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大避神社(赤穂)改訂
兵庫県赤穂市坂越
祭神--大避大明神(秦河勝)・天照皇大神・春日大神
                                                              2010.01.27参詣

 忠臣蔵の町・赤穂市の東部に位置する古い町・坂越(サコシ)の海辺に鎮座する古社。
 JR赤穂線・坂越駅(サゴシ、播州赤穂駅の一つ手前)から東南方へ直進、千種川に架かる坂越橋を渡って左折して(国道250号線)次の信号を右折、綺麗に整備された石畳の道・坂越大道を抜けると坂越湾が開け、目の前に生島(イクシマ・後述)が見える。
 その角にある旧坂越浦会所前を左折、海沿いの道を少し行った左手の山麓に鎮座する。
 社名は「オオサケ」と読む。
 今の坂越は“サコシ”と呼ばれているが、本来の呼称は“シャクシ(又はシャクジ)”で、尺師・釈師(いずれもシャクシ)と記す。


坂越の町・絵地図(部分)

大避神社・参道入口と町並み

※由緒
 頂いた参詣の栞によれば、
 「ご祭神・秦河勝公(ハタカワカツ)は、中国より渡来した秦氏の子孫で、氏長者として数朝に仕え、特に聖徳太子に寵任された。
 河勝公は、会計制度を起こし、外国使節来朝の際の接待役など多くの功績を残され、太子より仏像を賜り太秦の広隆寺を建立された事は有名である。
 また、神楽を創作制定され、今日では猿楽の祖、あるいは能楽の祖として崇められている。
 河勝公は、皇極3年(644)に、太子亡きあとの蘇我入鹿の迫害をさけ、海路をたよって此々坂越浦にお着きになられ。千種側流域の開拓を推め、大化3年(647)に八十余歳で薨じられた。
 河勝公の御霊は神仙と化し、村人が朝廷に願い出て祠を築き祭ったのが、大避神社の創建と伝えられている」
とあり、
 江戸中期の古書・播磨鏡(1762)には、
 「秦河勝がこの地で没したので、河勝の霊と秦氏の祖・酒公を祀り、社名を“大荒”・“大酒”と称したが、治歴4年(1068)に“大避”に改めた」
という。

 これは、猿楽(今の能楽)を大成したといわれる世阿弥(1363--1443?)の著・風姿花伝(1400頃)によるものと思われ、風姿花伝・神儀篇は次のようにいう。
 「猿楽の起源は、欽明天皇の御代、大和国泊瀬川(ハツセガワ)で洪水があった時に、川上から一つの壺が流れ下った。三輪の神杉の鳥居のあたりで、殿上人がこの壺を拾った。中に嬰児がいた。容貌は優しく玉のごとく美しい子供であった。これは天から降ってきた人であるというので、朝廷に奏上した。
 その夜、帝の御夢にこの子供が現れて、『私は中国は秦の始皇帝の生まれ変わりである。日本に縁があって今現れたのである』と云った。帝は不思議なことと思われ、殿上にお召しになった。成人すると、学才が人に優れていたので、わずか十五歳で大臣の位に昇り、帝より秦という姓が下された。秦の河勝(ハダノカワカツ)がこの人である。

 上宮太子(聖徳太子)は、世の中が少し乱れた時、橘の内裏において猿楽舞を舞うことによって、天下太平が実現されるであろうとお考えになり、神代やインドの目出度い例に従い、六十六番の物まねを河勝に命じられ、六十六番申楽(サルガク)用の面を自らお作りになって河勝にお与えになり、河勝は紫宸殿において翁の舞を舞ひ納めた。その結果、世の中は治まり国々も平穏になった。太子は、神楽の神という文字の偏を除けて旁(ツクリ)を残して申とし、申楽(サルガク)と名付けられた。

 この河勝は、欽明・敏達・用命・崇峻・推古の五帝と上宮太子とにお仕えし、この芸を子孫に伝え、化生の人(ケショウノヒト・神仙)は痕跡を留めないという言葉通りに、摂津国の難波江より空舟(ウツボフネ、密閉され且つ中が空洞の舟)に乗って西海(瀬戸内海)に出、風のまにまに播磨国の坂越(シャクシの浦に漂着した。
 浦人が舟を浜に上げて中を見ると、たちまち化して神となり、多くの人々に憑きたたったので、『大いに荒れる』・大荒(タイクワウ)大明神と名付けてこれを祀ると、国中が豊かになり世の中は平穏になった。この神は今の世に至るまで霊験あらたかである。本地は毘沙門天であらせられる」(竹本幹夫訳・一部改訳、風姿花伝・三道・2009、以下同じ)

 また、世阿弥亡き後の猿楽興隆に尽くした金春禅竹(1405--70、世阿弥の女婿)は、その著・明宿集(室町中期・1465頃か)において、
 「(秦河勝は)猿楽の技を子孫に伝えたあと、現世に背を向けて、空船に乗り込んで西方の海上を漂流され、播磨の国の那波にある尺師(シャクシ=坂越)の浦に打ち寄せられた。
 漁師たちが舟を陸に上げてみると、たちまち化して神となった。あたり一帯遠くの村々にまで憑いて祟りをおこなったので、大いに荒れる神と呼ばれた。すなわち大荒神(オオサケの神)となられたのである。大荒神とは母の胎内の胎児を包む胞衣(エナ)の象徴であり、翁のまとう襅(チハヤ)の袖と呼ばれるものに符合している。胞衣は荒神であるので、この対応は正しい。
 そののち坂越(シャクシ)の浦に神社をつくってお祀りすることになった。また、播磨国赤穂郡上郡(山の里)の諸処に勧請され、おびただしい神社が建てられて、西海道の守り神となったのである。
 そのあたりの人々は、当社を猿楽の宮とも、宿神(シュクシン)とも申し上げる。これをもってしても、秦河勝は翁であり宿神であったことを知らなければならない」(中沢新一訳、精霊の王・2003、以下同じ)
と記している(明宿集には、河勝に対する禅竹の念いが論理性など度外視して記されているが、その中で「秦河勝は翁の化身であり宿神である」との念いは一貫している)

◎秦河勝
 当社祭神・秦河勝は、渡来系氏族の雄・秦氏の長者として聖徳太子に仕え、その財力・技術力ともあいまって太子の有力な側近だったといわれるが、書紀には
 ・推古天皇11年(603)-- 太子より弥勒菩薩半跏像を賜り、蜂岡寺(京都太秦、現広隆寺)を建立
 ・  同   18年(610)--新羅の使者来朝の時、土師連兎とともに導者に任じられた
 ・皇極天皇3年(644)--駿河国富士川の周辺で、大生部多(オオフベノオオ)が常世神信仰を広めたとき、民を惑わすものとして、これを打ちこらした
とあるのみで、その生没年・場所などの詳細は記されていないが、伝承としては
 ・用明天皇2年(587)--物部守屋の討伐戦に太子とともに従軍し、太子が射た矢に当たって倒れた守屋の首を斬った、
などがある。

秦河勝像(資料転写)

 上記由緒は、いずれも、河勝が太子の死後におこった蘇我入鹿による太子の皇子・山背大兄王一族殺害(643)ののち、入鹿からの迫害が我が身に及ぶのを恐れて当地に逃避、死後、神として祀られたというが、風姿花伝によれば、
 河勝は、中空の壺の中から童子としてこの世に現れ、去って行くときも密閉されたウツボ船に封じ込められて海上に消えている。密封された中空の器という点では壺もウツボ船も同じといえる。

 ウツボ船について、折口信夫は
 ・ウツボ船は、中が中空になっているものです
 ・ウツボのウツは、空っぽという意味で、ホは神の心を示すものとして現れくるシルシ、即ち神の兆しです
 ・そこからウツボ船とは、中が中空な器状の舟ということになります
 ・ウツといえば、空と思っていますが、実は空ではなく、ほんとうは充実している時が、ウツらしく思われます
 ・つまり、魂(神)の這入るべき空洞を有したもの、と考えることができます
として、ウツである器とは、中が空っぽであるとともに、神が充ち満ちたものだという(石に出て入るもの・1932、大意)

 これからいうと、河勝は、ウツなる壺に入って流れ下り、神の化身である童子としてこの世に現れて聖徳太子の政(マツリゴト)を助け、去るときはウツボ船に乗って西海に浮かび、漂着した坂越の浦で神として再誕したということができ、それを、猿楽に堪能な禅竹は、河勝は翁であり宿神であったと記したと思われる。

 管見した史料によれば、8世紀から9世紀にかけての播磨国坂越・赤穂郷一帯の資料に秦氏一族の名が見えることから、現実の話として、河勝が入鹿の迫害を避けたのだとすれば、その逃避先が、秦一族が居住していた当地の辺りであった可能性は強いという。
 また、オオサケの“サケ”が“遠ざける”・“辺境”を意味する(柳田国男)ことから、古くから当地に住み着いていた秦一族が、都から遠いこの地を守護する“辺境の神”として、秦一族の祖・河勝を祀ったのではないか、ともいう(今も、赤穂市を中心に、30社ほどの当社の分社祠があるという)

 当社の眼前に見える生島(イキシマ、後述)に河勝の墓があるというが、他にも、京都市西京極あるいは大阪府寝屋川市にも河勝の墓と称する遺構がある。
 なお表記は異なるが、同じオオサケを名乗る神社として、京都・太秦の広隆寺のすぐ脇に秦氏一族の創祀といわれる大酒神社がある(別項・「大酒神社」参照)

[追記]
 太秦の大酒神社と当社との関係について、谷川健一氏は、
 「秦河勝を祀るといわれている大酒(大避)神社は広隆寺の守護神の役割をもっており、実は地主神にほかならなかった。地主神は敬意を払わないときは障礙神として妨碍する恐ろしい神であった。この場合秦河勝は宿神であり、大避神社の地主神としての摩多羅神(マタラカミ)と一体化した“大荒神”であったと考えることができる。
 宿神(シュクシン)は在来の土地の神として荒神の側面を備えている。荒神は外来の悪霊の侵入を防ぐとともに、自分の占める土地を主張し、自分を恭敬しないものに対しては敵対者、すなわち障礙神としてふるまう。・・・
 播磨の坂越にある大避神社は太秦の大酒神社を勧請したもので、そうだとすれば、風姿花伝や明宿集に、播磨で不慮の死を遂げた秦河勝の霊が見境なく人に取り憑いて大いに荒れたとあるのも、障礙神としての宿神の仕業かもしれない」
として、当社祭神の秦河勝が当地に顕現したとき、大いに荒れて人に憑き祟ったのは、河勝が宿神すなわち荒神であるためという。

※社殿等
 海岸通りから参道に入ってすぐに鳥居が立ち、参道を進み石段を登った上に随神門が建ち、境内に入る。
 ・随神門--神仏習合時代の仁王門で延享年間(1744--48)の建物。
          表側に随神像(右大臣・左大臣)が、裏側背中合わせに仁王像が立つという珍しい形で、神仏習合時代の名残をとどめている。
 ・拝殿--唐風破風を備えた豪華な2層建建物で、延享3年(1746)再建という。拝殿両翼には絵馬殿が延びている。
 ・本殿--入母屋造の社殿らしいが、高塀・樹木に遮られてよく見えない。明和6年(1777)再建という。


大避神社・鳥居

同・参道と社標

同・石段と随神門

同・拝殿(左は絵馬殿)
 
同・拝殿(正面)

同・本殿

※絵馬殿
 拝殿の左右に延びる絵馬殿には、奉献された十数面の絵馬とともに祭礼船の模型などが飾られ、脇には、船渡御祭(国指定無形民俗文化財)に使用した“楽船”(県指定有形民俗文化財・L=7.85m・W=3.15m・唯一屋形を持つ祭礼船)が保存され、その屋形前の案内には、
 「兵庫県有形民俗文化財 祭礼用和船 楽船
   全長:7.85m、幅:2.1m、深さ:0.60m
  この船は国選択無形民俗文化財『船渡御祭』に使用されたもので、楽人が乗って雅楽を奏した。現在では復元船が使用されている。祭礼船12隻の中で、この船だけが屋形を持つ。
  渡御に際しては、内部に2畳を敷き、幟を吹き流し、幕と艫暖簾・提灯で偽装される。(以下略)
とある。
 絵馬は、17世紀後半以降、当地が回船業で栄えたことから、帆かけ船(最古:明和年間-1764--72)や祭礼船(伝馬船)を描いたものが多いが、中には猿楽(能楽)・舞楽に関係するものが見られる。


船絵馬

同左

祭礼船(伝馬船)・模型

祭礼用楽船(復元船)

◎秦河勝と猿楽(今の能楽)
 奉納された絵馬の中に、能の翁面に舞扇・鈴を組み合わせ描いた額がある(下左写真)。これは、当社祭神・秦河勝が猿楽の祖とされることからのもので、風姿花伝には
 「今(室町時代)、世間の人々が賞翫する芸(猿楽→後の能楽)は、推古天皇の御代、聖徳太子が秦の河勝に命じられて、一つには天下泰平の祈りのため、一つには人々の娯楽のために、六十六番の芸能を制作してこれを申楽(猿楽)と名づけられたのが始まりで、その時、太子は手作りした六十六番の面を河勝に与えた。その後、河勝の遠い子孫が、この申楽の芸を相伝した」(大意)
とあり、太子が秦河勝に演じさせた芸が猿楽の始まりという。
 これが、当社が古く猿楽の宮・宿神とも呼ばれ(明宿集)、今、芸能・特に能楽関係の絵馬が奉献される由緒である。
 しかし正史にみる秦河勝に、芸能・音楽についての事蹟は何ら見えず、これらの伝承は猿楽衆が伝える伝承であろう。

 
能・翁面の絵馬
(文久2年-1862-奉納)
 
能・翁面
(参考・筆者柞)

 当社に伝承する古面について、古資料・播磨鏡には
 「その舞面一つ、猿田面一つ、社内に蔵すも、神威を畏れて拝見する人なし。元禄の頃、在僧観了法印拝見す。翁の面なり。頗る毀敗に及ぶと云う」
とあり、また別の資料では、
 「仮面は能面ではなく、舞楽面の蘭陵王と覚しい怪奇な相貌の面」
ともいう。
 推測するところ、能の翁面と、舞楽の蘭陵王に似た面(右の写真・鼻高であることから、播磨鏡では猿田面と記すのだろう)の二面らしい。

 明宿集によれば、
 「翁に対して、当座(円満井座・エンマルイザ、今の金春座)では鬼面を安置している。この鬼面は聖徳太子の御作品で、秦河勝に猿楽の技を仰せつけられたとき、河勝に下さったものである。
 これは翁の示す一つの側面を表現している。諸天・善神や仏・菩薩からはじまって人間に至るまで、柔和と憤怒の二つの形がある。これは善悪という二つの相の一つであることを表現する形である。
 そのため、愚かな衆生を調伏するために怒りの表情を示すときには、夜叉・鬼神の形となって現れるが、柔和・忍辱・慈悲の姿を表すときときには、その表情は荘厳にして、本有如来の審美的なお姿を示される。
 したがって憤怒と柔和とは一体であり、それぞれの現れに対して与えられる異名にほかならない」
とある。

 当社に伝来するという翁面と舞楽面(猿田面)は、明宿集にいう太子作の翁面・鬼面の2面で、蘭陵王に似た舞楽面とは鬼面を指すと思われる。

 また、絵馬のなかには舞楽・蘭陵王(ランリョウオウ)を描いたとおぼしきもの(平成10年奉納)があり、奉納者は“楽祖秦河勝後裔 元宮内省式部職楽部 誰某”とある。
 明宿集に、
 「秦河勝には3人の子があったが、一人は武士となり、一人は楽人となり、もう一人は猿楽者となって、それぞれの伝統を伝えた。
 武芸を伝承した子孫は今の大和長谷川党の人々である。楽人の技芸を伝えた子孫は、仏法最初の寺である四天王寺に依って百二十調の舞を舞いはじめた人々である。そして猿楽を伝えた直系子孫が、我々円満井座の金春大夫である。・・・」
とあり、舞楽集団に属した家系の後裔が奉納したのが、この絵馬で、当社所蔵の舞楽面に因むものであろう。

 
鬼面(舞楽面・蘭綾王?)
(資料転写)
   
奉納絵馬・蘭綾王?

 境内には、末社として新宮以下6社が建つが、ほとんどが近傍各地からの勧請という。
 ・新宮--聖徳太子・住吉大神・金比羅大神・海神社
 ・天満神社--菅原道真--元天神山に鎮座
 ・恵美須神社--蛭子神--元本町海岸に鎮座
 ・荒神社--竈神--元東ノ町に鎮座
 ・淡島神社--淡島大神--和歌山県加太より勧請
 ・稲荷神社

※生島(イキシマ)
 坂越湾の真ん中に位置する小島(周囲2km余り)。秦河勝が“生きて漂着した島”であることから“イキシマ”と呼ばれる。
 全島原始林に覆われた島は神地として崇められ、樹木を伐ることは勿論、上陸することも禁止され畏怖されているという。
 毎年10月第2日曜日の神幸祭(坂越の船まつり--国指定無形民俗文化財)には、生島の御旅所に向けて、神輿を乗せた船を中心に和船12艘による海上渡御がおこなわれる。
 島内西側(陸地から向かって右側)に河勝の墓・神水井戸があり、石鳥居が立つ東側の浜には白壁に囲まれた御旅所と祭礼船の船倉(格納庫)がある。


生島(建物:御旅所)

生島・遠望

付記
◎妙見山観音堂
 大避神社左手の裏参道(舗装道)を登った山腹にある観音堂。
 神仏習合時代、大避神社の神宮寺だった寺で、明治初年の神仏分離によって分離されたという。
 社頭に示す説明によれば、当寺は赤穂郡観音三十三ヶ所の一つで、安永6年(1777)3月に御霊体を安置し、住民は“孫子にいたるまで信仰すると誓った”とある。
 今、如意輪観音・六観音・弘法大師を祀っているらしい。

妙見山観音堂

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