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江口君堂
(宝林山普賢院寂光寺)
大阪市東淀川区南江口 3-13-23
                                                      2021.06.21参詣

 大坂メトロ今里筋線・瑞光4丁目駅の東約900m、淀川右岸堤防脇に『宝林山普賢院寂光寺』との寺院があり、別名『江口君堂』(エグチノキミドウ)という。
 瑞光4丁目駅前の道を西南に、二つ目の信号を左折して東へ、その突き当たりの淀川右岸堤防へ上る狭い石段を上り、堤防添いの道を左へ、二叉道路を左に下った処に鎮座する。

※寂光寺縁起
 境内に掲げる案内には、
 「当寺は摂津の国・中島村大字江口に在り、宝林山普賢院寂光寺と号すも、彼の有名な江口の君これを草創せしを以て一つに江口の君堂と称す。
 そもそも江口の君とは平資盛の息女にして、名を妙の前(タエノマエ)と言い、平家没落の後、乳母なる者の郷里即ち江口の里に寓せしが、星移り月は経るも、わが身に幸巡り来らざるを歎き、後遂に往来の船に棹のひとふしを込め、密かに慰さむ浅ましき遊女となりぬ。

 人皇第79代六条帝の御宇、仁安2年(1167)長月20日あまりの頃、墨染の衣に網代笠、草から草へ旅寝の夢を重ねて、数々のすぐれた和歌を残せし西行法師が、浪華の名刹天王寺へと詣でての道すがら此の里を過ぎし時、家は南、北の川にさし挟み、心は旅人の往来の船を想う遊女ありさま、いと哀れ果敢なきものかと見たてりし程に、冬を待ち得ぬ夕時雨にゆきくれて、怪しかる賤が伏家に立寄り、時待の間の仮の宿を乞いしに、主の遊女許す気色見せやらず。されば西行なんとなく、
  『世の中をいとふまでこそかたからめ かりのやとりをおしむ君かな』
と詠みおくれば、主の遊女ほほえみて
  『世をいとふ人としきけは 仮の宿に心とむなとおもふはかりそ』
と返し、ついに一夜の仏の道のありがたさ、歌をたしなむおもしろさを語り明かしき。

 かくて夜明けと共に西行は淀の川瀬をあとにして、雪月花を友とする歌の旅路に立ち出ぬ。
 出離の縁を結びし遊女も女は心移さず、常に成仏を願う固き誓願の心を持ちおれば、後生はかならず救わるべしと深く悟り、後仏門に帰依して、名を光相比丘尼(コウソウビクニ)と改め、此の地に庵を結びぬ。

 又自らの形を俗体に刻み、久障の女身と雖も、菩提心をおこし、衆生を慈念したるためしを見せしめ知らしめ、貴婦賤女乃至遊君白拍子の類をも汎く無上道に入らしむ結縁とし給う。

 かくて元久2年(1208)3月14日、西嶺に傾く月とともに、身は普賢菩薩の貌を現し、六牙の白象に乗りて去り給いぬ。
 御弟子の尼衆更なり、結縁の男女哀愁の声隣里に聞こゆ、終に遺舎利を葬り、宝塔を建て勤行怠らざりき。

 去る明応の始め、赤松丹羽守病篤く医術手を尽き、既に今はと見えし時、此の霊像を17日信心供養せられければ、菩薩の御誓違わず、夢中に異人来りて赤松氏の頂を撫で給えば忽ち平癒を得たり。

 爰に想うに妙の前の妙は転妙法輪一切妙行の妙なるべし。されば此の君の御名を聞く人も現世安穏後生善処の楽を極めんこと疑いあるべからず。

 其の後元弘延元の乱を得て堂舎仏閣焦土と化すも宝塔は悉し、霊像も亦儼然として安置せり。

 正徳年間普聞比丘尼来りて再興す、即ち現今のものにして、寺域はまさに600余坪、巡らすに竹木を以てし、幽遠閑雅の境内には君塚・西行痞・歌塚の史蹟を存す。(以下略) 大阪市文化財顕彰史蹟指定
とある。

 これに対し、摂津名所図会は、
 「君堂  江口里にあり。日蓮宗。宝林山寂光寺普賢院と号す。女僧住職す。
 江口君像、本堂に安置す。その外普賢菩薩の尊像、境内に西行塔・江口君の墓・西行桜あり。又西行眞蹟の和歌あり。
   『山ふかく さこそ心はかよふとも すまであはれは しらんものかは』 西行

 夫れ当寺の由縁 旧記に聞こえず、おそらくは江口の謡曲の文義を種として後世いとなみし仏場なり。
 彼の文(能・江口)に西行と和歌贈答の後、江口の君は普賢菩薩と現れ、船は白象となりて西の空に入るの趣向なり」
として、江口君開創に疑義を呈し、西行との問答歌が能・江口によって世に知られた後の建立ではなかろうかという。

◎江口
 当地・江口について、摂津名所図会(1798)には、
 「委しくは難波江口なるべし。大道村の東にあり。此所は川末にして難波津の初めなれば江口といふ。
 むかし西海の船、京師に赴く時は此所より川舟に乗換ふるなり。海船の湊なれば、繁華の地にして遊女あり。今農家僅にありて耕作の地となる。
 江口渡口は淀川の支流にして、西流して吹田・神崎を経て大和田を巡り海に入る。川の名を神崎川、又の名三国川といふ。むかしは此江口まで唐船入りしこと旧記にみえたり」

 大阪市史(2巻・1988)には
 「王朝貴族が信仰と遊山を兼ねて摂津国広田神社・住吉神社・四天王寺への参詣や、紀伊国高野山・熊野三山への参詣が盛んになると、それらの旅行に一層の情緒を添えたのが江口(東淀川区)・加島(淀川区)・神崎(尼崎市)における遊女であった。
 11世紀末、白河院政期に大江匡房は遊女記に
 『山城国与渡(ヨド・淀か)の津より淀川に浮んで西行すること一日、これを河陽(カヤ)といふ。山陽・南海(紀伊・四国)・西海(九州)三道を往反する者、この路にしたがわざるはなし。江南の南北邑々処々、流を分ちて河内国に向かふ。これを江口といふ。
 摂津国に至れば神崎・蟹島(加島)等の地あり。門を並べ戸を連ね、人家絶ゆるなし。倡女(ウタメ・遊女)群をなし、扁舟(小舟)に棹して旅船に着き、以て枕席(チンセキ)に薦(スス)む。けだし天下第一の楽池なり』
と遊女の里としての江口・加島・の繁昌ぶりを描きだしている。
    (中略)
 ともあれ、江口や加島が「天下第一の楽地」として全盛を誇ったのは平安時代であり、平安最末期の平清盛の福原遷都や日宋貿易の進展とともに、兵庫や室津にその繁栄を奪われていった。
 さらに鎌倉幕府の成立後は、東海道が重要な幹線となり、東海道の宿駅が繁昌しはじめるようになったが、江口・加島・神崎は王朝貴族の没落に応じてさびれていった」
とあり、平安時代の江口は川港を有する歓楽街・花街として繁栄したが、平安末期以降は、交通の要衝が他に移ったことから次第に衰退していったという。

◎江口の君
 江口の君とは、江口の里にいた遊女たちの総称だが、鎌倉中期、その一人・妙(タエ)が、宿を借りたいと訪れた西行と歌を取り交わしたことで世に知られ、江口の君とはこの遊女・妙を指すようになったといわれ、新古今和歌集(鎌倉初期)
 (詞書)天王寺に詣り侍(ハベ)りけるに、にわかに雨降りければ、江口にやど(宿)をかり(借り)けるに、かし(貸し)侍らざれば読み侍りける、
   世の中を いとふまでこそかたからめ かり(仮)の宿りを惜しむ君かな  西行法師 978番
 (返し)
   世をいとふ人としきけは かりの宿に 心とむなと おもふばかりそ  遊女妙  979番
とある。

 この歌問答について、白洲正子(1910--98)はその著・西行(1988)の中で
 「西行が天王寺へ参詣したとき、雨が降ってきたので、江口里で宿を借りようとしたところ、貸してくれなかったので、
    世の中をいとわしく思って、出家することは難しいであろうが、かりそめの宿を惜しむのは つれない君であるよ
となじったのに対して、女は
   出家をした方ならば 仮の宿に執着なさる筈はないと思って それでお断りしたのです
と答えた。
 まことに当意即妙な返事で、この世を仮の宿にたとえた西行に、同じ詞をもって返したのである。
 山家集や新古今集では、そこで終わっているが、他の歌集では、「かく申して、宿したり」となっているのもあり、そのまま引き下がったとは考えられない。

 西行はしばしば天王寺に詣でているが、参詣の帰りがけに、江口へ立ち寄ったのも一度や二度ではなかったであろう。
 してみると、この歌もそう老年になったからではなく、さりとて血気壮んな頃でもなく、行きずりに遊女をちょっとからかってみる心の余裕ができた壮年時代の作ではなかろうか」
といっている。

 
摂津名所図会・江口(部分)
(中央上部に「君堂」と、下方の淀川岸に「歌塚」とある)
 
同・江口君
(門口に佇む西行法師と家中から眺める江口君)

 また、この後日譚として、白洲正子は
 「(西行は再会を約して別れたが)約束の月が来たので、江口を訪れようとしていたところ、用事ができて行けなくなったので、使いのものに消息を託した。
   かりそめの 世には思をのこすなと ききし言の葉 わすられもせず
 すると、返事がきたので、急いでひらいてみると、世にも美しい手で、
   わすれずと まづきくからに袖ぬれて 我身はいとふ夢の世の中
と書き、尼にはなりましたが、心はまだ思うようにはなりません、と記した後に、
   髪おろし 衣の色はそめぬるに なほつれなきは 心成けり
という歌がそえてあった。
 まことに殊勝な遊女であり、西行はまた会いたいと思ったが、髪をおろした後は江口にも住まなくなったと聞いたので、『ついに空しくてやみ侍りき』と終わっている」
と記している。

 なお、大東市野崎にある野崎観音(慈眼寺)では、この遊女・妙(光相比丘尼)を中興の祖として祀っている(別稿・野崎観音参照)

◎能・江口
 これを主題とする芸能に「江口」という能がある(原作:観阿弥)
 その粗筋は
 ・江口の里に着いた旅の僧が、江口の君の旧跡を尋ね、西行法師が一夜の宿を断られたときの歌を口ずさむ
 ・そこへ村の女が現れ、江口の君は宿を貸すのを惜しんだのではなく、この世という仮の宿に心をとめることはないとする歌を返したのだといい、自分は江口の君の亡霊であると明かして姿を消す
 ・月明かりのもと僧が弔いをしていると、屋形船に乗った江口の君と遊女たちの亡霊が川面に現れ、様々な歌を謡い舞って船遊びの様をみせる
 ・江口の君は、罪深い女人に生まれ遊女となった前世の報いを歎き、序の舞を舞う(下中)
 ・舞いおわったのち、この世の無常を諦観し悟りを得た江口の君は、普賢菩薩に生まれ変わり、舟は大牙の白象に転じ、菩薩を乗せて西方浄土へと消えていく(象は普賢菩薩の乗り物)
というもので(下左、能楽百一番より)、普賢菩薩と化して白象に乗った遊女・妙を描いた仏画が数葉残っている(下右はその一つ)

 
能・江口
(屋形舟に乗る江口の君と遊女)
 
序の舞

白象に乗る江口の君

 この能・江口について、白洲正子は前掲書の中で、
 「この説話(能・江口)の主旨は、『狂言綺語の戯れ、讃仏乗の因』という思想にあり、これは和漢朗詠集の白楽天の詩に出ている。
 原文は長いので略すが、美辞麗句をもって人を惑わす言葉も、仏法を賛美する起因となるの意で、遊女が客を魅惑することも、西行が歌を詠むことも、すべて狂言綺語の戯れであり、そういう罪を仏法に転換することによって、自他ともに救われる。
 江口の遊女は、長年たずさわっている売色の経験により、人間の真実に目覚めたので、それは正しく泥中に咲いた花の一輪にたとえられよう。
 そういう曰く言いがたい人生の機微を、みごとに表現したのは室町時代の猿楽である。舞台芸術は文字どおり『狂言』であり『綺語』であって、美しい舞と歌によって見物を美領していく間に、おのずから法悦の境に導かれる。・・・

 江口の能は、世阿弥の書に『江口遊女、亡父(観阿弥)作』と記しており、はじめは『江口の遊女』と称されていたに違いない。
 が、世阿弥の女婿の金春禅竹の作という説もあるのは、善竹は一休の弟子で、一休の狂雲集に『江口美人勾欄曲に題す』という詩があり、善竹に書いて与えたといわれているからだ。
 古典を改作するのは珍しいことではなく、観阿弥の江口の遊女を現在の形に直したのは善竹ではないかと私は思っている。何故ならそれは、観阿弥作に比べると仏教臭の強い能で、一休に師事した善竹には、そういう作品が多いのである」
といっている。

※境内
 淀川右岸堤防添いの道から左下へ下る道を入った左、石段を下りた処に東側入口(正面入口)があるが、参詣時には閉まっていて、左にまわりこんだ南側入口から境内に入った。
 なお、東入口左の道脇に『江口の里』との石標が立つ。

 
江口君堂・東側入口
 
江口里・石碑
 
同・南側入口

 境内西に本堂が東面して建ち、正面軒下には『寶林山』との扁額が、右の柱には『江口君堂』、左のそれには『普賢院』との木札が掛かっている。

 
本堂・全景
 
本堂・正面部

本堂・側面 

 本殿内陣には、正面に煌びやかな須弥壇があり、奥に紫色の僧衣を着た尼僧の座像が安置されている。
 案内はないが、これが当寺の本尊・江口君(光相比丘尼)の尊像であろう。


本堂・須弥壇 
 
同・本尊部拡大 

 当寺は西行法師と遊女・妙に関連する寺だが、両者に関連するものは少なく、
 本堂へ至る参道の左脇に『西行塚・君塚』との石碑が立ち、その奥に小型の五輪塔が2基立っている。
 ただ案内なく、どちらがどの塚なのか、また建立由来等は不明。


西行塚・君塚への入口 
 
宝篋印塔

 正面参道の右側に、日蓮宗で本尊として用いる髭題目・『南無妙法蓮華経』と刻した石柱が立ち、その左面に上記の遊女妙の歌が、右面に西行の歌が刻まれている。
 上記案内にいう『歌塚の史跡』というのが是かとも思われるが、とすれば、摂津名所図会の淀川河岸にみえる『歌塚』が是で、何時の頃かに境内に移されたのかもしれない。
 なお、石柱右の石碑には『常磐津塚』と刻してあり、七世常磐津文字大夫(1877--1951)の7回忌を記念して建立されたものという。

 
髭題目石柱
(右は常磐津塚)
 
同・正面
 
同・左面
 
同・右面

*鐘楼
 境内の東南部に鐘楼が建ち、梵鐘が架かっており、社頭の案内には
 「当寺に伝わる由緒ある梵鐘は、遠く平安朝の昔より、淀の川瀬を行き交う船に諸行無常を告げたりし程に、はからざりき、過ぐる大戦に召し取られ、爾來鐘なき鐘楼は十有余年の長きにわたり、風雪に耐えつつも只管再鋳の日を念願し来りしに、今回郷土史蹟を顕彰し文化財の保持に微力を捧げんとする有志相集い、梵鐘再鋳を発願す。幸い檀信徒はもとより弘く十方村民達の宗派を超越せる強力と浄財の寄進を得たるを以て、聞声悟導の好縁を結ぶを得たり(昭和29年9月完成)
とある。
 周りを樹木に囲まれて全景は見づらい。

*阿波野青畝句碑
 参道の中程に、銅板を埋め込んだ石碑がある。
 資料によれば『流燈の帯の崩れて 海に来る』との句で、お盆の灯篭流しを詠ったものというが、文字が達筆すぎて読みづらい。
 なお、阿波野青畝(アワノセイホ。1899--1992)とは奈良県出身の俳人というが、その人の俳句が当寺境内にある由縁は不明。

*境内社
 参道の右奥に一間社流造の社殿一宇が鎮座する。当寺の鎮守かと思われるが、案内なく詳細不明。

 
鐘 楼

阿波野青畝句碑
 
境内社

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