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東 高 津 宮
大阪市 天王寺区東高津町4-8
祭神--仁徳天皇・磐之姫命
                                                20.07.1参詣

 近鉄上本町駅の北約350m、駅北の千日前通り・上本町6丁目東信号から北へ、4っめの辻を右(東)へ入った左側(北)に鎮座し、 石段を下りた境内東側に正面鳥居が立つ。

※由緒
 社頭の案内には、
 「仁徳天皇は高津宮に都を置かれ大阪発展の礎を築かれました。また仁政を敷かれたことでも有名です。
 当社の創建沿革などは詳かではありませんが、往古は仁徳天皇社或いは平野社と称していたようです。
 明治維新後現在の社名に改め、明治5年に村社に列せられました。
 かつては現在の近鉄上本町駅の処に鎮座していましたが、昭和7年駅拡張のため現在地に遷座しました」

 大阪府全志(1922)には
 「東高津南之町字野中にあり。仁徳天皇及び磐之姫命を祀れり。
  創建の年月・沿革等は詳ならざれども、もと仁徳天皇社と号せしを、明治維新後今の社名に改めしといふ。俗に元高津と呼べり。明治5年村社に列す」
とあるが、いずれも創建由緒・年代等は不明という。

 当社に関する諸資料を勘案すると、
 ・当社は、元は生国魂神社(天王寺区生玉町)の南にあったという(位置不明)
 ・それが、大阪城築城の折に現近鉄・上本町駅構内に遷座(駅のすぐ南、石ケ辻町にある近鉄本社付近ともいう)
 ・更に、昭和7年(1932)の上本町駅拡張(この時から伊勢志摩への直通特急が走り始めたという)により現在地に遷座
 ・当社は“元高津”とも呼ばれるが、これは今中央区高津1丁目にある高津宮神社が当社より遷座したことによるという
  ただ、これは高津宮神社元地についての幾つかある説の一つであって、如何なる根拠に基づくものかは不明。
  なお殆どの資料に、「一説によると、高津宮に合祀された北高津宮に遷座したから」とあるが、高津宮関連資料に北高津宮の名は見えず、この北高津宮と高津神社との関係は不明。

 また、摂津名所図会(1798・江戸後期初)に当社の記載はなく、江戸時代の当社がどのような状態だったかは不明。

 当社が曾て平野社と称した所以は不明。
 ただ、大阪城築城にともなう城下町建設に際して、東成郡にあった平野郷(環濠集落・堺に似た自治都市)の有力商人等を現天王寺区上本町周辺に移したといわれ(平野村と称したであろう)、そこから、同時期に生國魂神社南から遷座した当社を平野社と称したのかも知れない。

※祭神
   仁徳天皇 ・磐之姫皇后(イワノヒメ)

*仁徳天皇
 河内王朝の始祖・応神天皇(第15代)の第4子で『大鷦鷯天皇』(オオササギ)とも称する。
 父・応神天皇の死後、皇太子であった異母弟・菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)との間で皇位を譲り合い、郎子自死のあと皇位に付いたとの伝承がある(皇位を廻って両者間に争いがあったとみる説もある)
 仁徳の仁政とは、4年条にいう
 ・高殿に登って遙かに眺めると、人家の煙が見えなかったので、人々は窮乏しているとして、その後3年間すべての租税を止められた
 ・7年、高殿に登り人家の煙が盛んに上がっているのをみて、人民は富んできた、だから吾も富んだと喜ばれた
との伝承をさす。

 仁徳が都した難波高津宮跡は未だ見つかっておらず(上町台地先端部の何処かだろうという)、仁徳が登った高殿が何処にあったかは不明。

*磐之姫皇后
 仁徳天皇の皇后で、武内宿禰の子・葛城襲津彦の娘。仁徳2年に立后。皇族以外からでた初めての皇后で、履中天皇(17代)・住吉仲皇子・反正天皇(18代)・允恭天皇(19代)の母。
 古事記に「大后石之比売命(イハノヒメ)、いたく嫉妬(ウハナリネタミ)したまひき」とあるように、嫉妬深かったといわれ、
 書紀によれば、
 ・天皇が八田皇女(ヤタノヒメミコ・応神の皇女、古事記では八田若郎女-ヤタノワキイラツメ)を側に入れようとされたが、皇后は承知されなかった(仁徳22年)
 ・皇后が新嘗祭の酒宴を催すための御綱柏(ミツナカシハ)を採りに紀伊国に出かれられた留守中に、天皇が八田皇女を召して宮中に入れられた(仁徳30年)
 ・これを聞いた皇后は怒って、御綱柏を海に投げ捨てて、皇居に帰らず淀川を遡って山城に帰り、故郷葛城高宮(父襲津彦の本貫地)がみえる筒城岡に宮室を造って住まわれた
 ・天皇が筒城宮にお出でになっても、使者を遣わされても会おうとされず、そのまま筒城宮で亡くなられた(仁徳35年)
 ・その後、天皇は八田皇女を立てて皇后とされた(仁徳38年)
とある(大意)


※社殿等
 境内東側道路に面して石垣が積まれ、その中程、石段を上った処に鳥居が立つ。

 
東高津神社・全景(南東より)
 
同・正面
 
同・鳥居(東)

 鳥居をくぐり、短い参道を通り、又石段を上がった上が境内で、
 その正面に千鳥破風向拝を有する入母屋造の拝殿が、その奥に本殿が東面して鎮座する。
 本殿は境内からはみえず、一旦南側道路へ出て、駐車場の覆い越しに側面が見えるだけで、一間社流造かと思われるが詳細不明。

 
同・拝殿

同・拝殿 

同・本殿 

◎南側鳥居

 境内の南にやや小振りな鳥居が立ち、側らに立つ「遷宮八十周年記念事業奉賛者名」下の案内には

 「南鳥居は明和5年(1768)建立された当社最古の石像物であり、二度の移転や戦災にも耐えてきたが、寄る年月には抗えず、近年傷みや歪みが見られていた。

 平成24年、永年保存を期し、多数の方より御奉賛戴き鳥居を修理、社務所・手水舎屋根亙修理その他保全工事を行い、茲に御奉賛者を記して後世に伝える」
とある。

 

◎境内社
*王仁神社
  参道の左(南側)にある小祠で、叢林に囲まれて一間社流造の社殿が東面して鎮座する。
  社名の王仁とは、応神天皇16年に百済から招聘された王仁博士を指すと思われるが、如何なる所以で当社に祀られたのかは不明。


王仁神社・全景
 
同・社殿
 
同・社殿(側面)

*磐船稲荷神社
    祭神--宇賀御魂神
  鳥居を入ってすぐの右側に鎮座する稲荷社。鎮座由緒等不明。

 
磐船稲荷神社・鳥居
   
同・社殿

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