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堀川戎神社
大阪市北区西天満5-4-17
祭神--蛭子大神・少彦名命・天太玉命
                                                 2020.10.07参詣

JR東西線・大阪天満宮駅の北西約450m、駅から国道2号線を西へ、阪神高速道路守口線(高架)との交差点を右折、北へ入った左側(西側)に鎮座する。

※由緒
 境内に案内はみえないが(社務所無人)、当社HPには、
 「堀川戎神社は、欽明天皇の御代(539--71)、止美連吉雄(トミノムラジヨシオ)が蛭子大神の神託を受け堀江で玉を得て、これを御霊代に祀り、止美社と名付けたのが創祀と伝えられています。
 白雉2年(651)、少彦名命(淡島明神)の神像を彫刻し納め祀り、また大宝3年(703)天太玉命を相殿に祀り、御祭神三座となりました。
 後に平治の乱(1159)を避け丹波国山家(ヤマガ)に動座しましたが、文和年間(1352--56、北朝年号)現在地に遷座再興しました。
 以来、蛭子社・恵比須社・堀川戎社と呼ばれ信仰厚く、殊に江戸時代中期からの十日戎は年々盛大となり、諸人群参したと記されております。
 明治40年(1907)数社を合併、堀川神社となり村社に列しました。
 昭和20年の戦災で社殿始め全建物を焼失しましたが、順次復興し、昭和38年現在の本社を再建しました」

 摂津名所図会(1798)には、
 「天満堀川蛭子宮  天満堀川にあり。中央恵比須・左少彦名命・右太玉命を祭る。其外末社多し。毎年正月10日群参す」
とある。


 当社を創建したという止美連吉雄について、新撰姓氏録には
 「河内国皇別 止美連  尋来津公同祖 豊城入彦命之後也
          四世孫荒田別命男・田道公百済国に遣わされ、止美邑の呉女を娶り男・持を生む。持君百済に留まる。
          三世孫・熊、次新羅。欽明天皇の御世百済より参來。新羅の子・吉雄、居の地名により止美連の姓を賜る」
とあり、崇神天皇の御子・豊城入彦命4世の孫・荒田別命の子・田道(タジ)が百済の女に生ませた男子の後裔というが、他に資料なく事蹟等不明。
 書紀・仁徳53年条に、
 「53年、新羅が朝貢しなかったので、詰問の使として田道を遣わされた。・・・」(大意)
とあり、この時、百済の女に情を通じて生ませた男子の後裔ということであろう。

※祭神
   蛭子大神(エビス)・少彦名命(スクナヒコナ)・天太玉命(アメノフトタマ)
 蛭子大神
  伊弉諾・伊弉冉両神の国生みに当たって最初に生まれた御子だが、天御柱を回って両神が出会ったとき、伊弉冉が先に声をかけたことから3歳になっても足が立たない不具の子であったことから蛭子(ヒルコ)と呼ばれ、天磐櫲樟船に乗せて流されたという。
  後にエビス神と習合し、兵庫・西宮戎神社がその総本社という。
  エビス神には西宮戎の祭神・蛭子系と島根美保神社の祭神・事代主命系の2系列があり、当社は西宮戎系となる。

 少彦名神
  高皇産霊神(タカミムスヒ)の指の間からこぼれ落ちた小さな神で、海上から羅摩(カガミ)の小船に乗って現れ、大国主と共に国土形成に努めたという小さな神で、医療神・酒の神・温泉の神などの神格を併せもつ。

 天太玉命
   天岩戸前での神事に際して天児屋根命とともに天の真坂榊を立て和弊を懸けて祈り、降臨する瓊々杵尊に従って天降ったとされる神で、古代の宮中祭祀に携わった忌部氏の祖という。

 当社が戎社と称することから蛭子大神を祀るのは分かるが、少彦名命・天太玉命を祀る所以は不明。  


※社殿等
 阪神高速道路守口線高架下道路の西側に朱塗りの鳥居が立ち、境内に入る。


堀川戎神社・社頭 

同・鳥居 
 
同・境内

 境内中央に大きな唐破風向拝を有する三間社入母屋造・朱塗りの拝殿が東面して建ち、その背後が本殿。
 本殿は境内からはみえず、外に出て西側に回り込んだ処にある駐車場(民間)から屋根部分のみが見え、二間社流造らしいが詳細不詳。

 
同・拝殿
 
同・本殿 

 なお、拝殿左の小祠の中に『福興戎像』(フッコウエビス・フクオコシエビス)との石像があり、「阪神大地震被災鳥居彫刻 平成10年十日戎奉納」とある。

◎境内社
*榎木神社(地車稲荷神社)
 東側鳥居を入った右(境内北東隅)、朱塗りの鳥居(神額には榎木神社とある)の奥にやや色あせた朱塗りの社殿が南面して建ち、社殿を納める覆屋であろう。
   祭神--句句廼知神(ククノチ) 宇賀御魂神(ウガノミタマ)

 句句廼知神(古事記:久々能智神)
  伊弉諾・伊弉冉両神の神生みで生まれた神で、樹木の神といわれ、当社では曾て当地にあった榎木の霊として祀ったものであろう。

 宇賀御魂神
  食物の神、殊に稲の霊とされる。
  古事記では素盞鳴尊の御子とし、書紀では伊弉諾・伊弉冉両神の御子とする。

*由緒
 社頭に掲げる案内には、
 「堀川戎神社の北方約50mの処に、慶長3年(1598)に掘られた天満堀川の堀留の橋の辺り(現南扇町北東附近)に榎の大木があり、何時の頃からか、自然に人々は木の神霊・句々廼知神(ククノチ)が鎮まっていると考え、その根元に祠を造り、合せて当堀川戎神社末社の稲生神社の別魂(宇賀御魂神)をお祀りしていました。
 天保8年(1837)、それまで堀留となっていた天満堀川を大川まで延長・通水した際(今は埋め立てられ高速道路が通っている)、役所より榎木神社設立せよとの命令があり、この地に約15坪の土地を得て、天保10年(1839)天満堀川両岸12ヶ町の協力により本殿・拝殿が造られました。

 明治40年(1907)、神社合併政策によって堀川戎神社境内に移転し大地車(ダンジリ・11尺×7尺)を本殿として祭られましたが、昭和20年(1945)の戦災のため焼失し、仮奉祀ののち、昭和33年(1958)境内の現在地に例をみない地車(ダンジリ)の構造をした彩色欅造の社殿を造営、11月28日に遷し祭られたものです」
とある。

 覆屋の納まる本殿は、案内にいうとおり、祭礼で引き回す地車を模した特異なもので、このような例は他ではみられない。


榎木神社・社殿(覆屋) 

同・鳥居 

同・本殿 

 なお、当社は別名・地車稲荷(ダンジリイナリ)ともいう。
 曾て、旧社地附近の榎の根元に吉兵衛というタヌキが住みついて、毎晩地車囃子を真似ていたとの伝承があることからで、その吉兵衛狸が当社移転に伴って当地に移ってきたともいう。
 通常、稲荷社のお使いは狐だが、当社では狸として“地車吉兵衛稲荷”とも呼ばれ、願い事が叶えられると、その夜“地車囃子”が聞こえるとの伝承があるという。
 また本殿背後には、願い事が叶った御礼として奉納された地車の小型模型が並んでいる。

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