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八王子神社
大阪市東成区中本4-2-48
祭神--八王子大神・宇賀御魂神・素盞鳴命・奇稲田姫命・大己貴命
付--八劔神社址(八王子神社御旅所)
                                                   2020.09.27参詣

 JR大阪環状線・森ノ宮駅の南東約900m、駅東の南北道路を南下2っめの信号を左(東)へ、ガードをくぐり直進して平野運河に架かる中本橋を渡って突き当たりを左へ、道なりに進んだ右側に鎮座する。

※由緒
 境内に掲げる『八王子神社社殿御造営記念碑』(石板)には
 「由緒
  当神社の創建年代は詳ならず。然りと雖も社記によれば、応神天皇の鎮斎し給うところと伝へらる。
  又、孝徳天皇(在位:645--54)味経宮(アジフノミヤ)にましませし時、御崇敬の叡慮により、高麗狗一對を献納し給へりと伝ふ。

  本地一円の産土神にして古より八王子稲生大明神と称し崇敬し来りしに、明治5年(1872)百済神社と改称し、神社制度改正により社格村社に列せられる。
  明治42年(1909)11月旧西今里村八劔神社を当社に合祀し八王子神社と改称す。
  明治末年ごろ地は椿樹繁茂し、森厳なる境内に風致の趣を添え、時人『椿の宮』とも称し広く世に知られたり。
  昭和40年(1965)4月、氏子崇敬者の奉祀により現本殿御造営竣工せり、依て茲にこれを記念して本碑を建立するものなり。

 附記
  本石材は、旧暗越奈良街道の起点・玉造二軒茶前を流れる猫間川に宝永8年架設られたる石橋の用材なり。
  その古き由縁あるを以て御造営記念碑の用となし、後世に之を伝ふるものなり」

 また、東成郡史(大正11年・1922)には、
 「大字本庄字小松山無番地に鎮座す。祭神八王子大神・宇賀御魂神及び速素盞鳴尊・奇稲田姫命・大己貴なり。
 創建年暦詳ならず。社記に拠れば神武天皇、浪速高津の北丘に生国魂神を祭り給ひし後、応神天皇3年、旧地に神殿創立の際、高骨川(今の平野川)の東方なる狭枝荘今字本庄の阜丘小松山に此社を鎮祝せらる。
 孝徳天皇味経宮に坐せる頃、尊敬浅からず、高麗狗一対(伝雄略天皇時代製作)を献納ありしが、長柄豊崎宮に遷都後衰頽せりしを以て、村民相謀りて修営し産土神社として八王子稲生大明神と唱え崇敬し来たれりと云ふ。
 明治5年村社に列せられ、本社の西方を流るゝ平野川の旧名(百済川)に因みて百済神社と改む。
 明治42年11月、大字西今里村社八劔神社(祭神:速素盞鳴尊・奇稲田姫命・大己貴尊)を合祀し、同43年8月、社号を変更して八王子神社と改称す。(以下略)

 大阪府全志(1922)には
 「八王子神社は北方字小松山にあり、元八王子稲生大明神と称し、八王子神・宇賀御魂神を祀れり。 
  創建の年月は詳ならず、明治維新後百済神社とあらため、同5年村社に列し、同42年8月26日今の社名に改む」
とある。


 由緒は当社の創建を応神朝としているが、古墳時代中期といわれる5世紀に常設の社を設けての神マツリがあったとは思えず、よしんばあったとしても神籬を設けてのそれてあって、それが当社に連なるかどうかは不明で、当社創建由緒・年次は不明としかいいようがない。

 ただ、孝徳天皇が味経宮(アジフノミヤ)においでになったとき高麗狗一対を奉献したとあり、味経宮について、孝徳紀に
 ・白雉元年(650)春正月朔日 天皇は御車で味経宮にお出でになり、拝賀の礼を行われた。
                   この日に御車は宮に帰られた。
 ・白雉2年冬12月晦日 味経宮で二千余人の僧侶を招いて、一切経を読まされた。・・・
                このとき天皇は大郡から還って新宮においでになった。この宮を名付けて難波長柄豊碕宮という。
とあることから、当社は7世紀中頃、天皇の新都・難波長柄豊碕宮遷都直前の頃にはあったかと思われるが、傍証となる資料はない。
 (ただ、大化元年(645)冬12月9日条にも、難波長柄豊碕宮へ遷都とあり遷都時期に混乱があるが、、一般には大化元年とするものが多い)


※祭神
  碑文には
   八王子大神  宇賀御魂神  素盞鳴命  奇稲田姫命  大己貴命
とある。 

*八王子大神=稚武彦命(ワカタケヒコ)
 通常、八王子といえば、
 ・アマテラスとスサノオの誓約(ウケヒ)によって生まれた、天忍穂耳尊以下の5男3女神
 ・スサノオの御子神--八島土奴美命・五十猛命・大屋津比売命・抓津比売命
                ・大歳神・宇賀之御魂神・大屋毘古命・須勢理比売命
 ・牛頭天王の御子神--惣光天王(ソウコウ)・魔王天王(マオウ)・倶魔羅天王(クマラ)・得達天王(トクタツ)・良持天王(リョウジ)
                ・持神相天王(ジシンソウ)・宅神天天王(タクシンテン)・蛇毒気神天王(ジャドクキシン)・・・簠簋内伝による
の何れかを指すことが多いが、当社ではこれら8柱の神々ではなく『稚武彦命』として、社務所壁に掲示の案内には
  「八王子大神は稚武彦命さまで 桃太郎さんの神さまです」
とある。

 稚武彦命とは第7代孝霊天皇の皇子(古事記では8人兄姉の末子)で、書紀には、
  「妃・絙某弟(ハエイロド)は彦狭島命・稚武彦命を生まれた。稚武彦命は吉備臣の先祖である」
とあり(古事記には、若日子建吉備津日子命・ワカヒコタケキビツヒコ、吉備の下道臣・笠臣の祖とある)、異母兄に彦五十狭芹彦命(ヒコイサセリヒコ・大吉備津彦命)がみえる。

 稚武彦命の事蹟については、書紀には何も記していないが、古事記・孝霊天皇項には
  「大吉備津彦命と稚武彦命は、二柱一緒に播磨の氷川の埼(比定地不明)に忌瓷(イワイベ・祭具)を据えて神を祀り、播磨国を入口として吉備国を平定された」
とある(時代下るが、書紀・崇神10年条に「吉備津彦を西海に派遣して従わない賊等を討たせた」とあるのが関係するか)
 これは、二人の命が播磨国と吉備国との境界である氷川埼で神マツリをおこない、吉備国侵攻の成功を神に祈ったということで、一説によれば、大吉備津彦が祭事に携わり、稚武彦は侵攻に際しての軍事に携わったのではないかという。

 また、記紀は稚武彦命は吉備国に関係する氏族の祖とあるが、新撰姓氏録には稚武彦命の後裔氏族として
  ・左京皇別--2氏(吉備朝臣・下道朝臣)
  ・右京皇別--5氏(笠朝臣・笠臣・吉備臣・眞髪部・盧原公)
がみえ、先代旧事本紀(国造本紀)
  ・角鹿国造(越前国敦賀辺り)  成務天皇の御代、吉備臣祖・若武彦命の孫・建功狭日命(タケイサヒ)を国造に定める
とはあるものの、当地辺りに吉備系の氏族が居たという資料は見あたらない。

 資料がないから居なかったとはいえないが、祖神を主祭神と据えるには、それ相応の勢力が必要と推測され、その意味で、当社が稚武彦命を主祭神とする由縁は不明(稚武彦命が孝霊天皇の第8子だから八王子と称するというが、孝霊天皇そのものの実在は疑問という)

*宇賀之御魂神
 宇迦之御魂神とは、
 ・古事記--「素盞鳴命が大山祇神の娘・神大市比売(カムオオイチヒメ)を娶って生みし子は大年神(オオトシノカミ)、次に宇迦之御魂神」
 ・書紀(5段一書6)--伊邪那岐・伊邪那美2神が、大八洲を生み終えた後に神生みを始めた時、・・・
             「又飢えて柔らかになった時に生めし児を倉稻魂命(ウカノミタマ)と申す」
とある神で、神名・ウカノミタマの“ウカ”が食料を意味することから、食物の神であって、一般には稲荷神をいう。

 上記由緒に“八王子稲荷大明神”とあることから、当社は元々稲荷神・宇迦之御魂神を奉斎する神社であったものに、明治末期に何等かの由縁で八王子神を加上して主祭神とし、八王子神社と改称したかと思われる。

*素盞鳴命・奇稲田姫命・大己貴命
 明治42年に合祀された八劔神社の祭神


※社殿等
 道路左側(東側)、玉垣の中央に鳥居が西面して立ち境内に入る。

 
八王子神社・社頭
 
同・鳥居
 
同・境内

 境内中央に、〆鳥居が南面して立ち、その奥に唐破風向拝を有する入母屋造の拝殿が南面して立ち、左から大樹の枝が覆い被さっている。

 
同・〆鳥居
 
同・拝殿

同・拝殿(側面) 

 拝殿の背後、高塀に囲われた中、弊殿を介して春日造・朱塗りの本殿が鎮座するが、周りの塀が高くて詳細は見えない。


同・本殿(右は遙拝所の鳥居) 
 
同・本殿 

◎境内社
 本殿左に境内社2社が並んでいるが、案内なく鎮座由緒などは不明。


境内2社
 
境内2社

*左--社名不明
  一間社流造の小祠だが、社名表示なし。
  ただ、祠前に絡み合った白蛇の像があることから、弁才天社かと思われる。

*右--八立龍王大明神社
  小振りの鳥居の奥に一間社流造の小祠が鎮座し、その横に「八立龍王大明神」との石柱が立つ。

 
不明社(弁才天社か)
   
八立龍王大明神社

*熊鷹稲荷社
  境内南側に鎮座する小祠だが、案内なく詳細不明

 熊鷹社の左に境内南側の入口があり、青色をした小さな鳥居が立っている。


熊鷹稲荷社 
 
南側入口の鳥居

 なお、境内記念碑の附記に、「本石材は、旧暗越奈良街道の起点・玉造二軒茶前を流れる猫間川に宝永8年架設られたる石橋の用材なり」とあるが(上記)、この旧石橋の用材は大阪市から中道八坂神社に寄贈されたもので、その一部を当社に譲られたものという。(詳しくは別稿・八坂神社・二軒茶屋石橋跡の項参照)


【八劔神社】(八王子神社御旅所)
  大阪市東成区大今里1-17-10
  祭神ーー素盞鳴命・奇稲田媛命・大己貴命

 八王子神社の南東約700m、民家に囲まれた中に鎮座し、境内を覆うような楠の大樹が目印。
 JR大阪環状線・玉造駅の東約1.1km、駅北の道路を東へ、大今里1丁目交差点を右折南下、今里筋東側3っめの角を東へ入った北側に鎮座する。

※由緒
 境内にある『八劔神社略記(現八王子神社御旅所)』には、
 「明治22年(1889)迄は、この地一帯は東成郡西今里と称し、素盞鳴命・奇稲田媛命・大己貴命の三柱を奉斎する八劔神社(ヤツルギ)がここに在り、此の村の氏神さまでした。
 その創建年代はたいへん古く、仁徳天皇が高津宮の皇居守護神としてお祀りされたと伝えられています。
 その後、仁寿2年9月に里人産土神として氏や殿を修営し、文保2年(1318)6月に改築を行ったと記録されていますが、大坂夏の陣(1615)の兵火にあい、寛永2年(1625)に再建し、江戸時代は八劔大明神と称して崇敬してきました。
 明治5年(1872)に村社となり八劔神社と改称、明治42年(1909)11月に東成区中本の八王子神社へ合祀し、現在は御旅所となっています。

 境内には大きな楠(樹齢約1300年)の在るところから、俗に『楠神社』と呼ばれています。
 明治18年(1885)6月の淀川切れ大洪水の時、この地の住民40数名が此の楠の大枝に3日間避難して、かろうじて生命が助かったと語り伝えられています」
とあり、楠の大樹は2004年に市の保存樹に指定されている。

 また、東成郡史には
 「大字西今里字宮ノ前3番地に鎮座して同大字の氏神なりき。
 創立年代不詳。社伝に云、仁徳天皇高津の皇居守護神として勧請せられし社なり。
 その後、星霜を経て頽廃せしかば、仁寿2年(852)9月里人之を修営し、産土神として貞享年間(1684--88)までは神幸を行へり。
 今の神崎村大字東今里元八劔神社(現熊野大神宮御旅所)は本社の御旅所なりしと云ふ
 文保2年6月社殿並に拝殿等を改築せりしも、元和の兵火(大坂夏の陣)に悉く烏有に帰し、寛永5年2月改築す。
 氏子らは八劔大明神と称えて崇敬せしも、明治維新後八劔神社と改名す。同5年村社に列せらる。

 明治42年11月百済神社に合祀す。社址は荒廃し雑樹枯損し、旧年の風光を失ふと雖も、老楠一株今尚存し、俗に楠の宮と云へり。
 大樟樹は府下にも稀有の老樹なり。根周り地上にて五丈に達し、地上約四尺にして二丈九尺許、同八尺にして分岐四幹となる。明治18年6月大洪水に際し、17日から三日間に亙り大字住民60余人、此樹の梢枝に木板を架けし僅かに生命を全うするを得たりと云ふ」
とある。

 明治末期までの当地附近(東今里村・西今里村)には八劔と称する社が2社あり、当社は西今里のそれにあたるが、両社は本社(当社)と御旅所の関係だったという。
 明治末期の神社統廃合に際し、それまでの由緒・経緯などは無視され、当社は八王子社に、東今里のそれは熊野大神宮に合祀され御旅所となったものと思われる。

 なお、当社創建の由緒を仁徳天皇に仮託しているが、5世紀といわれる仁徳朝に、今見られるような形態の神社があったとは思われず、何等かの神マツリがおこなわれたとしても、仮設の神籬を設けてのそれであって、それが八劔神社に連なるかどうかは不祥。


※社殿等
 今里筋から東へ入った道を150mほど進んだ北側(左側)奥に楠の大樹が見え、その角を北へ入ってすぐの左側に鎮座する。
 玉垣に囲まれた境内東側に鳥居が立ち、神額には『八王子神社御旅所 八劔神社跡』とある。

 
八劔神社・入口(楠の大樹が目印)
 
八劔神社・社頭

同・鳥居 

 今の当社は、境内中央玉垣に中に聳える楠の大木を御神木として祀る社との印象が強く、大樹の左前に『玉楠大明神社』との小祠が東面して鎮座する。

 
楠大樹1
(左下:玉楠大明神社・鳥居)

楠大樹2 

楠大樹3 

 境内左側に『玉楠大明神社』の鳥居が立ち、短い参道の奥に社殿が東面して鎮座する。
 内陣を覗くと、白狐の置物が見えることから稲荷社として崇敬されているらしい。


玉楠大明神社・全景 

同・鳥居 
 
同・社殿
 
同・内陣

 社殿背後の高所、楠の大樹が幹分かれした所に一間社流造の小祠が見え(此処にも白狐がみえる)、これが玉楠大明神社の本殿で、根元の社殿は拝殿かと思われる。


樹上の小祠 
 
同・小祠拡大 

 境内の右奥(北西隅)に玉垣で囲われた一画があり、中に『八劔神社址』・『齋鎮』と刻した石碑2基が立っている。
 当地に旧八劔神社があったことを示す記念碑だが、何となく隅に追いやられた印象を受ける。


八劔神社址 
   
同・石碑

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