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翁ということ

 2002年の新春に能・翁を鑑賞した。
 翁について、栞には
 『翁は「能にして能に非ず」といわれるとおり、能が大成する以前の古態を多く伝え、他の演目とは一線を画した独自のスタイルを保っている。そこには物語などはない。そこにあるものは「天下泰平・国土安穏」。平和と五穀豊穣を願う人間の素朴な祈りが、生きる力をみなぎらせ、魂を浄化する』
とある。

※太夫の登場
 ざわついていた場内が静まった頃、鏡の間(楽屋)から切り火の音がかすかに響いてきます。
 鏡の間では、祭壇に翁の面箱を祀り、お神酒や洗米を供え、鏡の間と舞台に向かって切り火を打ち浄め、列席する出演者一同がお神酒をいただくなどの浄めの祭儀を行われるという。
 出演の太夫が人からカミへと変身するための祭事といえる。

 橋掛かりの幕が揚がって、面箱持(メンバコモチ)を先頭に、翁(オキナ)・千歳(センザイ)・三番叟(サンバソウ)の太夫三人、地謡(ジウタイ)・囃子方(ハヤシカタ)・後見(コウケン)といった面々が列をなして橋掛かりから登場する。
 白州正子は、この行列について、『翁面は“ご神体”とされているもので、それを納める面箱は“神輿”であり、この行列は神輿渡御になぞらえたものだ』といっている(世阿弥・1963)
 (通常の能楽では、主人公であるシテ方は最初から面をつけて登場し、囃子方などは最初から所定の位置に座っているが、翁では異なり、それだけ神聖視された特別の演目ということを示唆している)

 今の翁では翁・千歳(稚児)・三番叟という組み合わせで登場するが、風姿花伝(1400頃・世阿弥)には
 『申楽(サルガク)の舞を奏すれば、国穏やかに、民静かに、寿命長遠なりと聖徳太子の御筆あらたなるよりて、村上天皇(946--67)、申楽をもて天下の御祈祷たるべしとて、六十六番の申楽を紫宸殿(シシンデン)にて仕る。・・・
 その後、六十六番までは一日に勤め難しとて、その中を選びて、稲積翁(イナツミ・翁)・代經翁(ヨナツミ・三番申楽)・父尉(チチノジョウ)、これ三つを定む。今の代の式三番(シキサンバン)これなり』
とあり、はじめは三人翁の舞だったという。

 今、これら三人の翁の性格について、はっきりしたことはわからないが、代継の翁と父の尉とは共に長寿をたもった父の子であって、この二代にわたる長寿の翁が、家門の繁栄と子孫の隆昌を寿ぐ舞を舞い、それに対して、稲積の翁は五穀豊穣と天下泰平を祈ったのではないかとの説がある(能勢朝次・能楽源流考)
 代継の翁と父の尉が親子であるとすると、父の尉が稚児へと変化するのも一理あることだが、そこに使われている面の表情からみて、これを疑問視する向きもあり、定説はないという。

 翁舞は能楽だけのものではなく、かつての田楽・猿楽でも舞われていたといわれ、その流れをくむ民俗芸能では、今もっていろんな形の翁が舞われ、中には、奈良津比古神社(奈良市奈良坂町)のように、依然として三人翁という古態を留めているものもある。 

 奈良津比古神社に残る由来譚によれば、『昔、業病に取り憑かれた皇子・田原太子が奈良の山中に閉塞した。
 その時、御子である浄人王・安貴王という兄弟は、父王の看病に努めるとともに、浄人王は顔に布を垂れ、安貴王は顔に墨を塗って市中を徘徊し、弓矢や薬草を売り、門ごとに歌舞を演じて生活の資を得た。
 これが次第に固定し、田原太子をかたどる父王面、浄人王の覆面姿を映した清男面、安貴王の黒塗りの姿を映した黒男面がうまれ、この三面を使って式三番の舞が演じられるようになった』という(民俗仮面前史・1976)

三人翁による式三番の舞
(神社案内から転写)


※翁と童子(稚児)
 この父尉から稚児への変化について、はじめは稚児(露払い)・翁・三番叟・父尉・延命冠者とあったものが、世阿弥(1363?--1443)の頃に父尉・延命冠者が脱落したとか、父尉・翁・三番叟に露払いとしての稚児が加わったために父尉が脱落したとか、諸説があるという。

 この翁と童子(稚児)との関係について、山折哲雄氏は、八幡神の示現を説く古い縁起のひとつに、
 『豊前国宇佐郡厩峯菱形池(ウマヤノミネヒシガタイケ)の畔に“鍛冶の翁”が顕れ、はなはだ奇異な姿をしていた。
 その地に住む神主・大神比義(オオガミノナミヨシ)が、3年にわたって穀断ちし、御幣を捧げて祈った後、「汝がもしカミならば姿を現すべし」といった。
 すると、くだんの鍛冶翁は、たちまち三歳の童子に姿を変じて「吾は第16代応神天皇なり。護国霊験威身大自在王菩薩なり」と託宣した』(扶桑略記・12世紀中葉)
というものがあり、ここでの八幡神は、はじめに翁の姿をとって顕れ、のちに童子に化身して自らの出自を名乗ったという事例をあげて、
 『ここでのカミは、はじめ翁に化身し、ついで童子に変化するというシャ-マニティックな転生の軌跡がある。
 そこでは、翁と童子はカミの発生母胎として等価の関係におかれており、またカミの憑依を誘う容器として日常の秩序感覚を越えている。いわば、翁はその老熟の極北を回路としてカミに近づき、童子もまた無垢の極限を生きてカミに迎え入れられている』
という(翁と童子・1982)

 この翁と童子との関係を描いたものに、『十牛図』(トギュウズ)という禅画がある。

 禅宗で、真の自己発見に至る道筋を“牛と牧人とのかかわり”のなかで説き、その各段階を10枚の画に描いたものだが、そのいわんとするところは難解で、解説書を読んでもよくわからない。
 その10枚目の画・『入廛垂手』(ニッテンスイシュ、町中に入って自由自在に救いの手を差し伸べる、いわゆる菩薩の境地をあらわすという)には、布袋さんのような悠然とした老僧と、それに向き合う童子の二人が描かれているのが普通で(右図)、そこに描かれているのは老僧と童子という二人だが、その実、この二人は同じ人物だと解されるという。

 また、禅画でよく見かける『寒山拾得』(カンザンジットク)に描かれた二人の僧も、老人・子供どちらともとれる風貌で、ここでも翁と童子が同居しているといえる。
 

 これらからいえることは、翁は完熟の境地であって、童子は無垢の状態にあり、完熟は無垢に通じる。つまり、老人が一歩踏み出せば子供に返るということを示す。
 また換言すれば、翁と童子は人生における終局と始原の姿であるにもかかわらず、始まりとか終わりという観念を越えた背中合わせの存在であり、カミにもっとも近い存在であるという意味で同体だと理解すべきという。


※翁が謡う
 能楽・翁は、まず翁役の太夫が舞台前面の中央で深々と一礼することから始まる。
 一礼の後、翁太夫は舞台右奥に着座し、直面(ヒタメン・面を着けない素顔)のまま、
  『とうとうたらり たらりら・・・』と呪文めいた謡を謡いだし、
  『鶴と亀との齢にて・・・(千年万年は鶴と亀との齢の長さ、そのような長寿をたもたれて・・・)
と長寿を寿ぐ壽詞(ヨゴト)を、地謡との掛け合いで謡う。


※千歳が舞う
 翁の謡が終わると千歳が舞い始める。
  『君が千歳(チトセ)を経んことは、天っ乙女の羽衣よ・・・(わが君が、千年の齢を経ることは、天っ乙女が羽衣で巌が磨りへるまで撫でることと同じ悠久の時間であって・・・)
と、これまた壽詞を詠じながら、摺り足で、またあるときは音を立てて床を踏みしめながら颯爽と舞い、その姿は若さに満ちあふれている。

 千歳の舞は、翁舞の露払いとしての性格をもつといわれ、ここで音を立てて床を力強く踏み舞う“反閇”(ヘンバイ)と呼ばれる足づかいは、大地の精霊を鎮めるための呪的な動作で、いわゆる“方固め”(ホウカタメ)であり、反閇を繰り返すことによって、舞台を祓い浄め、カミの示現を促す所作という。


※反閇という呪
 反閇とは、簡単にいえば、
  『力足を以て、悪霊・邪霊が頭をもたげることができないように、地下に踏み込み押さえつける』(折口・日本芸能史六牒・1944)
という呪的所作で、反閇という呪的行為によって人々の魂を鎮め、長寿と天下泰平を約束する所作ともいう。

 記紀にみる天岩屋戸神話に、天鈿女命(アメノウズメ)が天岩屋に隠れた天照大神を呼び戻すために、
  『天の岩屋戸の前に桶を伏せて、これを踏みとどろこし 神懸かりして舞った』
とあるが、ここで伏せた桶は大地の象徴であり、その桶を踏み鳴らすことは、その中に籠もっている魂を目覚めさせ、岩屋に籠もっているアマテラスの身体の中に送り返す、鎮魂の呪だという。
 しかし、そこで目覚める魂が悪霊・邪霊であっては困るわけで、大地に籠もっている魂を目覚めさせるとともに、悪霊・邪霊を押さえつけるということであり、ひいては、悪霊・邪霊を追い出し、且つ、外から悪霊が忍び込んでくることを防ぐ、といった行為であり、それらが相まって大地を浄めることになるという。

 これが“反閇の原義”であって、呪文を唱えながら、中央から四方に向かって反閇を踏みしめるという所作は、その場を浄めていくという意味で“方固め”ともいう。
 また、ある場所(舞台)で方固めの呪術としての反閇を踏むことは、単に、その場を浄め鎮めるのではなく、そこから発する呪的効果は、その回り・その邑・その地域・その国全体へ広がっていくと解されるという。


※翁が舞う
 千歳が舞っている間、翁太夫は舞台の上で翁の面(白式尉)を着ける。
 面を着けることで、太夫は人からカミへと変身するわけで、その際、両手で捧げ持った翁面を、じい-っと視線をこらす数秒間の仕草には、それが古来からの型とはいえ、精神を一点に集中して神の降臨を待つ厳粛な雰囲気が漂っている。

 千歳の舞と入れ替わるように、翁が舞い始める。この翁の舞を“神楽”(カミガク)、その謡を“神歌”(シンカ)と呼ぶ。

 両袖を大きく広げてゆったりと舞う姿は、動きのはやい千歳に比べておおらかで、緩やかに扇をかざし、袖を翻しながら摺り足で、時には軽く足拍子を踏みながら、壽詞(ヨゴト)を謡い、祝福の舞を舞っていく。

 翁の舞にはストーリーや特段の意味はなく、、
  『揚巻(アゲマキ)や どんどうや   そよやりちゃ どんとうや・・・』
といった呪文めいた囃子詞の合間に、幾つかの壽詞が断片的に聞こえるだけ。

 舞はどれほど続くか、10分か20分ほどだろうが、陶然と見とれている間にクライマックスに達し  『およそ千年の鶴は 万歳楽(マンゼイラク)と謡ふなり。 また万代の池の亀は 甲に三極を戴いたり。
  滝の水 冷々(レイレイ)と落ちて 夜の月あざやかに浮んだり。渚の砂 策々(サクサク)として朝の日の色を朗ず。 天下泰平 国土安穏の 今日のご祈祷なり』
  『千秋万歳 喜びの舞ひなれば 一舞舞うは万歳楽 万歳楽 万歳楽』
と、お祝いの壽詞とともに舞は終わる。
 舞終わって元の座に戻った翁は、面を元の面箱に納め、カミから人に戻って 千歳を従えて退場していく。

翁 舞
(能狂言鑑賞ガイドより転写)

 ここでの謡を意訳すれば、
 「そもそも、千年の齢をもつ鶴は万歳楽を舞っている。万代の齢を経た亀は、その甲羅に天・地・人の三極を載せている。
 滝の水は冷え冷えと落ち続け、夜の月は鮮やかに水面に浮かんでいる。波打ち際の砂は さらさらとして朝日を明るく反映している。それは天下泰平・国土安穏を願う、今日の祈りである」
となろうか。

 能楽は、申楽(猿楽・サルガク)・田楽(デンガク)・呪師芸(ズクゲイ)・延年舞(エンネンノマイ)・曲舞(クセマイ)・白拍子(シラビョウシ)・傀儡(クグツ)といった、平安末期から室町期にかけての諸芸能を吸収して成立したものという。 
 世阿弥はこれを申楽(サルガク)と呼び、花伝書では、その由来を“天の岩屋の前で天鈿女命が神がかりして舞ったこと”に求め、また
  『上宮太子(聖徳太子)、天下少し障(サワ)りありし時、神代・仏在所の吉例に任せて、六十六番の物まねを秦河勝(ハタノカワカツ)に仰せて、六十六番の面を御作して、即ち河勝に与え給ふ。橘の内裏・紫宸殿にて、これを勤す。天下治まり 国静かなり』
として、聖徳太子の命によって秦河勝が申楽を勤めたのがはじめという。
 通常、鈿女の舞を以て神楽(カグラ)の始まりというが、花伝書では、申楽も又その始まりを鈿女の舞に求め、太子が神楽の神の字の“ヘン”(ネ)を除いて申楽と名づけたとし、そこには“楽しみを申す”という意味も含まれているという。


※三番叟が舞う
 翁舞の余韻が漂う空間を、甲高い横笛の音が“ピィーッ”と切り裂き、それまで後方で控えていた太鼓が弾むような音を打ち出し、とともに三番叟が
  『おおさえ おおさえ おお 喜びありや・・・』
と謡ながら舞台中央に走り出てくる。

 三番叟の舞は前後二段にわかれ、前段が直面のまま舞う「揉(モミ)の段」、後段の黒い翁面(黒式尉)を着けて舞うのを「鈴の段という。

 三番叟の役どころについて、折口信夫は
 『“もどき”という言葉がある。その動詞形・“もどく”とは反対する・逆に出る・批判するなどという用語例をもつと考えられている。しかし古くは、もつと広いものだったようで、すくなくとも演芸史上では、物まねする・説明する・説き和らげるなどといった意味が加わっていることが明らかです。
 翁には、翁(白式尉)に対して今ひとつの黒尉(クロジョウ・黒式尉)が登場します。これを三番叟という処もあり、“しょうじっきり”という地もあります。
 これは大抵、翁の為事を平俗化し敷衍して説明するような段です。が、そこに特殊な演出をもっています。前者のいうところを意訳的に、ある事実に押し当てて説明する、という役回りです。翁よりは早間で滑稽で世話に砕けたところがあり、だいたいにみだりがましい傾向をもつものです。

 猿楽の先輩芸は田楽です。その田楽は“田遊び”から出ています。・・・後世、田楽といえば、舞うことと奇術・軽業様のものだけが記憶されるようになつていますが、田楽での主たるものは田楽能だったのです。
 そうして、その神事舞踏である田楽能の内容・意味を説明するのが脇役としての猿楽能です。・・・脇役は同時に二つの意味を兼ねています。“まじめ”なものに対する“おどけ”で、“まじめ”なものが能楽へ、“おどけ”なものが狂言“をかし”となっていったのです。
 “をかし”は、“をかしがらせる”ことをいうとするのが一般の解釈ですが、実は、他人の領域まで侵入する“犯し”があります。勿論これにも“からかい”の意味をもった用語例もあります。猿楽におけるこの役名には“もどき”と同様、説明役の義があったらしく、これに狂言の字をあてたのは、その言い立て・語りに“をかし味”があったからだと思います。
 
 こうしてみますと、狂言方からでた三番叟が、実は翁のもどき役、翁が神歌を謡いながら舞った神秘的な舞を、わかりやすく動作で説明する役、それが三番叟であるこちが知れましょう』
という(翁の発生・1928他)

 今の私たちは、狂言といえば能とは独立した別のシャンルで、能の幕間に演じられる“滑稽もの”というのか大方の理解だが、能・翁で最後に演じられる三番叟は、“翁の一部ではあるが翁でないもの”であって、滑稽な動作で、翁のもつ厳粛な雰囲気を和らげるとともに、翁の演技の説明を兼ねたものといえよう。

 三番叟の最初に、直面のまま演じられる“揉の段”は激しい舞で、舞台いっぱいに駆け巡り、踏みとどろかし、『ヤッ ハン ハッ」』という掛け声をかけながら跳躍し空中で足を交差させるなど、能の基本技法である“すり足”とは異なる技法をとって高々と跳躍する、そのリズムカルで躍動的な舞は、すべてが反閇であり方固めの呪であり、これを別名“烏とび”ともいう。

 初春にあたって反閇を踏むことは、大地の悪霊を鎮め、稔りをもたらす穀霊を呼び覚ますことであり、又大地を耕す所作だともいう。
 この揉の段の舞は、大地を揉みに揉む、揉むことによって豊穣を招来する、そんな祈りをこめた舞であり、それは千歳の舞の“もどき”だともいう。

 舞い終えた三番叟は、奥の後見席で黒い翁面(黒式尉)を着け、舞台中央で面箱持と二・三問答の上、面箱持から鈴を渡されて“鈴の段”に入る。

 “鈴の段”の舞は、揉の段に比べて穏やかなものだが、農耕儀礼という色彩をより強くもっているという。
 腰をかがめ、上半身を前屈みにして、チリッ チリッ チリッと鈴を振りながら舞うその所作は、まさしく種まきであり田植え・稲刈りの所作とも見える。

 舞が終わると、元の位置に戻って面を取り、鈴とともに面箱の上に置いて退場する。 


三番叟・揉の段 
 
同・鈴の段(前掲ガイドより転写)

 ただ、折口がいうように、三番叟が翁舞の“もどき”だとすれば、翁舞にも農耕にかかわる所作があるはずだが、翁舞にはそういった所作はなく、その謡にも五穀豊穣を直接的に示唆する所はないが、あえていえば、翁が軽く踏む反閇の所作や、天下泰平・国土安穏を祈る奥に、そこからもたらされる豊穣への祈りが隠れているということができる。

 以上が能・翁の粗筋だが、翁舞とは、一言でいえば、『おめでとうございます』という祝意を、より荘厳に、より真面目に奉る舞であって、
 ・まず 翁が謡い、次いで露払いの千歳が詠いながら反閇を踏む
 ・そして翁が出てきて、その家の主長に向かって祝詞を奉りつつ、天下泰平を祈る
 ・次いで、黒い翁が翁の祝詞や千歳の所作を、滑稽さを交えながら解き明かす
というのがおおまかな粗筋でしょうが、なにぶんにも初見のことなので、ただ呆然と見とれるばかりで、颯爽たる千歳・重厚な翁・躍動する三番叟という三者三様の姿に、時の過ぎゆくのを忘れさせてくれた一刻であった。


※仮面の系譜
 わが国の仮面がどのようにして生まれ(伝承し)、どのようにして現在にまで伝わったかは、不勉強でよくわからない。
 縄文時代も終わり頃の遺物のなかに、仮面をつけた土偶などがあることから、3000年以上の前から仮面が存在したともいえるが(それは呪術的な用途に使われた一種の呪具だったと推測される)、古墳時代になると姿を消していく。
 そんなわが国にふたたび仮面が姿をみせるのは7~8世紀頃という。まず伎楽面が、やや遅れて舞楽面が大陸から伝わり、次いで仏・菩薩のお練り行事で使われる行道面、節季にあたって悪鬼を追い払う追儺に用いる方相氏の仮面などが伝わったという。

 後藤俶氏は、その著・仮面(1988)のなかで、
 ・日本の仮面は、その種類が多様で、その機能も複雑だが、大別すれば二つに別けられる。
 ・一つは貴族・武士階級などによって育てられた仮面であり、他は庶民の間で育てられた仮面である。
 ・前者には、7・8世紀頃に伝来して、古代の芸能・主教行事・宮中行事などに使われた伎楽面・舞楽面・行道面・追儺面などの伝来仮面と、当時の政権を担った武士によって育てられた能面・狂言面があり、これらは美術的・芸術的香りが高く、
 ・後者は、庶民のなかから生まれた信仰色豊かな素朴な仮面で、これは民俗的・信仰的彩りが高いが、それにも悪魔祓い・雨乞いといった呪術信仰に用いられた面と、民俗芸能に使われた面という二系統があるという。

 この分類からみると、翁面は伎楽面・舞楽面の流れを引くともいえるが、能楽に先行するのが猿楽であったことからみると、民俗芸能の面も取りいれたともいえる。

 この翁面について、山折哲雄氏は、翁面の始まりは
 ・仏像の伝来に誘引されて造られた“神像”ではないか
 ・当時の正装に身を固めた貴人を移したと思われる男神像にみる面貌は、眉長く、まなじりが反り、口辺の皺は渋く、気むずかしい表情をたたえて、神厳にして畏怖的な気韻を周りに放っている
 ・そのような神像の伝承が、ひとつの完成された様式美にまで高められたのが能面ではないか
というが(仮面の誕生・1979)、翁面と神像の姿形は大きく異なっている。。


※翁の面
 翁面には、白い翁面(白式尉)・黒い翁面(黒式尉・三番叟の面)の2種があり、古くは父尉の面が加わっていた。


白い翁面(自作) 

黒い翁面(資料転写) 

父尉面(資料転写) 

[白い翁面(白式尉)]
 一般に翁面といえば白式尉を指すように、よく知られた翁面で、
 ・笑っているようにみえる“へ”の字に刳りぬかれた目元
 ・額から頬にかけて刻まれたおおらかな皺、頬骨辺りの豊かなふくらみ
 ・白色で円形のボウボウ眉、切り顎(下顎、翁面は顎が上下に切り分けられている)から垂れる長い白鬚
などが特徴で、そこにあるのは、すべてのものを包蔵する豊かさであり、完熟した老翁がもつ気品である。

[黒い翁面(黒式尉)](三番叟)
 それに対して“黒い翁面”は、目元や下顎の白鬚などは似ているが、眉毛や鼻下の鬚などは粗くて剛く、色が黒いということもあって、白い翁に比べて品位において劣り、野人的な泥臭さを発揮しており、滑稽味も感じさせる。

 翁面に白・黒の2面があることについて、折口信夫は
 『日本古代の神事演芸は、神と精霊との対立にその原点があった。シテ・ワキという二つの役柄はそこからできたものであるが、能楽の本領はそのワキ方にある。
 そうであるが故に、元々は翁も三番叟も黒い面を着けていたのではないか。古来の田祭りにおいて、遠来の神(マレビト)と田の精霊との間で取り交わされていた掛合問答が、猿楽能へと変貌している間に舞が主となって、問答の方が疎かになった。
 それにともない、マレビトとしての翁が神聖化・純化されて、元は黒面を着けていたものが白面を着けるようになり、そのもどき役である三番叟の方に黒面が残ったのではないか』
という。

 また三隅治雄氏は
 『翁には、白顔福相の翁・父の尉の仮面・黒顔の三番叟が対比的につくられたが、黒顔の方は、どこかに神業における陰の仮面という雰囲気が残っているようだ。・・・それに対して白式には、黒式の境涯をある程度克服した末に獲得した洗練さと優雅さとがそなわっている』
といい、かって素顔をあらわさなかったカミが翁の姿をとって顕れたのは、カミを祖霊と見、それを現世にある齢豊かな老人に見立てた感情が、
 『当初、黒く目立たずにつくられた仮面の上に顕れ、やがて白く優美な仮面の上に老翁の晴れがましい笑いとなって、くっきりと刻み込まれていった』
と折口と同じことをいっている。

[父の尉](チチノジョウ)
 翁面は、その色が白であれ黒であれ“尉”という大きなカテゴリーのなかに含まれる。
 尉とは「能で老翁をいう。また、その能面」とあることから(広辞苑)、老翁をあらわす翁面を尉と呼んでも間違いではなく、逆に、同じ老翁である父の尉面も翁面であるといえる。

 その父尉の面について、山折哲雄は、
 『白色と黒色の翁面に対して、父の尉は、その両眼の表情を中心として全く異なった手法でもって造られている。
 色彩・眉・上唇部の鬚の毛書きという点では共通だが、その両眼が約30度に釣り上がっているところが重要であり、下顎の鬚は短く翁のように長くはない。
 そこに笑いの表情が全くないともいえないが、それはむしろ慎重に抑制され、森厳な渋みが浮き出ているといってもいいであろう』
として、両眼が釣り上がったキツネ目をしているところに土偶との共通点をみいだし、この面は、同じ翁面の範疇にあるとはいえ、白・黒の翁面とは異なる系譜に連なるのではないかという。

[尉]
 能楽には、白黒の翁面とは別に、同じ老翁を示す面として“尉”(ジョウ)と呼ばれる一群の面があり、これらは同じ老人の貌(カオ)ではあるものの、翁面とは異なる雰囲気を漂わせている。
 尉面には、小牛尉(コウシジョウ)・石王尉(イシオウジョウ)・笑尉(ワライジョウ)など10数種の面があるが、その殆どが、眉間に八の字の皺が刻まれ、落ちくぼんだ目元は深い悲しみをたたえ、垂れた両頬もまた深く落ちくぼみ、口元は咆哮するかのように不気味に開いている。
 それは、神のもつ畏怖感・鬼神的な雰囲気をもつとともに、死に直面した老人の貌とも見ることができる。

 尉面は大きく3っに別けられる。神に近い尉(神の化身)・神と人の中間に位置する尉(老いたカミ)・人間としての老人の尉ともいえ、それぞれを代表する面が下の写真である。
 なお、神に近い尉を代表する小牛尉の面は、祝い事で舞われる“高砂”(タカサゴ)に登場する翁の面として使われることが多い。

 
小牛尉(資料転写)
 
石王尉(同左)
 
笑 尉(同左)

 翁面について、世阿弥の女婿で金春流を中興したといわれる金春禅竹(1405--70?)は、その著・明宿集(伝・1465)のなかで
 『当座では鬼面を安置している。この鬼面は聖徳太子の御作である。秦河勝に猿楽の技を仰せつけられたとき、河勝にくださったものである。
 これは翁が示すひとつの側面を表現している。諸天・善神や仏・菩薩にはじまって人間に至るまで、柔和と憤怒の二つの形がある。これは善悪という二つの相もひとつであることを表現する形である。
 その為、愚かな衆生を調伏するときには、夜叉・鬼神としてあらわれるが、柔和・忍辱・慈悲をあらわすときには、その表情は荘厳にして、本有如来の神秘的な姿で示される。したがって憤怒と柔和は一体であり、それぞれの現れに対して与えられた異名にほかならない』(中沢新一訳・精霊の王2003)
という。

 これによれば、もともとの翁は、にこやかな表情の守護神であると同時に怖い祟り神でもあって、その福々しい顔の裏に鬼性を内在するが故に、その面貌にも鬼神的な影が潜んでいるのであって、カミのもつ慈悲の相と忿怒の相とが同居しているのだという。

 とすれば、カミのもつ暖かさ・豊かさを表に出したのが翁面であり、カミの祟りなす恐ろしさを強調するのが尉面である、あるいは、より人間に近い老人を表すのが翁面であり、神に近い老人のそれが尉面であるともいえる。

 この柔和な表情をもつ翁面と、奥に忿怒を秘めた尉面という二つの面は、二つの流れと見るべきかというと、それは、カミのもつ慈悲と祟りという神格を、それぞれに分かちもつということであって、たとえカミの慈悲を具有する翁といえども、ひとたび鬼霊や祟り神が憑依したならば、たちまちにして怖ろしい鬼性を秘める尉へと変身する、いいかえれば聖的世界と魔的世界という二面性をもっているということで、翁・尉何れの面も、その依ってくる出自は一つと解することもできる。

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