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石仏の道から交野山へ

 交野市の東部・枚方市との市境近くに聳える交野山(H=344m)への登山路は、倉治集落から“源氏の滝”を経て入る免除川沿いの路と、その南・神宮寺集落から入る路とがあり、後者は“石仏の道”と呼ばれる。曾て繁栄を誇った開元寺への参詣路である。
 この石仏の道沿いには、その名の由縁となる5躰の石仏(磨崖仏を含む)のほか、旧石器・縄文時代の遺跡各1処・廃開元寺跡(推定地)などが点在し、交野山の頂上附近には通称“観音岩”を中心とする幾つかの巨岩(磐座)群が座っている。

  @:天平時代開元寺推定地   A:神宮寺縄文時代住居跡
  B:弥勒菩薩石仏         C:神宮寺先縄文時代遺跡
  D:二尊石仏            E:阿弥陀如来立像石仏
  F:阿弥陀三尊磨崖仏      G:阿弥陀三尊磨崖仏
  H:岩倉開元寺多宝塔跡    I:岩倉開元寺推定地
  J:交野山の磐座
石仏の道/略地図
石仏の路・略地図

※古代遺跡
 生駒山系北端の西側山麓に位置するこの辺りに人が住んだのは、今から約2万ないし2万5千年前のことだという。それを証するのが、石仏の道の西より・入口付近に残る、旧石器時代・縄文時代の遺跡各1ヶ所である。
 いずれの遺跡も“神宮寺”(ジングウジ)を冠している。“神宮寺”(神仏習合時代、神社に併設されていた寺院)とは、古く、この辺りに盤踞した渡来系の機一族が、その祖先・漢人庄員を祀った機物神社(交野市倉治)の神宮寺がこの辺りにあったことによるという(郡南街道沿いの通称・宮山にあったというが、はっきりしない)

A:神宮寺縄文時代住居跡
 神宮寺集落から道なりに山手に入ったところにある、@:天平開元寺推定地の少し先のミカン畑の中に残る遺跡で、今、『神宮寺縄文時代住居跡』との石標が立っている。
 当遺跡の発見は、昭和29年(1954)10月、神宮寺宮ノ下で縄文時代の“石鏃”が発見されたことにはじまり、以後、昭和62年まで断続的に調査がおこなわれ、石器31点、縄文土器163点、土師器など43点、炉跡5基が発見されている。

 今、“神宮寺遺跡”と呼ばれる当遺跡は、標高433mの交野山から西北に延びた尾根が急斜面から緩斜面に変わった標高100mほどの台地上にあり、台地南の急峻な谷の下には小川が流れ、人々は、この小川から水を得ていたのだろうという。

縄文・住居跡 縄文・住居跡石標

C:神宮寺先縄文(旧石器)時代遺跡
 当遺跡は、縄文時代住居跡から数十b入った小さい広場の隅に石標が立っている。すぐ右に、並ぶようにして弥勒菩薩石仏がある。
 交野市史(考古編・1992)によれば、
 「昭和31年(1956)の秋、神宮寺集落の東南、“南町宮跡”を少し登った弥勒菩薩石仏(後述)の下のミカン畑で2点の石器が採集された」
とあり、これが交野市内ではじめての旧石器発見という。
 この時採集された石器は、“握斧(長=9cm・幅=6cm・厚=2cm、サヌカイト製)”と“ナイフ形石器(長=6cm・幅=2cm・厚=1cm、サヌカイト製)”だが、握斧は石器を剥ぎ取った後に残った原石(石核)ではないかとの説もあるという。
 今、現地にはミカン畑のなかに『神宮寺先縄文時代遺跡』との石標が立つ。先縄文時代とは、旧石器時代を指す古称。

先縄文遺跡
右の遺跡跡を示す石標が立つ
(このすぐ右手に、弥勒菩薩石仏がある)
先縄文遺跡・石標

※開元寺
 室町あるいは鎌倉の頃に廃寺となったという開元寺は、前期・後期の推定地・2ヶ所があり、神宮寺集落近くのそれを『天平時代開元寺』(以下・天平開元寺という)、交野山山頂付近のそれを『岩倉開元寺』という。

@:天平開元寺推定地
 枚方・交野地方には、古くから大陸や半島からの人々が渡来した土地として知られ、交野市史によれば、この地方に入った渡来人のうち、天野川・穂谷川などの川沿いの低地に入った人々は主として稲作農耕に従事したが、東部や北部の農耕に適しない山麓や丘陵地には、養蚕・機織あるいは須恵器製作を業とする人々が入ったという。
 神宮寺集落を含む倉治の地は、5世紀頃、大陸からきた漢人庄員によって開かれたとされ、その中心となる機織技術をもった集団は、その生産する機織物への需要の多さから大いに繁栄し、次第に大きな勢力となっていったという。
 その後、壬申の乱に際して倉治機織集団の長が大海人皇子に味方したことから、戦勝後即位した天武天皇から“交野忌寸”(カタノイミキ)の姓を賜っている。
 機織りを業とする交野忌寸一族の繁栄は奈良後期・天平時代になっても続き、その繁栄のなかで、その祖・漢人庄員を祀ったのが倉治の“機物神社”であり、氏寺として神宮寺集落の東南の地に建立したのが“開元寺”だという。

 当寺の創建年次については天平年間(729--49)というだけではっきりしないが、奈良・興福寺が河内国交野郡にあった末寺について記した興福寺官務牒疎(中世の頃)
 「尊延寺 交野郡芝村郷に在り、宣教大師天平三年勅願草創
  百済寺 同郡中宮郷にあり、宣教大師開基・・・
  開元寺・徳泉寺・津田寺、同郡に在り、倶に宣教大師開基 坊舎八舎之れ在り」
とあることから、同じ宣教大師が創建した尊延寺と同じく聖武天皇・天平3年(731)前後の創建と推測されている。
 また、その規模等についても確たる資料はないが、「坊舎八舎之在り」とすることから、同時期の百済寺や津田寺などと同じく、南から南大門・中門・東西両塔・金堂・講堂・食堂を南北に並べた薬師寺様式の伽藍配置だったと推測されている(交野市史)

集落から山手に入ったすぐの
ミカン畑脇の道端にある

 この天平開元寺が、鎌倉時代に入っての山岳仏教の影響を受けて、天平時代からの古い地を捨てて交野山上に移ったのが“岩倉開元寺”である。

◎岩倉開元寺
 交野山の頂上には“観音岩”と呼ばれる磐座(巨巌)があるが、その磐座附近から東南の斜面にかけてあった大規模な山岳寺院を、古代からの聖地・磐座に因んで『岩倉開元寺』と呼んでいる。

 岩倉開元寺についての文献資料がほとんどないため、創建・廃寺年月など不明。
 ただ、昭和29年から数年にわたる調査によると、寺跡から二層になった焼土層が発見され、その出土瓦の様式などから、下層(最初の寺院)は鎌倉時代の寺院で、上層は室町時代初期に再建されたものだが、これも焼失、その後は山上での再建はならなかったという。

 この2回目の焼失について、倉知地区に残る伝承では、当寺は織田信長によって焼き払われたためという。石山本願寺攻略に先立ってその援護者である河内の諸城を攻略破壊していること(天正3年・1575)、また当寺がその4年前に焼き払われた比叡山延暦寺の末寺であったことなどから、当寺も破壊対象になったと思われ、この伝承は「ある程度の真実性を認めざるを得ない」(交野町史)という。

 当寺は一ヶ所にまとまった伽藍配置ではなく、交野町史(1963)には、
 「鎌倉時代には交野山の南原標高230〜300mの間に、東南から西北におよそ400mにわたり、点々と山の斜面を削って、28宇の伽藍を建てならべたといわれるが、現在認めうるところ約20ヶ所である」
と記し、右の略図を示している。

 また、出土した鉄鏃や土塁趾・切り通し跡などからみて、当寺は単なる山岳寺院というより、多くの僧兵などを擁した戦略的城郭としての一面をもっていたらしいという。これが、信長による焼き打ちをうけた一因でもあろう。
岩倉開元寺趾略図

 当寺焼失後の経緯ははっきりしないが、交野町史によれば、
 「江戸幕府の正保4年(1647)に、滝の入口(現倉治公園付近)にささやかな堂宇が再建され、享和元年(1801)刊の河内名所図会には、小堂と庫裏を生け垣で取り囲んだ寺に“滝本坊”と記してある。
 それは、明治時代になってもあまり変わらなかったようだが、その後住職が続かず、無住のまま自然廃寺になったらしい」(大意)
という。
 この記述によれば、岩倉開元寺の後継寺は滝本坊と思われるが、信長焼き打ちの祭、持ち出されたといわれる不動像が源氏滝脇の宣春寺に残っている(下記)ことからみると、宣春寺が後継寺ともとれる。

 今、倉治公園付近に滝本坊趾に関する痕跡は見当たらず、源氏の滝への道端の“三宝荒神遙拝所”脇に、ささやかな石碑(下記)が立っているのみ。

◎源氏の滝

 遙拝所前を進んだ突き当たりにある滝。交野山中の白旗池から続く谷川にある滝で、高さ約18m。
 滝の左に屏風状の巨岩があり、その上部に不動明王を意味する梵字が刻してある。
 交野山観音岩の納経穴から出土した銅銘板に、『瀧之脇奉彫不動梵字』とあり、山上の磐座に彫られた正観音梵字や三宝荒神梵字と同じ頃(寛文10年・1670頃・下記)、大阿闍梨法印実伝によって彫られたものらしい。
 かつて修験者達は、この滝で身を浄め、巨岩を前にして不動明王への祈願を凝らしたという。

 古く、岩倉開元寺の境域がこの辺りまで及んでいたようで、開元寺に因んで“元寺滝”(ゲンジノタキ・開元寺滝とも)、地名をうけて“倉治の滝”ともいう。
 以前は滝壺まで行けたが、今は落石防止とかで手前にフェンスがあり、近づけない。
源氏の滝
源氏の滝
不動明王の梵字を刻した巨岩
梵字を刻んだ巨岩
不動明王の梵字
不動明王を示す梵字

 滝の手前右手(西側)に巨岩(磐座であろう)が座り、その上に不動明王像が立ち、その前(道の反対側)、宣春寺への石段(裏参道)脇に
  『源氏瀧不動明王 行基菩薩作』
との古い石碑が立つ。これが磐座上の尊像(見たところまだ新しい)を指すのか、宣春寺の黒焦げ不動像を指すのか不明。いずれにしろ、行基作は疑問。
源氏の滝・手前に坐す岩倉
滝の手前に座る磐座
磐座上の不動尊像
磐座上の不動像
源氏の滝・不動明王の石標
源氏瀧不動明王の石標

H:岩倉開元寺多宝塔の跡
 整備された石仏の道を過ぎ急斜面の山道を登ると、目の前の木立の中に累積する巨石がある。赤い鋼製階段を登り巨石群の裾を右手に回りこみ、少し進んだ処に“岩倉開元寺の多宝塔跡”との石標が立つ。上記・略図のA地点。

 交野市史によれば、
 「礎石は正方形に配置され、入口は四方柱間の中央に開かれている。更に地山を利用した亀腹が中央部にあること、出土した瓦の中、下り棟の端に使用したと考えられる“隅木の蓋”があることから、この台地の建造物は“多宝塔”あるいは“層塔”であったと推定される」
というが、これ以上の詳細は不明。
岩倉開元寺/多宝塔跡地 岩倉開元寺/多宝塔跡の石標 岩倉開元寺/多宝塔跡・礎石配置図
礎石配置図

I:岩倉開元寺推定地
 多宝塔跡を過ぎ、やや平坦となった山道の分岐路に、『此附近 岩倉開元寺遺跡』との石標が立つ。その前に休憩所の四阿があり、その左手、遠く赤い鳥居が見える山道を進むと磐座・三宝荒神を経て交野山・観音岩へ出る。
 交野市史に、
 「この地点の建物は、一部掘削・盛土はあるものの傾斜した地形にほぼ順応させて建てたと考えられ、出土した仏具・瓦その他の遺物からみて、相当規模の建物があったと考えられる」(大略)
と記し、上記・略図のB地点と思われる。



道の交点に立つ推定地石標
(右の階段道は石仏の道へ続く)


※石仏の道

 石仏の道には、西から東にかけて4箇所・5躰の石仏・磨崖仏が点在する。いずれも交野市指定文化財(平成14年9月指定)

B:弥勒仏坐像石仏   
 C:神宮寺旧石器時代遺跡のすぐ東にある石仏で、岩倉開元寺の境域を示す傍示石(結界石)でもあったともいう。
 舟形をした岩のなかに、二重円相光背を背負った如来形仏像が蓮華座の上に座っている。右手は胸の前に挙げた施無畏印(人々を安心させる印)を、膝の前の左手は触地印(悪魔を退ける印)を結んでいる。素朴な表現をもつ穏やかな仏像である。
 はっきりした尊名は不明ながら、岩倉開元寺が奈良・興福寺の末寺であり、興福寺が属する法相宗の開基が弥勒菩薩であることなどから、弥勒仏坐像と推測されている。
 ・製作年代     13世紀(鎌倉時代)
 ・舟形石の高さ  180cm
 ・仏身全高      88cm

石仏の道/弥勒仏坐像
(左の石柱は、先縄文時代遺跡)
石仏の道/弥勒仏坐像石仏(拡大)

D:二尊石仏
 傍らに立つ案内板がなければ見落とししそうな小さな石仏で、道端の崖の下にひっそりと座っている。
 一つの石に二躰の仏像が彫られた石仏だが、全体に摩耗が激しく仏形ははっきりしない。向かって左は阿弥陀如来で、右は両手を胸の前で合掌している比丘(修行僧)とみえるが、仏形がはっきりしないので“二尊石仏”と名づけたという。
 ・製作年代     不明
 ・石の高さ      40cm
 ・阿弥陀仏身高  11.4cm
 ・比丘形身高    12cm

石仏の道/二尊石仏 石仏の道/二尊石仏(拡大)

 



 二尊石仏前を過ぎた路の中ほど、参詣路の北側(左手)
   E阿弥陀如来立像
 が、反対側の谷の方を向いて
   F阿弥陀三尊磨崖石仏
 が鎮座している。
石仏の道
左:E阿弥陀如来立像石仏
右:F阿弥陀三尊磨崖石仏

E:阿弥陀如来立像石仏
 舟形光背の中に阿弥陀如来像が半肉彫りされているが、光背上部および石仏顔面の右側が欠けている。
 印相は、右手を挙げ左手を降ろした来迎印。
 ・製作年代   16世紀(室町時代)
 ・光背全高   97.5cm  ・最大幅  27.5cm
 ・仏像全高   76cm
 この辺りの北側斜面は“鳩が谷”(“墓が谷”の訛りか)とも呼ばれ、以前、この谷から骨壺が出土したことから、中世頃には開元寺関連の墓地だった可能性もあり、この石仏も、墓地に葬られた死者への供養仏か、とも考えられている。

石仏の道/阿弥陀如来立像石仏 石仏の道/阿弥陀如来立像(拡大)

F:阿弥陀三尊磨崖石仏
 E阿弥陀如来立像石仏と路を挟んだ向かい側の石に彫られた三尊磨崖仏。路の反対側(南側)の中央部に彫られているが、谷に向かう急斜面のため正面からは拝めない。
 蒲鉾型龕の中に半肉彫りで彫られた三尊磨崖仏。尊形ははっきりしないが、光背の左外に阿弥陀如来を示す梵字(キリーク)が陰刻されていることから、中央の本尊は阿弥陀如来坐像、脇侍は観音・勢至菩薩とされる。
 本尊の右側に「文明11年己亥二月」、左側に「道満敬白」との刻銘があるというが、肉眼での確認は無理。この刻銘から応仁の乱直後の室町時代中期・1479年の作とされ、当石仏の路で年代確定が可能な唯一の石仏。
 昔の参詣路は石仏の下を通っていたようで、人々は石仏を仰ぎ見るかたちで登ったと伝えられている。
  ・製作年代   1479年(室町時代中期)
  ・岩の全高    340cm
  ・石仏龕高    43cm    ・龕下幅   55cm
  ・中尊全高    29cm
  ・右脇侍      24cm     ・左脇侍  26.5cm

石仏の道/阿弥陀三尊磨崖仏 石仏の道/阿弥陀三尊磨崖仏(拡大)
左に梵字が見える

G:阿弥陀三尊磨崖石仏
 この辺りは参詣路の最奥部にあたりで標高約160m。、ここを過ぎるとやや急勾配の山道となり、この辺りが岩倉開元寺伽藍域への入口だったらしい。

 参詣路の右側、左に傾いた不安定な大石の上部、四角い龕の中に半肉彫りの三尊が並んでいる。
 中央上部に阿弥陀如来坐像が蓮華座上に座り、両手を前に組んだ阿弥陀の定印を結ぶ。
 その下方の両脇に観音・勢至菩薩の脇侍が、蓮華座の上に立つ。向かって左の観音は両手に蓮華座を捧げ持ち、右の勢至は合掌しているように見える。資料によれば、「法界」との刻銘があったというが今は読み取れない。

    ・製作年代   推定15世紀頃(室町時代)
    ・岩の全高    250cm
    ・石仏龕高    43cm    ・下幅      55cm
    ・中尊全高    29cm
    ・右脇侍      24.5cm   ・左脇侍    26.5cm

石仏の道/阿弥陀三尊磨崖石仏 石仏の道/阿弥陀三尊磨崖石仏


J:交野山の磐座
 交野市のシンボルともいわれる交野山(コウノ山−但し、交野市はカタノ市と読む)は、古く、北麓に住む住民から神奈備山として崇敬された霊山で、鎌倉時代から“葛城北峯(生駒山系)の宿(シュク・修験道の霊所)・17ヶ所”の一所として知られ、古書には甲尾・鴻尾山・交野尾などと記されている。
 その頂上には巨岩がある。古代人がカミの降臨する聖地として崇めた磐座(イワクラ)で、通称・“観音岩”という。また、この巨岩の辺りには幾つもの大岩が重なり集まり、観音岩のすぐ南に三宝荒神、すぐ北に大日如来の梵字を刻した岩がある。
 古代の聖地・磐座があり仏・菩薩を示す梵字が刻されていることは、この地が、磐船・獅子窟寺・金剛寺などの磐座とともに修験道の聖地だったことを示すものという。

◎磐座−−観音岩
 交野山の頂上に、北空に向かって突きだした巨岩がある。河内鑑名所記(1679・江戸前期)
 「鴻尾山、山のいただきに八間四方の岩あり、観音岩と古しへより申し伝る。正観音の梵字、石の中程に弐尺四方許に書、ほり付けて有・・・」
とあるように、古くから知られた巨岩で、岩の西面に、正観音菩薩をあらわす梵字が刻まれていることから、“観音岩”という。ただ、西面へは回り込めず目視は無理。

 深い谷に面して切りたった絶壁のように突出する観音岩は、高さ約20m(15mともいう)・周囲約40mの巨岩で、頂は手前(東)に傾斜した平坦面で、ここからの眺望は抜群。
 観音岩の手前にも幾つかの巨岩が重なり、道端に『交野山古代岩座趾』との石標が立つ。


観音岩(南側より)

頂上の磐座
(左端が観音岩)

交野山古代岩座跡の石標

◎磐座−−三宝荒神祠
 観音岩の南にある磐座群で、中心となる大岩に三宝荒神を示す梵字が刻され、その前に三宝荒神を祀る祠がある。
 三宝荒神祠の創建由緒は不明だが、交野山上の観音岩北面の納経穴から出た銅板には、
 「三宝荒神宮同拝殿同鳥居同額 同大石奉彫荒神之梵字・・・
  京都猪熊荒神別当 寛文十年(1670)三月弐八日大阿闍梨法印宝伝」
とあり、江戸前期頃に梵字が彫られ、その前に祠が祀られたらしい。
 また河内鑑名所記には、
 「(観音岩の)南の方に三間計の石いくつも重ねてあり、是は三宝荒神の梵字あり、・・・」
とある。
 以前は、石祠がむき出しに鎮座していたが、今はアルミ製の箱(覆屋)の中に収められている。アルミ製覆屋はまだ新しく、前の賽銭箱に“平成十八年十二月吉日”とある。参詣路を含めて地元の篤志家が整備したものらしい。

 石仏の道からだと、岩倉開元寺推定地前の休憩所を左へ、一の鳥居・二の鳥居を過ぎて岩場を登ると、荒神祠前に出る。


荒神祠への一の鳥居
(南の岩倉開元寺推定地より続く)

荒神祠への二の鳥居
(背後の岩婆の上が荒神祠)

三宝荒神祠

三宝荒神祠
(祠背後の岩に梵字・中に石祠あり)

梵字

◎三宝荒神遙拝所
 東倉治一丁目から源氏の滝へむかう道の左手に、麓から山頂の三宝荒神を拝する“遙拝所”がある。
 傍らに立つ由来などを参照すれば、
 “古く、石船(岩船神社)・獅子石屋(獅子窟寺)・金剛寺(傍示の北の金剛寺)・甲の尾(岩倉開元寺)といった北峯の宿(修行の場)を往来しながら修行に励んだ修験者は、その満願得悟のとき、元寺滝(源氏の滝)で身を浄め、脇の大岩に彫られた不動明王の梵字の前から、山頂の三宝荒神社に向かって所願成就の感謝を捧げた。
 近代になって、交野山頂まで参詣に行くことが困難に方のために設けられたのが、当遙拝所である”(大意)
という。

 今、道脇の整備された基壇の上に
 『三宝荒神諸願成就』
と刻した石碑が立つ。
 この石碑は、古くは滝の辺りにあったようで、修験者はこの石碑を通して山頂の三宝荒神社を遙拝したという。

 傍らに、明治初年までこの辺りにあった“瀧本坊と清正寺”の寺名を刻した小さな石碑が立っている。
三宝荒神遙拝所
三宝荒神遙拝所
滝本寺・清正寺の石碑
滝本坊・清正寺の碑

◎磐座−−大日如来
 観音岩から北へ少し下った山道の脇にある大岩で、北面上部に大日如来をあらわす梵字が彫りこまれ、河内鑑名所記には、
 「(観音岩の)北の方に六件(間)四方程の石有、大日の梵字にて有けると申し伝る。・・・」
とある。


◎梵字奉彫について
 梵字奉彫の由来について、観音岩北面の納経穴から出た銅板の銘板に、
 「 河州交野山開元寺中興開基奉令建立取者
  三宝荒神宮同拝殿同鳥居同額同大石奉彫荒神之梵字同荒神石札同石燈籠
  同観音石ニ正観音大梵字同奉納法華経六十六部
  同大石に阿字之梵字 
  同瀧之鎮守八大龍王同瀧之脇ニ奉彫不動梵字同瀧の不動明王御長座光共ニ八尺之本尊同不動堂同鳥居 
  同山内安養寺毘沙門堂同毘沙門天王御長五尺三寸之本尊同地蔵菩薩諸経諸仏之印判ヲ以テ奉自張御長三尺五寸也 
  同閻魔大王同山内清正寺之如意輪観音
  右奉造立者也 為一天泰平四海無事十方檀那二世安楽六親春属法界萬霊自他平等普皆利益也  
  京都猪熊荒神別当 寛文十年庚戌三月弐八日大阿闍梨実伝」
とある。
 寛文10年(1670・江戸初期)のころ、京都猪熊荒神の別当・大阿闍梨実伝なる僧によって、三宝荒神の大岩に荒神の梵字、観音岩に正観音の梵字、大岩に阿字(大日如来)の梵字がそれぞれ彫られ、併せて寺社殿・経文・仏像などが奉献されたらしい(浅学のため原漢文判読不能)

※宣春寺
 源氏の滝左手の崖の上に『宣春院』との小さな寺がある。滝の手前・フェンス左の石段(裏参道)を登った狭い境内には、“不動堂”(本堂)と庫裏、滝寄りの崖際に“八大龍王社”がある。なお、三宝荒神遙拝所を過ぎた左手に鳥居が立ち、表参道の石段がある。

 当院の創建由緒は不明だが、河内名所図会(享和元年-1801・江戸後期)・開元寺の瀧の絵の上部に「土人 げんじの滝といふ」とあり、滝の左に“不動堂”と記した宝形造の小堂が描かれ、その説明文には、
 「元寺滝 倉治村の東五町許にあり。一名倉治の滝といふ。高さ五丈、傍らに不動堂あり。むかしは開元寺といふ淨刹の地なり。浪花及び近隣の病者あるいは風狂の者、眼病の者、ここに籠もりて滝に浴すれば霊応あり。・・・」(大意)とある。

 交野町史によれば、昔は修験者はじめ多くの人々が籠もった“滝の籠り堂”だったらしいが、長らく無住だったため、明治36年(1903)、京都花園妙心寺の末寺・宣春院(1575開基)をここに移したが、その後も無住のことが多く荒廃しかかったところを、昭和のはじめころ、住職・拙堂が堂宇を整備して現在に至るという。
河内名所図会・げんじの滝(部分)
河内名所図会(部分)
滝の左に「不動堂」がある

 当院の本尊は、一名“焼け不動”と呼ばれる不動尊像だそうで、倉治に伝わる伝承あるいぱ住職の話によれば、岩倉開元寺が織田信長による焼き打ちにあったとき(天正3年-1573)、火中から持ち出された“黒焦げの不動像”で、今は秘仏として不動堂内に収められており、堂内には、お前立ちとしての小さな不動像が安置されている。

 境内にある“源氏の瀧不動明王”(昭和50年立)との石碑には、
 「昭和48年10月3日、火災により宣春院は全焼したが、幸いにも不動さんは全焼をまぬがれた。・・・不動さんの背割りの中から一部焼けた法華経が出て、慶安2年丑己(1642)五月二十三日京都猪熊荒神別当大阿闍梨実祐と書かれていた。又背割りの内部に・・・長五尺七寸也 神尾山源氏之 願主 荒神三宝寺阿闍梨能伝一刀三拝仁 自作所之 と墨書してあった。
 幸い皆さまのおかげで、昭和49年11月30日六角堂が建立できた」
とある。
 後半にいう“一刀三拝云々”から見ると、この不動像は荒神三宝寺阿闍梨能伝の作とみられるが、この能伝あるいは前段にいう猪熊荒神別当大阿闍梨実祐についての詳細は不明。
 ただ、先の観音岩出土の銅板銘文にある源氏瀧の不動尊像は、猪熊荒神別当大阿闍梨実伝が奉献したとも読めること、その年代・寛文10年と石碑にいう慶安2年が近いこと、また、仏像内への納経はその制作時におこなわれるのが普通であること、あるいは観音岩正観音梵字の下に“猪熊三宝寺法印実伝”とあることなどから見て、能伝・実祐・実伝は猪熊荒神三宝寺の法統に連なる人物(極言すれば同一人物か)とも解される。

 これらのことからみると、当院の秘仏・不動尊像は江戸初期の1600年代中ごろに造立されたもので、織田信長焼き打ちの際に岩倉開元寺から持ち出された古仏という伝承は、疑問ということになる。ただ、不動尊像が人目にさらせないほど焼け焦げているのは事実だという。
 ご住職のお話では、今、由緒書きなど散逸していて詳細は不明だが、秘仏の不動尊像が人目にさらせないほど焼け焦げているのは事実だという。

宣春院/表参道の鳥居
宣春院・表参道・鳥居
宣春院/石標
正法山宣春院・石標
宣春院/本堂(不動堂)
宣春院・本堂(不動堂)
宣春院/本堂・内陣
同・内陣(中央厨子内が前立ち不動尊)

 源氏の滝に面した崖寄りに『八大竜王社』が、源氏の滝に向かって建ち、崖のすぐ眼下に源氏の滝が見える。社殿の傍らに八大龍王社と刻した石碑が数基並立している。
 通常、滝あるいは泉にあって水を司る神を八大龍王と称することは多いが、源氏の滝に祀られているのは不動明王であり、平仄があわない。

宣春院/八大龍王社
八大龍王社
宣春院/八大龍王社・内陣
同・内陣
八大龍王社・石標
傍らに立つ石標

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