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阿部王子神社
大阪市阿倍野区阿倍野元町9-4
祭神--伊弉諾命・伊弉冉命・速素盞鳴命・応神天皇
付--阿倍寺跡推定地
                                                             2020.08.05参詣

 JR天王寺駅前から“あべの筋”を約1.8kmほど南下した道路(阿部野筋)の西側に鎮座する。
 また天王寺駅南から発する阪堺電軌上町線・東天下茶屋駅の南南東約200m、駅から東方の阿倍野筋へ出て少し南下した西側。

※由緒
 頂いた「阿倍王子神社御由緒」によれば、
 「当神社の縁起絵巻『摂州東成区阿倍権現縁起』によれば、
  当社は仁徳天皇によって創建され、平安時代の初期の天長3年(826)弘法大師が淳和天皇の勅命により来社して、疫難退散の祈祷を修して功成り、疫病を治癒するという意味の『痾免寺』(アメンテラ)の勅額を賜ったと伝えます。

 しかし阿倍野の地名は、古代の豪族・阿倍氏の居住したことによってできた名称です。
 阿倍氏は大化の改新に斎して、都が難波に遷都(長柄豊崎宮)されたので、奈良の桜井から当地へ移住して、氏寺として安倍寺千軒坊と口碑に残る大寺院(旧蹟は阿倍野区松崎町2丁目)と、氏神として当社の元宮である阿部社を建立しました。
 ところが、その後また奈良に帰郷したので、安倍寺は四天王寺に併合されて末寺となり、阿部社も衰微しました。

 それから約200年を経て、平安時代初期に弘法大師が来社して阿部社を再興し、また当時熊野詣でが流行して(大師の時期と熊野詣で流行期とでは時代が異なり、“その後”と記すべき)、当社が熊野街道(当社西門筋、旧阿部野街道)に位置したので、熊野神を勧請合祀して熊野の王子社となりました。
 当社は四天王寺と住吉大社の丁度中間にあり、王子社の立地には相応しいお宮でした。

 熊野詣では平安時代から室町時代にかけて、蟻の熊野詣と云われるほど盛行し、京都の朝廷を始め、貴族から武士・庶民に至るまでお参りされ、途中の街道筋には熊野九十九王子と呼ばれた多数の王子社ができました。
 『王子』とは熊野三山(熊野本宮・新宮・那智山)の末社という意味で、土地の氏神社とは別に参詣者の遙拝と休憩のための施設として小さな社が設けられ、土地の名をつけて○○王子と呼ばれました。
 当社は阿部野の王子として阿部野王子と称され、鎌倉時代の歌人・藤原定家の日記・明月記の『後鳥羽院熊野御幸記』に、クボ津王子・坂口王子・コウト王子の次に第4番目の王子社として阿部野王子の名が見えています。

 王子社には、元からの古いお宮に熊野神を勧請合祀したり、また新たに創建された場合もありますが(井口新王子等)
当社は前者に相当する王子社です。また当社は4番目ですが、中世の戦乱等により途中の王子社が消失して、桃山時代頃には第二王子と呼ばれ、江戸時代初期の蘆分船(1694)には『熊野の二の王子』として見えています。
 王子社の中には、熊野信仰の衰頽と共に退転してしまったお宮もありますが、幸い当社は中世以降も阿部野村之氏神として信仰され、現在では大阪府下で唯一の旧地に現存する王子社として栄えています」
という。

 また、Wikipediaには
 「『摂州東成区阿部権現縁起』によれば、仁徳天皇の夢の中に熊野三山の使いである三つ足の烏が現れ、仁徳天皇がそれを探させると、同じものが当地(阿部島という島であったとされる)に居たので、現所在地に神社を創建した。
 これとは別に、難波長柄豊崎宮に遷都(645)して以来、この地域を本拠地としていた古代豪族・安部氏の氏寺である『阿部寺』とともに、氏神として『阿部社』を建立したという説もある。

 阿部寺千軒坊ともいわれた阿部寺だったが、後には四天王寺に併合されてしまい、かろうじて残っていた阿部社は、平安時代の天長3年に空海により再興され、神宮寺は淳和天皇より、疫病を治癒する寺という意味の『痾免寺』の勅額を賜っている。

 当地は、四天王寺と住吉大社のほぼ中間の位置にあり、熊野参詣道・熊野街道にあたることから、やがて当社に王子社が祀られるようになった。
 それが九十九王子の一つ『阿部王子』として、後鳥羽天皇が熊野御幸を行った平安時代後期には、窪津王子(中央区)・坂口王子(同)・郡戸王子(同)に次ぐ4番目の王子社となっていた。
 後に郡戸王子と当王子の間に上野王子(天王寺区)が設置され、5番目の王子となるが、戦国時代の戦乱により途中の坂口・郡戸・上野の各王子が焼失、安土桃山時代には2番目の王子となっている。
 現在、大阪府下の九十九王子で、旧地に現存している王子である」
とある。

 また大阪府全志(1922)には、
 「阿部王子神社は字王子前にあり。伊弉諾命・伊弉冉命・速素盞鳴命を祀れり。
 一に王子権現又は阿倍権現とも称し、御幸記王子記等に見ゆる熊野王子権現にして、九十九ヶ所中に於ける其の第二王子なり。
 仁徳天皇の神徳に感じて社殿を建て勧請し玉ひし所にして、後淳和天皇の御宇、悪疫天下に流行せしかば、僧空海をして鎮圧の法を修せしめ給ひ、空海は勅を奉じて一千部の薬師経を読誦書写して、特に当権現に祈りしに、悪疫頓に止みければ、天王叡感の余り痾免寺の号と勅額を賜ひしといふ。
 痾免寺は即ち今の印山寺にして、当社の宮寺となりて祭祀の典を掌り来りしが、明治維新後の神仏分離に依り同寺の手を離れて村社に列せられ、同40年8月大阪市東区安土町の無格社男山八幡神社を合祀し、大正2年3月更に郷社に昇格せらる」

 資料はいずれも、当社の創建由緒を仁徳天皇の御代とするが傍証となる史料はなく、根拠不祥の伝承であろう。

◎阿倍寺
 また、当地附近には嘗て阿倍寺と称する大寺があり、この寺を氏寺とする阿倍氏が当社創建にかかわったという。

 飛鳥・奈良時代の豪族・阿倍氏(平安以降安倍に改称)とは、第8代孝元天皇の第一子・大彦命(9代開化天皇の兄)の後裔といわれ(書紀には、大彦命は阿倍臣・・・等七氏の先祖とある、但し孝元天皇の実在は疑問視されており、大彦命も同じ)
 書紀によれば、
 ・宣化天皇元年(535?)条--阿倍大麻呂臣を大夫(マエツキミ)とした(大伴・物部・蘇我氏に次ぐ重臣だったという)
 ・孝徳天皇・大化元年(645)条--阿倍内麻呂臣(倉梯麻呂ともいう)を左大臣とした(大化改新後、難波豊崎宮で発足した新政権での任命)
とあり、この頃の阿倍氏は物部・蘇我氏等と肩を並べる重臣だったようだが、
 その後は
 ・斉明天皇2年(656)条--夏4月、阿倍臣(阿倍引田臣比羅夫)が船軍180艘を率いて蝦夷を討った
                  この年、越国守阿倍引田臣比羅夫が粛慎(ミツハセ)を討った
 ・元正天皇・養老元年(717)条--阿倍仲麻呂、第9次遣唐使の随員として渡唐(唐で重用され帰国せず)
等がみえるだけで、朝政の中枢には関与しない中級官僚として続いたようだが、その後、陰陽師・阿倍晴明が出たことから、陰陽道の家柄として知られるようになったという。

 阿倍氏の本貫が何処かは不祥だが、孝徳朝で左大臣という重職に任命されているから、遅くとも、この時期には摂津国に本拠を移していたと思われ、その地が当社の辺りだった蓋然性は大きい。
 ただ、新撰姓氏録(815)には
 「左京皇別 阿倍朝臣  孝元天皇皇子大彦命之後也」
とあるが、摂津国には同族とされる高橋朝臣(阿倍朝臣同祖)がみえるものの阿倍氏との名はみえない。


 その阿倍氏が当地附近に建立した阿倍寺について、大阪市教育委員会では阿倍野区松崎町3-6の辺り(松長大明神境内)にあったとして、『阿倍寺跡推定地』との石碑を立てている(下記)


◎阿倍野王子
 平安中期以降の当社は阿倍氏の氏神社というより、熊野九十九王子の一つ阿倍野王子社として知られており、摂津名所図会(1798)には
 「王子権現社  阿倍村にあり、祭神若一王子  都より紀州熊野まで九十九社の一なり」
として、下の絵図を載せている。
 絵図をみると、熊野街道(絵図下部)沿いに鳥居が立ち、参道の先に拝殿・本殿と鎮座し、周囲を森に囲まれている。



阿倍野王子権現(摂津名所図会より) 
   

同・社殿社部分・拡大

 熊野の王子については諸説があるが、一般には『熊野のカミの御子』とされ、これを仏教側からみると『眷属神としての護法童子』となる。
 他にも、“その土地、その場に坐すカミを祀った聖地”で、そこを通る人々が香華を供えた『手向けのカミ』との捉え方、海の彼方からやってくる『マレビトカミを迎え、祈りを捧げる聖地』などの捉え方がある。

 九十九王子とは、平安中期頃からはじまった熊野詣でに際して、その道筋に設けられた一群の小祠で(熊野詣での先達を務めた修験者によるともいう)、本来は、熊野古道の近隣住民が在地の神を祀っていた小祠を王子と称したともいわれ、熊野詣の人達はこれらの王子から遠く熊野三山を遙拝して旅の安全を祈り、時には熊野詣での人々の宿所としても使用されたという。

 また九十九王とは、摂津・淀川尻の窪津王子(クボツオウジ、大阪市天満橋付近)からほぼ半里毎に連なる王子群の総称で、99という数字は実数ではなく“沢山”を意味し、いわば京と熊野三山の途中にあって、両地を結びつける飛び石としての役割を持っていたといえる。

 今、大阪市内には、窪津王子・坂口・郡戸(コウト・上野・阿倍野・津守との王子跡伝承地があり、その中で阿倍野王子(当社)のみが旧来からの場所に残っている。

 因みに、後鳥羽上皇・建仁元年(1201)の御幸に供奉した歌人藤原定家の記録・後鳥羽院熊野御幸記には
 ・10月5日  申(午後4時)始め許りクボ津に着く。王子を拝す。・・・御奉幣あり。・・・
         土地の宿老と共に(窪津王子を)已前に退出す。即ち馬にて先陣して坂口王子を参る。又先陣してコウト王子に参ず
         先陣して天王子(四天王寺)に参りて西門の辺りを徘徊す、少時にて入御・・・
 ・10月6日  払暁、馬にて出て阿倍野王子を指して参りて奉幣・・・。次に住吉社(津守王子)に参りて奉幣・・・
とあり(神坂二郎・藤原定家の熊野御幸・2006より抄紀)、そこには窪津王子・坂口王子・郡戸王子・阿倍野王子・津守王子(住吉社)の名がみえる(この時点では上野王子はなかったらしい)
 また御幸記には、定家が上皇御幸の先駆けとして、行く先々での儀式・食事等の段取り、宿舎の設営などに忙しく飛び回っていた様子が記されている。


※祭神
   伊弉諾命・伊弉冉命・速素盞鳴命・応神天皇

 伊弉諾命・伊弉冉命・素盞鳴命は、当社が王子社であることから熊野三山の主祭神を勧請したもので
  伊弉諾命-熊野速玉大社の主祭神
  伊弉冉命-熊野那智大社の主祭神
  速素盞鳴命-熊野本宮大社の主祭神

 応神天皇は、明治40年(1907)に合祀された元東区(現中央区)安土町にあった男山八幡宮の祭神で、明治末の神社統廃合政策によって合祀されたもの(現安土町3丁目に跡地なく、旧鎮座地は不明)

 由緒からみると、当社本来の祭神は阿倍氏祖神(大彦命か)だったと思われるが、今、祭神名を含めて、当社と阿倍氏との関係を示唆するものは見当たらない。


※社殿等
 境内東側の阿倍野筋には鳥居がなく、玉垣の間に2本の〆柱が立つのみ。
 社頭には「熊野権現第二王子社 阿倍王子神社」との案内が掲げてある。
 入口入ってすぐに横長の建物「参集殿」が視線を遮って建ち、その左端近くにある入口を通って境内に入る。

 境内西側、旧熊野街道に面して鳥居が、鳥居下の中央に「阿倍野王子旧蹟」との小さな石柱が立ち、長めの参道を通って境内に入るから、名所図会に見るように、王子社としての正面は此方だったと思われる。


阿倍王子神社・東側入口 
 
同・参集殿(左の入口から境内に入る)

 
同・西側鳥居

 境内に入って右側、一段高くなった処に大きな唐破風付向拝と千鳥破風を有する権現造様式の拝殿(外郭はコンクリート造、内部は木像総桧造)が南面して建ち、その奥に本殿が南面して鎮座する。
 栞には、本殿は熊野造(春日造の一種)・建坪129㎡・昭和42年竣工とあるが、周囲の建物に阻まれて見えるのは屋根のみ。


同・拝殿 
 
同・拝殿(向拝部)
 
同・本殿屋根

◎境内社
 参詣の栞には、境内社として葛之葉稲荷神社・綜合末社・水神社・御烏社とあるが、その鎮座由緒等は不明。

*葛之葉稲荷神社
  拝殿の向かって右に南面して鎮座する。
    祭神--葛之葉稲荷大神・末広大神・萬直大神・玉姫大神・白玉大神・宝玉大神・玉照大神・日切大神・大高太神・
  参詣の栞には、全て稲荷大神で、宇迦之御魂神(ウカノミタマカミ)とある。
  当社を葛之葉稲荷と称するのは、阿倍晴明に係わる葛之葉姫説話に関係してのことと思われる。


葛之葉稲荷神社
(左の小祠は御烏社) 
   
同・内陣
(装飾彩色のある小祠がみえる)

*綜合末社
  拝殿の左、西鳥居からの参道沿いに、唐破風向拝をもつ一間社流造の社殿が南面して鎮座する。
    祭神--天照大神・豊受大神・住吉大神・春日大神・金刀比羅大神・恵比須大神・天満大神・高良大神・由賀大神


綜合末社・側面
(左の赤い鳥居は水神社) 

同・社殿
 
 
同・内陣

*水神社(スイジンジャ)

 綜合末社の南側に相対して鎮座する小祠
    祭神--罔象女神(ミズハノメ)・高淤迦美神(タカオカミ)・闇淤迦美神(クラオカミ)
          祭神3座は何れも水神。(オカミは龗-雨の下に龍とも記す) 

 朱塗りの鳥居の奥、簡単な覆屋の中に一間社流造の社殿が鎮座する。







水神社・鳥居 
同・社殿

*御烏社(ミカラスシャ)

 拝殿の右、葛之葉稲荷神社との間に鎮座する小祠
    祭神--八咫烏大神(ヤタカラス)
  参詣の栞には、「人々の諸々の願いを熊野の本社に取り次いでくれる神」とある。

 簡単な覆屋の中に三本足の烏(八咫烏)の像があり、その前には願いを書いた青い幣帛が奉納されており、この社に願をかける人が多いことを示唆している。





 
   

*ご神木
 境内、特に西鳥居からの参道脇に注連縄を張ったご神木(楠の大樹が多い)が数本聳え、
 それぞれに、「○○能木霊神」(○○ノコダマノカミ)との木札が立っている。(いずれも大阪市指定の保存樹)


ご神木
 

ご神木
 

茂杜能木霊神
(モトノコダマノカミ)とある 

【阿倍寺跡推定地】
   大阪市阿倍野区松崎町3-9
 JR天王寺駅の南南東約600m、あべのハルカス南側の道を東へ、5っ目の角(近鉄駅東口へ至るエスカレーターがある)を右折して南下した先のセブンイレブン南の角を西へ入った左側(南側)、建物と駐車場の柵にはさまれた小路を入った左側(東側)に鎮座する松長大明神の境内(南北に細長い)にあるが、一般の地図には表示なく、且つ密集市街地の奥に鎮座するため見付けにくい(グーグルマップを拡大すると表示が出てくる)

 
この角を南下する(ドーム下がエスカレーター)

セブンイレブンの角を右(西)へ 
 
小道の先に朱塗りの祠が見える

 境内北側に立つ鳥居を入ってすぐ左側(境内北側)の小さな植え込みに中に、
  『阿倍寺跡推定地』
との石碑が立ち、傍らの案内には、 
 「阿倍野区松崎町一帯には『阿倍寺』・『東阿倍寺』などの字名が残っており、このあたりを本拠としていたという阿倍氏の氏寺である阿倍寺跡に推定されている。阿倍寺は『阿倍寺千軒』と呼ばれ広大な伽藍を有していたと伝えられる。

 第二次世界大戦直後には、建物の墓壇跡ではないかといわれる小丘が残っていたが、現在はそれも失われ、寺院の伽藍配置など詳しいことは不明である。

 昭和10年(1935)には、松長明神の附近から塔心礎と考えられる礎石と布目亙が出土しているほか、道路工事等に伴い、若干の亙が採集されている。その中には複弁蓮華文軒丸亙や重弧文軒平瓦など、白鳳時代にさかのぼるものもある。
 礎石は大阪府有形文化財に指定され、現在西成区の天下茶屋公園内に移設されている」
とある。

 
   

 現在、礎石が置かれているという東天下茶屋公園は西成区岸里東1丁目に位置し、公園ほぼ中央の大樹の下、鉄柵に囲まれた中に礎石が置かれている。(その右に「明治天皇駐簾遺址」と刻した大きな石碑が立っている)

 側らの案内には
 「阿倍寺塔心礎  大阪府指定有形文化財
 阿倍寺は阿倍氏の氏寺ともいわれる奈良時代の寺院で、現在の阿倍野区松崎町の松長大明神の一帯にあったと伝えられている。
 この石は、阿倍寺の塔の中心となる礎石と考えられ、中央に直径61㎝・深さ1㎝の柱穴を掘り、さらにその内部に直径10.1㎝・深さ8.2㎝の舎利を埋納するための穴がある。
 当初は松崎町にあったが、現在はこの天下茶屋の地に移され、昭和43年(1974)に大阪府指定有形文化財に指定された」
とある。


礎石位置全景(大樹の下にある) 

安倍寺塔・礎石 
 
左:塔礎石、右:明治天皇駐簾碑

 礎石そのものは長方形の平たい自然石で、その中央に円い心礎の穴が開いているが、今は金網が被せられていて穴の中は見えない。


安倍寺塔・礎石 
 
同・心礎部分の穴

同・心礎穴(安倍寺跡推定地案内より転写) 

◎松長大明神

 境内南側、朱塗りの木柵の中に鎮座する。
 境内に案内等なく、鎮座由緒・年代・経過など不明だが、社殿がまだ新しく社域が綺麗なことから、未だに周囲の人々の信仰が篤いと推測される。

 社殿背後に石積みした丸い穴が開いている。曾ての泉あるいは井戸の跡かと思われるが詳細不明。
 当社祭神は、内陣に「三つ鱗紋(ウロコモン)(右図)が見えること、社殿背面下に井戸(泉)跡らしきものがあることから、龍神(水神)かと思われるが、祭神名不明。

三つ鱗紋
 
松長大明神(正面)
 
同・社殿
 
社殿背後の穴(井戸跡か)

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