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氣多大社
石川県羽咋市寺家町
祭神--大国主神
                                                                2013.05.26参詣

 延喜式神名帳に、『能登国羽咋郡 氣多神社 名神大』とある式内社で、能登国一の宮。社名は“ケタ”と読む。

 JR七尾線・羽咋駅の北北西約4km強、能登半島の西岸沿いに走る国道246号線を羽咋駅から北上、一の宮の集落にあるバス停・気多大社前から北へ進んだ先に鎮座する。

※由緒
 鳥居脇に掲げる案内板によれば、
 「当社は気多神宮とも称し奉り、能登国一宮として世に知られ、北陸道総鎮護のお社であります。
 御祭神は大国主神をまつり、世に大黒様と申し、多くの人々に崇められております。
 若宮神社の御祭神は事代主命を祀り、えびす様として親しまれている神様です。
 御社殿背後の森は約三万平方米の広さを有し、『いらずの森』として千古の歴史を伝え、北陸地方随一の原生林であります」

 また境内絵地図を伴う案内板には、
 「当大社の御祭神は、大国主神(またの御名を大己貴命)と申し、能登の地を開いた大神と仰がれています。
 創立年代は、第10代崇神天皇の御代と伝えられ、延喜の制では名神大社に列しています。
 本殿背後約一万坪の社叢林(入らずの森)中央の奥宮には素盞鳴命・奇稻田姫命が祀られています」
とある。

 気多大社(以下、大社という)創建を崇神朝とするのは、崇神紀7年条に、天皇が「初めて八百万の群神を祀り、天っ社・国っ社を定めた」(大意)とあるのを承けたものと思われるが、当社の創建を古く見せんがための仮託であろう。
 崇神朝といえば4世紀前半(古墳時代前期)頃とされ、その頃、どのような神マツリがおこなわれていたかは不詳。あったとしても、その都度、簡単な神籬(ヒモロギ・仮説的な祭場)を設けてのもので、今みるような社殿をもつ恒常的な神社は存在しなかったと思われる(常設の神社社殿の建設は、仏教寺院の影響を受けた6世紀頃からともいう)
 なお、大社周辺には弥生時代からコメ作りを主体とした小集落があったといわれ、5世紀前半ころ(古墳時代中期)から古墳(滝大塚古墳・円墳径≒85m以下)が作られているが、他に神マツリを窺わせる痕跡はなく、7世紀に入って、小集落跡から金環・勾玉・ガラス玉など祭祀に用いる祭具とおぼしきものが出土しているという(大意、日本の神々8・1985)


 上記由緒は、祭神がオオクニヌシ(オオナムチ)であること、その創始が崇神朝であること以外に創建由緒は記していないが、それに関わる伝承として次のようなものがあるという(式内社調査報告・1985他)
 大社古縁起(年代不明)
 「人王八代・孝元天皇の御宇、北国越中の北島の魔王が鳥に化して国土の人民を害し、鹿島路湖水には大蛇が出現して人々を苦しめた。
 この時、大己貴命(オオナムチ)が出雲国より三百余神末社眷属を引き具して来臨、化鳥と大蛇とを退治して、この南陽の浦(位置不明)に垂迹して、天下国家君民守護の神と仰がれた」
とあり、孝元天皇の御世、出雲のオオナムチが来臨して人民を苦しめる化鳥・大蛇を退治して当地に鎮座したという。
 越中の北島--位置不明だが、越中国であった富山市の東に上市町北島との地名がある
 鹿島路湖水--当社の東約3~4km・JR七尾線の東方にある現邑知潟-オウチガタ-に比定。
            今の邑知潟は、長さ3km弱の細長い水路状-下流は羽咋川-になっているが、古くは周囲14km程の大湖だったという


 これに対して、大社の北東約21km・七尾市所口町(トコロクチ・JR七尾駅の近く)にある気多本宮の縁起には、
 「上世の昔、オオナムチ命、出雲国より因幡国気多崎(因幡の白ウサギの地)に至り、八上比咩の許に通せ給ひ、夫より鹿・亀の二霊に駕して、当国当所に渡らせ給ふ。今の府中の浦(七尾市北方の海岸か)是也。・・・
 その頃、此の国に大鷲住みて人民を害し禽獣を傷う。オオナムチ速に鳳凰に駕して是を降伏し給ふ。依って萬類其の恩賴を蒙る。霊験日に新にして人皇八代孝元天皇宮社を建て、春秋の御祭甚だ厳重なり。・・・
 人皇第十代崇神天皇の御宇、当国鹿島路湖水(金丸の湖水=邑知潟)に毒蛇棲みて人民を害し往還を絶つ。この時尊者当社より其の地に趣せ給ひ、彼毒蛇を降伏し、遂に羽咋郡竹津浦(気多大社西方の地らしいが不詳)に垂迹し給ふ。今の一宮是也。故に当社を以て本宮と称し奉る。当社御鎮座より百有余年の後の御垂迹なり」
とあり、出雲から来臨したオオナムチは、まず大鷲を退治して現七尾市付近に鎮座し、後に、邑知潟の毒蛇を退治して一の宮の地(気多大社)に鎮まったとある。換言すれば、気多大社は気多本宮から分霊を勧請した社ということになる。

 気多本宮は、延喜式神名帳に『能登国能登郡 能登生国玉比古神社』とある式内小社(祭神-大国主命・素盞鳴尊・奇稲田姫)の論社(候補社、他に2社あり)となっている神社だが、当社参詣の栞にいう平国祭(ヘイコクサイ)の説明に
 「七尾市の所口にある気多本宮へ渡御する大規模な神幸祭で、羽咋・鹿島郡内の2市5町を巡る(3月18日~23日、通称・おいで祭)
 注目したいのは、往路の21日、鹿西町金丸の宿那彦神社(スクナヒコ、邑知潟の近くにある境外摂社)に一泊し、翌日同社の少彦名命(スクナヒコナ)が神輿に同座して七尾の気多本宮へ趣き、一泊して祭典を営んでから帰路につくことである。気多大社の大国主神が少彦名命とともに能登を平定した往時を偲ぶ行事だといわれている。・・・
 平国祭は気多大社鎮祭の由来を伝える重儀で、祭祀の性質としては祈年祭に属する」
とあり、大社由緒などには記されていないものの、気多本宮が気多大社の元宮であることを示唆している。
 なお、大社の宮司さんに大社と本宮との関係をお尋ねしたところ、「七尾の神社は当社の本宮です」とはいうものの、元宮ということには言葉を濁されていた。

 また、上記以外に、羽咋郡誌(1940)には
 「オオナムチである気多神は、越の北島(位置不明・富山の北島付近か)から鹿島郡神門島(半島東部の能登金剛付近に比定)に着き、七尾の小丸山(JR七尾駅付近に小丸山の地名あり)を経て口能登(羽咋郡一帯)、さらに鳳至(フゲシ)・珠洲(スズ)二郡(奥能登一帯)の妖賊・衆徒を平らげ、現在地に至った」
との伝承があり、
 神社名鑑(時期不明、昭和期らしい)には
 「祭神オオナムチは国土修営のため越の北島より船で七尾小丸山に入り、宿那彦神(スクナヒコ)等の協力を得て、この地方の賊徒を平定せられた。その恩典を慕いこの地に奉祭した」
とあるという。

 これらの伝承からみて、大社本来の祭神は海を渡ってやってきた渡来神で、それが在地の神々を吸収併合することで能登地方の大神として崇められるようになり、それが北陸・山陰に広がる国つ神の頭領・オオナムチ信仰と結びついたと思われる。


 大社に関する文献上の初見は、万葉集に載る大伴家持(718--85)の歌、
  気太神宮に赴き参り 海辺を行く時に作る歌一首(万葉集・4025番)
             (気多神宮に参詣するため、海辺を行ったときに作った歌一首)
   「志雄道(シヲジ)から 直(タダ)越え来れば 羽咋の海 朝なぎしたり 舟梶もがも」
                (志雄道から まっすぐに山越えして来てみたら 羽咋の海は朝凪している 舟と梶があればよいが)
   ・志雄道--富山県氷見から石川県羽咋に至る古道で、能登半島基部を東西に横断していたという
    
羽咋の海--気多神宮参詣の前か後かによって異なり、前とすれば当社西方の日本海、後とすれば東方にあった邑知潟-オウチカタ-となる
といわれ、当社は8世紀にはあったとみていい。

 なお、この歌は、家持が越中国(現富山県と石川県能登地方を含む)の国司(746--51在任)として国内巡察に出かけたとき(天平20年-748)の歌という。そのとき家持は、国府のあった伏木から氷見(以上富山県)へ出て、能登半島基部を横断して志雄へ、半島西側を北上して羽咋に至り、そこから七尾に抜けたといわれ、この歌は気多神社奉幣時の前後かと思われる。
 この国内巡察について、当社配布の由緒他の資料には「出挙(スイコ、春に種籾を貸し付け、収穫後、利息を付けて返させる観衆、半ば強制的なものだったらしい)のための巡察」とある。
 巡察の実質的目的はそうかもしれないが、国司着任後の最初におこなうべき職務は、領内の著名な神社へ奉幣・参詣とさ定められていたことから、家持によるこの巡察は、着任後最初の神社巡拝とみるべきであろう(病気によって遅れ、2年目におこなわれたらしい)

 正史に見える大社関連の記録としては、
 ・称徳天皇・神護慶雲2年(768)10月24日--能登国気多神社に封二十戸と田二町を充てた--続日本紀
 ・ 同 ・宝亀元年(770)8月2日--神祇官正七位上中臣葛野連飯麻呂を遣わして、能登国・気多神に奉納した--続日本紀
 ・桓武天皇・延暦3年(784)3月16日--従三位気太神に正三位を授けた--続日本紀
 ・平城天皇・大同元年(806)--封戸三十戸加増--新抄格勅符抄
 ・文徳天皇・嘉祥3年(850)--従二位に昇叙--文徳実録
 ・ 同 ・仁寿3年(853)--封戸十烟・位田二町加増--文徳実録
 ・清和天皇・貞観元年(859)正月27日--能登国正二位勲一等気多神に従一位を授けた--三代実録
 ・ 同 ・同7月14日--神祇大祐正六位上大中臣朝臣豊雄を気比・気多両社の使いとし、神宝と幣帛を奉った--三代実録
があり、最終的には正一位を授与されたのではないかという(能登志徴-1928?)

 このように、奈良・平安時代の当社が朝廷から手厚く遇されたのは、その頃の東北経営あるいは新羅・渤海といった外国との交流によるもので、これらの国からの使節が能登半島に到来したことと無関係ではなく(羽咋市富来町に渤海国の使節を迎える客館があったという)、これらに対処するために、半島の中央にある当社の神威が仰がれたことによるという。

 中世以降の当社は、能登守・畠山氏(室町時代)、加賀藩主・前田氏(江戸時代)からの崇敬が厚く、社領の寄進・社殿等の造営が為されたという。

※祭神
 祭神--大国主神(別名:大己貴命-オオナムチ)
 
 社伝・神名帳頭注(1503)・神社明細帳(1779)・官社祭神考証(1874)・大日本一宮記(16世紀頃)など古資料のほとんどが
  「祭神  大己貴命」
とする。

 古代の出雲を中心としたオオナムチ信仰が当地(北陸道)にまで浸透していたことから(出雲国風土記・意宇郡母理郷条に、「オオナムチ命、越の八口-新潟県岩船郡付近という-を平らげ賜ひて還り坐す時に・・・」とある)、当社がオオナムチを祀るのに特段の違和感はない。
 なお、
  「祭神  大己貴命  天活玉命(アメノイクタマ)
とする資料もあるが(諸社一覧・神社啓蒙・神祇正宗・気多祭儀禄)、延喜式に一座とあることからオオナムチ一座とするのが妥当であろう。

 しかし、石川県の歴史(1970)の著者(下出積與氏)は、
 「当社旧社記をはじめ諸書は祭神をオオナムチとするが、気多大社の神は出雲とは全く関係がなく、もともと能登地方本来の土地の神であった。
 オオナムチが祭神となったのは後の時代のことで、おそらく社家の誰かが古事記・日本書紀の神名にこじつけて称えだしたものであろうと考えている」(大意)
として、当社本来の祭神は能登地方の土着神(気多神とでもいうべきか)で、オオナムチとなったのは記紀編纂以後(8世紀)のことだろうという。

 日本書紀編纂(720)後、多くの地方豪族等は、自家の始祖を本来の祖先から書紀にいう神あるいは天皇や皇族へと変更することで、自家の中央における地位の保全・向上を図ったといわれ、それに伴って、彼らが奉齋する氏神(伝承上での始祖)もまた変わっていったという。
 これからみて、下出氏が“社家の誰かが記紀の神名にこじつけて称えだしたのだろう”というのは有りえることで、当社の祭祀氏族が、本来の祭神(気多神)を、記紀にいう国つ神の頭領的存在であるオオナムチへと結びつけ社格の向上を図った蓋然性は高いと思われる。

 なお、当社祭祀にかかわる氏族は不明だが、続日本紀(797)
 ・天平17年(745)正月7日--正六位下の・・・気多十千代・・・に外従五位下を授けた 
 ・ 同 19年(747)10月13日--外従五位下の気多十千代ら八人に気多君の姓を賜った
とあり、この一族がかかわっていた可能性はあるが、当社との関係を示唆する資料はない。

 異論として名が上がっている天活玉命は、記紀には見えず、その出自・神格など不明だが、先代旧事本紀・天神本紀(9世紀後半)に、ニギハヤヒに従って天下った32神のなかに“活玉命 新田部直(ニイタベノアタイ)の祖”とあり、この神かもしれない。

 また、その後裔という新田部直なる氏族も、新撰姓氏録(815)などの古資料に見えず詳細不明。直(アタイ)の姓をもつことからみて国造級の地方豪族であった可能性は高く、当社の祭祀氏族としてその祖・活玉命を祀っていたのかもしれないが(続日本紀にいう気多十千代は新田部直の一族かもしれない)、この一族が当地に居たとする資料はみえず、神社一覧などでこの神を当社祭神とする根拠は不明。
 なお、宮司さんにお尋ねしたところ、「イクタマ命は知らない」とのお答えであった。

※社殿等

  道路脇に立つ鳥居(控柱をもつ両部鳥居)をくぐり、まっすぐ伸びた参道先の神門(四脚門、切妻造・桧皮葺、左右に回廊が延びる)を入ると境内。

 境内正面に拝殿(入母屋造妻入・間口三間・梁間三間・桧皮葺)

 その奥、釣殿を介して本殿(両流造・間口三間・梁間四間・桧皮葺、正面に一間の向拝付き)

が、南面(やや西に振っている)して建つ。

 社殿域の背後は所謂“いらずの森”で、社殿周りにも大木が茂り社殿の全貌は見えづらい。

 なお、本殿・拝殿・神門ともに国指定の重要文化財
 
社殿等配置絵図

気多大社・鳥居 
 
同・神門
 
同・拝殿
 
同・拝殿(左奥に本殿の屋根が見える)
 
同・本殿(部分)

◎攝末社
*摂社
  ・奥宮--祭神:素盞鳴尊(スサノヲ・オオナムチの父神)・奇稲田姫命(クシイナダヒメ)
    最も重んじられている摂社で、いらずの森の中に鎮座する(参拝不能)
    資料によれば、周囲に巨石を積み石垣をめぐらした霊域に、切妻造妻入りの小祠二社が鎮座するという。
  ・若宮神社--祭神:事代主命(コトシロヌシ・オオナムチの御子)
    本殿の向かって左に鎮座する。一間社流造。旧記には永禄十二年再興とあるという。
    古くは、本社の未(南西)約2丁(約200m)の若宮御殿に鎮座していたという(当社への遷座時期不明)
    国指定重要文化財(昭和25年指定)
  ・白山神社--祭神:菊理姫命(ククリヒメ)
    本殿の向かって右に鎮座する。三間社流造(正面に一間の向拝あり)
    国指定重要文化財

 
摂社・若宮神社
   
摂社・白山神社

*末社
  ・楊田神社(ヤナギダ)--祭神:迦具土命(カグツチ・火の神、荒御魂神あるいは祭神未詳とする資料もある)
    拝殿前から右に入った先、いらずの森の入口に素木(シラキ)の鳥居一基が立つのみで社殿はないが、その理由など不明。
  ・太玉神社(フトタマ)--祭神:太玉命(フトタマ、宮中祭祀にかかわる神で忌部氏の祖神)
    楊田神社鳥居の右手、叢林の中にある小祠。
    資料によれば、古くは御幸殿あるいは講堂と呼ばれた建物で、前田利家が改築(1611・江戸初期)、明治になって建て替え現社名になったという。
  ・菅原神社--祭神:菅原道真
    太玉神社南の叢林のなかに鎮座する小祠、祠の両脇に合格祈願の絵馬が数多く掛かっている。
  ・奥津島神社--祭神:奥津島姫命(宗像三女神の一、古くは弁財天と称したという)
    鳥居を入った参道左手の叢林の中に石祠があるというが、実見できず

 
摂社・楊田神社(鳥居のみ)
 
摂社・太玉神社
 
摂社・菅原神社

 上記以外に境外摂社として
  ・大穴持像石神社(オオナモチカタイシ)--羽咋市寺家、当社の約300m東
    祭神--オオアナモチ命(オオナムチの別名)
  ・宿那彦神像石神社(スクナヒコノカミカタイシ)--鹿島郡中能登町金丸、当社の北東約600m
    祭神--スクナヒコ命
 境外末社として
  ・印鑰神社(インヤク)--羽咋市寺家(位置不明)
    祭神--倉稲魂命(ウカノミタマ・穀物神)  
    本来は国府の印と鍵を神格化して祀った社という
  ・大多毘神社(オオタビ)--羽咋市寺家(位置不明)
    祭神--迦具土命(カグツチ・火の神) 
    社殿はなく、タブの老樹をご神体とする社。
    大晦日の夜、奥宮祭終了後、引き続いて当社前で火神事(大多毘社例祭)が執りおこなわれるという
があるという。

◎いらずの森
 社殿域の背後に広がる深い森で、当社参詣の栞によれば、
 「加賀藩の保護した社叢(国指定天然記念物)には奥宮が鎮座し、『入らずの森』と呼ばれる聖域となっている。
 昭和58年5月22日、全国植樹祭に御来県の昭和天皇が本社に行幸され、入らずの森にお踏入になり、『斧入らぬみやしろの森めづらかに からたちばなの生ふるを見たり』との御製をお詠みになりました」(大意)
という。
 この森は、約一万坪(33,000㎡)の広さをもち、タブ・スダジイ・ツバキ・ヒサカキなど亜熱帯性照葉樹林に覆われた原生林で、中には奥宮とともに3基の円墳があるという。

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