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多坐彌志理都比古神社
(略称--多オオ神社)
奈良県磯城郡田原本町多
祭神--神八井耳尊・神沼河耳尊(綏靖天皇)・神倭磐余彦尊(神武天皇)・姫御前
                                                          2010.09.19参詣

 延喜式神名帳に、『大和国十市郡 多坐彌志理都比古神社二座 並名神大 月次相嘗新嘗』とある式内社。
 正式の社名は、“オオニマス ミシリツヒコ”と訓むが、一般には多神社(オオ)と呼ばれる。わが国、最古の神社の一つ。

 奈良盆地のほぼ中央、近鉄橿原線・笠縫駅の西南約1.0km強に位置する。笠縫駅の南・県道50号線を西へ、飛鳥川の東側道路(民家の角に標識あり)を南へ進んだ左手の鬱蒼とした森の中に鎮座する。
 鎮守の森を南へ回りこんだ処に参道入口があり、参道奥に“二の鳥居”が見える。なお、参道前の道を東へ、多の集落を過ぎて近鉄線を越え、寺川に突き当たった処(昔の“下つ道”との交点)に“一の鳥居”が立ち、その真っ正面に三輪山が納まる。

※祭神
 現在の祭神は上記4座で、
 ・第一殿 神武天皇(初代天皇) 
 ・第二殿 神八井耳命(カムヤイミミ・神武の第2皇子)
 ・第三殿 神沼河耳命(カムヌナカワミミ・神武の第3皇子・第2代-綏靖天皇)
 ・第四殿 姫御前(玉依姫-タマヨリヒメ)
が祀られている。

 延喜式に“彌志理都比古(ミシリツヒコ)神社二座”とあり、本来の祭神はミシリツヒコと他一座(多分ヒメ神)と思われる。しかし、ミシリツヒコの出自・神格ははっきりせず、今、当社ではカムヤイミミ命をミシリツヒコとし、これにカムヌナカワミミ命を合わせて主祭神としているが、これには諸説がある。

 ①多神宮注進状(1149・平安末期)は、
    珍子賢津日霊神尊(ウツノミコ サカツヒコ神) 皇像(ミカタ)瓊玉坐
    天祖賢津日孁神尊(アマツオヤ サカツヒメ神) 神物(タマシロ)圓鏡坐
のヒコ・ヒメ2座を祀るとして、具体の神名として
    珍子--天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)
    天祖--天疎向津媛命(アマサカルムカツヒメ=アマテラス大神の荒魂)
      神名帳曰 多坐彌志理都比古神社二座是也
と記し、日の御子とその母という母子神としている。

 日の御子であるオシホミミは稲穂の神格化といわれることから、その母である日神・アマテラスを組み合わせた母子神は、農耕神として祀ったと推測されるという。
 生きるために最も重要な農耕(稲作)の神を祀るのは、太陽が農耕に必要という意味ではわかるが、それが何故オシホミミでありアマテラスなのかは不詳。
 当社の古史料・多神宮注進状他に掲げる祭神名は、記紀神話の神々、特にアマテラスとの関係を強調するものとなっている。
 ただ多神社は、当地が、宮中に坐したアマテラスを始めて外に祀った旧笠縫邑に比定されるように、日神祭祀に係わった色彩は強く、当社の原点が日神信仰とすればアマテラス(皇祖神・アマテラスというより、その前身としてのアマテルミタマ神)は無視できないが、多氏と天皇家との緊密性を強調するための堅強付会との感もある。

 ②室町時代の古書・和州五部神社神名帳大略注解(1446・室町初期--略称:和州五郡神社誌)には、
    水知津彦神(ミシリツヒコ)
    火知津姫神(ヒシリツヒメ)
とあり、文字から見ると、これも農耕に必要な水の神と火(日)の神だが、ミシリツヒコを同じ読みもつ水知都彦に当て、その対としてヒシリツヒメを合わせたとも解されるが、これらは一般名称に近く、その具体の神名は不明。

 ただ、これら平安・室町時代の神名をみると、そこには現祭神・カムヤイミミ命の名はない。
 カムヤイミミの名が出てくるのは明治以降の史書だが、そこにも
 ③神八井耳命・神武天皇--神祇志料(1871・明治初頭)
 ④神八井耳命・神沼河耳命、または神八井耳命+神武天皇--神社明細帳(1879)
 ⑤神八井耳命・姫神--特選神名牒(1925・大正末年)
といった諸説があり、定説はない(江戸時代の祭神がどうだったかは不明)

 なお、当社では
 「神八井耳命の“神”は尊称・“耳”は貴人の職名で、残る『八井命』は多くの井戸を司る人の意で、水神的な性格をもっている。
 彌志理都比古神社の名は水知津彦からくるもの(彌を水と読む)で、当社の神は水の神と火の神で、火は日に通じるところから、水と日の神という農耕の最も重要な二要素の神を祭祀していると知ることができる」(大意)
としている、という(式内社調査報告・1982)
 これは、⑤にいうカムヤイミミを水神と、姫神を日神とするものだろうが、今入手できる参詣の栞や社頭の案内には見えず、確認不能。また、記紀にいうカムヤイミミに水神的事蹟は見えず、“八井”の文字からくる堅強付会ともとれる。

 現在の主祭神・カムヤイミミ命とカムヌナカワミミ命は、記紀によれば神武天皇とイスケヨリヒメ(オオモノヌシの娘)の間に生まれた第2皇子・第3皇子で、古事記・神武天皇段には
 「神武崩御後、異母兄・タギシミミ命が3人の皇子を殺そうと謀った。これを知ったカムヤイミミとカムヌナカワミミの二人は先手を打ってタギシミミを襲ったが、カムヤイミミは手足がふるえて殺すことができなかったので、弟のカムヌナカワミミが兄の兵を乞いとって押し入り、タギシミミを殺した。
 これをうけてカムヤイミミは、カムヌナカワミミに対して『吾は仇を殺せなかったが、汝命は仇を殺した。吾は兄だが上(カミ・天皇)には立てない。汝命が上(天皇)となって天下を統治されよ。吾は忌人(イハヒビト・祭祀者)となって汝命に仕えよう』と告げた。
 カムヤイミミは意富臣(多臣・オホオミ)・小子部連(チイサコベノムラジ)・・・島田臣等の祖なり」(大意)
とあり、カムヤイミミが皇位を弟・カムヌナカワミミ(第2代・綏靖天皇)に譲り、自らはイワイヒトとして祭祀を掌ったとある(書紀・綏靖紀には、「吾は汝命の助けとなって、神祇を受け持とう」とある)

 当社にカムヤイミミを祀ることは、新撰姓氏禄(815)に、
  「左京皇別 多朝臣 出自諡神武皇子神八井耳命之後也」
とあるように、多氏がその祖神を祀ったものであって、その点では違和感はない。
 しかし、カムヤイミミとミシリツヒコとの接点が見つけにくく、一般には、カムヤイミミが“身を退いた”(ミヲシリゾイタ)からミシリツヒコに通じるというが、語呂合的色彩が強い。

 祭神・ミシリツヒコの神格及びカムヤイミミ命との関係について、大和岩雄氏はその著・多神社(神社と古代王権祭祀・1989所載)のなかで、大略
 ・彌志理都比古の“彌”は“水”ではなく敬称の“御”で、“津”は助詞の“ツ”(ノ)ある、
 ・“志理”(シリ)は“知り”であり、“知る”は“領る”(シル)と同意で、“治める”・“統治する”・“司る”の意がある。特に太陽の動きを知る(読む)“日知り”は“日を領知する(日神祭祀を司る)”を意味する。
 ・日知り・日読みとは、太陽の動きによって四季の循環、即ち冬至・夏至・春分・秋分を太陽の動きで読む(知る)ことで、なかでも種をまく日と収穫する日を決めるために必要な秋分・秋分を読むことは、古代マツリゴトの最も重要な儀礼であった。
 (魏志・倭人伝には、「倭人は正歳四節を知らず、ただ春耕秋収を記して年紀とす」とある)
 ・当社が立地する多の地は、三輪山の真西に位置し、春分秋分の朝・三輪山から昇る太陽を拝し、二上山の夕日を拝する地であり、真南に畝傍山、真北に平城宮を望むという聖なる地でもある。
 ・これらのことからみて、当社の祭神・彌志理都比古とは“御知(治・領)津比古”(ミシリツヒコ)、即ち“日知り”(日読み)の祭祀者としての日子(ヒコ)であり、それは祭祀(マツリゴト)を職掌としたカムヤイミミにも通じる。
と記している。

 また、当社祭神を母子神とすれば、日の御子(日子)・カムヤイミミに対するヒメ(日女・巫女)は、その母・比売多々良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ・神武の正妃・オオモノヌシの娘)となる。

 これらからみて、主祭神を記紀の神々に求めるとすれば、今のカムヤイミミとカムヌナカワミミ(綏靖天皇)というより、カムヤイミミとその母・イスケヨリヒメとみるのが順当で、そこにカムヤイミミに関係する神武・綏靖2天皇を合祀すると解される(主祭神以外の2神を、皇子神命・姫皇子命とする説もあるが-和州五郡神社誌、この2神は境外摂社として別に祀られているとして否定する論が強い)

 なお参詣の栞には、「(4神とともに)太安麻侶を祀る」とある。神社では、境外摂社・小社神社のご神体(太安麻侶像)を合祀したというが、その合祀時期はだいぶ後世のことであろう。

※創建由緒
 当社の創建時期は不明だが、多神宮注進状には、
 「カムヤイミミ命は、綏靖天皇2年春、春日郷(後の十市郷)に大宅を造り、神籬磐境を立て、自ら皇祖天神の神事之典を主(ツカサド)り、県主の遠祖・大日諸神を祝(祭祀者)として奉祀せしめられた」
とあり、この時立てられた神籬(ヒモロギ)磐境(イワサか)をもって当社の創建とし(多神社の旧名を春日宮という)
 その後、
 「崇神天皇7年、カムヤイミミ四世の孫彦恵賀別命の子・武恵賀前命に詔あって、神祠を改作して天津日瓊玉命・天爾鏡剣神を祈宝し(三種の神器のレガリアをご神体として祀った、の意か)、社地を多郷と称することになった」
として、この時、祠が建てられ“多神社”と称したことを示唆している。

 これは、カムヤイミミ命がカミマツリを掌る忌人であったことをうけた伝承だろうが、
 ・当社境内及び付近の考古学調査によれば、縄文から弥生・古墳時代にかけての遺跡から石器・土器などが出土し、特に古墳中期に当たる4世紀末頃から5世紀にかけての遺跡からは、祭祀的性格の強い土器などが多く出土していること、
 ・多の地が、春分・秋分の頃、東方・三輪山から昇る朝日を、西方・二上山に沈む夕日を拝するにもっとも適した場所であり、且つ飛鳥川の畔にあり、禊ぎの場としても適していること、
 ・崇神紀6年条にいう、宮中を出たアマテラス大神(実体は、天皇家が崇拝した日神で、アマテラスの前身・アマテルミタマと思われる)を最初に祀った“笠縫邑”は当地であって、此所から三輪山麓・桧原(現桧原神社)を経て小夫の天神社(桜井市東部らしいが位置不明)へ遷り、最後に伊勢に祀られたとの伝承があること(参詣の栞)
 (当社の北に笠縫邑跡があり、ここはアマテラス大神-を崇め奉り、神に仕えた巫女の集落だった、という-参詣の栞)
 ・当社の祭祀氏族である多氏は、三輪山に於ける日神信仰に関わっていたと推測されること、
 (三輪山信仰には、国つ神・オオモノヌシを祭神とする地祇信仰とともに、日神・アマテルミタマ-を祀る天神信仰が混在している)
などから、古く、春分秋分の日に三輪山山頂から昇る朝日、二上山に沈む夕日を拝する日祀りの聖地・祭場(神籬)が当社の原点と思われるが、それが恒常的な神社となった時期は不明。

 古文書等にみる当社の初出は、天平2年(730)の大倭国正税帳で、そこには
 「太神戸 稲10,690束9把、用58束、残10,632束9把」
とあり、他社に比べてずば抜けた豊かな経済力を持っていたと推測され、その当時、大和国における相嘗社8社の一に数えられたことからみて、相当古くからの有力な大社であったことが伺われる。

 青史に見える当社の神階授叙記録としては、貞観元年(859)
 「従三位勲八等から正三位へ昇叙」(三代実録)
のみだが(延喜式撰上当時は従三位だったらしい)、多神宮注進状には
 「永治元年(1141・平安末期) 正一位勲一等が授けられた」
とあり(青史による確認不能)、多郷28村の総氏神として、中世戦国時代にかけて厚い崇敬をうけていたという。

※社殿等
 大神・大和・春日といった名神大社が山麓に鎮座するのに対して、当社は奈良盆地のほぼ中央に田畑に囲まれて鎮座するという特異性を持っている。
 今の社地は、飛鳥川沿いに約1万㎡余を有するが、以前はもっと広かったようで、大和志料(明治中期)には、
 「天文21年(1552・室町後期)、当地の領主・十市遠勝より周囲6町四方の土地(約42万㎡余)の寄進をうけた」
とあるという。

 その広い境内の東西南北には、それぞれ鳥居が立っていたといわれ、今に残るのが、当社の東約750m旧下ッ道沿い(現寺川脇)に立つ一の鳥居で、そこから東を望めば、鳥居の中に三輪山がすっぽりと納まる位置に立っている。また南北西にあった鳥居の跡地には“トリイ・大鳥居・下鳥井”の小字名が残っているという。

 二の鳥居をくぐって境内に入ると、正面に切妻の張出屋根を有する両妻入母屋造の拝殿(間口八間・奥行二間)が、その奥・一段と高くなった石垣上に、透塀に囲まれて春日造(間口一間二尺・奥行二間一尺)の本殿が四棟並んでいる。曾ては極彩色だったというが、今は色もあせている。
 参詣の栞によれば、第1・2殿の棟木には「享保20年(1735・江戸中期)柱立」との墨書があり、建造時期が推測され、第3・4殿には墨書などはないが、その様式に些少の差異が認められるものの、ほぼ同時期の建造だろうという。
 また拝殿は、平成11年12月の改築で、改築前の拝殿には宝暦9年(1759)の銘が刻まれた鬼瓦が乗っていたという。

多神社/一の鳥居
多神社・一の鳥居
(反対側から東を望めば、三輪山が納まる)
多神社/二の鳥居
同・二の鳥居
(神額には「正一位勲一等多大明神」とある)
多神社/参道入口
同・参道入口
多神社/拝殿
同・拝殿
多神社/本殿
同・本殿

◎末社
 社殿の右手の疎林の中に、右写真のような一間社春日造の末社が6祠点在する(内3祠は近接して並ぶ)
 資料によれば、 
 ・熊野神社(イザナギ・イザナミ尊)
 ・住吉神社(住吉三神)
 ・春日神社(春日4神)
 ・石上神社(フツノミタマ命)
 ・竈神社(オツクヒコ・オクツヒメ命)
 ・八幡神社(ホムタワケ尊)
とあるが、各社殿に掲げる社名の墨書が薄れていて、どの祠がどの神社に該当するのか確認不能。また鎮座由緒も不明。

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