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熱 田 神 宮
愛知県名古屋市熱田区神宮
祭神--熱田大神
                                                                2017.08.02参詣

 延喜式神名帳に、『尾張国愛知郡 熱田神社 名神大』とある式内社。

 JR東海道線・熱田駅の南西方すぐに鎮座する(名鉄・神宮前駅の西)

※由緒
 頂いた参詣の栞には
  「草薙剣は三種の神器の一つで、素戔鳴尊(スサノオ)が出雲国で、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)から獲られた天叢雲剣(アメノムラクモ)を天照大神に献じ、天孫降臨の際、大神から皇位継承の御璽(ミシルシ)として八咫鏡(ヤタノカガミ)・八坂瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)とともに親しく授けられた神剣です。
 第12代景行天皇は、皇子・日本武尊(ヤマトタケル)に東夷征伐を命ぜられ、その途次、尊は伊勢の神宮において、御姨・倭姫命(ヤマトヒメ)から天叢雲剣を授かり、駿河国で草を薙ぎはらって難を逃れせられてから、草薙剣と申しあげるようになりました。
 尊は、尾張国造・乎止与命(オトヨ)の子・建稲種命(タケイナタネ)を一軍の将として従え、無事東夷平定の後、尾張国造の館にとどまり、その娘・宮簀媛命(ミヤズヒメ)を妃とされました。
 やがて、神剣を宮簀媛のお手元に置かれ、近江国伊吹山の賊徒討伐にむかわれますが、病により景行天皇43年、伊勢国能褒野(ノボノ)で薨ぜられます
 宮簀媛命は、草薙剣が天璽之神宝(アマツミシルシノカンダカラ)で、尊が常に御身近に斎かれたことを畏まれ、ここ熱田の地に神剣を奉斎されました。
 これが当社の創祀です」
とある。

 当社に草薙剣が祀られた由来については、書紀・景行天皇段に
 「(東国の夷を征伐した)日本武尊、更(マタ)尾張に還りまして、即ち尾張氏の女・宮簀媛を娶りて、淹(ヒサ)しく留まりて月を踰(ヘ)ぬ。
 是(ココ)に、近江の五十葺山(伊吹山)に荒ぶる神有ることを聞きたまひて、即ち剣を解きて宮簀媛の家に置きて、徒(タムナデ・剣を持たずに)にいでます。・・・「山の神を素手で討ってみせる」と豪語し、蛇に化身して顕れた山の神を無視したことから神の怒りをかい、その神気に当たって病を得、尾張・伊勢と彷徨ったあげく・・・伊勢国の能褒野に崩(カムサ)りましぬ。
 初め、日本武尊の佩(ハカ)せる草薙剣は、今是、尾張国の年魚市郡(アユチノコホリ・愛知郡)の熱田宮に在り」(岩波文庫版)
とある。(古事記には「その御刀の草薙剣を宮簀媛の許に置いて、伊吹山の神を取りに出でましき」とのみある)

 ここでの日本武尊は、草薙剣を宮簀媛の家に置いたまま山に入ったことから、山の神の威力に敗れ亡くなるわけだが、これは神剣・草薙剣の守護下から離れるという暴挙がもたらした悲劇であり、それはまた、草薙剣にこもっていた妹の力からも離れていたことを意味する(草薙剣は伊勢斎宮であった倭姫命から賜ったものであり、剣には倭姫命がもつ妹の力もこもっていたとみることができる)

 一方、尾張国風土記(8世紀初頭頃)逸文には
 ・熱田の社
   熱田の社は、昔、日本武尊が東の国を巡歴されてお還りになった時、尾張連(オワリノムラジ)の遠祖・宮簀媛命と婚されてその家にお宿りになった。
 夜のほどに厠に行って、腰につけていた剣を桑の木に掛け、忘れたまま殿にお入りになった。気がついて驚き、また往って取ろうととなさると、剣に光があって神々しく取ることができなかった。
 そこで宮簀媛に仰せられて、「この剣は神の気がある。大事にお祭りして、私の形影としなさい」といわれた。そこで社を建て、郷の名(熱田)によって宮の名とした。
 ・尾張の国号
   日本武尊が東の夷を征伐してこの国に帰還され、身につけていた剣を熱田の宮に奉納された。その剣は、もと八岐の巨蛇の尾から出たものである。故に尾張(オハリ)の国と名づける。
とあり、

 また、尾張国熱田太神宮縁起(以下・太神宮縁起という)には
 ・尊仙化の後、宮簀媛はかねての約束にもとずいて神剣を御床に安置し祀っていたが、その霊験は著しかった。
 しかし、媛自身も衰え祭祀を行い難くなったので、周りの人々と相談し、社地を定め神剣を祀ることとした。
 (その地には)楓樹一株があったが、自然に火を発して水田に倒れても消えず水田が熱くなったので、熱田社と号した」(漢文意訳)
とあり、これに関連して名古屋都市センター研究報告書には
 ・宮簀媛命は、日本武尊から託された神剣を守るために氷上邑(緑区大高町火上山)に熱田神宮の元宮となる氷上姉子神社を創建した
 ・その後、年齢を重ねてきたことを憂えた宮簀媛は、神剣を末永く祀るに相応しい地を尾張一族に謀り、大化3年(647)、かねてから尾張氏の斎場であった蓬莱の地(熱田区神宮1丁目・現鎮座地)に移され、名称も改められた
とある。

 なお太神宮縁起は、その奥付に“寛平2年(890)10月15日”とあることから平安前期の成立とされるが、内容からみて平安中期または鎌倉初期の成立とみるのが妥当との説もある。
 また、その内容は、記紀に拠るところが殆どで、縁起独自の記述は少ない。

 このように、当社の創建は日本武尊の東征と神剣・草薙剣とに結びつけて語られているが、現在の知見では、日本武尊説話とは、中国・宋へ遣使した倭王・武(5世紀末・雄略天皇とする)が、「躬(ミズカラ)ら甲冑を擐(ツラヌキ)き 山川を跋渉して 寧処に遑(イトマ)あらず」というように、古代ヤマト政権がその支配領域を東西に広げていった課程を、一人の英雄的な皇族将軍に仮託して物語ったものとみる説が有力で、日本武尊の実在には疑問がもたれている。

 上記由緒は当社の創建を日本武尊に仮託して語られたものであって、本来の創建由緒はそれとは別に求めるべきであろうが、それを示唆する史料はない。

◎創建年次
 当社の創建年次は、上記由緒によれば日本武尊没後であって、それは景行天皇の御代・4世紀のこととなる。
 しかし4世紀といえば古墳時代前期に当り、そのころ、何らかの神マツリがあったことは否定できないとしても、恒常的な社殿を有する神社があったとは思えず、当社創建を4世紀というのには疑問がある。

 当社創建に関連した公的記録として
  ・書紀天智7年条(668)に、当社神剣盗難事件についての記述があること(下記)
から、7世紀にはあったかと推測されるが、それを裏付ける史料はない。

 当社創建時期が推測できる確実な史料として
 ・古語拾遺(807)景行天皇条--草薙剣は今尾張国の熱田社に在り。未だ礼典(マツリ)に叙(ツギ)ておらず(熱田社は草薙剣を祀る社なのに奉幣に与っていない)
 ・日本後記・弘仁13年(822)6月条---尾張国熱田神に従四位下を奉授
 ・続日本後紀・天長10年(833)6月条--尾張国に坐す従三位熱田大神に正三位(従三位の誤記か)を奉授、並びに封15戸を納む
 ・文徳実録・嘉祥3年(850)10月条---尾張国熱田神に正三位を奉授
 ・三代実録・貞観元年(859)正月条---尾張国正三位熱田神に従二位を奉叙
 ・  同     同    2月(860)条---尾張国従二位熱田神に正二位を奉叙
 ・日本紀略・康保3年(966)3月条--- 尾張国言上、正一位熱田大明神、今月1日より3ヶ日社中鳴、太鼓乱声の如し
などがあり、9世紀初頭にあったことは確かといえる。

※祭神
 参詣の栞には
  祭  神  熱田大神(アツタノオオカミ)
  相  殿  天照大神・素戔鳴尊・日本武尊・宮簀媛命・建稲種命(タケイナタネ)
とあり、
 ・熱田大神--三種の神器の一つである草薙神剣を御霊代(ミタマシロ)とされる天照大神のこと
 ・相殿神  --五神(ゴシン)さまと呼ばれ、草薙神剣とゆかりの深い神々で、宮簀媛命・建稲種命は尾張氏の遠祖として仰がれる神々
という。

 宮簀媛命は、上記のように日本武尊の妃で当社を創建したという姫で、海部氏勘注系図(京都宮津市・籠神社所蔵、国宝)には尾張氏の始祖・天火明命(アメノホアカリ)11世の孫・乎止与命(オトヨ、小止与命・小登与命とも)の娘とある。
 しかし、古事記には「尾張国造の祖」、書紀には「尾張氏の女」とあるのみで父の名はみえず、また先代旧事本紀(9世紀前半、物部氏系史書)にみる尾張氏系図にはその名はみえない(小止与命は一男・建稲種命を生んだ、とあるのみ)

 建稲種命とは、勘注系図によれば始祖・天火明命(天照大神の孫)12世の後裔で(旧事本紀も同じ)、宮簀媛の兄という。
 日本武尊の東征に従軍して軍功があったが、東征の帰路、駿河の沖での水難事故により水死したとの伝承がある。

 因みに、宮簀媛・建稲種命の父・乎止与命について、先代旧事本紀(国造本紀)
  「尾張国造 成務朝(4世紀末頃)に 天別・天火明命十三世孫(十二世の誤記か)・小止与命を国造に定められた」
とあり、これを以て尾張国造・乎止与命実在の証とするのが一般の理解で、これによれば乎止与命は景行・成務両朝時代(4世紀後半)の人物となる。

◎草薙剣
 当社の祭神・熱田大神とは草薙剣を神格化して天照大神に仮託したものだろうが、日本武尊とする資料もある。
 草薙剣については記紀等の史料に詳しいが、一書によっては細部に差異があり、大まかにまとめると以下のようになる。

*顕現
 スサノオ尊が出雲・肥河のほとりで八岐大蛇を退治されたとき、その尾を斬ると御刀の刃が欠けた。怪しいと思って尾を割いてみると、中から一本の剣が現れた。
 スサノオ尊は、「これは不思議な剣で私物にはできない」として高天原の天照大神に献上された。これが草薙剣である。

 ただ、書紀8段本文には“一書にいう”として、大蛇がいる上に常に雲があったので「天叢雲剣」(アメノムラクモノツルギ)と名づけた。日本武尊に至って名を草薙剣と改めた、とあり(古語拾遺・先代旧事本紀にも同意文あり)、天叢雲剣というのが本来の名で、天照大神に献上されたのは天叢雲剣とするのが正しい。

*天孫降臨
 天孫・瓊々杵尊が天降られるとき、天照大神は自分を天岩戸から招きだした八坂瓊の勾玉・八咫鏡とともに、草薙剣(天叢雲剣)を授けて共に天降りさせた。

 以上が記紀神代記にみえる草薙剣で、これによれば、八岐大蛇の尾から顕れた剣(天叢雲剣)は、まず高天原の天照大神に献上され、天孫・瓊々杵尊と共に葦原中国(下界)に降ったとなる。

*崇神朝
 瓊々杵尊とともに天降った草薙剣について、記紀には垂仁朝まで直接的な記述はないが、書紀・崇神6年条の
  「天照大神と倭大国魂(オオクニタマ)の二神を一緒に宮中に祀っていたが不都合がおこったので、天照大神を豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメ)に付けて倭(ヤマト)の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀った」
との記述に関連して、古語拾遺(802・齊部氏系史書)には
  「倭の笠縫邑に神籬(ヒモロギ)を立てて、天照大神及び草薙剣を遷して、皇女・豊鋤入姫をして斎ひ奉らしむ
   更に、齊部氏に命じて鏡と剣を造らせ、これを護身用の御璽とした。是が践祚の日に献ずる神璽の鏡と剣である」
とあり、天照大神と共に、草薙剣も宮中から出して笠縫邑(奈良・桜井市三輪の桧原神社に比定されるが諸説あり)に遷し、別に新しい剣を造って宮中に奉祀してレガリア(三種の神器)としたとある。

*垂仁朝
 書紀・垂仁25年条に、
  「(笠縫邑に坐す)天照大神を豊鋤入姫より離ちまつりて、倭姫命(ヤマトヒメ)に託けたまふ。倭姫命、大神の鎮め坐させむ処を求めて各地を巡幸し、大神の神勅をうけて伊勢国に祠を立てたまふ」
とあるように、天照大神は大和の笠縫邑から伊勢に遷っているが、この時、草薙剣も伊勢に遷されたとするのは古語拾遺のみで、記紀には記されていない。
 ただ、次の景行紀の記述からみて、この時、草薙剣(天叢雲剣)も天照大神とともに伊勢に遷ったと思われる。

*景行朝
 景行紀には日本武尊に関連して次のように記している。
 ・天皇の命により東征の途に就いた日本武尊が、その途上、伊勢神宮に立ち寄り斎宮の倭姫命(日本武尊の姨に当たる)に挨拶したとき、姫は草薙剣(天叢雲剣)を日本武尊に授けて「慎んで油断するな」といわれた。

 ・日本武尊が駿河の地で賊に欺かれて野火の難に遭われたとき、尊が佩かせる天叢雲剣が自ら抜け出して廻りの草を薙ぎ払い、これに火を付け迎え火とすることで難を逃れることができた。故にその剣を名づけて草薙剣という。

 ・日本武尊は、東征からの帰路、尾張国の宮簀媛の家に草薙剣を置いたまま伊吹山の神の討伐に出かけられたが、大蛇(古事記では白猪)に化身して顕れた山の神を無視・侮蔑したことから、その怒りを受けて病を得、伊勢の能褒野で薨去された。

 ・妃の宮簀媛は、日本武尊が残していた草薙剣を祀り、熱田神社を創建した。(上記、当社創建由緒)

 以上が、草薙剣の出現から熱田神社に奉祀されるまでの大略だが、天智・天武朝に次の伝承が記されている。

◎草薙剣盗難事件
*天智7年(668)
 ・是歳、沙門(シャモン)道行(ドウギョウ)が草薙剣を盗んで新羅へ逃げた。しかし途中で雨風に遭い迷って帰った
*天武・朱鳥元年(686)6月10日条
 ・天皇の病を占ったところ、草薙剣の祟りと出た。即日、尾張国の熱田社に送り置いた

 この二つの伝承は一連のもので、盗難から取り戻された草薙剣は宮中に奉安されていたが(摂津国東成郡-現大阪市鶴見区の式内・阿遲速雄神社ともいわれ、神罰を畏れた道行が海中に投げ捨て、それを里人が拾って神社に納めたという伝承がある)、天武天皇の病を占ったところ草薙剣の祟りとでたので、驚いて即刻尾張の熱田神社に戻した、という話だが、天皇の病は回復せず9月に薨去されている。

 この盗難事件について、太神宮縁起には、
  ・天智天皇7年、新羅の沙門道行、此の剣神を盗み本国に移さんとして、袈裟に包んで伊勢国まで逃げ去ったところ、神剣が自ら袈裟から抜け出て元の社に帰った。
  ・そこで、道行は再び神剣を盗み難波津から船を出して国に帰ろうとしたが、海が荒れて又難波津に漂着した。
  ・その時、ある人に託宣があって、『吾は熱田の劔神なり。先回は七条の袈裟だったから脱出して社に帰ることができたが、今回は九条の袈裟だから逃れ難い』と告げたので、人々が怪しみ畏れて東西に道行を捜し求めた。
  ・捜索が厳しいことを知った道行は、この剣を捨てれば捕らえられないだろうと思って神剣を捨てようとしたが、神剣が身から離れなかったので、力尽きてやむなく自ら返還した。
  ・天武天皇朱鳥元年6月1日、天皇の病を占うと草薙剣が祟りとでたので、詔して尾張国熱田社に奉還した。(漢文意訳)
とあり(平家物語などにも同意の記述あり)、この話が世に広く知られていたことが窺われる。

 この盗難事件の後、草薙剣の他に新しく宝剣を鋳造し、八剣宮を造営して祀ったという(別稿・熱田神宮/攝末社参照)

◎草薙剣の実態
 草薙剣とは神話上での剣だが、これを実見したという話がある。
 江戸中期、梅宮大社の神職であった玉木正英(1671--1736)編の「玉籤集・裏書」によれば、
 ・80年ばかり前、熱田神宮の神職数人が密かに御神体を窺いみたところ、土用殿に奉安されている御神体は、赤土を詰めた三重の箱に厳重に納められ、
 ・長さ二尺七寸許り(約85cm)、刃先は菖蒲の葉なりにして、中程はムクリと厚みあり、本の方六寸許り(約18cm)は節立て魚等の背骨の如し。色は全体白しと云ふ
とある。 

 この記録によれば、この剣の形状は弥生時代の有柄式銅剣に類似した両刃の銅剣とみられるが、この銅剣が尊が所持していた草薙剣との確証はない。(日本武尊が活躍した4世紀には既に鉄剣が実用化されていて、尊が切れ味が弱い銅剣を所持していたとは思えない)
 なお、右写真は福岡県前原市(現糸島市)の三雲遺跡出土の有柄式銅剣で、長さ51.5cm。 

有柄式銅剣(福岡・三雲遺跡出土)

◎土用殿
 江戸時代に神職等がみた神剣は土用殿に奉斎されていたというが、土用殿はいま、本宮域の東側(向かって右)、神楽殿の北にひっそりと鎮座するが、祭神も不詳で、攝末社にも含まれていないため、訪れる人はほとんどないらしい。
 傍らの案内には、
 「神剣が、明治の御社殿改造まで奉安されていた御殿である。
 永正14年(1517)将軍足利義植が御正殿の東に造営し、先の大戦で焼失したが、昭和16年(1971)元の位置に復元された(明治以前の正殿等はこの辺りにあったという)
 元の様式は、宝庫造(井楼組・セイロウグミ)で、桁行約3m、梁間約1.1m、屋根は切妻檜皮葺であった」

 また、神宮刊の冊子・熱田神宮(1968)には
  「神剣は、はじめ正殿に奉斎されたが、何時の頃からか土用殿(一名:渡用殿)にうつし、正殿には五座の神を祀ったが、明治になって土用殿を廃し、正殿の主神を熱田大神(神剣)、相殿として五座の神を祀った」
とあり、
 江戸時代の古文書・熱田宮旧記(1699)には、「土用殿 祭神:草薙剣神」とある。

 尾張名所図会(1844)所載の熱田大宮全図をみると、祭文殿から伸びる廻廊に囲まれた中、渡殿という大きな社殿の背後に2棟の社殿が左右にあり、
  右側(屋根のみみえる社殿)に「土用殿」、左側に「正殿」
とある(下左の絵図)

 主祭神である神剣(草薙剣)が正殿に祀られず、そこには相殿神が祀られたというのは異様なことで、その理由は不明だが、嘗ての土用殿は正殿に相当する(あるいはそれ以上に重要な)社殿として重要視されていたのであろう。


尾張名所図会・部分 
 
現土用殿・正面鳥居
 
同・社殿


※社殿等

 JR熱田駅を西へ出て県道226号線(大津通)を神宮の森沿いに南下、伝馬町交差点を右折して少し進んだ右側(北側)の正面入口があり、一の鳥居が立つ。

 鳥居を入り表参道を進み、二の鳥居・三の鳥居を入った先が本宮域で、その間、左右叢林の中に攝末社が鎮座する。
 なお、当神宮は境内の東西にも入口があり、それぞれに鳥居が立つ。JR駅からだと東入口が近い。


一の鳥居 
 
表参道
 
二ノ鳥居

三の鳥居 

 境内は略全域鬱蒼たる樹木に覆われ、その中に境内攝末社が点在しており、表参道の奥に鎮座する本宮のみを拝して帰るのであれば別だが、域内を巡るには境内案内図が必要。


境内に掲げる案内図(右が北) 

◎本宮
 三の鳥居を入った広い境内の正面が本宮で、少し高くなった処に神明造風の堂々たる拝殿(外玉垣御門四尋殿)が建ち、左右に翼廊(外玉垣)が伸びている。

 
境内全景

拝 殿 

翼廊部分 

 当社の社殿は伊勢神宮と同じ神明造を基本とし、現社殿は明治26年(1893)、それまでの尾張造様式を神明造様式に改築したものが昭和20年(1945)の戦災で焼失、同30年、伊勢神宮の古正殿を譲り受けて改築したものという。

 社殿配置は、正殿を中心として、その周囲を内側から瑞垣・内玉垣・外玉垣で三重に囲んだ中、中心軸上に、最奥の正殿から南へ瑞垣御門・内玉垣御門との2棟の社殿が並び(正殿・瑞垣御門は屋根が見えるだけ)、その南に離れて拝殿(外玉垣御門)が建つ(下左・社殿配置模式図)
 また、正殿の左右に宝殿と称する小ぶりの社殿が建つが、その役割は不明。

 
本殿域・社殿(中央右の大屋根が正殿)
 
内玉垣御門・正面(拝殿より)

 明治26年の改築以前の本宮は、現社殿域の東側にあったといわれ(現土用殿の辺り)、尾張名所図会によれば、現在とは大きく異なり、
 南の海蔵門(切妻造妻入りの八脚門だったという、今の一の鳥居の辺りか)から北に延びる中心軸上に、南から蕃塀(本殿・拝殿前に建つ短い塀状の建物で、本殿への不浄なモノ・邪神・悪霊などの侵入を防ぐ役割をもち、透塀ともいう)・勅使殿・拝殿が一直線に並んで建ち、
 その北、祭文殿から左右に伸びる廻廊に囲まれた中に渡殿が、その背後に正殿・土用殿の2棟が左右にならんで鎮座している(下右絵図)

 因みに、この社殿配置は“尾張造”といわれる尾張地方独特の神社様式で、拝殿・祭文殿・本殿が廻廊で一つに繋がった左右対称の配置をなすもので、その前面、鳥居寄りに蕃塀が、蕃塀と本殿との間に四方吹き抜けの切妻造妻入りの拝殿があるのも特徴の一つという。

 
社殿配置模式図
   
江戸時代までの境内図
(尾張名所図会・部分)

 本宮以外の攝末社等については、別稿・熱田神宮/攝末社参照。

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