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御 霊 神 社
大阪市中央区淡路町4-4-3
祭神--天照大神荒魂・津布良彦神・津布良媛神・応神天皇・源正霊神
                                                 2020.05.30参詣

 大阪メトロ御堂筋線(及び京阪電鉄)・淀屋橋駅の南約600m、淡路町通りを西へ、次の角を北に入ったに処に鎮座する。

※由緒
 境内に掲げる案内には、
 「本神社は、古来大阪市の船場・愛日・中之島・土佐堀・江戸堀・京町堀・靫・阿波堀・阿波座・薩摩堀及び立売堀・長堀の西部・南北堀江の西部など旧摂津国津村郷の産土神と坐す。
 其地往昔海辺ぬかるみにて芦荻(ロテキ)繁茂して圓江(ツブラエ)と謂い、円形の入江をなし、その口に瀬織津比売神(セオリツヒメ)、地主の神たる津布良彦神(ツブラヒコ)・津布良媛神(ツブラヒメ)を奉祀して圓神祠(ツブラシンシ)と言ったのが当神社の古名である。

 御神徳高く、上古、天皇御即位の大嘗祭につづく八十島祭に預り給うた。後、土地次第に固成、村をなし其名も津村と転訛、豊公大阪居城と共に政治経済の中心として発展、諸大名来集して崇敬篤く什器の寄進相次いだ。
 中にも石見国津和野藩主・亀井茲矩(コレノリ)侯、邸地を割いて寄進。
 文禄3年(1594)境内の乾八幡宮と源正霊神(ゲンショウレイシン)とを本殿に合祀、寛文年中(1661--73)御霊神社と改称、元禄9年(1696)御霊大明神と御贈号、宝暦3年(1753)9月正一位の神階を授けらる。又伏見宮家より御輿修理の御寄進あり、幕府亦城代巡見社として崇敬、明治御親政により同6年(1873)郷社となり・・・(以下略)

 当社公式HPには
 ・創始は、平安時代に書かれた『文徳天皇実録』の嘉祥3年(850)に八十島祭の祭場とされた圓神祠にはじまります。
  この圓神祠こそが、御霊神社の始まりで、千年以上の歴史がうかがえます。
 ・八十島祭とは、平安時代の記録に残る天皇即位礼の大嘗祭の翌年に行われた皇位継承儀礼の一つです。
  難波の地は、淀川と旧大和川が運んでくる土砂からなる干潟の中に大小多くの島が形成されて、八十島(ヤソシマ)と呼ばれていました
  その八十島の地は圓江と呼ばれ、八十島祭が執り行われていた場所でもあります。
 ・その場所が、御霊神社の前身である圓江神社、現在の西区靱本町2丁目にある楠永神社辺りとされています。
  御霊神社の前身が靫にあったことを記念して、当社境内に『うつぼの碑』が建てられました。
 ・御霊神社は、古くは圓神社・津村神社といわれた古社であり、神社の南に接している西本願寺の津村別院、俗称北御堂とともに、平安時代の圓江の名を今日に伝えたものです(圓・ツブラ⇒津村・ツムラ)
 ・時代は降り、豊臣秀吉公の大阪城とともに政治経済の中心地として発展し、諸大名の崇敬厚く寄進も相次ぎました。
  中でも、後の津和野藩の祖である亀井茲矩侯が邸地を割いて寄進され、圓江神社は、文禄3年に船場の現在地に移りました。
 ・その亀居侯廷内に祭られていた源正霊神こと鎌倉権五郎景政公の霊と共に祀られことになりました。
  その鎌倉権五郎の権五郎から五郎ノ宮、そして『圓御霊』となり、江戸時代の元禄9年に御霊大明神・御霊神社と改称しました。
 ・宝暦3年正一位の神階を授けられました。(一部省略あり)
とある。

 当社に関連する古資料として、以下のものがある。

*摂津名所図会(1798)
 「御霊宮  船場平野町・西亀井町・南は津村町の間にあり。
 祭神三座、〔社記〕に云く、天照大神・八幡宮二座は上古の鎮座なり。相殿一座・源正霊神は至徳元年(1356・北朝年号)鎮座、即鎌倉権五郎景政を祭る。
 神主相州鎌倉に至りて此やしろに参籠す(鎌倉に権五郎景政を祀る御霊神社あり)、其夜霊夢の告げあるによって相殿に崇祭(アガメマツ)る。
 一説に菟布良神祠(ツブラノカミノホコラ)ともいふ。又圓(ツブラ)と書す。津村とは俗称にて、神号によってなり。此社辺の惣号にして、菟布良は大郷にして津村郷の古号、朽せず其一本今にあり。
 上古、神功皇后三韓征伐の時、祈願を籠め給ひ、御凱旋の後大倉主菟布良彦・菟布良媛二神の神徳を尊み、浪速国に至りて此地に祭らしめ給ふ事、旧史に見えたり。尤地主神たる事深き神伝ありと云ふ。即本社の傍に鎮座まします。
 上古八十島祭頭の神事〔延喜式〕其外古書に出でたり」
とあり、右の絵図(圓御霊社)が載っている。 

圓御霊社(摂津名所図会)

*大阪府誌(1903)
 「平野町5丁目(今は4丁目)に在り。天照大神・八幡大神及び鎌倉景政を祀る。
 本社祭神に就きては、或ひは神功皇后三韓を征し凱旋の後大倉主(オオクラヌシ)の神徳を尊び奉祀し給ひしものなりといひ、或ひは菟布良彦・媛なり故に菟布良神祠(ツブラシンシ)と云ふなりといひ、其の説一定せざれども今は前記の三座なり。天正年中亀井能登守の邸宅此に在りて、社は其の廷内なり。明治初年郷社に列せられ、氏子の大阪市内諸社の冠たり」

*大阪府全志(1922)
 「御霊神社は淡路町5丁目にあり。其の圓(ツブラ)の旧地たるを以て圓神社(ツブラ)と書せるものもあり。
 天照皇大神・応神天皇・大倉主神・菟布良比売(ツブラヒメ)及び鎌倉権五郎景政を祀れり。
 景政は神主の相州鎌倉に至りて景政の社に参籠せし時、霊告ありしに依りて至徳元年相殿に祀りしものなりといふ。
 旧志に依れば天正年中(1573--92)には此の地に亀井能登守の邸宅ありて、社は其の廷内にありしと記せり」

*大阪府史蹟名勝天然記念物(1931)
 「祭神は天照皇大神・応神天皇・菟布良彦神〔大倉主神〕・菟布良比売神の4柱、並に相殿に源正霊神〔鎌倉権五郎景政〕を祀る。
 社記によれば、祭神五柱の中、菟布良彦神・菟布良比売神・源正霊神の三座はもと当初の祭神にして且つ旧社名に縁りて祀れるものなるにより、後此三神を一座とし、之に他の二柱を合せて三座と称し、更に菟布良彦神・菟布良比売神の二神を各別座として合祀し、源正霊神を一座として相殿に祀れるものなりと云ふ。

 一説によると、源正霊神は鎌倉権五郎景政の霊を祀れるものにして、其勧請は、文禄3年此地に住せし亀井茲矩、武勇を好もしより、社僧堯順に命じて配祀せしものなりと云ひ、
 或はそれより200余年前、社家栗町氏の祖に長基と云へるものありしが、武勇を好み、諸国を遍歴して至徳元年鎌倉に行き、景政社に詣でて神託を受け、初めてこれを勧請せりとも云ふ。

 社域は888坪余あり。もと津村の西浜と称するところに鎮座せしが、文禄年間亀井茲矩之を廷内に遷し、後元和年間、茲矩大坂城主松平忠明と謀り、邸地を寄進して社地と為せしものなりと云ふ。

 鎮座地附近はもと圓と唱えしを後ち転じて津村と云ひ、明治初年に至るまでこれを町名と為せしが、本社は其の地主神を祀れる氏神社として古くは圓神社又は津村社と称せり。
 然るに何時の頃よりか本社の祭神は景政の霊なりと伝へらるゝに至り、社名を新御霊社、後又単に御霊社と改め今日に及べり」

 これらによれば、当社は嘗て八十島祭(下記)が行われたという圓江の地(現西区靱附近、別稿・楠永神社参照)にあって、圓神祠と称して菟布良彦・菟布良比売2神を祀っていたが、文禄3年、亀井茲矩侯の屋敷があった現在地に遷って源正霊神を合祀し、寛文年中に御霊神社と改称したとなる。

※祭神
 頂いた参詣の栞には
 ・天照大神荒魂(瀬織津比売神)
 ・津布良彦神(旧摂津国津村郷の産土神)
 ・津布良媛神(同上)
 ・応神天皇(広幡八幡大神)
 ・源正霊神(鎌倉権五郎景政公霊)
とある。

*津布良彦(菟布良彦)・津布良媛神(菟布良媛)
 当社が旧圓江にあったときからの祭神で、神名・地名の訓が同じツブラ(ツブラ)であることからみて、HPがいうように旧圓神祠に祀られていた産土神(地主神)であろう。

 この津布良彦・媛神の出自・神格は不明だが、書紀・仲哀天皇8年1月4日条に
 ・天皇は筑紫にお出でになった。
 ・岡県主(オカノアガタヌシ)の祖・熊鰐(ワニ)を海路の案内人として山鹿岬から岡浦に入ろうとされたとき、船が進まなくなった。
 ・天皇が『何故だろうか』と問うと、熊鰐が『この浦には大倉主(オオクラヌシ)・菟布良媛(ツブラヒメ)という男女2柱の神が坐す。この神の御心によるのでしょう』と答えた。
 ・天皇がお祈りされ、祭りを行われると船はうごいた。
とあり(大意)、ここでいう男神・大倉主神とは津布良彦命の別名であろう。

 この伝承によれば、津布良彦・津布良媛の2神は筑紫(九州)に坐す在地の神だが、それが如何なる由縁で圓江(津村郷)の産土神として祀られたかは不明。

 なお、名所図会は、両神と神功皇后の関係を記しているが、書紀・神功皇后紀に津布良彦・媛神、大倉主神の名はみえず、何らかの伝承があったのであろう。

*現正霊神(鎌倉権五郎景政の霊)
 鎌倉権五郎景政(景正とも)とは平安末期の関東武士で、桓武平家の系統という。
 永保3年(1083)に起こった後三年の役に陸奥守・源義家に従って16歳で出陣したといわれ、奥州後三年記(伝1347)には
 「相模国の住民・鎌倉権五郎景正といふ者あり。先祖より聞こえた強者(ツワモノ)なり。
 年わずかに16歳にして大軍の前にあり、命を捨ててたたかう間に、征矢にて右の目を射させつ。首を射貫きて冑の鉢付の板に射付られぬ。矢をおりかけて返しの矢を射て敵を射とりつ。後退き帰りて冑を脱ぎて、景正手負にたりとて仰け様に伏ぬ。
 同国の強者三浦の平太為次といふものあり。これも聞こえ高き者なり。
 為次、つらぬき(土足)のまま景正が顔を踏まへて矢を抜かんとす。景正伏しながら刀を抜きて、為次が草摺をとらへて突かんとす。為次驚きて、こはいかに、などかくするぞといふ。
 景正がいふよう、弓箭にあたり死するは強者の望むところなり。いかでか生きながら足にて面を踏まるることあらん。しかじ汝を敵として我爰にて死なんといふ。
 為次ぐ舌をまきて、膝をかがめ顔をおさへて矢を抜きつ。多くの人是を見聞き、景正が功名いよいよ並びなし」
とあるという。

 この話の真偽は不明だが、後世、景政の勇猛さは鎌倉武士の典型として伝えられていたようで、史跡名勝天然記念物が、武勇を好んだ亀井が勧請したというのも、景政の勇猛にあやかろうとしてのことであろう。

 いま鎌倉市坂ノ下に鎮座する鎌倉御霊社は権五郎景政を祀るといわれ、当社社家の祖が鎌倉の景政社に詣で云々というのは、この神社を指すのかもしれない。

*天照大神荒魂(アラミタマ)
 参詣の栞には、天照大神荒魂は瀬織津比売神(セオリツヒメ)とある。
 瀬織津比売とは記紀にはみえないが、延喜式所収の「六月晦大祓の祝詞」に記されている祓戸(ハラエド)4神の一で、知らず知らずのうちに身についた穢れを祓ってくれる女神といわれ、神社の参道等にある祓戸社に祀られるのが普通。
 その祓戸神である瀬織津比売が、如何なる由縁で天照大御の荒魂とされたのかは不明。

*応神天皇
  広幡八幡大神(八幡神)としての奉斎だろうが、勧請由来等は不明。


※社殿等
 淡路町通の少し北側、ビルに挟まれて参道めいた小路(中央に並木あり)が西へ延びる。
 参道の突き当たりに朱塗りの大鳥居が立ち、境内に入る。境内はビルに囲まれてはいるものの結構広い。


御霊神社・参道? 
 
同・大鳥居
 
同・境内

 境内正面に、唐破風向拝を有する入母屋造・朱塗りの拝殿が東面して建ち、その背後に同じ朱塗りの本殿が鎮座する。
 側面からみて入母屋造とみえるが、高塀及び樹木に遮れて詳細は見えない。

 
同・拝殿
 
同 左
 
同・本殿

◎東宮

 大鳥居を入った右側、拝殿の右前に、千鳥破風付き向拝を有する切妻造平入り・朱塗りの社殿が南面して鎮座する。(右写真)

 祭神
  ・参詣の栞には、皇大神宮・津布良神社・恵比須神社・猿田彦神社・東宮十二社
とあるが、
  ・社殿に掲げる扁額には、皇大神宮・猿田彦神社・恵美須神社・東宮十二社
とあり、扁額では、栞にみえる津布良神社が消えている。
 本来は旧圓江の地主神・津布良彦・媛を祀っていたのを、「吾は総地主神也」と自称する猿田彦神に集約されたのかもしれない。

 東宮十二社とは、多賀社・春日社・事平社・稲荷社・竃戸社・戸隠社・水神社
            ・大雷社・龍神社・住吉社・菅原社・加藤社
をいうが、天照皇大神以下の神々が勧請された由縁等は不明。 
 

◎松ノ木神社
  祭神--松之木大神・朝吉大神
 本殿の向かって右(北側)に南面して鎮座するが、鎮座由緒等詳細は不明。
 前に朱塗りの鳥居列があること、覆屋の前に白狐一対が座ることから、稲荷社と思われる。

◎大黒社
  祭神--大国主命
 松ノ木神社の横に南面して鎮座し、覆屋の中に磐座1基が座っている。
 鎮座由緒等不明。

 
松ノ木神社・鳥居
 
同・覆屋

同・社殿 

大黒社 

◎「うつぼの碑」(靫の碑)
 大鳥居を入っ境内東側、植え込みの中に『うつぼ』と刻した石碑が立っている(「ほ」は変体仮名)
 傍らの案内には、
 「御霊神社の前身である圓神祠が、文禄3年まで靫の地(現西区靱本町)にあったことを伝えるため、明治27年5月この碑が建立されました」
とある。
 当社の前身である“圓神祠”が現西区靱の地にあったことを後世に残すために設置された石碑で、今、神祠があったとされる靫公園内には、『御霊宮旧蹟』との石碑が立っている。(別稿・楠永神社参照)

 
「うつぼの碑」
 
御霊宮旧蹟の碑
(靫公園内)

◎御霊文楽座跡
 鳥居を入った処に、『文楽座之跡』と刻したブロンズ製床本台(浄瑠璃台本を置く台)を象った祈念碑があり、参詣の栞には
 「境内には、明治17年(1884)から大正15年(1926)まで“人形浄瑠璃御霊文楽座”があり、文楽二百年の歴史のうちでも、もっとも華やかな時代をつくりました」
とある。
 また、浄瑠璃台本を模した記念碑上部には、
 「本流人形浄瑠璃は、明治17年9月この境内に新築なり柿落(コケラオトシ)を行ってより、大正15年11月火難に遭うまで四十有余年、近世文楽における全盛期を送り迎え、大阪市民の永久に忘れ得ぬゆかりの地であることを記して銘とする 昭和49年(1974) 文化の日
との銘文が鋳出してある。

 
文楽座之跡の碑
 
同・銘文

◎大阪三十三所観音巡りの碑

 正面大鳥居の左下に隠れるように、側面に
  「大阪三十三所観音めぐり 第三十三番札所 御霊神社」
と刻した小さな石碑が立ち、正面には、観音像(線刻)の下に、
  「よをてらす ほとけのしるしありければ まだともしびも きえぬなりけり」
とのご詠歌が刻されている。

 神仏習合時代の当社に観音菩薩霊場があったことを示唆するものであろう。



 

石碑 

ご詠歌


[付記]
◎八十島祭(ヤソジマサイ)
 八十島祭とは、平安時代の難波津で行われていた神事で、大嘗祭の翌年に、女官等が祭使となり、天皇の御衣を納めた筥を捧持して、舟で難波津に下向して祀るもので、その中心となるのは、御衣を納める筥を開き、琴の音に合わせて、海に向かって御衣を振る儀礼であったという。

 当社公式HPがいう嘉祥3年云々とは、文徳実録(879)の嘉祥3年9月条にみる『摂津に向かい、八十島(神)を祭る』との記述を指し、これが文献上での初見で、以後、記録には22例がみえ、後堀川天皇の元仁元年(1224)を最後として以後廃絶したという。
 ただ、八十島祭は天皇即位後一回だけ行われる大嘗祭の翌年に行われるのを通例としたといわれるが、この嘉祥3年のそれのみは大嘗祭の前に行われており異例といえる。

 この神事は、「神祇官琴を弾じ、女官御衣筥を開きて、之を振る」(江家次第)ことを中心とするもので、之については大きく二つの説があり、
*大八洲霊更新説(仮名)
 難波の津に臨み海に向かって行われるこの祭儀は、新たに即位した天皇が“大八洲の霊”を招いて身につけるという呪術的な儀礼で、これによって天皇は多くの島々から成る国土(大八洲)の統治権を身につけたと推測できる。
 これに対して大嘗祭は、新天皇が歴代天皇の霊を身につける儀式といわれ、八十島祭が大嘗祭の後に行われることは、天皇霊を継承した新天皇が、加えて大八洲の霊をも身につける儀式ともいえる。

 御衣を海に向かって振ることは、天皇の身代わりである御衣に大八洲の霊を付着させる儀礼であって、大八洲の霊が付着した御衣は天皇にお返しして、天皇は是を身に着することによって大八洲の霊を身につけたのであろうという。(大阪市史・1988)
 この神事は5世紀以来の古い即位儀礼の名残で、本来は全国の国魂を新しい天皇の身体に付着させる呪儀であったようで、奈良時代には、天皇自身が難波津に赴いて行っていたと推測されるという。

*穢祓説
 この説は、天皇の身に知らず知らずの間に付いた罪穢れを祓い、清浄な身に戻すことに重点を置いた説だが、大嘗祭で歴代天皇の霊を継承した新天皇に、如何なる罪穢れがあったのか理解できない。

 当社HPには「女官である内侍が預かってきた天皇の御衣を何度か海に向かって打ち振り、ケガレを祓い落として、祭りが終わるとお供え物を海に投げ入れた」として、穢祓説に拠っている。

○祭場
 この八十島祭祭場が難波津の何処だったかははっきりしないが、平記・長暦元年(1037)9月25日条に、祭使から
 「淀川の河口付近の熊河尻で行われるのが慣例であった祭場を、(住吉神社の)神司宮人等が強引に住吉代家浜に移してしまった」
との報告があったとあり、これによると、八十島祭は古くは淀川河口の『熊河尻』において行われるのが慣例だったとみえる(長暦3年以降は住吉大社近傍の浜で行われたらしい)

 当社は、この祭場・熊河尻を旧社地・圓江(現靱公園付近)とするのだろうが、淀川河口あるいは大川支流の河口付近(上町台地から流れ下る幾つもの細流の河尻ともいう)など諸説があって場所の特定は困難で、当社がいう圓江説を証する資料はない。
 ただ八十島祭祭場は、砂州の形成・堀江の開削等による地形の変動にあわせて度々移動したともいわれ、当社がいう圓江説も一概に否定はできない。

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