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能・蝉丸と関蝉丸神社
                                                        2008.05.04参詣

※能・蝉丸
 能に蝉丸という一曲がある。作者不明とも世阿弥作ともいうが、申楽談儀(1430、世阿弥の長男・元能がまとめた世阿弥の芸談集)に、「逆髪(サカガミ)の能は、云々」とあり(古くは能・逆髪と呼ばれていたともいう)、世阿弥の自作自演というのが有力という。

 能・蝉丸の粗筋は
 「延喜の帝(醍醐天皇に仮託)の第四皇子・蝉丸は琵琶の名手だったが、盲目のなったため、帝の命により剃髪させられて逢坂山に放逐される。
 盲目となったのは前世の因縁であり、それを今生で償い良き来世を得よとの親の慈愛と覚悟はするものの、一人になった蝉丸は、愛用の琵琶を抱いて悲嘆にくれる。
 そこへ博雅の三位という廷臣が現れ、藁屋を造って蝉丸を住まわせ、ご用があったらお世話すると告げて去る。

 続いて、延喜の帝の第三子で逆髪(サカガミ)と呼ばれる姫君が現れる。
 この姫は、髪の毛が逆立ち櫛を入れても撫でつけても髪の毛が降りないという奇病にかかったために、逆髪とよばれて宮廷を追われたという。
 宮廷を追われ、心ない村人の嘲笑と憐れみをうけながら彷徨しつづける逆髪は、ある日、逢坂山にさしかかると、路傍の藁屋から妙なる琵琶の音が聞こえてきた。不思議に思って近づくと、中から『外に音がするは誰ぞ』と問う声があり、それは懐かしい弟君の声であった。
 姉弟二人は抱き合って再会を喜びあうとともに、互の身の不幸と惨めな境涯を歎きあうが、刻がすぎ夕暮れになったので、逆髪は後ろ髪をひかれながら立ち去る」
というもので、舞台での主役(シテ)は逆髪で、蝉丸は準主役(ツレ)となっているが、物語の実質的な主役は蝉丸といえる。


能面・蝉丸

シテ・逆髪の舞

能面・逆髪

 能・蝉丸は、能の分類では“4番目もの”のうちの“狂女”に分類される。
 能では、怨霊として登場するシテが供養をうけて、最後には成仏して退場するというものが多いが、能・蝉丸は最後まで悲嘆の中にいる。その意味では残酷な能といえる。

◎蝉丸
 蝉丸といえば、百人一首の
  「これやこの 行くも帰るも別れては しるもしらぬも あふさかの関」
の作者として知られる。
 この和歌は、後撰和歌集(951撰上)からとられた一首で、「相坂の関に庵室をつくりて住みはべりけるに、ゆきかふ人を見て」との詞書きが添えられている。
 ただ、昔の歌人は実体験ではなく想像の中での歌を詠むことが多く、この歌も、作者・蝉丸自身が逢坂関に住んでの経験というより、“逢坂”という言葉から連想される一期一会の出合を詠んだ可能性が強く、また世阿弥も、この歌を下敷きとして、あるいは啓発されて能・蝉丸を創作したのかもしれない。
 蝉丸作とされる和歌が上記以外にも新古今集に2首、続古今集に1首あり、勅撰和歌集に4首も選ばれていることから、蝉丸は実在の人物とみられるが、生没年不詳で、そこから多くの物語が生まれた伝説的人物であって、能にいう蝉丸とは別人であろう。

 能にいう蝉丸の出自について、能に先行する物語として、
*今昔物語(源博雅朝臣、逢坂の盲の許に行きし語・24巻23話)
 「昔、延喜帝の孫・源博雅(ミナモトノヒロマサ・918--80)は琵琶を巧みに弾くことで知られ、琵琶の名曲、流泉(リクセン)・啄木(タクボク)を聴きたいと願っていた。
 その頃、逢坂の関に蝉丸という盲人が住んでいた。蝉丸は、式部卿・敦実宮(アツザネノミヤ)の雑色(ゾウシキ、皇室・公家等に仕える召使い)で、宮が琵琶の名手であったことから、宮が弾く琵琶を常に聞いていた蝉丸も琵琶を微妙に弾くようになっていた。
 博雅は、この蝉丸が琵琶の上手であることを聞いて、彼のみが知る流泉・啄木の名曲を聞きたいと夜毎逢坂の庵の辺りに通い詰め、3年目の8月の明月の夜、蝉丸が流泉・啄木の曲を弾いているのを聞き、蝉丸に逢ってこれの伝授を受けることができた」(大意)
 なお、今昔に先行する“江談抄”(博雅三位習琵琶事段、大江匡房・11世紀後半頃)には、「会坂目暗 琵琶最上由風聞・・・」とあるが蝉丸の名はみえない。

*平家物語(巻10・海道下り段)
 「四宮河原(シノミヤカハラ)になりぬれば、ここはむかし、延喜第四の王子蝉丸の関の嵐に心すまし琵琶をひき給ひしに、博雅の三位と云し人、風のふく日もふかぬ日も、雨のふる夜もふらぬ夜も、三とせがあひだ、あゆみをはこび立ち聞きて、彼の三曲をつたへけん藁屋の床の古へも、おもひやられてあわれ也」

*源平盛衰記(45巻・内大臣関東下向の段)
 「昔、蝉丸と云ひし世捨人、山科や音羽里に居らしめ、此の関の辺りに藁屋の床を結びて、常に琵琶を弾きつつ和歌を詠じて思ひをのぶ。
  是や此の ゆくも帰るも別れても しるもしらぬも逢坂の関
  世の中は とても角ても有りぬべし 宮も藁屋もはてしなければ
 流泉啄木の二曲を伝へんとて博雅三位 三年まで夜々通ひし所也と思出しされ給ひにけり。
 蝉丸は延喜第四の宮なれば、此の関の辺りは四ノ宮河原と名付けたり」

 これらの物語にいう蝉丸は、今昔物語(平安末期・1120以降)では敦実親王(893--967・宇多帝の第8皇子)に仕える雑色だが、時代が下った鎌倉時代の平家物語(1212以降)・源平盛衰記(平家より後)になると延喜帝の第四皇子へと昇格し、その皇子が盲目というハンデを背負ったために流浪するという一種の貴種流離譚へと発展している。

 ただ、今昔で敦実親王が登場することに先行するものとして
 「仁明天皇の第四皇子・人康親王(サネヤス・831--72)は、上総太守・弾正尹・常陸太守などを兼任した人物で、琵琶の名手だったが、貞観元年(859)に病を理由に出家し、京都山科の諸羽山の麓(現山科区四ノ宮付近)に山荘を造営して隠遁し、山科宮と称した。
 親王の隠遁理由である病とは両目を患ったためといわれ、江戸時代に座頭・琵琶法師等の祖とされた。
 なお、親王の山荘のあった地を四ノ宮というのは、親王が第四皇子だったことに因むという」
との話がある。

 人康親王については、三代実録・貞観元年5月7日条に、
 「四品守弾正尹兼行常陸 太守人康親王、出家入道し給ひき。表を上りて曰く、・・・臣、今年二月熱発すること甚だ篤く、医薬も施す所無く針熨(シンイ)もその術を通せず。・・・陛下若臣を哀れむことあらば、宜しく其の封職を奨収し給ふべし。
 親王少年の時より、大乗道(仏教)に帰せんとの意有り。今、病ひと謝して本懐を遂げき」
とあり、上記の話を裏付けているが、病が眼病だったとも四宮河原に隠遁したとは明記していない。

 これらの蝉丸伝承について、柳田国男は
 ・今昔物語の敦実の雑色という説は漠とした噂話で、つまりは山城・近江の境に近い処で琵琶を弾く盲人があったというまでである。盲人の琵琶を弾くのは通例彼らの生活であった。
 ・山科の四宮河原を仁明天皇・四の宮(人康親王)に託するのも真っ赤な嘘で、これも摂津その他の国々に多く存する宿川・宿川原と同じく境の地である。
 ・盲法師が境の地で地神の鎮め祭をするのは古くからの慣習であった
として(毛坊主考・1914)、逢坂山における蝉丸伝承とは、山城・近江の境界の地で、盲目の琵琶法師がカマド祓いなどをして地神を鎮めるのを生業していたことを、人康親王伝承に仮託・潤色しただけであるという。

 これに対して、赤坂憲雄氏は
 ・古代にあっての疾病や不具は古くは悪霊(もののけ)によって外部からもたらされる穢れであり、一定の服忌(フッキ)や禊祓(ケイフツ)によって、ある程度は払拭できる性質のものであった
 ・しかし、仏教的な宿業観と結びつき肥大化した触穢思想に覆われた中世社会にあっては、それは迫りくる穢れであるより、むしろ前世・現世で犯した悪行が報いとして顕れた業罰とかんがえられた
 ・中世の民衆にとって、疾病や不具は内から滲み出す穢れ(不浄)であり、それゆえ厳しい禁忌の対象として共同体から排斥されねばならなかった
 ・親族や共同体から遺棄追放された人々は、寺社の門前や宿(シュク)・河原・橋・坂といった境界の地(そこは共同体に属しなた無縁の地でもあった)にたむろする賎民として、不具の身を人目に曝しながら、懺悔・贖罪の生涯を送らねばならなかった
 ・古代には、大和の四囲の坂に異形・不具なる人々を置いたといい、京洛から東国へ抜ける逢坂の関(境界)には、蝉丸とよばれる盲人芸能者の集落があり、境界の民・無縁の民である盲僧(琵琶法師)は、土地境界に関係し土地や道の鎮めを行としていた
 ・そうした盲僧のなかから蝉丸伝説という坂(境)にまつわる説話が生まれた背景には、そうした境界の司祭者としての盲僧の存在が想定されねばならない
という(境界の発生・2002、大意)

 また、谷川健一氏は逆髪考(賤民の異神と芸能所収・2009)のなかで、
 ・逢坂峠は山城から近江へ至る主要な街道筋にあたり、そこには関が置かれていた。
 ・関とは境界であり、その外の他界から邪霊などが侵入するのを遮るために道饗祭(ミチアヘノマツリ)などが行われていた。
 ・逢坂とは男神・女神の二柱の神が坂の上で逢う処から付けられた名で、その坂には坂の神として道祖神が祀られていた
 ・逢坂に始めから蝉丸が居たわけではなく、河海抄(南北朝時代の源氏物語の注釈書)に、
   「相坂の辺りに蝉歌の翁ありて、和琴の道に長けたり・・・」
とあるように、そうした蝉歌をよくする翁が、いつしか蝉丸となったのであろうと日本盲人史(中山太郎・1934)は云っている。
 ・蝉丸の出自について、今昔物語では敦実親王の雑色・蝉丸とあるが、平家物語や源平盛衰記では、蝉丸は延喜帝の第四皇子となっている。
 ・これらはもとより付会の説で、四宮は仁明天皇の第四子・人康親王の「四の宮」に仮託したもので、それが延喜帝の第四宮・蝉丸に変貌しただけである。
 ・両書とも、蝉丸が住んだ処を四宮河原というが、住んだ処は逢坂の関であって四宮河原ではない。蝉丸が四宮河原で琵琶を弾いたというのは、人康親王の故事にあやかったものに過ぎない。
という(大意)
 確かに、現山科区四ノ宮地区は逢坂山の西麓にあって山科川が流れ河原と称してもおかしくないが、逢坂山とは約3km強離れており、逢坂山(逢坂の関)を四宮河原に含めるには無理がある。

 これらからみれば、蝉丸を延喜帝の皇子というのは平安末期から鎌倉初期にかけて造られた仮想の人物で、その本姿は常民の社会(地域共同体)から疎外された賤民であり、悪い言葉でいえば“乞食(コツジキ)の琵琶法師”である。
 古く、身体に不具合のある人は、それを聖痕(スティグマ)として、カミに遣わされた者・カミに近い者・カミに供儀された人として特別視されたというが、それは、彼らを賤民・浮浪の民として社会共同体から疎外したことにも通じる。
 この観念からいうと、蝉丸の盲目とは聖痕であって、彼は社会共同体から疎外された人、共同体との繋がりのを閉ざされた無縁の人となる。

 蝉丸は盲目の琵琶法師とされているが、琵琶や琴といった楽器は単なる演奏器具ではなく、カミを呼び降ろす聖具であるとともに、降神や亡霊の鎮魂・慰撫のための呪具でもあったといわれ、盲目の琵琶法師は、あるときはカミを降ろし、又あるときは亡霊の鎮魂を図るといった職能をもつ呪的な霊能者であったともいえる。

◎逆髪
 逆髪は、能・蝉丸の主役(シテ)で、延喜帝第三の御子で蝉丸の姉君とされ、その姿は、
 「我王子とは生まるれど、いつの因果の故ならん 心よりより狂乱して 辺都遠境の狂人となりて 碧の髪は空さまにおひのぼって なずれども(なでても)下らず。・・・」
と、髪の毛が逆立って撫でつけても下らない畸形の姫君で、為に宮中を追われた貴種という設定で、関蝉丸神社上社に祀るというが、

 近江輿地志略(1734)・関明神上社条は
 「始は此社相坂山の上にあり。手向神是也。
 土俗云 祭神は延喜帝の皇女にして蝉丸の姉宮逆髪なりと。此説採用して論弁するに及ばされ共けしからぬ妄説也。
 是は猿楽者流の謡を信じてかかる偽説をいひ出せるなるべし。延喜帝に逆髪といへる皇女なく、正史実録にも記さざれば偽也。
 蓋し当社を坂神といひならわすことは、古昔此社関山の坂の上にありしかば呼べり。其上相坂の神といへるを略して坂神とはいふならし。坂神、逆髪、訓同き故に誤りを重ぬる者なるべし。嘆息にたへたり」
として、
 ・逆髪・蝉丸ともに延喜帝の皇女・皇子とするのは、能の謡から出た作り事で
 ・一般に、上社の祭神を逆髪というのは妄想で、
 ・逆髪の名は坂神の音通によるものという(宿院論・2006)

 能の姫宮(逆髪)は、前世の因果によって髪が逆立つ畸形となったというのが通説となっているが、
 関清水大明神縁起(1630頃)には、
 「蝉丸が逢坂山に流された後、それを心配した姉宮が蝉丸の住処を見たいと思い、ある夜密かに逢坂山に行くと草庵の中から琵琶の音が聞こえてきた。
 もしかしたら蝉丸ではないかと、その前に立つと中から戸が開いて蝉丸が現れ、互いに手を取りあって涙にむせんだ。
 蝉丸がやつれているのを見て姉宮は狂乱し、御髪が逆さまに立ったので、その名を逆髪と称した」(大意)
とあり、姉宮の髪が逆立ったのは、前世の因果によるのではなく、蝉丸の哀れな様子を見たことが原因という。

 一方、逆髪を能作者の創作とするのに疑問を呈し、これに先行する口承的説話があったのではとする説もあり、その先行説話とは、
 ・平城坊目考が引用する、奈良坂春日社の祭神・春日王の縁起にいう
  「桓武天皇御宇、春日王不慮の疾(逆髪・白癩)有り、因って密かに皇都を退出し奈良山に隠居す。所謂当社の地是也」
 ・奈良坂村(現奈良市奈良坂町)旧記が引用する奈良春日宮三社縁起(現奈良豆比古神社)にいう、
 「延暦3年(784)春日王は、光仁の妃・井上皇后の祟りによって、俄に逆髪となり、白癩(癩病)を請け給ふ」
ではないかという(宿神論)

 この二つの説話は同じことを記したものだが、谷川氏は
 ・伝説上の春日王は、伝承では桓武天皇の皇子となっている(皇統譜での春日王は聖武帝の皇子で光仁天皇の兄弟)
 ・桓武天皇は、光仁の妃・井上皇后が無実の罪でその子・他戸皇子(オサベ・光仁の皇太子だった)とともに幽閉され憤死したのち皇位に就いたことから、御霊となった井上皇后の祟りを怖れていた。
 ・そこから、桓武の子とされる奈良坂の春日王が、井上皇后の祟りによって逆髪となり白癩におかされたというのはつじつまのあう話である。
 ・また、髪が逆さまになるということは、世に入れられず憤死した御霊の形相として似つかわしいもので、井上皇后は生きながら逆髪となったと解することもできる。
 ・かくして井上皇后の逆髪が、その憤死後、祟りによって奈良坂の春日王の逆髪の原因となり、更に蝉丸の能の姉君へと転移したと考えられる(大意)
として、奈良坂の春日王に関わる伝承が転移されたのが、能・蝉丸の逆髪ではないかという。

 一方、
 ・関とは観念的には此界他界の境界であり、日常世界の制約が及ばない無縁の場(宿・夙ともいう)であることから、そこには、日常世界から排除された無縁の人(盲人・不治の病者特に癩者・琵琶法師などの芸能者・あるき巫女・遊女・放浪者など)が屯していた。
 ・これら無縁の人は、それぞれに祖神的存在としての神を祀っていたが、
 ・琵琶法師らが祖神的存在として崇め祀っていたのが蝉丸の前身で、
 ・あるき巫女・遊女といった放浪する女性らのそれが逆髪の前身ではないかとも考えられる、
ともいう(宿神論他)

 これを逆にいえば、蝉丸が逢坂峠の神に仕える芸能者であり、髪を逆立てた逆髪は、蝉丸が呼び降ろしたカミあるいは亡霊に依り憑かれて踊り狂う巫女の姿とも解され、その意味では、逢坂山には数多くの蝉丸と逆髪が居たとも思われる。

※逢坂峠
 蝉丸神社は、逢坂峠頂上付近を中心に旧東海道沿いに3社が並んでいる。
 ・関蝉丸神社上社(地図・赤丸2)−−国道1号線・逢坂峠の頂上付近
 ・関蝉丸神社下社(地図・赤丸3)−−逢坂峠を大津側に下った国道161号線沿い
 ・蝉丸神社(地図・赤丸1)−−逢坂峠から京都側に少し下った付近

 逢坂峠は、山城国と近江国の国境に位置し、古く畿内と幾外との境とされ、東海道と東山道がこの峠を越えていた。今は国道1号線が越えている。
 
 ここに逢坂峠に関が置かれたのは孝謙天皇・大化2年(648)といわれ、一時廃絶されていたが、平安遷都後(794)、都の防御拠点として重要視されたことから、天安元年(857)に三関の一つとして再設置されたという。
 古くは、この関から東を“坂東”(バントウ)・東の国(アヅマノクニ)と称した。畿内からみて、坂東・東の国いずれも異界であり他界である。

蝉丸神社・位置図

 今、1号線・逢坂峠の頂上京都寄りに、『逢坂山関址』と刻した石碑が立つ。
 昭和以降の建立で、場所は推定地だが、横には、『寛政六年甲寅(1794・江戸後期初)十一月建之』と刻された常夜灯が立っている。

 江戸時代、峠を越えた京都側・逢坂辺りの街道筋には、茶店や土産物店が軒を連ね、旅人や牛馬車の往来で賑わったという。
 道標を兼ねて夜道を照らしたのが、この常夜灯であろう。

逢坂山関址の碑と常夜灯

 民俗学からいうと、峠とは、上記したように、川や橋詰・巷の辻・坂などと同じく此岸(現世・この世)と彼岸(他界・あの世)が交わる“境界”で、人や物が行き来するとともに目に見えない神や精霊・悪霊なども往来するとされた。
 そこでは、外から侵入しようとする悪霊・疫病など禍をもたらす“モノ”を遮るために“塞の神”(サエノカミ)が祀られ、その前で疫病祭・道饗祭(ミチアヘノマツリ)などの呪的祭祀が行われ、逢坂峠では、天慶6年(953)・宝徳2年(1450)に行われたとの記録が残っている。
 塞の神は“道祖神”(ドウソシン)とも呼ばれ、異界から侵入しようとする悪霊を遮るとともに旅の安全を護る神ともされ、人々は峠=境界のカミである道祖神に野の柴草や花を手向けて旅の安全を祈ったという。
 そこから“手向けのカミ”とも呼ばれ、具体の神名として猿田彦(サルタヒコ)とされることが多く、これはサルタヒコがもつ“道を拓く神”・“道案内の神”という性格によるという。これを仏教からみた場合は地蔵菩薩となる。

 逢坂峠に坐す坂の神である関明神も、境を守る塞の神、つまり悪霊の侵入を防ぎ土地を鎮める神であり、蝉丸に代表されるような峠に住む人々は、その坂の神(道祖神)を奉祀していたともいえる。

※関蝉丸神社
 関蝉丸神社の創建由緒はよく分からない。
 関蝉丸神社に関しては種々の縁起があるが、その一つ清水大明神蝉丸宮縁起(1474)には、次のようにいう。
 「関清水大明神というのは、昔は坂神の宮といった。神代の道祖神をいうのである。王城守護の神であるから関大明神と申している。
 然るに、延喜帝第四の王子である蝉丸の宮が会坂山のあたりに捨てられた。この宮は文学・歌道に勝れており、間もなく亡くなられたので、この山に祀ったが、やがて関大明神宮に移した。それで関清水蝉丸宮と申すことになった」

 また、関蝉丸神社縁起略記(下社配布というが、参詣時に社務所不在のため入手していない)によれば、
 「嵯峨天皇・弘仁13年(822、平安初期)に小野朝臣岑守が、逢坂山の山上と山下に分祀して坂神と称え奉る。是当社御鎮座の起原なり
 文徳天皇御宇天安元年(857)4月に改めて逢坂の関を開設し、当社を関所の鎮護神と崇敬し給ひ、坂神を関明神と称し奉る
 朱雀天皇御宇天慶9年(946)9月、勅を奉じ蝉丸霊を二所に分祀す、仍って関大明神蝉丸宮と称し奉る」
とある。

 これらによれば、当社は逢坂山の坂の神を祀ったのが始まりで、後に蝉丸の霊を合祀したとなるが、そこに能・蝉丸にいう逆髪の名はない。

 その逆髪についての資料として、圓城寺所蔵の寺門伝記補録(時期不明)
 「近州会坂山関明神二所 一坂頭に在り 一坂脚に在り。神祠往古より在るが其の始まりは詳ならす。相伝に曰く、二所同じく道祖神(チガヘシノカミ)を祭り、以て関所鎮神と為す。
 朱雀院御宇、勅して蝉麻呂の霊を当社に崇祭。今、土俗蝉麻呂宮と名付く。
 又、下祠の前に井戸あり、名づけて関清水と、又、清水明神と号す也
 補に曰く、関明神は朱雀院御宇、天慶9年9月、延喜帝第四子蝉丸の霊並びに姉宮逆髪の霊を当社に奉祭す。
 又或説に云う、下祠は蝉丸宮を祭り、上祠は逆髪宮を祭ると」
とあり、逆髪宮も併祭あるいは上社に逆髪、下社に蝉丸と別けて祀られているというが、今の両社に逆髪の影はない。

 通常、上社・下社という場合、山上にある山宮が本来の社(上社)で、里からの遙拝所として設けられた里宮を下社とする場合が多く、これからみて、縁起略記は上社・下社同時に祀られたというが、逢坂峠に祀られていた坂(峠)の神=塞の神=道祖神が今の上社(関明神)で、これを里宮として麓に勧請した(これが縁起略記にいう弘仁13年か)のが下社とも考えられる。

 また縁起には、「天慶9年(946)に蝉丸の霊が合祀された」とあり、鴨長明(1155--1216)が、その著・無名抄(1211)
 「逢坂の関に明神と申すは昔の蝉丸なり。彼の藁屋の跡を失はずして、そこに神と成り給ふなるべし」
というように、古くから、蝉丸を以て当社主祭神とするのが常識のようになっているが、本来の主祭神は関明神であって、蝉丸が祀られた時期は遅い。
 ただ、蝉丸が合祀されたことで、当社が音曲芸道の神として崇敬されたことは事実で、先行する関明神信仰のお株を奪ったともいえる。

【関蝉丸神社上社】
 祭神−−−猿田彦命
   合祀−−蝉丸(逆髪とする説もある)

  大津市逢坂1丁目(旧片原町)
 国道1号線と名神高速道路との交差点(逢坂トンネルの東側出口)のすぐ南、1号線の西側に鎮座する。逢坂峠の頂付近にあり、すぐ目の前を名神の高架橋が横断している。

 道路脇に立つ石燈籠2基と石垣の上の赤い柵が目標で、朱塗りの鳥居があったらしいが今柱の途中から折れている。
 “関蝉丸神社上社”との社標横に立つ石燈籠には「天明8年(1788)戊甲九月吉日 下片原町」とある。

 石段を上がった境内中央に舞楽殿(入母屋造・瓦葺)が、その左手の一段高い基壇上に本殿(流造・瓦葺)が鎮座するが、境内は鬱蒼たる樹木に覆われているため、社殿の詳細は実見困難。
 いずれの社殿も相当に古びていて、本殿を囲む透塀の一部は壊れたまま放置されている。ただ、内陣欄間の彩色した透かし彫りは美麗で、かつて壮麗だったことが伺われる。
 蝉丸神社は3社とも、境内中央に舞楽殿が建っている。諸芸奉納の場と拝殿を兼ねたものだろうが、諸芸能上達の神社らしい佇まいである。

 
関蝉丸神社上社・社頭
 
同・社標
 
同・舞楽殿
(左に見えるのが本殿)
 
同・本殿域正面
 
同・本殿
 
同・本殿内陣

 境内に神社由緒などを記すものも見当たらず、社務所らしい建物もない。
 お年寄りの方が一人で社殿を覆う樹木の枝を降ろしておられた。付近の方々が細々と手を加えられているようだが、全体としての維持管理は行き届いていないように見える。

【関蝉丸神社下社】
 祭神−−−豊玉姫命(或いは、道反大神-チガヘシ
   合祀−−蝉丸

  大津市逢坂1丁目(旧清水町)
 越坂峠を大津側に下った国道161号線沿いの市街地のなかに鎮座する。地元で蝉丸神社といえば、当社を指すという。
 国道と神社との間に京阪・京津線が通っているため、神社へは踏切を渡って入る。民家に挟まれた踏切脇に、正面に「清水大明神」側面に「蝉丸宮」と刻した石燈籠2基が立っている。
 清水とは、当地にあった関の清水(走り井ともいう)に因む古い地名らしいが、町名変更とかで古い町名が消え、昔の由緒・伝承などが忘れられていくのは惜しい。

 踏切を渡ってすぐの鳥居をくぐった境内には静かな雰囲気が漂っている。境内の掃除はされているものの、古びた社殿の維持管理はあまり行き届いていない。

 境内正面に舞楽殿があり、その両隅に座る小さな彩色した狛犬は、ちょっと面白い顔をしている。かつては、音曲諸芸を志す人々が舞などを奉納した舞台だろうが、今はうっすらと埃が積もり使われている形跡はない。

 舞楽殿の奥に拝殿と本殿が続く。中門近くのの回廊までは入れるが、中は樹木に覆われていて本殿はよくみえない。

 
関蝉丸神社下社・社頭

同・舞楽殿 

同・本殿域正面(中門) 

彩色狛犬・左 
 
同・右

 拝殿横に掲げる謡曲史跡保存会の案内には、能・蝉丸の粗筋に続いて、
 「蝉丸宮を関明神と合祀のことは定かでないが、冷泉天皇(967--69)の頃、日本国中の音曲諸芸道の神と勅し、当神社の免許を受けることとされていたと伝える」
とある。

 これが免許といえるかどうかはわからないが、中世の頃には、神社に属する神人(ジニシ)や諸芸能人たちが、特定の神社に属することを証する書付(あるいは、一見してそれと分かる特別の品)をもつことで、諸国を自由に遍歴することが黙認されていたといわれ(関所の自由通行・関銭不要など)、蝉丸を祖と仰ぐ琵琶法師などの芸能人たちも、当社発行の書付(免許)をもつことで自由に諸国を遍歴していたのであろう。

 当社では、近年まで、能楽に関係する人々が当社に参詣・奉納していたらしく、本殿域を巡る回廊には能楽奉納を記念する奉額が数枚掲げられている。
 最近のものは昭和61年4月のもので(右写真)、謡曲5曲・仕舞5曲が奉納されたとあり、その他のものはだいぶ古い。

 また奉納されている絵馬には、高校合格祈願などの他に“ストリートダンスコンテストで良い結果が出ますように”との絵馬もあり、時代を感じさせて面白い。 

 本殿左の疎林のなか、木柵に囲まれて古い六角形の石燈籠が立っている。「時雨燈籠」と呼ばれるもので、国の重要文化財(昭和37年指定)という。
 簡素ななかに重厚な趣をもつ燈籠で、年代を示す銘文などはないが、様式から鎌倉時代の作と推定されている。ただ“時雨”と呼ばれる由縁は不明。

 境内入り口付近に“関の清水”との井戸があり、上に架けられた石板の上に小祠(関の清水社か)が祀られている。
 能・蝉丸で、逆髪がわが身を映し見て嘆き悲しんだ“走井の水”、あるいは、紀貫行が
  「関の清水に影みへて 今もひくらん 望月の駒」
と詠んだ関の井戸といわれ、古地名・清水に因むものらしいが、水が涸れてしまった今では歌のような興趣はない。
 また、井戸横の覆屋のなかに、水神を祀る末社・貴船神社が鎮座する。清水の井にかかわるかと思われるが、鎮座由緒など不明。


時雨燈籠

関の清水

末社・貴船神社

【蝉丸神社】
 祭神−−−蝉丸
  合祀−−猿田彦命・豊玉姫命

  大津市大谷町
 逢坂峠の京都側・京阪京津線・大谷駅のすぐ右、旧街道(東海道)沿いの山麓に鎮座する。

 道端の小さな広場左奥にある石段はやや急。両脇に立つ「蝉丸大明神」の石燈籠は元文2年(1740・徳川吉宗時代)のもの。境内には江戸時代の石燈籠数基が残り、古の隆盛を偲ばせてくれる。

 社頭の案内には、
 「当社は天慶9年(946・平安中期)、蝉丸を主祭神として祀る。
 蝉丸は盲目の琵琶法師と呼ばれ、音曲玄翁の神として平安末期の芸能に携わる人々に崇敬され、当宮の免許によって始めて興行することが出来た。
 その後、万治3年(1660・江戸初期)に現在の社殿が造営され、街道の守護神として猿田彦命と豊玉姫命を併せ祀っている」
とある。

 サルタヒコ・トヨタマヒメを祀った社に、後から蝉丸を合祀したという関蝉丸神社上社・下社に対して、当社はまず蝉丸を祀り、約700,年後にサルタヒコ・トヨタマヒメを祀ったことになっている。

 関蝉丸神社上社を京都側に勧請したものと思われるが、社名から“関”の文字が除かれ、蝉丸を主祭神とすることからみると、蝉丸の神格化が進み上社・下社に祀られた頃に創建されたと思われるが、万治3年に地元大谷三か村の氏子の希望によって関蝉丸神社から分祀したともいわれ、創建の詳細は不明。

 50段ほどの石段を登り、鳥居をくぐり右折した先が境内で、その中央に舞楽殿、その奥、透塀に囲まれて本殿という社殿の並びは上・下社のそれと同じだが、管理はやや行き届いている。
 とはいえ、社殿は古びていて辺りは森閑としている。本殿脇に小祠があるが、祭神名不明。


蝉丸神社・参道石段 

 

同・石段上の鳥居

同・境内(正面が舞楽殿) 
 
同・本殿域正面
 
同・本殿正面

 社頭前の広場右手(大津方)に、簡単な杭柵に囲まれて“車石”とよばれる石が保存されており、傍らの案内には、
 「大津と京都を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの物資を運ぶ道として利用されましたが、この区間には、大津側に逢坂峠・京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所でした。
 京都の心学者脇坂義堂が、文化2年(1805)、一万両の費用をかけて、大津八町筋から京都三条大橋までの約12kmに、車の轍(ワダチ)を刻んだ花崗岩を敷きつめた牛車専用道を造った。ここに敷かれた石を車石といいます」(大意)
として、米俵10俵ほどを積んで運ぶ牛車と車石の道の絵が描かれている。 
 

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