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多神社・摂社/小社神社
奈良県磯城郡田原本町多字木ノ下
祭神--太安麻侶
                                                                2010.09.19参詣

 延喜式式内町に、『大和国十市郡 小社神命神社』とある式内社で、今、多神社(式内・多坐彌志理都比古神社)の境外摂社となっている。社名・小社は“コモリ”と訓む。

 多神社の南約100m。多神社の正面入口から、細道路を渡って南側の小道(地道)を南へ入った左側(東側)の林の中に鎮座する。
多神社に残る多神宮注進状(1149・平安末期)では“樹森神社”(コモリ)と呼ばれ、江戸時代には地名をとって“木ノ下神社”(コノシタ)とも呼ばれたという(大和志・1734)。今、多神社では“コモリ神社”と呼び、皇子神を祀る“若宮四社の一”としている。

※祭神
 多神社参詣の栞には
 「延喜式内社で多神社の皇子神を祭祀すとあり、太安麻侶を祀る」
とある。

 太安麻侶とは、古事記の編者として知られる実在の人物だが、多氏の後裔であることから、多神社の皇子神とするのも一つの解釈だが、祭神を太安麻侶とするのは後年のことで(古事記が広く知られるようになった江戸時代以降か)
平安末期の多神宮注進状には
 『瓊玉戈神命』(読み不明、タマホコ神か)
とある。
 この神は記紀などの古書には見えず出自・神格ともに不明。神名からみて、三種の神器の一・八坂瓊勾玉(ヤサカニマガタマ)に関係する神かとも私考するが、確証はない。

 しかし、同裏書に引用する社司多神名秘伝には
 「春日郡坐大社(オオモリ)神社同体異名也。天照大日孁神(アマテラスオオヒルメ=アマテラス大神)の皇子神と言うべきか」
とある(式内社調査報告・1982)
 アマテラスの皇子神といえば、スサノヲとのウケヒによって生まれた五柱の男神の一となるが、それがどの神なのかは不明。
 多神宮注進状および社司神名秘伝は、多神社関係の祭神をアマテラスに関係付けた記述が強く、当社もそのひとつだが、アマテラスと結びつける根拠は不明。多神社の原点を日神信仰とすれば、アマテラスと無関係ではないが、その場合でも皇祖神・アマテラスではなく、その前身、日神・アマテルミタマ(天照大日孁もそのひとつ)と解するのが順当であろう。

 秘伝にいう春日郡坐大社神社とは、河内国讃良郡高宮郷にある式内・高宮大社御祖神社(タカミヤオオモリミオヤ、現寝屋川市高宮)のこととされる。この神社は、同郡にある高宮大社神社の奥宮で、祭神は大社神社が天剛川命(アメノコカワ)、御祖神社はその父神・天萬魂命(アメノヨロズムスヒ)で、高宮神主の祖神という(先代旧事本紀)
 高宮神主は高宮村主(スグリ)とも呼ばれる氏族で、大和国葛上郡高宮郷附近に居住した秦氏系の渡来氏族といわれ、河内国讃良郡には居住の痕跡がないことから、両高宮社の祭神を天萬魂命・天剛川命の親子神とするのには異論もある。

 ただ、高宮大社神社に隣接して秦郷があり、多神社の北に秦の地名が残る(秦河勝創建とされる秦楽寺もある)ことから、両地ともに秦氏系氏族の居住が推測され、仁徳天皇の御代、茨田堤を築いたとされる新羅系(秦系)氏族・茨田勝(マムタノスグリ)が関係するのでは、という。
 茨田勝とは、新撰姓氏禄(815)・河内国諸蕃の条に、
  「茨田勝  仁徳天皇の御代、茨田邑の地を賜り、因って茨田勝と為す」
とある渡来系氏族だが、同じ姓氏禄の河内国皇別の条には、
  「茨田宿禰 多朝臣同祖 彦八井耳命之後也 男野現宿禰仁徳天皇御世造茨田堤」
とあり、神武の第1皇子・彦八井耳命(ヒコヤイミミ)の後裔という(古事記にも同じ記述がある)

 茨田勝・宿禰の祖神は異なるが、渡来系氏族が神別・皇別を名乗る事例は多く、茨田氏もそのひとつで、後世、宿禰の姓を賜った時皇別を名乗ったのであろう。なお、ヒコヤイミミ命は、多氏の祖とされるカムヤイミミの兄君で、厳密にいえば多氏と同祖とはいえないが、いずれも神武天皇の皇子ということでは同じであり、当社本来の祭神をヒコヤイミミとすれば、多神社の皇子神とされるのも理解できる(今、多神社の主神はカムヤイミミ命だが、神武天皇も合祀されている)

 この高宮大社神社に関係すると思われる茨田勝(宿禰)の一族が、多氏と同祖とされることから、高宮大社神社を祀る人々が、その祖神を大和の多郷に祀ったのが当社で、だから、大社(オオモリ)に対する小社(コモリ)を社名としたのではないか、という。

 なお、当社社名・小社を“ヲコソ”と読み、そこから高宮大社神社との関係をみようとする説がある。
 “コソ”とは古代朝鮮語で“聖なる地”・“マツリゴトの場所”すなわち神社・社を意味し、特に新羅・加羅にかかわる神社を“○○コソ”と呼ぶことが多い(比売許曽・ヒメコソ、波牟許曽・ハムコソ、阿麻美許曽・アマミコソなど)
 当社および高宮大社神社が新羅系の秦氏に関係すると思われることから、大社・小社は、それぞれ“オホコソ”・“ヲコソ”と対になる呼称ではないかと推測される、ともいう。(以上、日本の神々4所載・小社神社・2000)

※創建由緒
 当社の創建時期およびその後の経緯は不明。明治官制で村社となり、昭和15年・皇紀2600年祭にあたり、本殿・境内の拡張がおこなわれたが、戦後になるとその維持が困難となり、祭神は仮の処置として多神社に合祀されたという。
 多神社では、祭神像とされる太安麻侶像が旧社殿に入らないことを理由に、祭神の合祀は古くからのものといっている、という(式内社調査報告・1982)。これが今、多神社に太安麻侶を合祀する由緒であろう。

※社殿
 多神社南の道路を渡り、小道を南へ少し入った左に立つ鳥居をくぐり、疎林の中の参道(地道)を進んだ左手・赤い鳥居の奥の一段高くなった処に、南面して一間社春日造の社殿が建つ。
 昭和27年の神社明細帳には、本殿(春日造)・弊殿・拝殿・神饌所・祭具殿・社務所と記されていた、というから(式内社調査報告)それ相当の結構を有する神社だったらしいが、今はその面影はない。
 なお、現社殿の西後方に旧本殿だった小祠が、また境内には太安麻侶の墓と称する小塚があるというが、不注意で見逃した。
 (太安麻侶の墓は、昭和54年・奈良市田原町此瀬の茶畑の中から墓誌を伴って発見されている)


小社神社・鳥居

同・神域正面

同・社殿

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