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鵺 塚
大阪市都島区都島本通3-18
                                                        2020.09.02訪問

 大坂メトロ谷町線・都島駅の南約250m、都島本通交差点から大通りを南下、3っめの辻を東へ入った市街地の中、都島小学校の西・2ブロック目の南東角に位置する。

 鵺塚は“ヌエツカ”と読む。

 

附近見取り図

 境内に立つ案内には、
 「史跡 鵺塚
 近衛天皇の仁平3年(1153・平安後期)、京の御所・紫宸殿に夜毎『鵺』(ヌエ)という怪獣が現れ、帝を悩ませていました。
 侍臣の源三位頼政が矢で射落としたところ、この鵺は頭がサル、胴がタヌキ、四肢がトラ、尾がヘビの姿をしていました。
 これを丸木舟にのせて淀川に流したところ、当時湿地帯であったこの地に漂着しました。
 祟り(タタリ)を恐れた村人たちは、土に埋め祠(ホコラ)を建てて『鵺塚』と呼び、ねんごろに祀ったと伝えられています。
 現在の塚は、明治の初め大阪府が改修したもので、祠も昭和32年(1957)に地元の人々によって改修されました」
とある。

 所謂、源頼政の鵺退治の後日談で、頼政に射殺され淀川に流された鵺の亡骸が当地に漂着したので、祟りを恐れて当地に葬ったのが当鵺塚だという。

 頼政の鵺退治について、平家物語(巻4・鵺)に、
 「日ごろの人の申せしに違わず、御悩の刻限に及び、東三条の森の方より黒雲一村立来て、御殿の上にたなびいたり。
 頼政きっとみあげたれば、雲のなかに怪しき物の姿あり。
 頼政、矢とって番え、南無八幡大菩薩と心のうちに祈念して、よっぴいてひゃうと射る。手応へしてはたと当たる。
 郎等・井の早太つっとより、落つるところをとって押さへて、つづけざまに刀で刺したりける。
 上下手に手に火を点してみるに、頭は猿、むくろ(胴体)は狸、尾はくちなは(蛇)、手足は虎の姿なり。鳴く声鵼(ヌエ・トラツグミとされる)にぞ似たりける。おそろしなどもおろか也。
 主上御感のあまりに、師子王といふ御劔をくだされけり。(中略)
 さて、かの変化の物をば、うつぼ舟(空舟)にいれて流されけるとぞ聞こえし」
とある。(日本古典文学大系・1959) ただ、此処では鵺という名はでていない。

 ただ、平家物語同条には
 「応保の頃、二条院在位の時(1158--65)、鵺という怪鳥が禁中に鳴いて屡々宸襟を悩ますことかあったので、先例をもって頼政を召して鵺を射殺させた」(大意)
として(此処では「鵺という怪鳥」とあるが、その姿についての記述はない)、頼政の鵺退治は2度にわたって行われたという。

 毎夜天皇を悩ます黒雲が湧き出たという東三条の森とは、現京都市東山区長光町に鎮座する大将軍神社の辺りといわれ、同神社の案内(京都市掲示・ネット)には、
 「樹齢800年といわれる銀杏の大樹があり、かつては鵺の森とも呼ばれ、頼政の鵺退治の伝説を偲ばせる」
とある。

 鵺退治の主人公・源頼政(1104--80)とは源氏の一族だが、保元・平治の乱以降も、その勝者である平家政権のなかにあって、唯一源氏の長老として中央政界に留まり、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した(和歌により三位昇段を願い出、認められたという伝承がある)

 しかし平家専横への不満が高まるなか、後白河法皇の皇子・以仁王を奉じての挙兵計画が露見し、準備不足のままでの挙兵を余儀なくされ、平家の追討をうけ宇治の平等院の戦いに敗れ自害している。
 平等院には、「扇の芝」と称する扇形の一画があり、頼政自刃の場という。

 

平等院・扇の芝


 この鵺塚は古来から著名だったようで、古資料として
*蘆分舟
 「澤上江(カスガエ、滓上江とも記す)といふ所に至れば、後白河法皇の御母の為に御建立ありける母恩寺(ホオンジ)といふ尼寺あり。
 此所より北東の野中に鵺塚といふあり、是近衛院御在位の時・仁平の頃、主上よなよな御脳あり。得験の僧侶に仰せて大法を修せらるるといへども其の験し更になかりけるを、公卿詮議ありて、変化のものの業なるべしとして、源平両家の武士を選ばせ給ふなかに、兵庫守頼政に仰せられ射とめし鵺をうつぼ舟に押し入れ、淀川に流し給ふとなり。
 其の鵺此のところの浮洲に流れとまり朽ける所なりとて人鵺塚といへり」

*摂津名所図会
 「滓上江村(カスガエムラ)より五六町東にあり。
 土人云ふ、むかし源頼政が射留し怪鳥うつぼ舟にのせて淀川に流す。
 遂に此渚に止る。里人これを土中に蔵めて鵺塚と呼ぶ。
 又菟原郡芦屋里にも同名あり。何れも論ずるにたらず」
などがある。


 なお、鵺塚と称する石碑が兵庫県芦屋市(浜芦屋町5・芦屋公園内、芦屋川河口の少し上流)にもあり、その案内には
 「(前略)その死骸をうつぼ舟にのせて桂河に流したところ、遠く大阪湾へ流され、芦屋の浜辺に漂着した。
 浦人たちは恐れおののき、芦屋川の畔に葬り立派な墓をつくった」
とあり、『ぬえ塚』と刻した石碑が立つという。(未見)

 この芦屋の鵺塚について、
*摂陽群談(1916)には
 「菟原郡芦屋・住吉両川河の間にあり。俗伝に云、近衛院御宇仁平3年、源三位頼政公の矢に射落とされし化鳥、うつぼ舟に入て西海に流す。此浦に流れ寄りて留まること暫しあり。
 浦人之を取り、是に埋み、鵺塚と成し傍に就て祀祭の所伝たり。
 亦東生り郡滓上江村に鵺塚あり。芦屋浦に鵺を取りて之を埋む、其の柯(カ、枝・柄)を捨て海に流す、潮逆上して滓上江に寄り、之を拾い以て鵺塚と成すという一説あり。
 芦屋浦には北岡に叢祠在りて鵺之社と号祭す。
 東西遙か隔て同じ号あり、その証・所縁不祥」
とあり、都島区の鵺塚は芦屋から再び流されたのが漂着したのとの説があるという。


 この物語を主題としたものに謡曲・鵺があり(世阿弥作)、その粗筋は
 ・旅の僧が摂津国芦屋須崎に来て、夜毎に化け物が出るという小堂を一夜の宿とした。
 ・夜になると、異様な姿をした舟人が空舟(ウツボブネ)に乗って現れ、鵺の亡霊であることを明かし、近衛帝を苦しめた罪で源頼政に射落とされた過去を語り、供養を頼んで暗闇に姿を消す。
 ・やがて、読経する僧の前に鵺の亡霊、頭は猿、尾は蛇、手足は虎、声は鵺(トラツグミ)に似るという恐ろしい妖怪が波間から現れて頼政の矢先にかかったことをかたり、
 ・吾を退治した頼政は獅子丸という剣を帝から拝領したが、吾は、空舟に押し込められて淀川に流され芦屋の浦に流れ留まったとして
 ・「朽ちながら うつぼ舟の 月日も見えず冥きより 冥き道にぞ入りにける
  遙かに照らせ 山の端の 遙かに照らせ山の端の 月と共に 海月も入りにけり 海月と共に入りにけり」
と謡ながら消えていった。
とあり(大略)、舞台は芦屋となっている。


 平家物語にいう鵺(鵼)は頭は猿・手足は虎・尾は蛇という奇っ怪な怪物だが、その正体はスズメ目ツグミ科の小鳥・トラツグミともいう
 トラツグミは体長30cmほどの小鳥で全身茶褐色のなかに黒い横斑のついた羽根をもち、夜から早朝にかけて「ヒョー・ヒョー」と不気味な声で鳴くという。

 この夜行性てあること鳴き声が不気味であることから、鵺の正体はトラツグミとしたらしいが、架空の怪物を現世の生き物に当てて云々する要はあるまい。 

 
(木曾街道・錦絵より)

トラツグミ

 都島本通3-18街区の東南角、低い石垣を積んだ上に南面して鎮座する。
 境内中央に簡単な小堂があり、その背後少し離れて、四重の台石の上に、三角形の自然石に「鵺塚」と刻した石碑が立つ(石碑面が傷ついていて近寄らないと読めない)

 境内左手に「鵺塚」と刻した標柱と案内表示板が立つ。

 小堂内は花などが供えられた拝所となっており、境内も綺麗で、地元住民によって守られているとみえる。


鵺塚・全景 

同・正面 

同・側面
 
鵺 塚
 
同・塚石
 
同・標柱

 境内の右手前に、鵺をモチーフにした「大阪港紋章」の案内板が立ち、
 「紋章  青の地。チーフ(楯の上部)には金色の大阪港のマーク。
       ベース(楯の下部)には、銀の波の上に2本のマストで帆を張り、赤い旗をなびかせた古代日本船。
       これにはさまれた金のフェス(横帯)の上に、2枚・3枚・2枚とならんだ7枚の緑色の銀杏の葉。

 冠部  金色と赤色のリースの上に、大阪市庁舎の“みおつくしの鐘”。

 サポーター  両側に“ぬえ”。近衛天皇(1139--55)の時、源頼政が宮中で射殺したといわれる怪獣。
          頭はサル、胴はシシ、尾は蛇、手足はトラ、声はトラツグミに似ていたといれる。

 標語  名声と進歩」
とある(平家物語では“胴はタヌキ”とあるが、紋章では“シシに変わっている)。  

 
大阪港紋章・案内板
   大阪港紋章

 この紋章について、大阪市HP(大阪港のあらまし)には
 「大阪港紋章は、1980年(昭和55年)、フランスのル・アーブル港と姉妹港提携を調印するにあたり、記念に交換する楯やオリジナル記念品のデザインに活用する目的で、大阪港を最も印象づけるのに相応しい図案として誕生しました。
 この紋章ができるまでは、大阪市の市章『みおつくし』と船の錨を組み合わせたデザインを単なるマークとして使用していました。
 しかしながら、大阪港の国際交流が活発になるにつれて海外諸港との姉妹港提携など交流事業を進めていくうち、『強く大阪港を印象づけるもの』の必要性に迫られるようになりました。
 ちょうどその頃、初めて本格的な研究著書として世に出された“ヨーロッパの紋章”森護著(三省堂)に出会い、著者である森氏の全面的なご支援を得て、半年にわたるご指導と監修のもと、ようやく完成に至りました。
 この図案は、西洋の“紋章作成上のルール"に基づき、日本で作られたものの中でも勝れた紋章の一つとして後に高く評価され、独自性とあいまって大阪港の紋章は今も燦然と輝いています」
とある。

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