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摂津(東生郡)の式内社/阿遅速雄神社
大阪市鶴見区放出3丁目
祭神--阿遅鉏高日子根神(迦毛大神)・草薙御剣御神霊(八剣大神)
                                                                 2009.4..29参詣

 延喜式神名帳・摂津国東生郡四座のうち『阿遅速雄神社』(アヂハヤオ・在放出村水剱)とある式内社。

 JR学研都市線・放出(ハナテン)駅の東約150m、東西に走る駅前通りから北へ入った所に鎮座する。道路に面して大きな瓦葺の門(薩摩門-明治初年、近くの薩摩屋敷から移築という)があり、門を入ったところに大鳥居が立っている。境内右手に大きな楠の古木が聳え、根元に小祠がある。

阿遅速雄社/薩摩門
正面・薩摩門
阿遅速雄社/鳥居大鳥居
阿遅速雄社/拝殿
拝殿
阿遅速雄社/本殿
本殿

※祭神
 祭神・『阿遅鉏高日子根神』(アヂスキタカヒコネ、書紀:味耜高彦根・出雲風土記:阿遅須枳高日子根、アヂシキタカヒコネともいう)は、古事記に
 「オオクニヌシ神が、胸形の奥津宮に坐す神・タキリヒメ命を娶って生んだ子は、アヂスキタカヒコネ神、・・・(中略)・・・
  この神は、今、迦毛(カモ)大御神と謂うぞ」
とある神(大国主の後裔段)。その事蹟については、国譲りの段に
 「国譲り交渉に高天原から葦原中国に派遣されたが、8年間も復命しなかったアメノワカヒコが返し矢をうけて死んで、その葬儀に弔問に訪れたが、アメノワカヒコと似ていたことから死者が生きかえったと間違われ、“親しい友だから弔いにきたのに、何で穢い死者と見間違うのか”と怒って、剣を抜いて喪屋を切り倒し足をもって蹴飛ばした」(大意)
とあり、また出雲国風土記には
 「天の下をお造りになされた大神(オオナムチ)の御子、アヂスキタカヒコネ命は夜となく昼となくひどくお泣きになった。それで、そこの高い崖に御子の御座所となるべき所を造った。そして高い梯子をたてて登り降りして養育し奉った」(神戸郡条)
 「アヂスキタカヒコネ命は、顎の髭が八握(ヤツカ)になってもまだ夜昼となく(赤ん坊のように)泣いてばかりいて、言葉もしゃべれなかった。・・・」(仁多郡条)
とあるように、これといった事蹟はない。

 この神は、上記のように出雲系の神でオオクニヌシ(=オオナムチ)の御子とされるが、出雲国造神賀詞(イズモノクニノミヤツコ カンヨゴト)には、大穴持命(オオナムチ)
 「(皇孫の近き守神として))吾が御子アヂスキタカヒコネの御魂を、葛城の鴨の神奈備に坐せ(祀れ)と告げた」
とあり、大和・葛城(葛下郡=現奈良県御所市付近)の『高鴨神社』(式内社に主祭神として祀られている。
 今、御所市には、アヂスキタカヒコネの兄弟神であるコトシロヌシを祀る神社(鴨都波神社)もあり、いずれも神詞にからんで出雲から葛城へやってきた神だが、元々から葛城地方で崇敬されていた神々ともいう。

 アヂスキの“アヂ(アジ)”は美称で、“スキ”は農具の鋤を指す。本来は鋤に象徴されるように農耕神で、また農耕に必要な水を司る雷神でもあり、風土記にいう“ひどく泣いた”あるいは“梯子を登り降りした”というのは雷神を比喩するという。
 
 当社の社名である『阿遅速雄』とはアヂスキタカヒコネの御子神で、かつては高鴨神社にも摂社として祀られていたというが、其の名は記紀には記されておらず、他にも資料がみあたらず詳細不明。

 併祭神の『八剣大神』(ヤツルギのオオカミ)とは、記紀神話でスサノヲが退治した八岐大蛇の尾から現れた所謂・“草薙剱”の分霊という(後述)

※鎮座由緒

◎アヂスキタカヒコネの鎮座由緒
 神社由緒によれば、
 「アヂスキタカヒコネは、当地へ降臨して土地を拓き耕耘の業を授け、父・オオクニヌシの神業を助けられた。郷民は、その神徳を慕って、摂津・河内の国造神(クニツクリのカミ)として、神が坐した此の地の守護神として齋き祀ったと伝える。・・・
 この宮を阿遅速雄神社と称すめが、古くは阿遅経宮(アジフのミヤ)または浦明神と称され、のち八剣大明神(ヤツルギ ダイミョウジン)と尊称した」(大意)
とある。土地を拓き云々とは、父神・オオクニヌシの国土造営神という神格をひきついだものであろう。
 別伝によれば、当社付近は、高鴨神社から発した葛城川が大和川と合流して旧河内潟湖に注ぐ合流点で、そこに港を開いたアヂハヤオ一族が、川辺の高台に祖神(父)を祀ったのが当社のはじまりともいう(ネット資料)

 記紀の中に、アヂハヤオの父神とされるアヂスキタカヒコネを直に祖神とする後裔氏族の名はみあたらない。ただ新撰姓氏禄には、アヂスキタカヒコネの父・オオクニヌシの後裔氏族として
 『賀茂朝臣(カモアソン)--大和国神別(地祇) 大神朝臣同祖 大国主神之後也 
                 大田田祢古孫大賀茂都美命(一名大賀茂足尼)奉斎賀茂神社也』
があり、古事記では
 「オオタタネコ(オオモノヌシ=オオクニヌシの曾孫-日本書紀では子)は、神君(ミワノキミ=大神氏)・鴨君(カモノキミ)の祖先」
とする。この系統は大和の葛城を根拠地とすることから“葛城賀茂”と呼ばれる。

 一方、同じカモを名乗る氏族に
 『賀茂県主(カモアガタヌシ)--山城国神別(地祇)  神魂命孫武津之身命之後也』
がある。
 このカモ氏は、山城国風土記逸文・賀茂社条に
 「日向の高千穂に天降った神・賀茂建角身命(カモタケツヌミ、=武津之身命)は、神武天皇を先導して大和に入り、葛城山の峰に宿っていたが、そこから山城国の岡田の賀茂に移り、また山代川を下って葛野(クズノ)の地に移った」(大意)
とあるカモタケツヌミの後裔氏族で、“葛野賀茂”と呼ばれる。この葛野賀茂が祀る神社が『上賀茂神社』(祭神:カモワケイカヅチ)・『下鴨神社』(祭神:タマヨリヒメ・タケツヌミ)。なおタケツヌミは、神武を先導したことから、熊野で道に迷った神武を先導したヤタガラスと同体(あるいは後裔)ともいう。

 大和の葛城賀茂と山城の葛野賀茂とは、同じカモを名乗るものの別々の氏族とする説と、葛城を拠点とした賀茂朝臣系が山城国・岡田を経て葛野の地に進出したのが賀茂県主系とする説があり、定説はない。

 当社の祭神・アヂスキタカヒコネがオオクニヌシの御子であり、かつて葛城の高鴨神社にアヂハヤオを祀る摂社があったこと、併祭神の八剣大神にかかわって“賀茂朝臣蝦夷”なる人物が登場することなどからみて、当社を創建した祭祀氏族は賀茂朝臣に連なるカモ氏だったと思われる。

◎八剣大神奉斎由緒
 神社由緒によれば、
 「天智天皇7年(668)11月、新羅の僧・道行(ドウキョウ)が尾張国・熱田宮の神剣・天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ=草薙剣:クサナギノツルギ)を盗みだして本国へ帰ろうとしたが、難波の津で大嵐に逢い、大和川河口であった当地に流れ着いた。道行は、これを神罰として怖れ、剣を川の中に放り出して逃げた。里人がこの剣を拾いあげ、当社に合祀していたが、数年後、天武天皇の飛鳥淨見原宮に遷し、更に天武帝が病にかかられた朱鳥元年(686)6月、熱田の御社に奉還した」(大意)
とあり、今、当社に祀られている八剣大神(ヤツルギのオオカミ)はクサナギ剣の分霊という。なお、“剣を放り出した”ことから、当地を“放出・ハナテン”というとの難読地名伝承が付されている。

 このクサナギ剣盗難事件は実際にあった事件で、日本書紀・天智天皇7年条に
 「この年(天智7年)、沙門道行が草薙剣を盗んで新羅へ逃げた。しかし途中で風雨にあって、道に迷いまた戻った」
と盗難にあったことを記し、天武天皇・朱鳥元年6月条に
 「天皇の病を占うと、草薙剣の祟りと出た。即日、尾張国熱田社に送って安置した」
とあるが、その間、何処にあったかは記していない。
 天武紀に「即日、熱田社に送った」とあることからみて、朱鳥元年には天武の宮中にあっと解される。その宮中奉安以前の一時期、当社にあったというのが上記由緒だが、別伝では住吉大社にあったともいう(住吉大社神代記成立時-天平3年:731-の所蔵神宝の一つとして「神世草薙剣」があり、住吉に奉安されていた神剣を熱田に奉還するとき、代器として下賜されたものではないかという)
 当社と住吉大社のどちらにあったかは不明だが、かつての当社は住吉大社の末社だったという(前記神代記)から、住吉大社奉安を当社奉安と差し替えたのかもしれない。

 一方、別伝として
 「壬申の乱の後、初代土佐国司となった賀茂朝臣蝦夷が、ここを拠点に伊与西条の熟田津まで定期航路を開設したが、その往還船の一つが、熱田神宮から盗難にあった草薙剣を百済船から奪還し、当社に安置し、その後、天武天皇が重病にかかられたとき熱田神宮に返納された」(大意)
との伝承があるという(ネット資料)

 賀茂朝臣蝦夷(?~695)とは、壬申の乱(672)で天武天皇側の将軍・大伴連吹負(フケイ)に従って戦ったと伝えられる人物(鴨君蝦夷と記す)で、その功により天武13年(685)に朝臣の姓(カバネ)を賜っている(日本書紀)が、土佐国司となったと記す資料は見当たらない。なお国司とは、大化改新(645)で設けられた地方官(守・介など4等級あり)で、大宝律令制定(701)後に本格的に各地に任命されたという。また土佐国が置かれたのは7世紀というから、蝦夷が初代土佐国司に任じられた可能性はあるが、その真偽は不明。

 なお、賀茂朝臣年表(ネット資料)によれば、蝦夷の子・吉備麻呂が元正天皇・養老元年(717)に河内守(国司)に任じられたという。当社の所在地・放出は摂津国だが河内国とは近接しており、当社の祭祀氏族を賀茂朝臣系とする傍証ともなる。

※境内末社
 当社境内の右手に、末社・相殿社・大将軍社・楠木稲荷社・護国社・道祖神社が並んでいるが、各社の鎮座由緒・時期など詳細不明。

◎相殿社
  祭神--天照大御神・応神天皇・春日大神・住吉大神・事平神(琴平神)・稲荷大神
◎大将軍社
  祭神--大将軍神(方位の神)
◎楠木稲荷社
  祭神--倉稲魂命(ウカノミタマ-穀物神)
◎護国社
  祭神--護国の神霊

 境内入って右に枝葉をに鬱蒼と繁られた楠の老木があり、その下に朱色の鳥居をもった小祠が鎮座している。説明によれば、楠木は幹廻り約6m(目通り)、樹高約16m、枝張り約30mの老樹という。大阪府指定の天然記念物(昭和18年8月指定)。楠下の小祠は一見稲荷のようにみえるが、祭神不明。古くからの樹木信仰をひいたものであろう。

阿遅速雄社/末社・相殿社
相殿社
阿遅速雄社/末社・大将軍社
大将軍社
阿遅速雄社/末社・護国社
護国社
阿遅速雄社/末社・楠木稲荷社
楠木稲荷社
阿遅速雄社/楠樹下の祠
楠樹下の祠
阿遅速雄社/楠の老木
楠の老木(天然記念物)

※菖蒲神池
 境内の北側に小さい池・『菖蒲神池』がある。神社由緒によれば、
 「仁徳天皇が病にかかられたとき、アヂスキタカヒコネが夢枕に立ち、『皇居の東方にある神池の菖蒲を供えて祀れ。そうすれば必ず御病は治癒するであろう』との神託があり、神池の菖蒲を祀ったところ、忽ちに平癒された。これを由縁として、古来より菖蒲刈祭は本社の特殊祭典として伝わっている。神前に供えられた菖蒲は下げたあと氏子・崇敬者に頌ち授けられ、氏子はそれを出入り口の屋根に病魔除けとして祀っている。
 菖蒲は霊験あらたかな邪気払い・病魔除けとして端午節句に広く各戸の屋根の上に祀り、無病息災を祈る風習の発祥は菖蒲神池である」(大意)
とある。
 池とはいっても、浅い窪みといった感じで水はない。中央付近に石で囲った中の島があり『道祖神社』が鎮座している。神社横の石碑には、表に「史蹟 菖蒲神池」、裏面に「仁徳天皇が病のとき、ここの菖蒲によって治癒された」(大意)と刻されている。
 端午節句の日、菖蒲を家の軒先に挿して無病息災を祈る風習は古くからのもので、蜻蛉日記(平安初期)などにも記されている。菖蒲が発する独特の香りが邪気を祓うとされることからのもので、その家が物忌みにあることを示したともいう。同じ趣旨で、節句の日に菖蒲を入れた湯に入る習慣は、今も少しは残っている。

◎道祖神社(ドウソシン)
菖蒲神池のほぼ中央にある中の島に、ドウソシンを祀る石祠が建っている。
 普通、ドウソシンは塞の神・道中安全の神として道の分岐点や峠の上あるいは村落の境界などに祀られることが多いのに、池の中に祀られた理由は不明。あるいは、近くの道端にあったものを移したのかもしれないが、当社由緒には何も書いていない。
阿遅速雄社/菖蒲神池と道祖神社
菖蒲神池と道祖神社

※お蔭灯籠
(オカゲトウロウ)
 社前、鳥居の右手に『お蔭灯籠』と呼ばれる古びた石燈籠が立っている。
 横の説明には、
 「この灯籠は、慶応4年(1868、明治元年)に建立された“お蔭灯籠”で、“お蔭まいり”という伊勢神宮への参詣を記念して建立されたものである」
とある。
 お蔭まいりとは、中世以降の伊勢信仰の広がりを背景に、江戸時代に流行した伊勢神宮への大量参詣をいう。伊勢参詣熱に浮かれた人々が、勝手に仕事を放り出して非日常的な世界である旅に出るというもので、熱狂的なものであるとともに無頼的なものだったという。
 知られたものだけで寛永15年(1638)から慶応3年(1867)までに15回ほどあったといわれ、特に慶安3年(1650)・宝永2年(1705)・明和8年(1771)・文政13年(1830)のそれが大規模だったという。
 幕末になると単なる勝手参詣の旅というより、「ええじゃないか」の囃しに合わせた踊りをともなった社会変革期の世直し願望を込めた大衆運動的なものに変貌していったという。
 この灯籠は、このような時代の流行り病的な風潮にのって、この辺りの人々が出かけたお蔭参りを記念して立てたのだろうが、大阪市内で唯一残ったお蔭灯籠だという。

お蔭灯籠

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