスセリ命とは、天孫ニニギとコノハナカグヤ姫の間に生まれた第二子で、日本書紀10段の一書では“山幸・海幸説話”の海幸彦で隼人族の祖とされる。
 とすれば、隼とは隼人を意味し、当社は、隼人族の祖神としてのホスセリと、その子ツノフリ神を祀るのかもしれない。とはいえ、ホスセリ・ツノフリが当地に祀られる由縁は不明。
奈良町−八王子神社 C八王子社−−元林院町
 ※祭神−−八王子社:八王子権現
         四之室(ヨノムロ)社:姫大神
 猿沢池西側の入り組んだ町中にある小祠で、朱塗りの鳥居奥の覆屋の中に鎮座する。由緒書によれば、八王子社と四之室社を祀るというが、祠はひとつのみ。
 奈良市史によれば、
 「八王子とは、記紀神話のアマテラスとスサノヲとの天安河における誓約(ウケヒ)によって生まれた8人の御子神(男神5人・女神3人)で、姫大神とは春日大社第4殿の比売神」
とあるが、それは明治以降のことで、江戸期までの祭神は、疫神・牛頭天王(ゴズテンノウ)と、その后・ハリサイ姫と8人の御子神で、いずれも疫病除け・災厄除けの神として祀られていたと思われる。

 これらの神々は、八坂・祇園社の本来の祭神でもある。明治の神仏分離によってゴズテンノウが邪神として排除され、備後国風土記・蘇民将来伝承を根拠に祭神がスサノヲに替わっているが、当社もそのとき祭神名を替えたのであろう。

 四之室社の詳細は不明。
奈良町−宗像神社
左の祠が宗像社(右は弁財天社)
D宗像神社−−餅飯殿町(モチイドマチ)
 ※祭神−−宗像三神(タギリヒメ・イチキシマヒメ・タギツヒメ)

 モチイド通りに面するビルの1階に祀られている神社で、弁財天と聖宝理源大師と併せて3座が合祀されている。正面の弁財天社が最も大きく、その左の小祠が宗像社、右に大師堂が位置する。

 宗像三神とは、福岡県玄海市と沖に浮かぶふたつの島に祀られている三女神(海の神・航行安全の神)をいうが、その一柱・イチキシマヒメは何故か弁財天と習合している。
 社号を宗像神社というものの、弁財天信仰が主体のようで、社頭の由緒書も、弘仁4年(813)、弁財天を吉野の天河弁財天社から勧請したとあって、宗像社の由緒は無視されている。宗像三神のうちのイチキシマヒメを弁財天として祀ったのかもしれない。

 弁財天とは、インド・サラスバティ河を神格化したヒンドゥー教の女神・弁才天で、音楽・弁舌を司るとされる。仏教とともにわが国へ伝来し、近世以降、“才”が“財”へし変化して財宝・財産をもたらす福の神へと変化し、七福神の一人として民間に広まったという。「ならまち」周辺には、興福寺三重塔の弁財天をはじめとして、弁財天を祀る祠が幾つか見られる。
奈良町−恵比寿神社 E恵比寿神社−−南市町
 ※祭神−−事代主命(コトシロヌシノミコト)
 いわゆる『エベッさん』だが、奈良市史には
 『春日大社の末社で、自社の末社としてオオクニヌシ・イチキシマヒメ・イナリを祀る』
とある。
 いまエビスといえば商売の神さまとされるが、本来は、海の彼方からやってくるマレビト神(イザナギ・イザナミの第一子で、不具であったことから葦船に乗せられて流されたヒルコともいう)で、豊漁をもたらす神として漁民に親しまれたのがはじまりといわれ、中世になって海の神が陸にあがり、七福神の一神として商売の神さまへと変身し、各地に“市の神”として祀られるようになったという。
 当地町名を“南市”ということからみて、昔、この辺りに“市”(イチ)が立っていたと思われる

 エビス社の祭神・コトシロヌシとはオオクニヌシの御子神で、葦原中国を天神へ譲れと迫るタケミカヅチ命に、父に代わって恭順の意を伝えて海中に身を隠した神(国譲り神話)で、一般には神意を告げる“託宣の神”とされるが、何故かエビスと習合している。同じ海に関わりをもつ神ということかもしれない。

 エビス社には、祭神としてヒルコを祀る神社とコトシロヌシを祀る神社の2系統がある。
奈良町−大福稲荷神社 F大福稲荷神社−−餅飯殿町
 ※祭神−−稲荷大明神

 宗像神社からモチイド通りを南へすこし下った右手、民家に囲まれた「春日大社の大宿所」の隅にある。
 奈良市史には、『大宿所の守護神として勧請された』とあるが、この地は、もと興福寺遍照院の跡で、今でも“若宮おん祭”に関係するという。
 稲荷社は真っ赤な鳥居や社殿が特徴だが、当社は鳥居・小祠ともに古ぼけていて祭祀がおこなわれている気配は感じられない。
奈良町−猿田彦神社 G猿田彦神社(道祖神神社)−−今御門町
 ※祭神−−サルタヒコ命・イチキシマヒメ命
 猿沢池の西側を南下する上街道添いにある神社。由緒書では、
 『この社は、平城天皇の御代に元興寺境内に創始された神社だが、元興寺の大火(宝徳2年1450)およびその後の火難によって類焼し、現在のような小祠になってしまった』
と嘆いている。
 サルタヒコとは、記紀神話における天孫降臨の途上、道辺で天孫ニニギを出迎え道案内した国つ神だが、その“道を開く”との神格から道祖神(ドウソシン、塞の神サエノカミともいう)と習合し、巷の辻とか村外れの道端など此の世と異界との“境界”にあって、外から来る邪霊をさえぎり旅人の安全を護る神とされてきた。
 由緒書きにも
 『当社は、往古より道祖神・塞の神として名高く、道開きの神ということから商売繁昌・開運招福の神として崇拝され、また良縁・安産の神として婦人の信仰が厚い』
とある。
 この辺りが元興寺敷地の境界にあたり、その守護神として祀られたのかもしれない。
 鳥居をくぐってすぐ左に注連縄を張った大きな石が置かれている。道祖神信仰につきものの“陽石”(男性自身)である。
 合祀されているイチキシマヒメは、上記宗像三神の一座。交通安全守護がサルタヒコと通じることから合祀されたのかもしれないが詳細不明。 
奈良町−猿田彦神社・陽石陽石
奈良町−大国主神社 H大国主神社−−東城戸町
 ※祭神−−大国主命(オオクニヌシノミコト)
 「ならまち」の喧噪から離れた静かな町筋にある神社で、一般民家と替わらない門構えのため、門に張られた注連縄がなければ気付かない。
 奈良市史には
 『神社の沿革はわからないが、昭和14年に社殿などを新築した』
とある。門の格子の間から覗いた境内は荒れていて、神社という感じはない。

 オオクニヌシとはスサノヲの御子(日本書紀)とも5世の孫(古事記)ともいわれ、オオナムチ・オオモノヌシ・ヤチホコなど多くの異名をもつ、出雲神話の国土創造神である。
 しかし一般には、オオクニヌシの大国と大黒がダイコクで通じ合うことから、七福神の一神として右手に打出の小槌・大きな袋を背負った“大黒さん”(大黒天)として親しまれている。
 当社がオオクニヌシとして祀ったのか、大黒さんとして祀ったのかは不明。
奈良町−住吉神社 I住吉神社−−勝南院町
 ※祭神−−住吉三神(ウワツツノオ・ナカツツノオ・ソコツツノオ命)・蔵王権現
 猿田彦神社から1ブロック南へ下った処にあるが、民家にはさまれた狭い路地の奥に赤い鳥居と覆屋が見えるだけ。
 由緒書によれば
 『鎮座年月ははっきりしないが、往古、元興寺境内勝南院に鎮座さる。宝徳2年、元興寺と興福寺との争いで焼失。焼け跡に民家が連なったため現在地に祠を造り、安産・町内安全・無病息災・商売繁昌を祈願して今日に至る』
とあるが、元興寺が住吉社を祀った由緒は不明。
 なお、合祀されている蔵王権現は修験道で崇拝する神(役行者が祷りだしたという)だが、明治末から大正初めに町内の誰かが持ちこんだもの、という。
奈良町−厳島神社 J厳島神社−−北風呂町
 ※祭神−−イチキシマヒメ

 「ならまち」のほぼ中央を東西に通る広い道の北側にある。路沿いの築地門を入ると白い鳥居が立ち、その奥の覆屋の中に小さな祠が鎮座している。白いペンキ塗りの鳥居といい、覆屋といい、いずれも古び且つ荒れていて、忘れられた神社といった気配である。
 海の女神であるイチキシマヒメが何故当地に祀られるのか不詳だが、何らの資料もなく、鎮座由緒などの詳細不明。イチキシマヒメは弁財天(弁天さん)と習合しているから、弁天さんとして祀られたのかもしれない。

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