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酒君塚(酒君塚古墳跡)
大阪市東住吉区鷹合2-5
                                                       2020.09.14訪問

 近鉄南大阪線・針中野駅の南南西約300m、周囲を民家に囲まれた「酒君塚公園」の中に位置する。

 公園の東側半分は低い墳丘状に盛り土されており、その頂に『酒君塚』と刻した石碑が立ち、周りには休憩所・ベンチ等がおかれている。
 公園西側はブランコのある広場で、広場東部に墳丘の斜面を利用したスベリ台があり、子供連れの親子が遊びにきていた。

 
酒君塚公園・航空写真
(右側のに石碑が立つ)
 
酒君塚・石碑
 
同 左

 石碑の背後に立つ案内には、
 「酒君塚  
 酒君は、日本書紀・仁徳天皇の41年3月条によれば、百済の王族であり、仁徳天皇の命を受けて鷹を飼育したとあります。
 また、鷹合の地名は、仁徳天皇の43年9月条に、
  『是の月に、はじめて鷹合邑を定む。故、時人、その鷹養う処を名付けて鷹合邑という』
の記事にちなむといわれています。
 この酒君塚は、江戸時代中頃に成立してた“摂津志”によれば、
  『住吉郡鷹飼部第宅の古蹟 鷹合村にあり。また、鷹甘部の墓あり。今平塚と称す』
とあり、“鷹甘部の墓”あるいは“平塚”と呼ばれていたことが分かります。

 発掘調査の結果、上部を削られて低くなった古墳に、江戸時代の終わりから明治時代のはじめに盛土をして、墳丘状にしたものであることがわかりました。もとの古墳の形状など、くわしことは分かりません。

 頂上に立つ石碑は、明治34年(1901)に建てられたもので、中央に大きく『酒君塚』、左下に『正四位男爵国見□□」と、題字の筆者の署名が記されています。 大阪市教育委員会
とある。

 曾て、酒君塚の下には古墳があったといわれ、東住吉区100物語(東住吉区HP)には
 ・墳丘の長径35m以上 高さ2m前後
 ・出土した円筒埴輪から、築造時期は4世紀末で、田辺古墳群では最も古い古墳であることも明らかになりました。

 ・この古墳(平塚)は、御勝山古墳に次ぐクラスの平野川に至る駒川・今川水系の首長墓であり、田辺古墳群の被葬者の頂点に立った倭王権とも関わりの深い人物であるとされています。
とあり、右の断面模式図が載せられている。 

茶色部:削平された古墳
その上部:江戸時代以降の盛り土

 これらによれば、当古墳は南北を軸とした前方後円墳だったようだが、周濠の有無・埋葬施設・被葬者等は不明。
 いま実見したところでは、東側一帯は緩やかな墳丘状を呈してはいるものの、南北東側には樹木等が群生していて全体像は掴みにくく(開けているのは西側のみ)、これを古墳と認識するのは困難。


公園・南東角附近
(頂への石段があり、側らに『酒君塚公園』との標識が立つ
左の建物は「随願地蔵堂」)
 
西側から
(緩やかな墳丘状をなしており、
西側に斜面を利用したスベリ台がある)

南西方から

 なお、塚名となっている「酒君」とは、
 書紀・仁徳41年春3月条に、
 ・紀角宿禰を百済に遣わした。このとき百済王の王族・酒君(サケノキミ)に無礼であったので、宿禰は王を責めた。
 ・王は畏まって酒君を縛り襲津彦(ソツヒコ)に従わせて日本に送った。
 ・渡来した酒君は石川錦織首(イシカワニシキオリノオビト)の家に逃げ隠れ、偽って「天皇は私の罪を既に許してくださった」といった。
 ・久しくして、天皇はその罪を許された。
 
 同43年秋9月1日条に。
 ・依網(ヨサミ)の屯倉の阿珥古(アビコ)が変わった鳥を捕らえて、「初めてみる鳥です」として天皇に奉った。
 ・天皇は酒君を呼んで何の鳥かと尋ねると、酒君は『この鳥の類は百済には沢山いて、馴らすと人によく従います。また速く飛んでいろいろの鳥を取ります。百済の人はこの鳥を倶知(クチ)といいます』といった。これは今の鷹である。
 ・それで酒君に授けて養わせた。いくらも経たぬうちに馴れた。酒君は鞣し革の紐を足につけ、小鈴を尾につけ、腕の上に留まらせて天皇に奉った。
 ・この日、天皇は百舌鳥野においてになって狩りをされた。その時、雌雉が沢山飛び立った。そこで鷹を放って捕らせると、たちまち数十の雉を得た。
 ・この月、はじめて鷹甘部(タカカイベ)を定めた。時の人はその鷹を飼うところを鷹飼邑といった。
とある(大意)百済系の渡来人で、鷹飼部の始祖という。

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