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多神社・摂社/子部神社
A:奈良県橿原市飯高町372
B: 同   同  飯高町376
                                                              2010.09.19参詣

 延喜式神名帳に、『大和国十市郡 子部神社二座 並大 月次新嘗』とある式内社で、今は多(オオ)神社(式内・多坐彌志理都比古神社)の境外摂社となっている。社名は“コベ”と訓む。

 橿原市飯高町(元磯城郡平野村飯高)内には、同じ“子部”を称する神社が東西約100mほど離れて鎮座する。
 両社とも、古代氏族・小子部氏(チイサコベ)に係わる神社で、通常は、東側にある神社(A社)を以て式内・子部神社とするが、
神社明細帳(1891・明治12)には、「当社は延喜式所載二座の一にして、・・・」と、両社共に式内社で、両社に一座ずつを祀ると記し、
多神宮注進状(1149・平安末期)は、子部神社とは別に“蜾贏神社一座”とあることから、西側(B社)は式内社ではないとする。
 以上、両社の関係について混乱があるが、東側のA社を以て式内社とするのが妥当であろうという(式内社調査報告・1982)
 (便宜上、東側(A社)にある子部神社を“子部神社”(コベ)、西側(B社)のそれを“蜾贏神社”(スガル)として区別する。なお西のそれは小子部神または軒の宮ともいう)

 小子部氏とは、新撰姓氏禄(815)
 「左京皇別  小子部宿禰  多朝臣同祖  神八井耳命之後也
       大泊瀬幼武天皇(雄略)の御世、諸国に遣わされ、蚕児を取り斂(オサ)むべきを、誤りて小児を聚(アツ)めて貢(タテマ)る。
       天皇大いに哂(ワラ)ひて、姓を小子部連と賜ふ」 
とある氏族で、これは書紀・雄略天皇6年条に記す
 「天皇が后妃に蚕を飼わせようとして、蜾贏(スガル)に国内の蚕の児を集めるよう命じたとき、スガルが間違って小児を集めてきたので、天皇は大笑いして『汝が養え』と告げ、“小子部連”の姓を与えた」(大意)
との伝承による。

 なお、社名の“子部”とは、古代宮廷での祭儀に際して、“火炬(ヒマツリ)小子”・“火炬童女”を統率して、庭火をつけるヒマツリを職掌とした氏族という(日本の神々4収録・子部神社・2000)

【子部神社
    多神社の南西約1.5kmに鎮座する境外摂社。

※祭神
 延喜式には“祭神・二座”とあるが、境内に何らの案内表示がなく、祭神・由緒など不詳。
 諸資料には
 祭神--小子部命(子部大神ともある)
   (合祀)武甕槌命・経津主命・天児屋根命・姫大神(以上、春日4神)・素盞鳴命・斎主命
とある。主祭神・小子部命とは小子部氏が祀る祖神を意味するのだろうが、詳細不明。

 多神社に残る多神宮注進状(1149・平安末期)には
 「皇孫天火子日命・皇孫天火子根命
  (スガルが集めた)小児らが壮んになったので、我が多郷に住むことを許され、そこを俗に“子部の里”と云った。雄略天皇即位9年初春、天皇が見た霊夢により、スガルに勅して皇孫彦日根両神を子部の里に斎祀させた。今の子部神社である」(大意)
とある。
 この天火子日命・天火子根命の“火子”とは、上記・火炬火子に関連すると推測されるというが、その出自・神格は不明。上記注進状の裏書きは、
  天火子日命=天穂日命、
  天火子根命=天津彦根命
とあるという。
 アマノホヒ・アマツヒコネ両神ともにアマテラスとスサノヲのウケヒによって生まれた五男神の一だが、アマツホヒは出雲臣らの祖神で、アマツヒコネは凡河内直らの祖神であって、カムヤイミミの後裔である小子部氏との接点はなく(以上、日本の神々4)、多神社関係の神社を皇祖神(天皇家)と関係づけようとする思惑からではないかという(式内社調査報告)

 多神宮参詣の栞には、
 ・天穂日命と天津彦根命(和州五郡神名帳注解・1446)--注:多神宮注進状と同じ
 ・火明命三世の孫・建刀米命(新撰姓氏禄)--多神社の若宮とされる竹田神社の祭祀氏族・竹田連の祖神だが、火明命は尾張氏系の祖神であって多氏系・小子部氏とは直接には関係ない。小子部氏と尾張氏との間で系譜に交錯・混乱があるらしい。
との神名を挙げるが、いずれも確証はなく、
 「要するに、多神社祖神の末裔小子部連の祖神を主祭神と考えるのが妥当ではないか」
という。あえて特定すれば“小子部スガル”(多神宮注進状)ということになろうか。

 なお、他の6神とは、摂社の春日神社(春日4神)・八坂神社(スサノヲ-古くはゴズテンノウ)・厳島神社(イワイヌシ)の祭神を指す。

※創建由緒
 上記多神宮注進状によれば雄略朝(5世紀後半)の創建となる。小子部氏に関する伝承が雄略朝に集中するからと思われるが、確証はない。
 ただ、三代実録・元慶4年(880)条に、
 「昔日 聖徳太子平群郡熊凝道場を創建す。飛鳥の岡本天皇(舒明天皇・629--41)、十市郡百済川辺(現曽我川・当社の西700m)に遷し建て、百済大寺という。子部大神、寺の近側にあり、怨みを含んで屡々堂舎を焼く。・・・」(大意)
とあり、大安寺伽藍縁起并流記資材帳(747)にも
 「子部神社の社地を削って堂舎と九重塔を建てた。神が、これを恨んで九重塔と金堂を焼破した」(大意)
とあることから、7世紀前半の頃には実在したと思われる(百済大寺の旧蹟には諸説があるが、現曽我川附近には痕跡が発見されていない)。 

※社殿
 屋就神命神社前の道路を西へ約1.2km、飯高町集落を南へ入った祐禅山瑞花院吉楽寺(当社の神宮寺か)の西側に接して鎮座する。附近集落の氏神というが、集落の中にあり、また子部神社への道程表示などなく、わかりにくい。吉楽寺への表示を頼りに行くほかない。

 西面する鳥居を入って左(北)、南北に細長い境内の北寄りに南面して拝殿(切妻造・間口四間・奥行一間三尺)が、その奥、ブロック塀に囲まれて本殿(権現造・間口一間・奥行三尺五寸)が建つ。塀が高く、内部はよく見えない。

子部神社/鳥居
子部神社/鳥居
子部神社/拝殿
同・拝殿
子部神社/本殿
同・本殿

【蜾贏神社】(スガル)
   子部神社の南西約100mに鎮座する小祠。

※祭神
 多神宮注進状の裏書きに、
 「蜾贏神社一座 雷蜾贏(イカヅチスガル)の霊 亦雷神と云う。是即小子部連の遠祖なり。子部の里にあり。未だ官弊に預からず」
とある神社で、軒の宮ともいう。拝殿軒下の神額に子部神社とあるものの、“未だ官弊に預からず”とあるから、式内・子部神社ではないらしい。

 祭神・イカヅチスガルとは、上記、蚕児の代わりに小児を集め小子部の姓を賜ったスガルのことだが、イカヅチスガルという訳は、雄略紀7年条に記す
 「天皇が小子部スガルに、『朕、三諸山(三輪山)の神を見たい。お前は力が強いので、行って捕らえてこい』と命じた。スガルは三諸山に登って大蛇を捕らえて天皇に見せた。大蛇は、雷のような音を立て、眼がきらきらと輝いていた。天皇は斎戒されていなかったので、畏れて目を蔽い殿中に隠れられた。そして大蛇を三諸山に放ち、スガルに改めて雷(イカヅチ)の名を賜った」(大意)
による。

 三諸山(三輪山)の神が“蛇”であることは、箸墓伝承(崇神紀)によっても知られるが、古代信仰での蛇は水神であり雷神でもある。また、桑の原に落ちた雷は再び天に昇ることができないので、桑原には雷は落ちないとの俗信がある(雷除けの呪文・クワバラ クワバラの原点という)
 一方、スガルは天皇から蚕を集めるよう命じられており、そのスガルが蛇=雷を捕らえ、イカヅチの名を与えられたのも、蚕・桑・雷・蛇の関連からとみることができる。

 しかし、同じ集落内にスガルを祀ると思われる式内・子部神社があるにもかかわらず、蜾贏を祭神とする当社が創建された由緒及び創建時期はともに不明。

※社殿
 子部神社(小子部神社)の前を過ぎ西へ曲がった先、民家の先に拡がる田畑の畦を南に回りこんだ処に鎮座する。畦の脇に“すがるの宮 子部神社”との立札がある。
 周りを民家と田畑に囲まれた狭い境内に、南面して拝殿(入母屋造・間口三間・奥行一間三尺)が、その奥、土塀に囲まれた中に鳥居が立ち、朱色の銅板葺き・春日造の本殿(間口二尺一寸・奥行一尺四寸)が鎮座するが、塀が高くよく見えない。

蜾贏神社/拝殿
蜾贏神社・拝殿
蜾贏神社/本殿
同・本殿

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