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須須神社
高座宮--石川県珠洲市三崎町寺家
祭神--天津日高彦穂瓊瓊杵尊・美穂須須美命
金文宮--石川県珠洲市三崎町寺家
祭神--木花開耶姫命
奥宮--石川県珠洲市狼煙町(山伏山山頂)
祭神--美穂須須美命
                                                              2013.05.57参詣

                                                           高座宮--2013.05.27参詣

 延喜式神名帳に、『能登国珠洲郡 須須神社』とある式内社とされるが、今は、珠洲(スズ)市三崎町寺家(ジケ)にある高座宮(タカクラグウ)・金文宮(キンブングウ)を合わせて須須神社と称し、その奥宮が珠洲市狼煙町(ノロシ)の山伏山頂上にある。

 能登半島東北部先端に建つ禄剛崎灯台から、県道28号線を東南方に回りこんだ西側の山中に鎮座する。

※由緒
 高座宮境内に掲げる由緒によれば、
 「当社は高座宮・金文宮の両社にご夫婦の大神を祀り、須須神社と称し『三崎権現』・『須須大明神』と尊崇され、東北鬼門日本海の守護神として、あまねく信仰され、災難除けの御神徳あらたかな神社であります。
 第十代崇神天皇(約2000年前)の御代、能登半島最東北端の山伏山(鈴ケ嶽)の頂上に創建され、天平勝宝年間(749--56)に現在の地に遷座した国史現在社(正史に記載のある神社)・延喜式内社であります」

 また、当社社蔵文書(1824・江戸後期)には
 「往古須須之御嶽(山伏山)に御同殿にて御鎮座、天平勝宝年間只今之御山へ御遷宮、其後御両社に相成、尊者を高座と称し奉り、姫神を金文と称え奉り候」

 神社明細帳(明治28年-1895)には
 「崇神天皇御宇御創建、其の後用明天皇(585--87)元正天皇(715--24)両帝より官弊使下向有之、・・・天平勝宝年間鈴御嶽(山伏山)より今の地へ遷座して、高座宮金文宮の両社とし、之を合せて須須神社と称す」(一部省略)
とあるという(式内社調査報告・1985、以下同じ)

 これらによれば、当社は、崇神朝の頃(由緒は紀元前後というが、4世紀前半頃とみるのが通説)に山伏山(H=172m)の頂上に創建され、その後、天平勝宝年間に現在地(寺家)に遷座したとき高座・金文の2社に分かれたとなる。
 ただ、この由緒は、江戸時代の文献である須須神社縁起(1685・江戸中期初)・金文高座神主書上控(1806・江戸後期)などに基づくもので、これを裏付ける資料はないという。

 当社の創建を崇神朝とするのは、書紀・崇神7年条に「八百万の群神を祀り、天っ社・国っ社をきめた」(大意)とあるのを承けたもので、古く見せんがための仮託であろう。
 崇神朝といえば4世紀前半(古墳時代前期)頃とされ、その頃、どのような神マツリがおこなわれていたかは不詳。あったとしても、その都度、簡単な神籬(ヒモロギ・仮説的な祭場)を設けてのものだったと思われ、今みるような常設の神社は存在しない、というのが一般の理解(神社社殿の建設は6世紀頃からともいう)

 由緒では、当社は国史現在社というが、管見したかぎりでは国史上に須須神社あるいは須須神の名はみえない。ただ、三代実録(901)・清和天皇貞観15年(872)8月条に、
 「四日丙申、・・・能登国従五位下高倉彦神・・・に従五位上を授けき」
とあり、ここでいう高倉彦神を祀る神社が高座宮だという。

 しかし、同じ珠洲市内の蛸島町に“高倉彦神社”(式外社・祭神:高座彦命・瓊瓊杵尊他、当社の南南西約7.5kmの蛸島漁港近く)があり、ネットでみた同社の由緒は、三代実録にいう神階授与の記録はこの高座彦神社のことという。
 通常、正史上での神階授与記録にみえる神名は、当該神社の社名を記すことからすれば、上記記録は高座宮を指すのではなく、蛸島町の高座彦神社を指すとみることもできる。
 そうだとすれば、延喜式神名帳が神階をもつ高倉彦神社を式内社とせず(式内社には神階をもつ神社が多い)、神階をもたない須須神社を式内社としたのか不可解だが、その理由は不明。

 高倉彦神の出自・神格など不詳だが、珠洲市史(1980)には“渡来系氏族・高倉氏の氏神ではないか”とあるという。
 高倉氏とは、新撰姓氏録(815)
  「左京区諸蕃(高麗)  高麗朝臣  高句麗王好台(広開土王)七世孫・延典王より出る」
とある高句麗系渡来氏族・高麗朝臣に連なる氏族で、延典王の後裔・背奈公福信(709--89)が宝亀10年(779)高倉朝臣の姓を賜り高倉氏を名乗ったという(福信は、孝謙天皇の側近として武蔵守などの要職を歴任したといわれ、天平神護元年-765-に従三位になっている)
 古代の能登半島は、その日本海に突き出た地形から中国大陸・朝鮮半島(特に渤海,)との交流が深かったといわれ、そこから半島系渡来人である高倉氏が当社にかかわっていた可能性は高いと思われるが、それを証する資料はない。


 古くから、当社を式内・須須神社とすること、あるいは現須須神社を構成している3社の関係については疑問がもたれ、以下のような諸説がある(以下、式内社調査報告・日本の神々8-1985・奥能登の研究-1997などによる)

 ◎式内・須須神社と高座宮との関係
 須須神社の名は延喜式神名帳以外には見えず、古資料上では、古くは“高座宮(文治2年-1186・平安末期)”・“珠々権現(天正5年-1577・安土桃山期)”・“三崎明神(江戸前期)”などと記されており、17世紀後半(江戸中期初)になって初めて須須神社の名が見えるという。
 ・神名帳考証(1813-江戸後期)--高座宮を式内社とすることに疑問を呈しているというが詳細不明
 ・大日本神祇志(1873-明治初期)
   「須須神社 今珠洲嶽(山伏山)に在り、奥鈴明神と称するが是か。或は、寺家村高座宮の社記に、本社古く須須嶽(山伏山)に在り、勝宝中此処に移り二社と為し、男神高座宮、女神金文宮と為すというが、此の説恐らく非なり。且つ式に二座とは云わず、即ち勝宝中分けて二座とするのも疑うべし」
 ・加能外伝(年代不明、昭和初期頃か)
   「現高座宮は三代実録所載の高座彦神を祀る神社のことで、式内・須須神社は山伏山頂上の現奥宮ではないか。
 高座宮を式内社としたのは、神官が式内社という美名に陶酔して、由緒ある高座宮の呼称を捨て去ったものか、あるいは宮司が奉祀する神社が式内社であることが叙爵をうけるのに有利であると判断したのであろう」
 ・須須神社誌(1924・大正末期)
   「三代実録に見える高座彦神の神社は現高座宮のことであり、延喜式編纂当時に高座彦神社の名を用いなかったのは、その当時、同社が珠洲郡唯一の大社であった故に、地名をとって須須神社と呼ばれていたためだろう」
として、いずれも高座宮を式内・須須神社とすることに疑義を呈している。
 これらの諸説を勘案すれば、当社由緒がいう高座宮=式内・須須神社というのは問題があるらしい。

 ◎高座宮と奥宮の関係
 須須神社成立の諸問題(珠洲市史所収・1980)との資料によれば、
 ・本社(高座宮)の位置が山伏山を背にしておらず、また遙拝するような場所にもないこと
    (通常、山宮のある神南備山の麓に、それを遙拝する里宮が設けられている場合が多。
     高座宮と山伏山間は約2kmで、はるか遠くに見えるというが、参詣時には見えなかった)

 ・歴史的にみて、本社と奥宮に奉仕する神官が異なっていること(明治13年以降は、高座宮の宮司・猿女氏が奉仕しているという)
 ・本社と奥宮の氏子が全く異なっていること(奥宮の氏子は、山伏山を隔てた北方の狼煙町の人々が主いう)
 ・本社と奥宮の祭神を同一とする記録がないこと
    (山頂の宮本来の祭神は美穂須須美命で、今、高座宮にも合祀されているが、これは山頂の宮が高座宮の奥宮とされた後のことであろう)

 ・神事・祭礼に共通点がないこと
などから、山頂の宮と里にある高座宮とは一般にいう山宮と里宮の関係ではなく、両社は元々無関係なもので、近世になって、山頂の宮を奥宮と位置づけたのではないか、
とあり、加えて
 「延喜式にいう原須須神社は、山伏山に対する山岳信仰に端を発し、古代中央政府の東北経営に伴って能登半島が脚光を浴びた時期に、海上交通を守護する須須之神を祀る社として、山頂を遙拝できる日置郷(現狼煙町)に成立したもので、中央政府の東北経営事業の終了を機に衰微したのではないか」
として、高座宮は奥宮とは本来無関係で、両社が本社・奥宮の関係になったのは近世以降のことてはないかという。
 なお、奥宮はもと鈴ガ嶽社あるいは鈴ケ嶽五社大明神と称し、明治12年(1879)今の社号に改めている。

*須須神社奥宮遙拝所
 珠洲市狼煙町(ノロシ、明治中期の地名:珠洲郡日置村字狼煙)は能登半島最東北端にある町で、先端に禄剛崎灯台(明治16年-1883設置)が立つ。
 灯台見学者のための駐車場(県道28号線沿い)の東北角に“須須神社奥宮遙拝所”があり、駐車場側に石碑が立っている。
 付近の一般民家とはやや異なった入母屋造・瓦葺の社屋で、駐車場側のガラス張りの中に注連縄がみえ、中を覗くと山伏山を拝する方角(南)に祭壇が見える。
 資料によれば、奥宮は狼煙町の鎮守社で、嘗ては、その秋祭りに狼煙町の氏子に担がれた御輿が狼煙町に降り一泊したとあり(だいぶ前に途絶えたという-現地ガイド)、遙拝所の内部はけっこう広い。
 これが珠洲市史がいう“遙拝所としての原須須神社”で、元々は山伏山を神奈備山として遙拝する里宮として設けられたものであろう。これらからみて、山伏山の奥宮に対する里宮は寺家の高座宮ではなく、狼煙町の現遙拝所とみるのが妥当であろう。

 また、駐車場からは民家越しに山伏山が、禄剛崎灯台からも南方正面に山伏山が見える(山伏山と狼煙町との間は約1.5km)

 
遙拝所・石標
 
須須神社奥宮遙拝所
 
同・祭壇
 
山伏山(駐車場より)
 
山伏山(灯台付近より)

 なお山伏山は、古来から信仰の対象として崇敬されてきた神奈備山であるとともに、山系の先端に二つの峰をもつ山が見えることから、日本海を行き来する舟人にとって航行の目印となっていたという。
 また、古代、高句麗や新羅などによる外寇に対する海岸防備のため、山上に狼煙台を設けたとも伝えられ、江戸時代には、加賀藩によって山腹に常灯小屋が設けられ、烽火があげられていたという(ネット資料・珠洲郡狼煙村の歴史、大意)
 因みに、山伏山の名は江戸途中来頃の山頂に修験者が建てた小堂(本地仏:虚空造菩薩)があったことからで、以前は鈴ガ嶽・珠洲嶽などと呼ばれていたという。

 これらからみると、高座宮は三代実録にいう高座彦神を祀る社で、渡来系氏族・高倉氏の氏神として、神仏習合の風潮の中で神宮寺(高勝寺-平安後期建立)を設けるなど勢力を拡大し、そのなかで式内・須須神社を詐称したのではなかろうか。

 ◎高座宮と金文宮との関係、
 金文宮の文献上での初見は、文明10年(1478・室町末期)の高座宮神主友永の置文(遺言)といわれ、そこから
  「金文宮の成立は高座宮のそれよりもはるかに下り、室町前期(15世紀初頭頃か)に吉野の金峰山(キンプセン)信仰が白山系の修験を媒介として入りこんだ結果創建されたものであろう」
として、金文宮は高座宮とは別個に修験道系の神社として成立したものではないかという(キンブンという社名も修験道の関与を思わせ、キンプセンの訛りかともいう)
 また須須神社誌には、
   「大正9年(1920)の現地調査の折、古老から『金文宮は、もとは現在地より約3kmほど奥の小字“キンブン”という所にあり、それが小字“宮野”という所へ遷り、更に現在地に遷座した』との伝承を聞かされた」
とあるという。

 以上のことからみると、当社の創建由緒・沿革には異論も多く、山伏山山頂に創建されたのが本来の式内・須須神社(現奥宮)であって、これが、天平勝宝年中に山麓に降りて高倉・金文の2社に分かれたという当社由緒は、疑問符を付けて受け取らざるを得ないのかもしれない。

※祭神
 今の祭神は、
 ・高座宮--天津日高彦穂瓊瓊杵尊(アマツヒダカ ホノニニギ)--天照大神の皇孫(天孫降臨)
   相殿神--美穂須須美命(ミホススミ-下記)
 ・金文宮--木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)--ホノニニギの后(大山祇神-オオヤマツミの娘)
 ・奥  宮--美穂須須美命
という。
 高座・金文両宮の祭神をホノニニギ・コノハナサクヤヒメとするのは、社蔵する江戸時代古文書(社伝縁起-1660、高座金文由来帳-1806)および須須神社鐘銘(1679)によるという(式内社調査報告)

 ただ、これよりやや早い能登国式内等旧社記(1653)には
 ・須須神社、式内一座、三崎郡寺家村鎮座、三崎権現と称す、祭神高倉彦神、故に高倉宮と称す。
 ・金文神社、寺家村鎮座、金文宮と称す、高倉彦神の后神也、故に両神三崎権現也。
 ・鈴嶽奥神社(現奥宮)、狼煙村山伏山鎮座、鈴奥大明神と称す、山伏山の本名須々御嶽、高倉金文両神霊の鎮座地也
とあり、高座・金文宮・奥宮の祭神は高倉彦神という(奥能登の研究)

 いずれも夫婦神を祀ることでは同じだが、記紀神話で、天皇家の遠祖であるホノニニギが能登の地に祀られる由縁はみえず、上記の三代実録神階授与記録にいう高倉彦神を祀る神社が高座宮であるとすれば、高座宮・金文宮本来の祭神は高倉彦神とその后で、17世紀中頃に祭神が変わったか、と思われる。

 この祭神変更について、珠洲市史が
 「記紀に見える中央の神々の名をとってその神社の祭神に名付け、神社の格付けを有利にしようとしたことによるもの、とみた方が無難な気がする」
というのは妥当な見解であろう(神社本来の祭神を記紀の神々へ変更したとみられる事例は多い)

 ただ、珠洲市史は高倉彦命は渡来系氏族・高倉氏の氏神と推測しているが、その確証はなく、一概に高倉彦命が当社本来の祭神と断定はできない。
 また、高倉氏あるいはその前身である高麗氏の系譜に高倉彦の名はみえず(ネット資料)、日本人名である高倉彦を渡来系氏族の氏神とすることには違和感があるが、高倉氏が日本社会に溶け込む中で、始祖・高倉朝臣福信を高倉彦と呼び変えた可能性はある。

*美穂須須美命
 奥宮の祭神・美穂須須美命は記紀にはみえないが、出雲国風土記・島根郡美保郷の条に、
  「オオナムチ命が高志(越・コシ-旧越前・越中・越後・能登・加賀国一帯)のヌナカワヒメ(越後国糸魚川付近の女神)を娶って産ませた神・御穂須須美神(ミホススミ)(大意)
という神(島根県・美保神社本来の祭神)があり、同じ“ミホススミ”と称することから同一神ではないかという。

 とすれば、奥宮の祭神・ミホススミは出雲系の神となるが、
 ・古代のオオナムチ信仰が遠く高志の国まで浸透していたこと
 ・出雲風土記にいう国曳き神話で、「高志(コシ)の都都の三崎を、国の余り有りと見れば、国の余り有り」と詔りたまひて・・・」とある“高志の都都の三崎”が当地(珠洲市三崎町、狼煙町の南)を指すとされること(講談社学術文庫版・出雲風土記注)
からみれば、出雲のオオナムチと越後のヌナカワヒメとの間に生まれた御子神・ミホススミを、出雲の美保神社とともに、越後国と出雲国の間にあたる当地にも祀ったことになり、さほどの違和感はない。

 なお、書紀・天智3年(664)条に、
  「この年、対馬・壱岐・筑紫国などに防人(サキモリ)と烽(ススミ・狼煙台)を置いた」
とあり、ここで“烽(狼煙台)”を“ススミ”と読ませている(講談社学術文庫版・日本書紀)
 これは朝鮮半島・白村江(ハクスキノエ)での敗戦(663)ののち唐・新羅軍の侵攻に備えて設けられたもので、当地でも、古代の山伏山には狼煙台があったといわれ(正史上の記録はない)、ほぼ同じ頃に北海防備のために設けられた可能性はある。

 烽(狼煙台)の古語がススミとすれば、祭神・ミホススミの“ススミ”は狼煙あるいは狼煙台を神格化したもの(ミホは美称)とも解され、この解釈が奥宮の祭神としては似つかわしいかもしれない。

※社殿
 海岸沿いに橋目県道28号線・バス停近くに一の鳥居、少し入って二の鳥居、そのすぐ先に三の鳥居が立つ。
 三の鳥居を入り樹木に挟まれた参道を進み石壇を登った上が境内で、正面に拝殿(入母屋造・唐破風千鳥破風を有する向拝付、平成19年能登半島地震で崩壊したものを再建したもの)、その奥玉垣に囲まれた中に本殿(三間社流造・銅板葺、これは崩壊しなかったらしい)が、それぞれ南面して鎮座する。

 境内一帯には原生林的な社叢がのこり、国指定の天然記念物(1975指定)となっている。

 
須須神社(高座宮)・三の鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿

 今回の高座宮参詣は、能登半島一周の観光ツアーの一部としてのもので、行程の関係から金文宮・奥宮は参詣していない。

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