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熱田神宮へリンク

熱田神宮/攝末社
名古屋市熱田区神宮一丁目
                                                             2017.08.02参詣

 熱田神宮には、本宮の他に別宮1(1)・摂社12(8)・末社30(16)社、合わせて43(25)社の攝末社がある(括弧内は境内社)

※別宮
【八剣宮】(ハチケングウ、ヤツルギノミヤともいう)
 延喜式神名帳に、『尾張国愛智郡 八剣神社』とある式内社だが、今は別宮・八剣宮(明治13年-1880改称)と称して熱田神宮摂社のなかでも別格の社とされている。
 祭神--熱田大神

 南正面から境内に入り、一の鳥居を入ったすぐの表参道左側(西側)に立つ鳥居の奥、境内右手に南面して鎮座し、その左前に摂社・上知我麻神社が東面して鎮座する。

 社頭に案内等はないが、熱田神宮公式HPには
 「元明天皇の和銅元年(706)、宝剣を新たに鋳造し創祀されました。
 一の鳥居(南側)の西側に鎮座し、本宮と同じ祭神をお祀りしています。
 社殿は本宮と同じ造りで、年中祭儀も同様に行われます。
 八剣宮は武門の信仰が篤く、織田信長・徳川綱吉等により社殿の修造造営が行われてきました。
 なお、別宮とは、名が示すように本殿の別れとして祀られ、篤い崇敬を受けます」
とある。

 また、式内社調査報告(1989)には
 「社伝によれば、元明天皇の和銅元年(708)9月に朝廷より熱田神宮に勅使(阿部朝臣宿奈麿・多治比真人池守ら)が派遣せられ、西夷降伏の祈願がなされた。その際、新造の宝剣が奉納せられ、この時に八剣宮が奉斎されたという」
とある。

 当宮は平安前期の元明天皇の御代(平安遷都の直前)に西夷降伏祈願のために造営され、その時、新らしい宝剣が奉納されたというが、続日本紀・和銅元年条(その前後を含め)にこれに関連する記述はなく、また、西夷降伏の祈願というのが何を指すのかは不明。

 八剣宮の造営に関連して、江戸時代の古文書・熱田宮旧記(1699)の別宮八剣宮の項に、
  「天智7年(668)、本宮神剣が盗難にあったが、取り戻されて帝都に戻った。
   天武朱鳥元年(686) 草薙剣の徳に比すべき八州安国の剣として 別殿を建造し 八剣宮と称して之を祀る。
   或は曰く、日本武尊は東征の後 東国の鎮として草薙剣を尾張国に留め置かれた。 亦昔、尊は西の熊襲を討たれた。
   その神威を崇め 国の東西を太平に向かわしめるために 八剣宮を造営して祀った」(原漢文は難読で、私意を加えて意訳)
とある。

 前段は、八剣宮の創建を天智朝におこった草薙剣盗難事件(別稿・熱田神宮参照)に結びつけたもので、盗難から取り戻された草薙剣を祀る社殿として八剣宮を建造したのであれば、そこに祀られる剣は戻ってきた草薙剣ともとれるが、HPがいう新造の宝剣とは整合しない。
 ただ、旧記に“草薙剣の徳に比すべき・・・”とあるのをみれば、草薙剣とは別の宝剣ともとれ、はっきりしない。

 後段は、東国の鎮として草薙剣を熱田宮本宮に祀り、西国の鎮として新造の宝剣を八剣宮に祀ったとも解され、これが社伝にいう西夷降伏祈願につらなるともとれ、それは、神社覈録がいう“八州の鎮としての剣”(吾が国全土の守護神)に通じるともいえる。

 社名の八剣について、神宮刊・熱田神宮は 
  「八剣宮の“八”は弥栄(イヤサカ)の“弥”・“いよいよ”という意味であって、“剣が八本ある”ということではない」
とあり、これが神宮での正式見解という。
 なお、宝物館に「八剣宮御神鏡」と陽刻した径32cm程の白銅鏡が御正体の鏡として展示されており(別に「熱田大神宮御神鏡」と陽刻した鏡もある)、これが御正体のレプリカだとすれば、あるいは八剣宮の御神体は剣ではなく鏡かもしれない。

 しかし、近世になっての古資料として、
 神社覈録(1870)には
   ・賊に盗まれた草薙剣が戻ったとき新たに別剣を造り、この剣を以て八州の鎮と為し、八剣神社と称す
とあり、当社に祀られる剣は八洲の鎮としての剣であり、八剣の八は八洲を意味するという。
 また、神祇志料(1871)には
   ・僧・道行の事ありし後、七柄の剣を造り加えて同殿に祀り奉る。之を八剣宮と称す
   ・道行神剣を盗みし後、末代に又かかる者もありなんとて、四っ(七つの誤記か)の剣を本剣の如く造りて社を建てられたり、とあるが、八剣の名に依りて付会せる説なるべし
とあり、盗難事件後、七本の新剣(ダミーの剣)を鋳造して草薙剣と一緒に祀ったという説が流布していたらしい。

 この八剣宮は、別宮と称するように、本宮に次いで重要視される宮ではあるが、その社格については判然としない。

◎祭神
 祭神について、当宮では熱田神宮祭神と同じ、すなわち熱田大神及び相殿神5座を祀るという。
 ただ、これらの祭神と和銅元年に奉斎されたという宝剣との関係は不詳。

 また、異説として
  ・素戔鳴尊和魂--神社覈録(1870)
  ・天照大御神・須佐之男命・天之忍穂耳命--特選神名牒(1876)
とする資料もあるが、その根拠は不明。

◎社殿等
 一の鳥居左の鳥居をはいった正面に上知我麻神社の社殿が建ち、その右手(北側)に八剣宮社殿が南面して鎮座する。

 社殿は総て神明造で、社殿構成は神宮本宮のそれと同じで、
 正面に拝殿が、その奥、小さな鳥居をはさんだ本殿域には、南から内玉垣門・瑞垣御門・本殿と直線上に並んでいるが、拝殿脇からは本殿の屋根しかみえない。

 社殿は一見して新しいが、、上知我麻神社・参詣の栞には「八剣宮 平成26年12月に約80年振りに修造工事が竣工」とある。


八剣宮への鳥居
(奥の社殿は上知我麻社) 
 
八剣宮・全景
 
同・拝殿

同・本殿部
(左が内玉垣門・右奥の屋根が本殿) 
 
尾張名所図会・八剣宮
 
同・社殿部分

 江戸後期の地誌・尾張名所図会(1844)には、
  「正一位八劔神社  本社の南三丁(約300m)にあり。日割御子社の西なり。即ち下の宮と称し熱田摂社七所の一社なり」
とあり、絵図には、広い境内に蕃塀・拝殿・本殿が一直線上に並び、廻りには末社数社が点在し、その社殿様式は所謂・尾張造様式で現在とは異なるものの、基本構成は殆ど変わっていない。
 その位置は“本社の南三丁”というから、現鎮座地とほとんど変わっていないと思われるが、今、同じ境内にある上知我麻神社はみえない(同社は昭和24年に八剣宮境内に遷座)


※境内摂社
【日割御子神社】(ヒサキミコ)
 延喜式名神町に、『尾張国愛智郡 日割御子神社 名神大』とある式内社。
 祭神--天忍穂耳尊(アメノオシホミミ) 
        天照大神と素戔鳴尊の誓約(ウケヒ)により成り出た五男神の一。
        天照大神の御子・五男神の筆頭神で、当社の祭祀氏族・尾張氏の始祖・火明命の父神に当たる。

 熱田神宮正面(南側)参道を入ってすぐの右側(東側)の叢林の中に鎮座する。

 当社の創建由緒等は不明だが、神社脇の案内には
  「この地は、太古水際に張り出た州崎の名残で、干崎(ヒサキ)といわれていた。
  記録によれば、古くは日破明神と称され、江戸初期の慶長年間に堀尾吉晴(松江城初代城主)が当社の造営をおこなっている」
とあり、
 式内社調査報告には(要点引用)
 ・当社の創祀年代は詳らかでないが、社伝によれば、孝安天皇の御代に創建されたという
   (孝安天皇の実在は疑問視されており、例え実在したとしても2・3世紀の頃に社殿を有する神社があったとは思えない)
 ・当社の神と孫若御子神・高蔵結御子神を併せた三神は、熱田大神の御子神とされ、承和2年12月に揃って名神に与っている(続日本後紀・承和2年-835-12月条に、「壬午 尾張国日割御子神・孫若御子神・高座結御子神 惣て名神に預かる 皆熱田大神御兒神也」とある)
 ・神仏習合がすすんだ中世に於いては、本地を地蔵菩薩に配せられ、社内には地蔵堂一宇が建立された。
とある。

 続日本後記の記録からみて、9世紀中頃にあったのは確かだろうが、それが何時頃まで遡れるのかは不詳で、肝心の創建由緒等は一切伝わっていない。

◎祭神--天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)
 近世の資料・神社覈録(1870)によれば、
  ・武鼓王(タケカイコ)--日本武尊と妃・吉備穴戸武姫(キビノアナトタケヒメ)との御子(神名帳頭註・神社覈録)
  ・稲依別王(イナヨリワケ)--日本武尊と妃・両道入姫(フタジノイリヒメ)との御子(神名帳考証・神社覈録)
    この2説は、続日本後紀に「祭神:熱田大神の御子」とあるによるもの
  ・天火徹燧(アメノホトボシ)--日本武尊東征のとき伊勢斎宮・倭姫命から賜った火打ち石で、尊が焼津で火攻めされたとき、これを以て迎え火を焚き助かったという火打ち石(燧石)を神格化したもの(神名帳考証)
  ・軻遇突智神(カグツチ)--火の神、天火徹燧本来の神名(神名帳考証)
    この説は、社名の“日”を“火”とみて、火の神を祀るとするもの
などがあるという。

 天忍穂耳尊とは天照大神の御子で、尾張氏の遠祖・天火明け尊の父神に当るが、続日本後記がいう熱田大神を天照大神とすれば天忍穂耳尊としてもおかしくはないが、大神を日本武尊ととれば武鼓王または稲依別王となる。
 ただ、両王の母神は日本武尊の妃とはいうものの尾張との関係はみえず、その御子を祭神とするのには疑問がある。

◎社殿等
 表参道の右手(東)にある小道を入った左手の叢林のなかに鎮座する。廻りは樹木に囲まれ静かな環境にあるが、表参道からは木の間隠れにチラッとみえのだけで、訪れる人は少ないらしい。
 棟門(2本の柱の上に切妻屋根を乗せた門)から伸びる瑞垣の中に、一間社流造の社殿が鎮座する。 

 
日割御子神社への入口
(入った左に社殿あり)
 
日割御子神社・全景
 
同・社殿

 なお、尾張名所図会の一葉、日割社・大福田社・南新宮の絵図(右・部分)には、
 参道沿いに鳥居が立ち、拝殿・渡殿・本殿が南北に並ぶ尾張造様式の神社として描かれていて
 嘗ては式内社というに相応しい社殿を有していたことが窺われる。

 絵図には、当社の北に大福田社・南新宮が並んでいる。

 

【孫若御子神社】(ヒコワカミコ)
 延喜式神名帳に、『尾張国愛智郡 孫若御子神社 名神大』とある式内社に比定される神社。
 祭神--天火明命(アメノホアカリ) 
        天忍穂耳尊の御子で、当社の祭祀氏族・尾張氏の始祖 (別名:天照国照火明命)

 表参道の右側(東側)、日割御子神社の北に鎮座する。
 以前は、西門(鎮皇門)の近くに鎮座していたが、明治7年(1874)に大福田社の旧鎮座地にあたる現在地に遷座したという。

 当社創建由緒等の詳細は不詳だが、社殿脇の案内には
  「祭神の天火明命は尾張氏の始祖であり、天照国照火明命・天照玉命とも称されている。
  明治初年に海蔵門の西側に鎮座していたのを、この地に遷座した。
  “ほあかり”とは、“ほが赤くなる”という意味で、稲穂への尊称といわれている」
とあり、
 式内社調査報告によれば(要点抄記)
 ・創建年次は詳らかでない
 ・続日本後紀・承和2年(835)条に、日割御子神社・高座結御子神社とともに名神に列したとあるのが初見
 ・江戸時代の元禄6年(1693)、将軍綱吉の生母・桂昌院が末社19社の造営を行ったとき、その一社として造営された
 ・その後、摂社に昇格
 ・明治になって式内社(論社)であるとの理由で、独立した敷地を有する社殿が造営された
という。

◎祭神
 今の祭神は天火明命だが、古来から諸説があったようで、
 式内社調査報告によれば、
 ・稚武彦王(ワカタケヒコ)--日本武尊と妃・弟橘媛(オトタチバナヒメ)との御子(神名帳頭註)
 ・稚武王(ワカタケ)--日本武尊と妃・両道入姫との御子(特選神名牒他)
 ・応神天皇--天皇が日本武尊の孫(尊-仲哀-応神)にあたることからの説 (神祇宝典)
 ・天孫・瓊々杵尊(熱田宮旧記)--以下理由不明
 ・応神天皇+稚武彦王(熱田太神宮記)
 ・瓊々杵尊+応神天皇+稚武彦王(愛知郡誌)
などがあるが、いずれも根拠不明。

◎社殿
 表参道東側の叢林の中にあり、注意しないと見落とす。
 日割御子社と同じく、棟門から伸びる瑞垣の中に、一間社流造の社殿が鎮座する。

 
孫若御子神社・全景
 
同・社殿


【上知我麻神社】(カミチガマ)
 延喜式神名帳に、『尾張国愛智郡 上知我麻神社』とある式内社だが、今、熱田神宮の境内摂社である当社と、名古屋市南区本星崎町に鎮座する星宮社(式外社)の摂社(末社とする資料もある)・上知我麻神社の2社が論社となっている。
 祭神--乎止与命(オトヨ)
        尾張国造の祖で、建稲種命・宮簀媛命の父
        先代旧事本紀(国造本紀)に、「成務朝に、天別・火明命十三世(十一世の誤記か)孫の小止与命を尾張国造に定む」とある

 正面参道を入った左、別宮・八剣宮境内の西側に東面して鎮座するが、当地への鎮座は昭和24年のことという。

 当社で頂いた参詣の栞には、
  「その昔、尾張国を開拓したのは尾張氏の人々でした。なかでも尾張地方繁栄の基礎を開かれたのは乎止與命ですので、いってみれば、乎止與命は熱田神宮がおまつりされているこの熱田を含めて、尾張国の地主神と申せましょう。(中略)
  更に、この境内に国土開拓・商売繁盛・開運招福の守り神としての大黒様・恵比須様をお迎えし、おまつりすることによって、当社のご神徳は、ますます高まりまとた。
  また、ご鎮座地が東海道五十三次の『宮の宿』にあたり、往来する旅人によってその信仰は熱田神宮とともに全国に広がりました」
とあるが、その創建由緒・年代等についての記述はない。

 また、式内社調査報告には、
 ・創祀は不詳だが、社伝によれば、孝謙天皇・大化3年(647)の鎮座という
 ・古くは、“源大夫社”(ゲンタユウシャ)と称し、古くから熱田七社の一つとして重い処遇を受けた
 ・中世には神仏習合の影響を受け、本地を文殊菩薩とされていた (今でも、公式HPには「文殊菩薩を祀る」とある)
とあるが、ここにも創建由緒は記されていない。

 社伝には大化3年の鎮座とあるが、それを証する資料はない。また今の当社は他所の地から遷座したものともいわれ、この大化3年が現在地への鎮座か、元宮の創建かは分からない。

 江戸時代までの当社は“源大夫社”と称しており、熱田宮旧記には
  「源大夫御前  尾張姓の祖、天照国照天火明櫛玉饒速日尊十一世孫乎戸与命
             一伝 尾張師助 一伝 諸兄尼命 地主神と号す
             故に 人民調を取納め 海浜より大小の魚を貢納す 云々」
とある(中世の文献には源太夫・源大夫殿とあって上知我麻との社名はみえず、熱田尊命記-1677に「源大夫社 一説に上知我麻社」とあるように、源大夫社として知られていたという)
 尾張師助・諸兄尼命の出自・神格は不明。地主神と号すというから、在地の神であろうか。

 この源太夫社は古文献のなかに幾つか登場し、
 ・謡曲・源大夫(熱田神宮参詣をテーマとする曲、作者・成立年不詳)
   後シテとして登場する源大夫神が、「無縁の衆生を利益せんとて 東海道を日夜に守る源大夫の神とは我が事なり」と名乗っている。
 ・平家物語
   「日本武尊が尾張国に下りて 松戸の島といふ所の源大夫といふ者の家に泊まり給へり。大夫に娘あり。名を岩戸姫といひけり。眉目貌好かりければ尊これを召して幸し給ふ。一夜の契り深くして互いに志浅からず。云々」
とあり、日本武尊は源大夫の家に泊まり、娘・岩戸姫と一夜の契りを結んだとある(有朋堂書店版)
 ・神道集(南北朝時代中期)
   「熱田大明神(日本武尊)が天降られたとき、宿を貸されたのが紀大夫神で、雑事を執りおこなったのが源大夫という」
などがある(式内社調査報告、原文未確認)。

 当社は昭和24年に現在地(八剣宮の南)に遷座したもので、それ以前の鎮座地については、
 ・尾張名所図会--市場町通り伝馬町の西にあり 俗に源大夫社又は智恵の文珠ともいふ 
 ・式内社調査報告--もとは第一鳥居の南300mの市場町にあった
という。

 今、神宮近傍に市場町との地名はなく、神宮の南には伝馬○丁目との地名が広がっている。
 ただ、名所絵図に“市場町通り伝馬町”とあり、同・日割社の絵図には、八剣宮南門の前に市場町との地名が記入されていることから、現在の伝馬町の辺りがかつての市場町だったと思われる。

 この市場町に関係して、今、伝馬一丁目2番25号に名古屋市が設置した
  「熱田区のまちかど発見 源大夫社(上知我麻神社)と東海道」
との銘板には、
 「尾張名所図会にも描かれている江戸時代の上知我麻神社。
 熱田神宮の摂社で、江戸時代には源大夫社とも呼ばれ、智恵の文珠様としても知られています。江戸時代の源大夫社前は、東海道と美濃路の分岐点ともなり、往来する多くの人々で賑わっていました。
 源大夫社は、戦後の復興事業のため、昭和24年に熱田神宮境内に遷座され、その後、現在の地には、別の地にあった『ほうろく地蔵』が祀られました。
 場所を変えながら当時から残る道標が、ありし日の賑わいを今に伝えています」
とあり、名所図会に載る源大夫社の絵図(右絵図)と明治時代の写真がはめ込まれている 

尾張名所図会・源大夫社

 この絵図をみると、当時の源大夫社は築地塀に囲まれた中に拝殿・渡殿・本殿を有する堂々たる神社で、前の道(T字路となっているらしい)には往来する多くの人々の姿か描かれ、江戸時代の上知我麻社は地主神を祀る源大夫社として一般に知られ、街道筋に鎮座することから旅の安全を祈願する神社として篤い信仰を集めた当時の賑わいぶりを描いている。

 これらの資料からみると、かつての当社は現伝馬町一丁目あたりに鎮座しており、戦後になって現在地に遷座したものであろう。

 なお、尾張志によれば、市場町鎮座以前の当社は、現南区本星崎町付近にあったといわれている(下記論社の項参照)

◎社殿等
 表参道の西側、八剣宮の南側に東面して鎮座する。
 拝殿は、唐破風付向拝を有する横に長い入母屋造で、左右に短い翼廊が付く。
 本殿は流造らしいが、塀等が高く実見不可能。

     

 拝殿の左右、左に「事代主社」、右に「大国主社」の小祠が鎮座する。
 参詣の栞に、“国土開発・商売繁盛・開運招福の守り神として勧請した”とあるように、この2社は招福・商売繁盛の神エビス・ダイコクの2神を祀ったもので、本社である上知我麻神社をしのぐほどの参詣者が多いようだが、この2社がが何時の頃、どんな経緯で勧請されたのかは不明。


事代主社 
 
大国主社

【下知我麻神社】(シモチガマ)
 延喜式神名帳に、『尾張国愛智郡 下知我麻神社』とある式内社だが、今、熱田神宮境内摂社である当社と、上知我麻神社と同じく、南区本星崎町に鎮座する星宮社の摂社・下知我麻神社の2社が論社となっている。
 祭神--眞敷刀俾命(マシキトベ、眞敷刀咩とも記す)
        殆どの資料には、宮簀媛命の母神というが、先代旧事本紀(天孫本紀)の尾張氏系図には
         「十一世孫乎止与命 尾張大印岐(オワリノオオイミキ)の女子・眞敷刀俾命を妻と為し一男を生む」
        とはあるものの、女子を生んだとは記されていない。
   また、熱田尊命記との古資料には、“尾張の大郞岐女命(オオイラツメ)にして建稲種命及び宮簀媛の母神也”とある。同一女神か。

 なお、当社の祭神については二座とする説があり
 ・熱田宮旧記--乎止与命の妃眞敷媛・玉媛
 ・尾張志--伊奈突智の老翁(イナツチノオヂ)・眞敷刀咩命
があるという。

 玉媛とは邇波県君大荒田の娘で、乎止与命の御子・建稲種命の妃という。とすれば、眞敷刀俾命とは嫁姑の関係にあり、何故玉媛が合祀されたのかは不明。
 伊奈突智の老翁とは、記紀にいう塩土老翁(シオツチノオヂ)のこととされ、当地に初めて塩を作ることを教えた神という(下記)

 当社は今、神宮境内の北西角にあるが、境内から直接は行けず、一旦西門から出て右折、国道19号線を北に進んだ旗屋町交差点の手前右側に鎮座している。

 鳥居脇の案内には、
  「祭神は宮簀媛命の母神にあたり、俗に紀大夫社と称されていた。
  往時の東海道や佐屋街道に面していたことから、古くから旅行安全の神様として信仰の篤いお社である」
とあるが、創建由緒等についての記述はない。

 当社の創祀年代は不詳だが、熱田宮年代記によれば、正平17年(1362・南朝元号)12月に造営されたとあり、元禄5年(1692)冬に楠の御前とともに造替されたという(式内社調査報告)
 正平17年の社殿造営が当社の創建とすれば、当社を以て式内社に比定することはできないが、この記録は当地に於ける社殿造営とみるべきであろう。

 当社は、熱田尊命記に「式内社 俗に紀大夫(キタユウ)の宮と云」とあるが、その由緒等は不詳。
 紀大夫社とは、上知我麻神社の俗称・源大夫社と対になった呼称と思われる。

 この紀大夫神について、
 ・神道集
   「後見の源大夫殿は文殊菩薩である。紀大夫殿は本地・弥勒菩薩で、源大夫殿の兄である。
    熱田大神が最初に天下ったとき、紀大夫殿は宿を貸し、源大夫殿は雑事を行った人である」
 ・平家物語
   「日本武命は、焼津での火難を防いでくれた火石と水石を、冨士の裾野から往路に契った岩戸姫がいる尾張の松子の島へ投げたところ、二つの石は、紀大夫が所有する田の南北に落ち、田は一夜にして森となって多くの木が繁った。
 また、火石が落ちた北は洪水にあっても出水することなく、水石が落ちた南は如何なる旱魃でも水が絶えることがなかった」(大意)
とある。
 今、当社と上知我麻神社とは境内の南北に離れて鎮座するが、本来は源大夫社・紀大夫社一対の神社であったと思われる。

◎社殿
 国道19号線・旗屋町交差点の南東角近く、神宮外郭を少し切り拓いた場所に鎮座し、歩道脇に鳥居が、その奥、瑞垣に区切られた中に小祠がみえる。


下知我麻神社・鳥居 
 
同・社殿

◎上・下知我麻神社の論社について
 尾張国神名帳には、上知我麻神社を「千竈(チガマ)上名神」と、下知我麻神社を「千竈下明神」と記しているが、これは和名抄にいう愛智郡千竈荘に因むもので、現南区本星崎町の辺りを指すという。

 今、本星崎町には星宮社(祭神:天津甕星神)という社かあり、その境内、本殿背後に摂社(末社とする資料もある)として上・下知我麻神社2社が鎮座しているという(不参詣)

 この星宮社について、尾張名所図会には、
  「星大明神社  星崎荘本地村にあり。天津甕星神(アマツミカボシ)をまつる。或は香々背男神(カガセオ)ともいふ」
とあり、山腹にそって社殿が鎮座する絵図がある(下左絵図)

 その右上、本社背後の崖の上に小祠2宇があり、その上に“いなつちのおきな社”(伊奈突智翁社)とあり(下右絵図)
 伊奈突智翁社について
  「同村にあり、当村地主神なり。伊奈突智翁は当村に塩をやきそめし人なり」
とある。

 イナツチ翁とは、尾張志が下知我麻社の祭神とする神であることから、此処に記されている小祠2宇は、上・下知我麻神社2社を指すと思われ、これが式内・上下知我麻神社の論社という社であろう。

 
星の宮・全図
 
同・右上部拡大
(右上に「いなつちのおきな社」とある

 この2社について尾張志(1843)には以下のようにある(要点のみ抄記)
 ・両社は星の宮の社の北(本殿の背後)にあり、上知我麻社に乎止与命、下知我麻社に伊奈突智の老翁・眞敷刀咩命を祭るよし社伝にいへり。
 ・この両社は、星の宮より以前に此処に鎮座したまへる地主神也
 ・この二社は延喜式神名帳に載りて、今は熱田の源大夫・紀大夫といふ社なる由、熱田の鎮座本紀にみえたり
 ・然るに今よく考えれば、此の社(星宮社)こそが旧地の本所なるべし
 ・和名抄愛智郡の千竈荘とは本地村他七村の総称で、七村の内に上下と二所に分かれて、上知我麻社・下知我麻社の座地が往古よりありしなるべし
 ・上知我麻社は乎止与命を祭り、下知我麻社は乎止与命の御妻・眞敷刀咩命を祭れれば、熱田神宮になみなみならぬ御縁ある御社の故、今の如く二社ともに熱田なる市場と旗屋に遷座奉れるならむ
として、星宮社の上・下知我麻神社は、何時の頃かに(年代記がいう正平17年か?)、市場町・旗屋町に遷座したという。

 これを承けて、式内社調査報告は、大略
 ・この両社は、尾張国神名帳が千竈上名神・千竈下明神の社名で表記している通り、和名抄にみえる千竈郷に在ったと考えるのが最も妥当で
 ・尾張志が指摘するように、古代の熱田郷に位置する熱田神宮の摂社を以て式内上・下知我麻神社とするのは困難であろう
として、熱田神宮摂社の上下知我麻神社を式内社に比定することに疑問を呈しながら、
 ・ただ、星宮社に関する史料は江戸時代前期まで溯るものはなく、古い由緒が不明であること
 ・当地付近は和名抄にみえる作良郷(サクラノコホリ)に属していたとの説もあること(本星崎町の北に南区桜台・本桜町との地名がある)
などから、星宮社摂社の上・・・・・下知我麻神社を式内社に比定することにも疑問を呈し、
  「いずれにしても、古代に於ける千竈郷の所在地を明確にすることが必要であろう」
という。

 これらからみると、熱田神宮摂社、星宮社摂社のいずれも式内社の後継社かどうかは不詳というべきかもしれない。

 なお、尾張志が星宮社から遷座したという旗屋村とは、現神宮境内の北西一帯・旗屋町を指し、国道19号線の旗屋町交差点の南東角の辺りに現下知我麻神社が鎮座することから、尾張志がいう旗屋町への遷座というは現在の鎮座地を指すのかもしれない。


【御田神社】(ミタ)
 延喜式神名帳に、『尾張国愛智郡 御田神社』とある式内社だが、熱田神宮摂社である当社と中村区岩塚町に鎮座する七所神社(境内に御田神社あり)とが論社となっている。

*境内摂社・御田神社
 祭神--大年神(オオトシ)
        素戔鳴尊の御子で穀物の神
        別に、保食神説(ウケモチ・食べ物の神、熱田宮旧記他)、稚彦神説(ワカヒコ・穀物神、熱田神体本紀)があるが、いずれも神格は同じ。

 神宮境内の北東部、土用殿の小路をはさんだ東、龍神社北の叢林の中に鎮座する。

 当社HPによれば、
  「大年神を祭神とする。“年”の字には、穀物、特に穂が稔るという意味があり、五穀豊穣の神として崇敬されています」
と簡単にあり、当社の創建由緒・年代等については不記。

 式内社調査報告は
 ・創建由緒は不明だが、御田の社名が示すように、古来、御田(田圃)を祭場として祭儀がおこなわれたことに起因すると考えられる
 ・創祀年代も不詳だが、熱田宮鎮座次第によれば、当社は左右神祇社と並び、天武天皇・朱鳥元年(686)に祀られたと伝える
 ・江戸時代には、宝田社・御田の御前とも称せられ、熱田神宮の摂社とされ、本社の西南・楠御前社(一の鳥居を入った表参道の東側に鎮座)の西隣に南面していた(表参道をはさんだ西側・八剣宮の東側辺りかと思われるが、今、痕跡はない)
 ・今、土用殿の東方、神楽殿の東側より北の清水社へ通ずる参道の中程に西面して鎮座している
 ・古くは、尾張志に「御田は地名也、今春鼓門(シュンコモン・東門)東方に御田(ミタ)といふ地あるは、是旧地也」というように、当社の東にあった字・御田にあったと思われる(現御田社の東、鉄道を越た新堀川の東に宝田町との地名があり、この辺りかもしれない)
として、古くは、東方境外の地にあったとし、
 ・現在の鎮座地は、明治初年に旧社と推定される字御田に近い場所に遷座されたもの
というものの、
 ・嘗ての御田神社が、嘗て式内社としての処遇を受けるほど独立し重視された神社であったかについては、これを裏付けるものはない
として、神宮摂社の御田神社が式内社であることに一抹の疑義を呈している。

 なお、HPがいう「年の字には云々」ということに関して、常用字解(2003・白川静)には
  「年」 (甲骨文での年は)(イネ)と人とを組み合わせ、人が稲を捧げ持つ形、禾は稲の形をした被りもので稲魂の象徴であろう
       禾(稲)は一年に一度稔るので「トシ」(一年)の意味となる。
とあり、年という字には穀物の稔り・五穀豊穣という意味があるという。

◎社殿
 本宮の右(東側)にある神楽殿の東から境内北側に回り込む小路・“こころの小路”を北方向に進んだ右手の叢林に中にあり、
 冠木門から左右に伸びる瑞垣の中に、神明造の社殿が鎮座する(右写真)

 当社は社名・御田に示すように農耕儀礼に関与する神社と思われるが、今の社殿周辺にそれを示唆するものは見えない。
 ただ、大宮の祈年祭・新嘗祭に続き、当社の神前で春は稲贄田植祭、冬は田刈祭が行われるというが、本宮で頂いた「参列できる主な祭典・神事」とのパンフには記載がない。
 

◎烏喰神事(オトグイ シンジ)
 当社での祈年祭(3月17日)では、祭典に先だって“烏喰神事”との神事が行われるという。
 社殿脇の案内には、
  「祈年祭(3月17日)と新嘗祭(10月14日)のお祀りに奉るお供えは、まず、烏に食べさせる儀式が伝わっており、ホーホーと烏を呼びながら、お供えを土用殿の屋根に投げあげる。
  昔は『烏祭り』と称し、烏が食べなければお祭りは始まらなかったという」
とある。

 この神事は、カラスを農耕儀礼と結びついた“神の使い”とみる風習によるもので、烏勧請(カラスカンジョウ)ともいう。
 この神事は、春の農作業開始に先立って、神の使いである烏の挙動でその年の豊穣を占うもので、田の畦等に白紙を敷いて数種の供物(食べ物)を供え、烏が供物のうち、まずどの供物を啄むかによって神意を占う呪的神事であって、熊野三山や宮島の厳島神社などでも行われているという。
 当社の烏喰神事も、単に供物を烏に食べさせるだけではなく、烏の行動によって、その年の農耕に関する神の神意を伺った呪的神事と思われる。


*論社・御田神社(七所社境内摂社)
   名古屋市中村区岩塚町 (熱田神社の北西約7km)に鎮座する、熱田七社を祀る七所社の本殿右手に独立して鎮座する。
   不参詣(以下、式内社調査報告及びネット資料による)

 岩塚町・御田神社社頭に掲げる案内(ネット資料)には、
  「延喜式内の御社なり。其旧址は当岩塚なり。今に其祭式存す。正月17日の御田祭是なり。
   神代の尾張開拓の神を天香語山命(アメノカゴヤマ)と申す。其神の御母・天道日女命(アメノミチヒメ)と申す。
   此命、人々に衣食の道を教え給ふ方法を教え給ふ。
   稲を耕作するには先ず田神・豊宇気大神を祭り給ふ。其祭場のあと御田社是なり」
として、延喜式内・御田神社は当社也というが、その創建由緒・年代等は記していない。

 また、尾張国地名考(1816・江戸後期)には、
  「延喜式御田神社は愛知郡岩塚村にあり。今七社明神といふは是也。
 もとは熱田の摂社なりしが、戦国の後は、鎮皇門内西より第四目(位置不明)に宝田の小社を立て、祈年新嘗を別々に執行せり
 今俗に、宝田を以て御田の神社なりと思ふは甚だ誤りなり」
として、熱田境内にある宝田社(御田社)ではなく、岩塚村にある七所社が式内・御田神社だという。

 しかし、尾張志によれば、七所社とは
  「岩塚村にあり。熱田七社神を祀る。社殿三宇相整えたり。中央本社に日本武尊、右の社に八剣・高倉・大幸田、左の社に日割・氷山二神を相殿す。源大夫社(上知我麻社)は境内未(ヒツジ・南南西)の方にあり。 是を総て社号を七社とぞいふなり」
とあるように、熱田七社を勧請したもので(尾張志に、応永32年-1425-社殿修造とあるから、それ以前からあったと思われる)、そこに御田神社の名はなく
 また、尾張国式社考(1866か)との古文書に、七所社神主の言として
  ・此の社、昔は村の東南烏森村との境に居られたが、後に此の処にうつした
  ・その地を字三田(ミタ)といひて、今神領にして七畝の田畑あり
  ・また、此の地を旧と天神宮ともいふ
とあり、そこにも御田神社については触れられていない。

 その七所社と御田神社を結びつけるのは、昭和7年(1922)に七所社内から「御田御鏡 元慶8年(884)」と刻まれた鏡が発見されたためで、それをうけて、この地に御田神社があったとして新たに社殿を造営したという。

 式内社調査報告は、地名考著者(津田正生・1776--1852)が七所社を以て式内・御田神社とするのは、
  ・上記式社考にいうような所伝があること
  ・七所社に、古儀を伝える「キネコサ祭」と称する田の神祭が残っていること
などを論拠としたものだが、
  ・岩塚村は、古来、熱田神宮の神領地であつたことから、御本社の熱田七社を勧請したものと考えられる
として、「七所神社を以て式内・御田神社とするには問題があろう」という。

 因みに、熱田七社とは、本社・八剣宮・大幸田神社・日割御子神社・高座結御子神社・氷上姉子神社・上知我麻神社をいう。

【一之御前社】(イチノミマエ)
  祭神--大伴武日命(オオトモノタケヒ)
 本宮域の西側通路を北へ入った突き当たりに鎮座する。式外社
 尾張名所図会には
  「御本社の北にあり、祭神:大伴武日命(オオトモノタケヒ)。日本武尊東征のお供せし副将、日本紀・景行紀に見えしなり」
とあり、
 景行紀には、日本武尊東征出発に当たって、「天皇は吉備武彦と大伴武日連とを日本武尊に従わせられた」とある。

【龍神社】
  祭神--吉備武彦命(キビタケヒコ)
 本宮域の東、こころの小路の中程、御田神社の南に鎮座。式外社
 尾張名所図会には
  「御本社の北にあり。祭神:吉備武彦命にして、大伴武日命と同じき副将」
とある。


一之御前社 
 
龍神社 

 なお、Wikipediaによれば、一之御前社祭神は天照大神荒魂、龍神社祭神は吉備武彦命・大伴武日命の合祀となっていて、上記と異なる。 いずれが真なのかは不明。

【南新宮社】
 一の鳥居を入った表参道の右側(東)叢林の中に鎮座。式外社
  祭神--素戔鳴尊
 社殿前の案内には
  「社殿は当神宮唯一の朱塗りである。
  当社の礼祭は、古来、大山祭・祇園祭等と称していた。
  その起源は、平安中期に疫病が流行して、近隣の人々が旗鉾を捧げて当社に疫神を祀ったのを始めとする。
  その後、この旗鉾を活用して大山や車楽の運行を始めたが、明治に入り電線が架けられるようになり廃止された」
とある。

 社殿の左に末社:八子社(ヤコ、祭神:五男神三女神)・曾志茂利社(ソシモリ、祭神:居茂利大神=素戔鳴尊)との小祠2宇がある。

 上記由緒及び本社・末社の祭神からみると、当社は疫病除けの神としてのスサノオを祀ったものだが、本来の祭神は防疫神・疫病除けの神である牛頭天王(ゴズテンノウ)であって、明治の神仏分離によって牛頭天王が排斥されたため、同じ神格を持つスサノオに変わったものであろう。

 
南新宮社
 
末社・八子社
 
末社・曾志茂利社

 末社:八子社の祭神も、古くはゴズテンノウの八柱の御子神だったものを、アマテラス・スサノオの誓約によって成りでた5男神・3女神に替えたもの。
 曾志茂利社の“ソシモリ”とは、高天原を追われたスサノオが天降ったという朝鮮半島の山を指すが、この山にはゴズテンノウが祀られていたとの説もあり、この末社もゴズテンノウからスサノオへ変わったものと思われる。


※境外摂社
【青衾神社】(アオフスマ)
  名古屋市熱田区白鳥2丁目
  祭神--天道日女命(アメノミチヒメ)
  延喜式延喜式に、『尾張国愛智郡 青衾神社』とある式内社だが、今は熱田神宮の境外摂社とされている。

 熱田神宮の西鳥居から外に出て、国道19号線を渡り(歩道橋あり)白鳥小学校の南側道路を西進した次の辻の北西角に鎮座する(古くは現鎮座地の北西にあったというが詳細不明)
 歩道脇に小ぶりの鳥居が立ち、その奥、狭い境内の木柵で囲まれた中に、神明造の社殿が建つ。
 鳥居脇に「熱田神宮摂社 青衾神社」との石柱が立つだけで、案内等なし。


青衾神社・鳥居 
   
同・社殿

*由緒
 当社の創建由緒・時期等は不明。
 諸資料によれば、嘗ての熱田神宮には東六社・西六社と称する2社があり、東六社には青衾社、西六社には白衾社が祀られ、いずれも“アオブスマ”と称していたといわれ、
 熱田宮旧記には、
  ・東六社--姉子社・今彦社・水向・素戔鳴社・日長社・青衾社 日神 延喜式に曰く青衾神社
  ・西六社--姉子社・今彦社・水向・素戔鳴社・日長社・白衾社 月神 
  東西十二社を十二月に配当し、同体の神を東西に分け給ふ 青白二社仝祭
とある。
 これによれば、東・西六社は、同じ6柱の神を東西二ヶ所に祀ったもので、そのとき、青衾社のみは祭神日神・月神を別々に分けて東西に配し、社名を青衾社・白衾社と呼び分けたものと思われる。

 一方、尾張名所図会(1844)には、
 「青衾祠   同所東西に二祠あり。西を白衾とかけり。本国帳に正二位青衾名神と記せり。
          海蔵門外東西十二社と称す。白衾社は田中村にあり。
  青衾神社  田中にあり。延喜式神名帳に青衾神社、本国神名帳に正二位青衾神社とある是なり。
          海蔵門の外なる青衾祠は此社の遙拝所なるべし。末社・新氷上祠境内にあり」
とある。

 また名所図会・熱田大宮全図をみると、南の正門である海蔵門の南、参道の右手(東側)に小祠6宇が並んで描かれ、北から姉子・今津・水向・素戔鳴・日永・青衾(右端)とあり、これが東六社であろう。
 また、海蔵門から西へ延びる瑞垣の前面に小祠5宇が描かれ、これが西六社と思われるが、そこには東(右)から姉子・今津・水向・素戔鳴・日永の五社の名はあるものの白衾社の名はない。
 上記説明に「白衾社は田中村にあり」とあることから、江戸後期での白衾社は既に田中村に遷っていたのかもしれない。


名所絵図・西六社(実際は五社) 
 
名所絵図・東六社

 また、江戸時代の地図によれば、熱田神宮南西方に田中との寺町があり、寺に囲まれた一画に小さく青衾神社が描かれているという。(ネット・名古屋神社ガイド)
 ネット地図によれは、青衾神社が鎮座する白鳥町には多くの寺々がみえることから、この寺町・田中とは白鳥町一帯の古地名で、青衾神社は江戸時代から現在地に鎮座していたのかもしれない。

 この青衾社・白衾社のその後について、諸資料には
  「西六社の白衾社が、現在、白鳥2丁目にある青衾神社に当てられ、東六社の青衾社は明治に入って廃せられた」
とあるが、明治に入って、何らかの理由で東・西六社が廃された時、東六社の青衾社は田中村の白衾社に合祀され、社名を青衾神社と改称したのかもしれない。

 今、神宮境内に東・西六社はみえないが、境内末社に“六末社”との小社(合祀社)があり、その祭神からみて(青・白衾社が乙子社に変わっているが、他は同じ)、これが東・西六社の後継社ではないかと思われる。

 なお、白衾の“白”を“アオ”と呼ぶのは、平安時代の宮中儀礼・白馬節会(1月7日)を“アオウマノセチエ”と称し、白馬(葦毛の馬を含む)を天覧に供して邪気を祓ったように、白と青は通底するからで、いずれも邪気を祓う呪力があるとされた。

*祭神
  祭神・天道日女命とは、天照大神の孫・天火明命の妃で(出雲の大神・大己貴命の娘)、尾張氏の遠祖・天香語山命(高倉下命)の母神という(勘注系図、先代旧事本紀では饒速日命が天上に居たときの妃で高倉下の母とある)

 ただ、幾つかの異説があり、式内社調査報告によれば
 ・当社の前身とされる白衾社の祭神が月神ということから(熱田宮旧記)、当社もそれを継承して月神・天魄月(アメノヨノミタマ)
 ・饒速日命(出口延佳)
 ・天香語山命(津田正生)
 ・天日魂命(天火明命、大日本史)
などがあるというが、
 ・天香語山命の別名が高倉下命であり、これが境外摂社・高座結御子神社の祭神ということから、摂社の中に同じ神を祀る神社が2社あることになり、天香語山命を祀るというのには疑問があること
 ・現祭神・天道日女命も、尾張氏に関係する神とはいえ、当社祭神とする根拠がはっきりしないこと
などから、古来からの伝承にいうように月神とするのが妥当かともいう。

 これらの他に、里人の話として、「子供が生まれて33日目に青衾神社にお参りし、その後、熱田本宮・八剣宮に詣る」という風習があり、当社は特定の神ではなく、当地の産土神を祀るとする説もあり、社名・アオフスマは産土(ウブスナ)が転じたもの、ともいう。

 その他の境外摂社
  ・式内・高座結御子神社(タカクラムスヒミコ式内名神大社)--高倉下命(タカクラジ・尾張氏の遠祖・天香語山命の別名)--熱田区高蔵町
     高蔵地区の産土神を祀る社で、天武天皇の御代あるいは熱田本宮と同時期の創建という
  ・式内・氷上姉子神社(ヒカミアネゴ、式内小社)--宮簀媛命--緑区大高町
     宮簀媛が草薙剣を最初に祀った社といわれ、氷上姉子は宮簀媛の別名ともいう
  ・松姤神社(マツゴ)--宮簀媛命--熱田区神宮
があるが、地理不案内のため不参詣。

※境内末社 
 一の鳥居から二ノ鳥居間の東側叢林中(南から)
*楠御前社(クスノミマエシャ)
  祭神--伊弉諾尊・伊弉冊尊
 傍らの案内には
  「安産や縁結び並びに病気平癒の神様として、俗に『子安神』・『お楠さん』と称されている。
  江戸時代中期の熱田社問答雑録に『社(ツチ)の神也、古楠樹を主とする』とあり、社殿がなく瑞垣の中に楠の神木が祀られている」
とある。

 表参道脇に立つ鳥居を入った突き当たりの左手に、南面して鎮座する。
 社頭に立つ鳥居の奥、拝所から左右に伸びる瑞垣の中に社殿はなく、玉砂利を敷いた中に数本の樹木が立っているだけ。
 樹木を神の依代として崇拝した古来の信仰を継承する社といえる。

 
表参道脇の鳥居
(奥左手に社殿あり)
 
楠御前社
 
同・瑞垣内

*徹社
(トオスノヤシロ)
  祭神--天照大神和魂
 表参道東側の叢林の中、楠御前社の北に鎮座する。

 棟門から伸びる瑞垣に囲まれた中に神明造社殿の屋根が見えるだけ
 資料なく由緒等不明。

 

 二ノ鳥居から三の鳥居間の東側叢林中(南から)

*六末社
  表参道東側の叢林に中に、同形の小祠6宇が西面して南北に並ぶ(北から)
  ・乙子社(オトゴ)    祭神--弟彦連(オトヒコノムラジ)
                尾張名所図会に、祭神弟彦連は天火明命14世の孫とある
  ・姉子社(アネコ)    祭神--宮簀媛命
  ・今彦社(イマヒコ)   祭神--建稲種命
  ・水向社(ミカ)     祭神--弟橘媛命
  ・素戔鳴社(スサノオ) 祭神--素戔鳴尊
  ・日長社(ヒナガ)    祭神--日長命(ヒナガ)
               尾張名所図会に、天照大神御魂神を祀る。
               天照御魂は天火明命にして・・・とあるが詳細不明 
 
六末社
(左端が乙子社)

 社頭に案内なく詳細不明だが、明治になって廃されたという『東六社』『西六社』と、当末社の構成が一社(乙子社)を除き同じことから、嘗ての東・西六社の後継社かとも思われる(上記・青衾神社参照)

*内天神社(ウチテンジン)
  祭神--少彦名命(スクナヒコナ)
 六末社の北に鎮座する。

 瑞垣に囲まれた中に数本の樹木が立つだけで、社殿はない。
 尾張名所図会に
  「海蔵門のうちにあり。祭神・少彦名命にして京都五条天神(京都市下京区)に同じ」
とあるが、他に資料なく創建由緒等は不明。

 
内天神社
 
同・瑞垣内

 二ノ鳥居手前の東鳥居から西鳥居に至る東西参道沿い(東から)

*大幸田社(オオサチダ)
  祭神--宇迦之御魂神(ウカノミタマ・穀物神)

 東西参道の北側に鎮座する小祠で、瑞垣で区切られたなかに、神明造の小祠が鎮座するのみ。
 穀物神・ウカノミタマを祀ることから農耕関係の神社と思われるが、資料なく鎮座由緒等不明。
 

*東八百万社(ヒガシヤオヨロズ)
  祭神--東国坐八百万神(トウゴクニイマス ヤオヨロズノカミ)
*西八百万社(ニシヤオヨロズ)
  祭神--西国坐八百万神

 この2社は、表参道(二ノ鳥居)をはさんで東西に鎮座し、両社あわせて全国の神々(八百万神)を合祀した小祠だが、資料なく鎮座由緒等不明

 なお、この2社の北に接するように『信長塀』の一部が残っている。
 信長塀とは、永禄3年(1560)織田信長が桶狭間の戦いに出陣する折、当社に祈願して大勝を得たので、その御礼として奉納した瓦葺きの築地塀で、全長400m程のうち約120mが現存するという。

 
西八百万社
(右が信長塀)
 
東八百万社
 
信長塀(一部)

 本宮域の東、こころの小路を進んだ奥の叢林のなかに小祠一宇が鎮座する。

*清水社
  祭神--罔象女神(ミズハノメ・水神)
 本宮域の東、こころの小路の奥にある小祠、水神・ミズハノメを祀ることから、近くに泉などがあるかと思われるが痕跡なし。
 資料なく鎮座由緒等不明 



 表参道から西へ進んだ西鳥居の脇に末社一宇が鎮座する。
*菅原社
  祭神--菅原道真

 傍らの案内には、
  「学問の神様として古くから信仰の篤いお社である。 
  享禄の古図(1529頃)にも描かれ、天満之神社とも外天神とも称されていた」とあり
 
尾張名所図会・熱田大宮全図(1844)には、鎮皇門(西門)から外に出た築地塀脇に「外天神」との小祠があり、境内の内外は別として、古くから略同じ場所に鎮座しているらしい。

 
西鳥居
(入った左に菅原社がある)
 
菅原社・正面

同・社殿


※境外末社
  ・鈴之御前社(レイノミマエ)--天鈿女命(アメマウズメ)--熱田区伝馬町
  ・南楠社(ミナミクス)--熱田大神--熱田区伝馬町
  ・浮島社--天穂日命(アメノホヒ、アマテラス・スサノオの誓約によって成り出た五男神の一)--瑞穂区浮島町
  ・影向間社(ヨウゴウノマ)--熱田大神--熱田区白鳥
  ・琴瀬山社(コトセヤマ)--熱田大神・大山津見神(オオヤマツミ・山の神)・久々能智神(ククノチ・樹木の神)--北設楽郡東栄町
があるが(以上、Wikipedia熱田神宮に加筆)、その鎮座由緒等は不明。
 地理不案内のため不参詣。

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