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摂津(住吉郡)の式内社/大海神社
大阪市住吉区住吉2丁目(住吉大社境内)
祭神−−豊玉彦命・豊玉姫命
付−−志賀神社
                                                       2009.5.14参詣・2017.05.11再訪

 住吉大社の境内北側に隣接する神社で、延喜式神名帳に
  『摂津国住吉郡  大海神社二座  元名津守氏人神』
とある式内社だが、今は住吉大社の境内摂社となっている。
 本来は“オオワタツミのヤシロ”と読むべきだろうが(神社覈録・1870には「於保和多都美・オオワタツミと訓べし」とある)、神社では“タイカイ”・“ダイカイ”と称している

※由緒・祭神
 今の祭神はトヨタマヒコ・トヨタマヒメとなっているが、延喜式神名帳では「元名津守氏人神」とある。ただ、「元津守安人神」とする古写本があり、安人神が正しいともいう。

 この氏人神について、住吉大松葉大記(伝・18世紀初頭刊、以下「松葉記」という)には、
 「大海社は、神代よりの鎮座にして、田裳見宿禰(タモミスクネ)其祖宗より此神に奉仕れり。神功皇后の御時、三大神此地に鎮座し給ふに及んで、田裳見宿禰に勅して三大神を祭る神主とし給へり。田裳見宿禰其嫡子を以て大海神社を祭らしめ給ふに依りて、嫡男を大領氏と云うなるべし」
とある。
 神功皇后の命でツツノオ三神を祭ることになったタモミスクネが、古くからの領地に祀っていた氏神社である大海神社の祭祀を嫡男・大領氏に委せたという記事で、これによれば、「元津守氏人神」とは“津守氏の氏神”を意味する。
 津守氏は、公的には住吉大社の祭祀を司る氏族であり、大海神社は氏神を私的に祀った神社ということもできる。
 なお、“大領”とは郡司(地方官)に与えられる最高官位で、津守氏が摂津国住吉郡の郡司であったことから、タモミスクネの嫡男が大領を名乗ったという。タモミスクネの子には、大領氏以下7氏があり、その子孫を“氏人”と総称したというから、、延喜式にいう“氏人神”とはこれら氏人の氏神ということになる。

 これに対して住吉大社神代記(天平3年・731、異説あり、以下「神代記」という)は、
  「津守安必登神 二座 海神-ワタツミ-と号く、安人を氏人に改むるは誤りなり」
と記し、安必登を“アヒト”と読ませている。この安必登は安人に通ずる仮名遣いで読みも一致することから、古写本にある安人神が正しく、氏人神は誤記だという。
 現行の国史大系本(明治34年1901刊)には“氏人神”とするが、「名:今これを補す。氏:原は安に作る。或本に拠って改める」(大意)との注記があり、本来は“安人”であることを認めている。

 このアヒトが何を意味するのかはわからないが、神代記が“ワタツミ神と号(ナヅ)く”と注記することからみて、漁撈民が祀る海洋神で、安人(アヒト)は現人神(アラヒトガミ)に通じるともいう。現人神とは、人の姿となって現れた神を指し“荒人神”とも書く。
 万葉集に
 「住吉の現人神(荒人神) 舟舳(フナノヘ)に うしはきたまひ 着きたまはむ 島の崎々 ・・・」
                   (1021、住吉の現人神よ 舟の舳先に鎮まりたまい 着かれる島の崎々・・・)
と詠われるように、古く、住吉の神は目に見える現人神として顕れることがあり、それは白髪長髭の翁(高砂の翁)としてイメージされ、記紀神話に海導者(海の案内者)として登場する“塩土老翁”(シオツチノオジ)に重なるという。また、能楽・“高砂”に登場する“翁”のイメージでもある。

 今の祭神は
  豊玉彦(トヨタマヒコ)・豊玉姫(トヨタマヒメ)
となっているが、大綿津見命(オオワタツミ)・玉依姫(タマヨリヒメ)とする説、塩土老翁(シオツチノオジ)・彦火火出見尊(ヒコホホデミ)・豊玉姫(トヨタマヒメとするなど諸説がある。
 ・トヨタマヒコ−−海神(ワタツミノカミ)
 ・トヨタマヒメ−−トヨタマヒコの娘で、なくした釣り針を探して訪れた山幸彦(ヒコホホデミ)と結ばれ、ウガヤフキアヘズ(神武天皇の父)を産む。
 ・オオワタツミ−−海神でトヨタマヒコと同一神(本名ともいう)、小童(ワタツミ)とも書く。
 ・タマヨリヒメ−−海神の娘でトヨタマヒメの妹、姉に代わってウガヤフキアヘズを育て、後、その妻となって神武天皇他を産む。
 ・シオツチノオジ−−釣り針をなくして困っていたヤマサチを、竹を隙間なく編んだ籠の小船に乗せて竜宮の海神のところへ案内した神。塩筒老翁(シオツツノオジ)とも記し、ツツノオ三神と同一ともいう。
 また神武東征神話では、速吸門(明石海峡)で現れ神武を案内した神で、サオシネツヒコ(記)・シオネツヒコ(紀)・ウズヒコ(紀)ともいう。
 ・ヒコホホデミ−−皇孫・ニニギの御子で、説話では山幸彦と称する。神武天皇の祖父。

 これらの祭神は、すべて海幸山幸神話に登場する神々で、主祭神・オオワタツミ(トヨタマヒコ)の親族縁者ともいえる。
 ワタツミ神とは、記紀神話でツツノオと一緒に生まれた神で、
  「この三柱のワタツミ神は阿墨連等が祖神とも齋く神なり」
とあるように阿墨氏(安曇氏)の祖神とされる。
 阿墨氏は九州・筑紫を根拠とする氏族だが、新撰姓氏禄に
 「右京神別(地祇)  安曇宿禰  海神綿積豊玉彦子穂高見命之後也」
 「摂津国神別(地祇)  阿墨犬養連  安曇宿禰同祖  海神大和多羅(オオワタツミ)命三世孫穂己都久(ホコツク)命之後也」
とあり、また履中紀の住吉仲皇子反乱記事に阿墨連浜子が淡路の海人を率いて登場し、孝徳紀・白雉4年条(653)に見える氏寺・安曇寺が現天満橋付近にあったと推定されていることから、難波にも早くから進出していたという。

 その阿墨氏系の神々を、何故、津守氏が祀るのはわからない。松葉記に、
 「大領氏は大海神社を経営はするものの、祭祀はおこなわない」(大意)
とあることから、祭祀は従来通り阿墨氏がおこない、祭祀以外の社務を津守氏がみた、とする資料も多い。
 しかし管見のかぎりでは、松葉記にこれに相当する記事はみあたらず、逆に
 「津守連の祖タモミノスクネの子深谷戸(ミヤト)をして連の公(キミ)とし、社務(ミヤツカサ)を司り、之に祭事(マツリゴト)をさせた」(大意)
と、社務・祭祀ともに行わせたと読める記事がある(ただし、読み−漢文−の間違いかもしれない)

 当社本来の祭神は、延喜式にいう『津守安人神』であり、その神が漁撈民が祀る海神・ワタツミであることから、同じ海神であるトヨタマヒコ・トヨタマヒメを充てたのかもしれない。

※社殿等
 当社は住吉大社境内の北に隣接して鎮座するが、正面鳥居は西側境外の道路に面して立ち、緩やかな坂道を登った楼門の先に、神明造平入りの拝殿が、その奥に住吉造檜皮葺きの本殿が建っている。
 拝殿内陣正面の扉に、松林の先に帆船が走る様を模式化した扉絵が描かれている。かつての住之江の様を描いたものであろう。
 今の本殿は住吉大社本宮よりも古く宝永5年(1708)造営といわれ、重要文化財(昭和25年指定)

 境内摂社とはいうものの独立社といってもおかしくなく、それは住吉大社鎮座以前からの津守氏の氏神社という社格からであろう。
 大社境内北側にある朱塗りの小門からも入れる。


大海神社・鳥居 
 
同・楼門

同・拝殿 
 
同・本殿

内陣正面の扉絵 

 拝殿の右前に、「玉能井」(タマノイ)なる井戸があり、住吉大社略記には
  「山幸彦が海神より授かった潮満珠を沈めた処と伝えられている」
とある。

 海幸山幸説話にある、“山幸彦が海神の館から帰るとき、潮(水)の干満を意のままに操作できる霊珠を貰った”との説話による伝承で、俗伝によれば、尊は、潮干珠を堺の飯匙池に潮満珠を当地に納めたという(大阪府全志)

 また大社略記には、「古来、この附近は玉出島または玉出岸とも呼ばれ、萩と藤の名所であった」とあり、「神功皇后凱旋の時、多くの珍器宝物を庶民に見せた処」との伝承があ.るという(大阪府史蹟名所天然記念物)

 今の玉の井は涸れているようで、水道の水をひいた手水舎となっているが、由緒を知らない人は素通りするであろう。

 
手水舎・玉の井
   
同 左

【志賀神社】
 大海神社社殿の右(南)に、住吉大社境内摂社・志賀神社が鎮座する。

 住吉大社参詣の栞には、
  「大海神社境内にあり、伊弉諾尊の禊祓の時、住吉三柱大神と共に生れ出で給うた底津少童命(ソコツワタツミ)・中津少童命・表津少童命をお祀りしております」
とある。

 当社に祀るワタツミ三神は、イザナギが筑紫のアワギ原で禊ぎをしたとき、ツツノオ三神とともに成り出た神で、記紀によれば安曇氏が斎き祀る神という。
 その安曇氏の祖神を住吉大社摂社として祀る由緒は不明だが、海士族を統括する安曇氏は古くから摂津の地に進出していたといわれることから、同じ海神(ワタツミ神)を祀る大海神社の傍らに祀ったものであろう。
 なお、当社は福岡市東区志賀島に鎮座する志賀島神社(祭神は同じ)からの勧請という。

志賀神社・社殿

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