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大酒神社(京都・右京区)
京都市右京区太秦蜂岡町
祭神−−秦始皇帝・弓月王・秦酒公
   相殿−−兄媛命・弟媛命
(呉織女・漢織女)
                                                             2010.01.18参詣

 延喜式神名帳に、「山城国葛野郡 大酒神社 元名大辟神」とある式内社で、古く、大辟神社とも記し、いずれもオオサケと訓む。

 京都に残る唯一の路面電車・京福電車嵐山本線(通称・嵐電)の太秦広隆寺駅前下車、広隆寺山門前を白壁に沿って右へ、道路(県道131号線)沿いに数十米進んだ左手に鎮座する。
 道路脇に東面して鳥居が立ち、周りを疎林に囲まれた境内には、一間社流造の社殿一棟が南面して建つのみ。式内社調査報告(1979)によれば、境内社として“三神の社”(祭神:ニニギ尊)他3社があるというが、今の境内には、それらしき社祠は皆無。
 鳥井脇に立つ石標の正面には「太秦明神 呉織神 漢織神」、側面には「蠶養機織管弦楽舞之祖神」とある(蠶は蚕の古字)
 古く、広隆寺内にある桂宮院の鎮守として御堂の背後にあったが、明治初年の神仏分離によって現在地に遷ったという。

大酒神社・鳥居
大酒神社・鳥居
大酒神社・社殿
同・社殿
大酒神社/社頭の石標
社頭に立つ石標
 

※祭神
 祭神三柱について、鳥居の脇に立つ由緒によれば、
 「仲哀天皇の御代、秦始皇帝14世の孫・功満王(クマンオウ)が漢土の兵乱を避けて来朝。
 応神天皇14年、功満王の子・弓月王(ユヅキノキミ)が百済から127県の人々18,670余人を率いて渡来した。
 雄略天皇15年、その孫・酒公(サケノキミ)が絹綾錦の類を夥しく織りだして朝廷に献上した。絹綾錦布が山のように積み上がったので、天皇は喜んで、酒公に“うずたかく積む”の意をもつ『禹豆麻佐』(ウズマサ)の姓(カバネ)を贈った」(大意)
とあり、祭神とされる秦始皇帝・弓月王・秦酒公は、いずれも「秦氏の祖神である」という。

 ただ、延喜式での祭神は一座であり、当社に関係が深い広隆寺の来由記(1499)には“秦始皇帝の祖霊”と、神名帳考証(1813・伴信友)には“秦酒公”とあるという(式内社調査報告)。祭神・三座となった時期は不明。

 秦氏とは、古代の山背国(現京都府南部)を根拠地として、北は関東から南は九州北部までに広がっていた渡来系の大氏族で、史料上確認できる国は、34ヶ国489郡に及ぶという。ただ、彼らの出自あるいは何時どこからやってきたかは不詳で、彼ら自身が秦始皇帝の後裔と主張することから、古くは中国古代王朝・秦の遺民とする説もあったが、近年では朝鮮半島の新羅・伽耶方面からとするのが有力とされている。また、単一氏族ではなく、擬制的な同族結合によって成り立っていた集団で、出自・来歴を異にする渡来系集団の集合体ではなかったかともいう。

 秦氏(太秦氏)の出自については、新撰姓氏禄(815)に、
  「左京諸蕃(漢) 太秦公宿禰(ウズマサノキミ スクネ) 秦始皇帝三世孫孝武王より出ず」
とあるように秦始皇帝の後裔とするが、それを証する史料はない。
 秦始皇帝三世孫孝武王とは、秦の三世皇帝・子嬰(シエイ)を指すと思われるが、史記(司馬遷著・BC91)には、「項羽が子嬰および秦の諸公子、一族を殺し、・・・」とあり、その子孫が残ったとは記していない(勿論、この殺戮を逃れた者がいた可能性はある)

 姓氏禄は、続けて
 「男功満王(クマン)仲哀天皇8年来朝。男融通王(ユウツウ:一名弓月王)応神天皇14年来朝。127県の百姓を率いて帰化し、金銀玉帛等の物を献ず。・・・雄略天皇の御代、糸綿絹帛を岳の如く積む。天皇之を嘉して禹都万佐(ウズマサ)の号を賜ふ」
とある。当社由緒は、これら姓氏禄の記述と下記する日本書紀の記事をあわせたものとなっている。

 弓月王(融通王)については、書紀・応神天皇14年条に
 「この年、弓月王が百済からやってきた。・・・」
とあるが、そこに秦氏との関係を示唆する記述はない。
 ただ、古事記・応神天皇条に、新羅人の渡来や百済からの阿知吉師や和邇吉師(王仁)の派遣、あるいは同じく鍛冶技術者や機織り技術者の渡来などといった朝鮮半島からの渡来伝承の後に、
 「秦造(ハタノミヤツコ)の祖先や漢直(アヤノアタイ)の祖先、および酒を醸す技術を心得ている人たちが渡来した」(大意)
とある。しかし、その氏名や来歴などについての記述はない。ただ書紀の記述を勘案すれば、ここでいう秦造の祖先が弓月王を指すともとれる。
 通説で、秦氏の祖先を弓月王とするのは、正史の記事というより姓氏禄の記述によるもので、伝説上の始祖とみるのが実体であろう、という。

 これに対して、正史上で秦の名を冠して登場する最初の人物は秦酒公で、書紀・雄略天皇条に
 「15年、秦氏の民を臣連らに分散して、それぞれの思いのままに使役させ、秦氏には委ねなかったので、秦酒公は心配しながら天皇に仕えていた。しかし天皇は秦酒公を寵愛され、詔して秦の民を集めて秦酒公に賜った。公は、こうして各地の村主(スグリ)を率いるようになり、租税としてつくられた絹・綾などを献じて、朝庭に沢山積みあげた。よって姓を賜ってウズマサといった」
とある。
 いいかえれば、それまで各地の氏族に気ままに使役されていた秦の民をあつめて、その統率者となったのが秦酒君で、秦氏の実質的な始祖ともいえ、その意味では、延喜式当時の祭神は秦酒公一座とみることもできる。

 なお、由緒にいう“仲哀天皇の御代に功満王が渡来した”との伝承は、姓氏禄に記すのみで、記紀には見えない。

 とはいえ、太秦の地は古代の渡来系豪族・秦氏が根拠とした地であり、近くに秦氏が建立した広隆寺、あるいは関係する木嶋坐天照御魂神社(太秦森ヶ東町)・松尾大社(嵐山宮町)・伏見稲荷大社などがあることから、曾て広隆寺桂宮院の鎮守だった当社も、秦氏に関係する神社仏閣の一つで、その祖神(一座か三座かは別として)を祀った社には違いない。

 上記三座以外にも、安閑天皇の皇子:豊彦王・弓削守屋・道祖神などとする説がある(式内社調査報告)
 ・豊彦王説(出典:神社覈録)
   江戸末期の国学者・鈴木連胤(1791--1871)が、古書・本朝皇胤紹運録(1426・室町初期)
   「安閑天皇の皇子・豊彦王 現神、播磨国大僻大明神是也。秦氏祖云々」
とあるのを根拠として、その著・神社覈録において、大酒神社の祭神としたものらしい。
 しかし、書紀・安閑天皇(531--35?)条に皇子・皇女名の記載はなく、豊彦王の実在性は不明。また、豊彦王と秦氏との繋がりを示唆する史料も見当たらない。
 この説の提唱者・鈴木連胤とは、吉田神道(唯一神道ともいう)の本拠・京都吉田神社の神官だが、室町時代に大成された吉田神道は、神主仏従による反本地垂迹を主張した神道の一派で、その教義には記紀神話にはみられない特異な内容も多く、豊彦王説もその中で作られた仮説であろう。また根拠とする紹運録も、その真偽に疑義がもたれる古書ともいう。
 なお播磨国大僻大明神とは、現兵庫県赤穂市坂越に鎮座する大避神社の祭神で、秦河勝を指すという。

 ・弓削守屋説(延喜神名式比保古)
   出典元とされる延喜神名式比保古なる史料がどんなものか不詳だが、弓削守屋とは、用明天皇崩御直後(587)、蘇我氏との政争に敗れて滅亡した物部守屋を指すという。その守屋を、討伐側に立った聖徳太子を祀る桂宮院の鎮守である当社の祭神とするのには疑問がある。
 ただ、上宮聖徳太子伝補闕記(平安初期)には、「軍政人(イクサノマツリゴトヒト)秦造河勝」とあり、蘇我・物部の争いで、太子の側近として戦い活躍したと記している。また、これをうけたと思われる謡曲・守屋(廃曲)では、「太子が放った矢に当たって倒れた守屋の首を、河勝が打ち落とした」(大意)という。ここでの河勝は、勇猛な武人として記されており、これらの伝承から守屋祭神説が出てきたのかもしれないが、よくわからない。

◎オオサケの神
 延喜式にあるように、当社元々の神は“大辟神”(大避・大裂・大荒とも記す)で“オオサケの神”と訓む。
 当社ではオオサケのサケに“酒”の字をあてるが、これは“境”(サカイ)の意味をもつ“辟”(サケ)が転じたもので、飲用の酒とは直接的な関係はない。また、大酒の社名は秦氏の祖・酒公を祀るためともいうが、これは俗説で、酒公は酒瓶の中で育ったとの伝承があること、酒造りの神として知られる松尾神社の奉斎氏族が秦氏であるなど、秦氏が酒に関係することからのものかもしれない。

 日本民俗学の創始者ともいわれる柳田国男(1875--1962)によれば、サケ(避・裂・辟)は、サカ(坂・境)・サコ・セコ(迫)・サキ(崎・尖・岬)・ソコ(底・塞)・ソグ(削)などと同根の語で、いずれも“隔絶”の意味だという(石神問答1941・毛坊主考1914)。隔絶は、“ものごとを距てる”・“遠ざける”・“おおきく離れた状態”などを意味するが、換言すれば、此処と彼処とを距てる“境・辺境”のことであって、民俗学でいう“境界”と同意といえる。
 ここから“オオサケの神”とは“境(辺境)の神”・“境界に坐す神”を指すと考えられ、“シュクシン”または“シュクジン”、地域によってシャクシン・シャクジン・シャクジ・サクジン・ミシャグチ・シャクジなど種々の呼称で呼ばれ、宿神・石神・守宮神・左宮司・左久神・作神・社宮神・左口神などいろんな字が宛てられる(以下、「宿神」と記す)

 柳田国男は、「シュクは元の音おそらくはスクで、ハチと同じく都邑の境または端(ハズ)れを意味した語である」(毛坊主考)というが、シュクすなわち境界とは、具体には村外れ・川辺・坂・峠などを指し、そこは人が常住するには適さない辺境で、神や精霊といった霊的なものが往来し、居着く聖なる場所とされている。
 そのような境・辺境に坐す神=宿神は、外からの邪神・悪霊・疫病神などを遮る神として崇められ、これを祀ることでその地を守護するとされる。それが、辺境・シュクに住む人たちや放浪する人たち・特に芸能者たちから篤く崇敬された由縁でもある。

 宿神と同じ神格をもつ世俗神として、“道祖神”がある。
 本来は岐神(フナトカミ・クナトノカミ・サエノカミ、クナドサエノカミ−ともいう)と呼ばれる神で、日本書紀(第4の一書)では、泉津平坂(ヨモツヒラサカ)に千人所引盤石(チビキノイワ)をもって路を塞ぎ、追ってきたイザナミに“これより来るな”と云って投げた杖から成った神で、この場合は現世と黄泉国(ヨミノクニ:死者の国)との境界にあって、邪気・悪霊の侵入を防ぐ神とされる。
 道祖神とは本来、中国の行路の神で、それがわが国に伝来してフナトノカミと習合したものという。フナトとは路の辻を意味する古語で、路の辻は悪霊が出入りする境界であることから、それらを遮り、且つ通る人々の安全を守護するために路の辻・集落のはずれ・峠といった境界の地にドウソシン・サイノカミ・ドウロクシンなどの名で祀られてきた。
 道祖神は、御霊信仰・安産子育て信仰・性神信仰・地蔵信仰などと複雑に習合していくが、その原点ともいえる境界における悪霊排除、そこを通る旅人の道中守護の神ということから、宿神とは同体ともいえる。

 道祖神は、自然石のまま、あるいは塞神や道祖神の文字・単身の神像・男女双神像を彫りこんだ石碑、時には陰陽の性器を象ったものなどがあるが、祠などを備えているものは少ない。

 今に残る道祖神は、東日本に多く西日本には少ないといわれるが、大阪近傍でも思わぬ処にみることができる。
 その一例として、右の写真は、神戸市兵庫区の道路(旧有馬街道)脇に復元された塞神の石碑で、脇の説明には、「昔、この辺りを通っていた古街道を通る旅人等の道中安全を守るために祀られていた」とある。

塞神(道祖神)の碑

 広隆寺縁起には、当社の神について「此神元是所祭石也」とあり、当社のご神体は“石”だと記している。
 これは、オオサケの神の原姿が宿神であり、それが塞の神・道祖神と同体とされ、道祖神が石をご神体とすることからのことで、そこから当社の祭神は“道祖神”との説(京都の歴史)が出てきたと思われる(宿神は石神とも書く)。道祖神的神格をもっているのは事実としても、道祖神と局限するのはどうかと思われる。

 なお、同じオオサケと名のる神社として、表記は異なるものの兵庫県赤穂市坂越に“大避神社”があり、祭神・大避大明神とは秦河勝という(別項・「大避神社」参照)。同じオオサケを名乗ることから、当社の祭神も秦河勝ではないかという。

◎秦河勝
 当社は、元、太秦の広隆寺境内にある桂宮院の後ろにあった社で、南北朝時代の古書・空華日用工夫略集(臨済宗の僧・周信が記した1325--88年間の日記)に、
 「太秦桂宮院主云 鎮守大裂(オオサケ)明神」
とあり、また室町時代、世阿弥の跡を継いで猿楽を興隆させた金春禅竹(1405--70・世阿弥の女婿)の著・明宿集には、
 「秦河勝の墓については諸説があるが、一説には京都の太秦寺(広隆寺)にあるという。本堂の西南にある卒塔婆の前に石塔があって、これがそうだという。・・・・・
 この寺(広隆寺)から西の方へ少しいくと、桂宮院という霊場がある。・・・・・ここに河勝の御霊の垂迹として、大避大明神が鎮座ましましておられる。云々」(中沢新一訳・大意)
とある。
 この二つを重ねると、南北朝以降、桂宮院の鎮守・大酒神社には大避明神なる神が祀られ、それは秦河勝と認識されていたことを示す。

 秦河勝(生没年不明)は、聖徳太子(摂政期・593--622)に仕えた寵臣として知られるが、ここでの河勝は、死後も大避大明神として、太子を祀る桂宮院本堂の後ろにあって太子に仕えているわけで、中世の頃、当社の祭神が秦河勝であると認識され焚いたことを示唆している。日神を祀る巫女であったオオヒルメムチがアマテラス大神になったように、祀る側の人が、神と化して祀られる側に移った事例といえる。

 これに係わって、世阿弥の風姿花伝(1420頃)・神儀篇に、
 「欽明天皇の御代に、大和の泊瀬川で洪水があったとき、川上から一つの壺が流れ下ってきた。三輪の神杉の鳥居の辺りで、殿上人がこれを拾った。中に玉のように美しい嬰児がいた。これは天から下ってきた人であるというので、朝廷に奏上した。
 その夜、天皇の夢にこの子どもが現れ、『我は中国の秦始皇帝の生まれ変わりである。日本に縁があって顕れた』と告げた。帝は不思議に思われて殿上に召された。成人すると、学才が人にすぐれていたので、わずか15歳で大臣の位に昇り、帝から秦(ハタ)という姓を賜った。・・・秦河勝がこの人である」(大意)
 「河勝は、猿楽の芸を子孫に伝えたのち、摂津国難波から空船(ウツボフネ)に乗って西海に船出し、播磨国坂越の浦に漂着した。浦人が舟を陸に上げてみると、人とは似つかぬ姿であった。そして多くの人に憑き祟ったので神として祀ったところ、国中が豊かになった。人々は“大いに荒れる”という意味で、“大荒(オオサケ)大明神”と呼んだ。云々」(大意)
との説話が記され、後段の説話が赤穂・坂越の大避神社の創建由緒となっている。

 ここでいう“壺”あるいは“ウツボ舟”(窓も出入り口もない小舟)とは、卵・瓢・繭などと同じ“中空の容器”、“神霊が籠もる聖なる容器”で、神あるいは聖人・偉人が異界からやってきた中空容器から生まれたとする説話(卵生説話)は各地に残っている。上記二つの説話は、河勝が幼童神として誕生し、死後も神として再生したことを示すもので、風姿花伝がいう説話のなかの河勝は、神と認識されていたことを意味する(明宿集には、「秦河勝は宿神である翁が人間に仮現なさった存在であることは、まったく疑いの余地がない」とある)

◎後戸の神=摩多羅神
 時代が下ると、旧大酒神社が桂宮院の後ろにあったことから、これを“後戸(ウシロト)の神”とみて、“摩多羅神”(マタラシン)とする見方がでてくる
 マタラ神の正体ははっきりしないが、渓嵐拾葉集(鎌倉・文保年間1317--19、天台僧・光宗著)によれば、
 「唐で引声念仏を学んだ慈覚大師・円仁が帰朝の途中、虚空から声がして『我は摩多羅神という障礙神である。我を奉斎しなければ浄土往生はかなわないだろう』と告げたので、円仁が叡山の常行堂にこの神を勧請した」
とあり、そこから主に天台系寺院の常行堂(常行三昧堂ともいう)にあって、主尊・阿弥陀仏ならびに僧侶の念仏行道を守護する神として広く祀られているという。

 障礙神(ショウガイorショウギ)とは、往生を妨げ危害を与える畏るべき神であるとともに、そうした悪神・邪霊を追い払い浄土往生を引導するという両極をもつ神で、ここでは、阿弥陀仏を主尊とする常行堂に祀られ、念仏行道の守護神となることで浄土往生信仰と結びつき、それが主尊の後ろに祀られることから“後戸の神”とも呼ばれる。
 “後戸”とは、阿弥陀堂や常行堂で主尊の背後空間を指すが、そこは降魔除魔のための秘密の行事が行われる空間で、そこには何か神秘的な神・畏るべき強力な霊力をもつ神仏が祀られるといわれ、摩多羅神もそのひとつである。
注−−常行堂(常行三昧堂・ジョウギョウ ザンマイドウ)−−90日間、心に阿弥陀仏を念じつつ、念仏を唱えながら阿弥陀仏のまわりを歩き続ける行道をおこなう堂舎
    仁寿元年(851)、円仁が比叡山に建立したのが始まりで、その後、多くの天台宗系寺院に設けられた。

 摩多羅神は、上記常行堂の守護神・念仏の守護神とは別に、“芸能神”という一面をもち、そこから猿楽→秦河勝と連なっていく。 
 風姿花伝に次の記述がある。
 「祇園精舎の落慶供養のとき、釈迦が説法しようとしたが、提婆(ダイバ・釈迦の法敵)が一万人の外道(ゲドウ・異教徒)を伴ってきて、これを妨害したため説法できなかった。その時、釈迦の意をうけた舎利弗(シャリホツ)ら弟子たちが、説教壇の後戸で笛・鼓を奏して六十六番の物まねをした。外道たちは、これを見物するために後戸の方に集まり静かになったので、釈迦は供養をはじめられた」(大意)
 これが後戸が芸能・特に猿楽演技の空間とされる由縁を示す伝承で、ここから室町時代、常行堂の修正会では後戸に坐す摩多羅神に猿楽能が奉納されたともいう。
 ただ前半の“釈迦が説法しようとしたとき、提婆に率いられた外道の徒が邪魔をした”という説話は、仏典にあるものの、後半部分を記す仏典・資料はなく、猿楽衆または世阿弥が創りだした伝承だろうという。

 右図は、摩多羅神曼荼羅(日光輪王寺蔵)と呼ばれるものだが、唐風の頭巾を被り日本風の狩衣を纏い、鼓を打つ姿の貴人(摩多羅神)を中央に、その下左右に、笹と茗荷の小枝を持つ二人の童子が踊っている。
 この曼荼羅は、摩多羅神が歌舞芸能に関係する神であり、猿楽集団・猿楽衆の守護神との一面を持つことを示すものといえる。
麻多羅神曼荼羅
摩多羅神曼荼羅

 この阿弥陀仏の背後にあってこれを守護するという後戸の神・摩多羅神の役割が、桂宮院の後戸にあって聖徳太子を守護するという秦河勝に重なること、摩多羅神が猿楽衆の守護神とされたことなどから、猿楽の創始者とされる河勝を後戸の神・摩多羅神とする見方が生まれたと思われ、そこから当社祭神は河勝とする説が生まれてと思われる。

 なお諸資料によれば、広隆寺では毎年10月12日の夜、“牛祭”と称する奇祭がおこなわれ、そこでは牛に乗った摩多羅神が登場するというが、寺に聞いたところでは、10年ほど前からやっていないという。

※相殿神−−兄媛(エヒメ)・弟媛(オトヒメ)
 今、当社社殿に合祀されている兄媛・弟媛について、日本書紀には二つの渡来伝承を記している。
 @応神天皇39年2月条
  阿知使主(アチオミ)・都加使主(ツガオミ)を呉(クレ)に遣わして縫工女を求めさせた。二人は高麗人の案内で呉に行った。呉の王は縫女の兄媛・弟媛・呉織(クレハトリ)・穴織(アナハトリ・漢織とも)の四人を与えた。
 同41年2月条−−阿遅使主らが呉から筑紫に着いた。そのとき宗像大神が工人を欲しいといったので兄媛を大神に奉り、残り三人をつれて津国に至ったが、天皇が崩御されたので、この縫女たちをオオササギ(仁徳天皇)に奉った。
 A雄略天皇14年1月条
  (雄略12年夏に呉に使いしていた)身狭村主青(ムサノスグリ アオ)らが、呉国の使いと共に、呉の奉った才伎(テヒト)の漢織・呉織と布縫(キヌヌイ)の兄媛・弟媛らを率いて住吉の津に泊まった(帰国した)

 この二つの伝承が同じものか別伝かは不明だが、いずれも機織り技術をもった織女を招聘したというもので、その織女を神として合祀するのが当社だという。
 由緒によれば、
 「兄媛・弟媛の社は大酒神社の脇に祀られていたが、明暦年中(1655--58)に破壊に及んだため当社に合祀した」(大意)
とあり、元は当社とは別の社に祀られていたという。当社の祭神・秦酒公が秦一族をあげて機織りに従事させたとの伝承から、同じ機織り技術をもって渡来した兄媛らを合祀したのであろう。
 なお、アチオミが連れ帰ったアヤハトリを主祭神とする神社として、伊居太神社(イケタ・大阪府池田市)がある(別稿・「伊居太神社」参照)

※創建由緒
 当社に関係の深い広隆寺の由来記には、
 「(大酒神社は)仲哀天皇4年、秦始皇帝の裔、秦氏の祖・功満王が来朝し、始皇帝の祖霊を祀ったのがはじまり」
とあるが(未確認)、これをもって創建とするのは疑問。古く、広隆寺境内の桂宮院の鎮守として院の背後にあったされることから、広隆寺あるいは桂宮院の建立に係わると思われる。

◎桂宮院(ケイキュウイン)
 曾て当社が鎮守社だったという桂宮院は、広隆寺境内西側の奥まった一郭にあり、通常は非公開(4・5・10・11月の日・祝日のみ公開)

 本堂は法隆寺夢殿と同じ八角(円)堂で、聖徳太子半跏像(鎌倉時代・重文、今、霊宝殿に所蔵)を本尊とするが、古書・雍州府志(江戸初期)には
 「太子自ら修造した堂で、太子手作りの如意輪観音像および中華伝来の弥陀像と太子自作の像がある」
とある。
 ただ、当院の建立年代に関して、仁和(885--89)および延喜(901--23)の広隆寺資材帳に当院の名がみえないことから、その後(10世紀以降)の創建と推測され、太子自らの造営とは後世の太子信仰からくる伝承であろう。

 ここから、桂宮院の鎮守である当社の創建もまた10世紀以降と考えられるが、詳細不明。

 なお、現在の桂宮院・本堂(国宝)は、建長3年(1251・鎌倉時代)中観上人澄禅による再建という(広隆寺の栞)

桂宮院・本堂(広隆寺栞より転写)

◎広隆寺
 広隆寺は、推古11年(603)秦河勝が聖徳太子(摂政期間593--622)から仏像(宝冠弥勒菩薩半跏思惟像−国宝−というが、確証はない)を賜り、それを本尊として建立したという(書紀・推古11年条・旧名:蜂岡寺)が、推古11年着工、太子崩御後の推古30年(622)竣工ともいう(広隆寺縁起他)。いずれにしろ、聖徳太子のために秦河勝が建立した寺院というのが一般の理解である。
 また創建当時の広隆寺(蜂岡寺)は、現在地の東北方数キロの辺りにあったと推測され(北区北野白梅町辺りか)、現在地への移転は天智朝(661--71)あるいは平安京遷都(794)の頃ともいわれるが、定説はない。

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