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堀 越 神 社
大阪市天王寺区茶臼山町1-8
祭神--崇峻天皇
配祀--小手姫皇后・蜂子皇子・錦代皇女
                                                    2020.06.16参詣

 JR天王寺駅の北約500m、谷町筋の西側に鎮座し、天王寺公園の北東部、茶臼山の東にあたる。

※由緒
 頂いた参詣の栞には、
 「第33代推古天皇の御代、時の摂政・聖徳太子が、太子の叔父君にあたらせられる第32代崇峻天皇の徳を偲んで、風光明媚な茶臼山の地をえらばれ、四天王寺建立と同時に当社を創建されたものであります。
 古くより明治の中期まで、境内の南沿いに美しい堀があり、この堀を越えて参詣したので、堀越という名が付けられたといわれています。
 この地は、有名な慶長・元和の大阪冬の陣・夏の陣の古戦場として数々のエピソードと共に知られています。

 古くから大阪では『堀越さんは一生に一度の願いを聞いてくださる神さん』との言い伝えがあります」
とある。

 また大阪府全志(1922)には
 「堀越神社は茶臼山の東なる字堀越にあり、崇峻天皇を祀れり。天王寺七宮の一にして、旧堀越村の産土神なり。

  大正4年2月、逢坂上之町天王寺鳥居前の無格社熊野神社(三熊野大神)を合祀せらる。
  合祀せられたる熊野神社は、もと大江岸にありし窪津王子にして、一に渡辺王子と称し、熊野九十九王子なり。

  其の渡辺にありしは、方角抄に『渡辺橋、天王寺の北一里なり。渡辺いまは橋柱ばかりなり。むかしの事なり。
  此所に熊野の一の王子御座也、鳥羽より船にて下れば王子の前にあがるなり』と記せり。

  其の鳥居前に遷座ありし年月は明ならざれども、熊野王子記に『第一の王子は天王寺鳥居前にあり、初め大江岸にあり、後、此に移る。今即ち人家の庭中に入る』と見え、和漢三才図会(1712)にも『相伝云ふ、第一王子鳥居前にあり、初め大江岸にあり云々』と記すれば、何れの時にか渡辺岸より移されしものならん」
とあり、当社が天王寺鳥居前から合祀した熊野神社は、昔、大江岸渡辺にあった熊野九十九王子一番の窪津王子が移ってきたものだという。
 その時期は不詳だが、和漢三才図会(1712)にみえることから、江戸時代前期には移っていたらしい。

 熊野九十九王子一番の窪津王子は、現中央区天満橋京町(天満橋南西詰め)にある八軒家浜(今、八軒屋浜船着場あり)の辺りにあったという王子社だが、今、その跡地は不明。

 当社は、聖徳太子が四天王寺を建立した際に、その外護鎮守社として寺の四周に造営したという“天王寺七宮”(テンノウジシナナミヤ)の一社で、四天王寺の南南西に位置する。
 ただ、これら七社が聖徳太子建立というのは伝承であって、それを証する史料はない。

 当社の西に位置する茶臼山(茶臼山町1-108、H=26m)は、天王寺公園内河底池の北にあって全山樹木に覆われ、通称・茶臼山古墳(推定-前方後円墳、L≒200、5世紀頃)と呼ばれ、昭和47年(1972)大阪府史跡に指定されている。

 昭和61年(1986)の調査では、 埴輪・葺き石などの遺構・遺物は出土せず、代わって、後世の建物跡・金箔貼りの土師器・竃・携帯用硯などが出土していることから、古墳であることに疑問が投げかけられているが、
 平安時代以前に築かれた盛土部分が、古墳築造時の工法と類似していることから、古墳である可能性は残っているともいう。

茶臼山と河底池(南より)

 茶臼山について摂津名所図会(1798)には次のようにある。
 「荒陵(アレハカ)
  今茶臼山という。形をもって異名とす。慶長元和の頃、御陣営となる。
  荒陵の号は仁徳天皇より已前の号なり。日本紀にいふ、
  『仁徳帝58年夏5月 荒陵の松林の南の道に俄に2本の櫟(クヌギ)が生えた。道を挟んで、その木の末は1本になっていた』と」
 書紀に荒稜とあることは、書紀編纂の頃(8世紀)から、この丘は祀る人のいない陵墓(荒稜)として認識されていたことを示唆するが、江戸時代には陵墓との認識は薄れ単に茶臼山と呼ばれたらしい。

 一方、茶臼山は慶長19年(1614)の大坂冬の陣で徳川家康の本陣が置かれ、翌年(7月・元和に改元)の大阪夏の陣では真田幸村が陣を構えたといわれ、慶長20年5月7日、この付近一帯で大坂方・徳川方双方入り乱れての夏の陣最大にして最後の激戦が繰りひろげられたという(天王寺口の戦い)
 この時幸村は、群がる徳川勢を蹴散らし数度にわたって家康本陣(茶臼山の南、現天王寺駅の南付近というがはっきりしない)に捨て身の攻撃を仕掛けるも長蛇を逸し、陣形を立て直した徳川勢の反撃の前に一旦引いて、茶臼山の北にある安居神社での休息中を徳川方に討たれたという(別稿・安居神社参照)

 この戦いとの関連で、境内社・茶臼山稲荷神社について
 「家康が冬の陣で本陣を置いた縁で、茶臼山の頂上にあった茶臼山稲荷神社の使いである白狐が、家康を幸村の攻撃から救ったことから、合戦後に、家康がお礼として現在地に社殿を建立させた」
との伝承があるという。

※祭神
  主祭神  崇峻天皇(スシュン)

 崇峻天皇は第29代欽明天皇の第12子(泊瀬部皇子)で、第31代用明天皇の後を継いだ第32代天皇(在位:587--92)
 なお、欽明天皇の御子は、30代敏達(第2子)・31代用明(第4子)・32代崇峻(第12子)・33代推古(女帝・第2女)と帝位に就き、用明天皇の御子である聖徳太子からみて父天皇の異母弟である崇峻天皇は叔父にあたる。

 当社が案内にいうように聖徳太子による創建とすれば、叔父である崇峻天皇を祀るのは有り得ることたが、それを証する史料はない。

 崇峻朝での主な出来事として、書紀には、
 ・用明天皇2年(586)
  仏教伝来(欽明朝)にともなう崇仏排仏論争に端を発した大臣・蘇我馬子と大連・物部守屋との勢力争いが、用明天皇の死後、両者の戦いへと展開し(泊瀬部皇子-崇峻天皇・厩戸皇子-聖徳太子も蘇我馬子方として従軍)、それが物部守屋の敗死と物部本家の没落という形で決着した8月、馬子以下群臣からの推挙を受けて即位
 ・崇峻5年(592)10月
  即位後、政治の実権を握っている馬子へ不満をもった天皇が、献上された猪を指して「いつの日か、この猪の首を斬るように、自分が憎いと思う人を斬りたいものだ」といわれた
 ・これを聞いた馬子が、天皇は自分を嫌っておられるとして、天皇暗殺をはかり
 ・同年11月
  馬子は東漢直駒(ヤマトノアヤノアタイコマ)を使って天皇を殺させ、その日のうちに倉梯岡陵(クラハシノオカノミササギ、桜井市倉橋にありというが諸説あり)に葬った
とあり、時の権力者・蘇我馬子との確執のあげく暗殺された悲運の天皇といえる。

 社頭の案内には、聖徳太子が叔父・崇峻天皇の徳を偲んで当社を建てたとあるが、馬子に暗殺されたということからみると、天皇の怨霊を鎮める鎮魂の社ともいえる。ただ、それが飛鳥から遠く離れた当地にある所以は不明。

*小手姫皇后(コデヒメ)・錦代皇女(ニシキテ)
  小手姫皇后は崇峻天皇の妃で、書紀には
  ・崇峻元年 大伴糠手連(オオトモアラテノムラジ)の女・小手子(コテコ)を立てて妃とし、蜂子皇子(ハチコ)・錦代皇女(ニシキテ)を生んだ
  ・ある本に曰く、寵愛の衰えたことを恨んで、天皇が「この猪の首を斬るように、憎いと思う人を斬りたい」といったことを馬子に告げ、これを聞いた馬子がたいへん驚いた
とあり、
  ・天皇暗殺後、いなくなった蜂子皇子を探して、実父と錦代皇女を連れて東北に落ち延び、現福島県川俣町に留まり、桑を植えて養蚕の技を人々に広めたとの伝承があるという(Wikipedia)。各地に残る貴種流離譚の一つであろう。

*蜂子皇子(ハチコ)
  崇峻天皇の皇子ということで祀られたのだろうが、書紀には、崇峻天皇と小手皇后の御子とあるだけで、事蹟等は記されていない。

 ただ、出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)を拠点とする羽黒修験道では、蜂子皇子を『能除仙』(ノウジョセン)と讃えて羽黒修験道の開祖としている。
 出羽三山神社(山形県鶴岡市羽黒町手向)公式HPによれば、
 ・出羽三山を開き、羽黒派修験道の開祖である能除仙は深いベールに包まれた人である。
 ・社伝では、能除は般若心経の『能除一切苦』の文を誦へて衆生の病や苦悩を能く除かれたことから能除仙とよばれた。
 ・江戸初期、羽黒山の別当・宥俊らが、能除が崇峻天皇の太子であると考え、その証拠となる資料を求め、天皇の皇子・蜂子皇子が能除仙に相違ないと考えた。

 ・伝承によれば、皇子は父崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺され、自分の身も危うくなり、従兄弟の聖徳太子の勧めに従い出家して禁中を脱出、丹後の由良の浜から船出して日本海を北上、鶴岡市由良の浜に上陸し観音霊峰・羽黒山を目指した
 ・途中から三本足の八咫烏に導かれて羽黒山阿古屋に赴き、そこで修行して羽黒山を開き、続いて月山・湯殿山を開いた
 ・文政6年(1823)羽黒山別当らが蜂子皇子への菩薩号宣下を願い出、『照見大菩薩』の諡号を賜り、それ以降羽黒山では開祖を蜂子皇子と称した
 ・明治政府も開祖を蜂子皇子と認め、その墓所を羽黒山頂きに置いた
とあり(大意)、怖ろしい顔をした肖像画が残っている(右図)。 

 また、出羽三山神社境内に鎮座する蜂子神社の案内には
  「出羽三山開祖と仰ぐ蜂子皇子を祀る神社である。
  皇子は第32代崇峻天皇の皇子で、推古天皇元年(593)(馬子の手を逃れて)海路北上し、庄内由良港に上陸。三本足の霊烏の導くままに羽黒山に登り、難行苦行の末羽黒大神を拝し、次いで月山・湯殿山をお開きになりました。
  皇子の御修行が羽黒修験道に発展、今日の出羽三山の礎を築くに至ったものです」
とあるという(ネット資料)

 今、出羽三山神社の近くに、宮内庁管理の『崇峻天皇皇子 蜂子皇子墓』との陵墓があり、わが国最北端の皇族陵墓という。


※社殿等
 谷町筋の西側、石垣を積んだ上が境内で、石段を上がった上に鳥居が立ち境内に入る。
 境内は鬱蒼たる樹木に覆われ、都心の憩いの場を呈している。

 
堀越神社・社頭
 
同・鳥居
 
同・境内

 境内正面に大きな唐破風向拝を有する入母屋造・銅板葺きの拝殿が、その奥に流造・銅板葺きの本殿が東面して鎮座する。
 本殿周囲は樹木多く、社殿は屋根の一部が見えるだけ。


同・拝殿 
 
同・拝殿(側面)

同・本殿 

◎境内社
 正面鳥居を入った右手、樹林の中に末社2社(白龍社・鎮宅霊符社)が南面して鎮座する。
*白龍神社
 左手前に鎮座する小祠で、注連縄を張った棟門の奥に小祠が鎮座するだけで、案内等なく鎮座由緒等詳細不明。


左:白龍社、右:鎮宅霊符社
 
 
白龍社

*鎮宅霊符神社
 白龍社の右奥、樹林の中に鎮座する小祠で、注連縄を張り鎮宅霊符神との提灯が下がった棟門の奥に小祠が鎮座する。

 鎮宅霊符神とは耳慣れない神名だが、社前に掲げる案内には、
 「お守りやお札の元祖の神様です。
 紀元前、中国前漢の孝文帝の時代に広まり、節分や七夕など星祭りはこの神様の家内安全・商売繁盛のお祭りです。
 春の節分祭では、星祭りをして屋敷の清め祓いをして星霊の種を撒きます。七夕(旧暦)には星祭りを七日七夜行い、七月七日の結願の日に大真西王母須勢理姫命をお招きして、星霊の力により生命の復活再生を希う繁昌祭を行います。
  (中略)
 神符には実に様々な効験があり、玄武を神の依代に大司令神七十二神をはじめ、いわゆるチンタクさんを招神して暗中神符に入魂して実効のある符に仕上げ発符します。
 当社では、古来の鎮宅霊符の伝統にのっとり節分・七夕には大祭を催し各符を発符し、ご希望の崇敬者に授符しております」
とあり、鎮宅霊符神とは節分・七夕といった星祭りに関わる神という。

 霊符とは、道教で強力な霊力をもつとして崇拝される一種の“お札”で、その霊力を信じて奉祀すれば、天災人禍を除き、妖魔を退散させ、難病死病を治癒し、長生不老の福寿を得さしめ、国家太平をもたらすという。
 霊符にはいろんな種類があるが、中でも鎮宅霊符は最強の霊力をもつとされ、中国では漢の時代から朝野にわたって広く信仰され、わが国には推古天皇の時代に百済から伝来したという。

 その後中世になって、神道・仏教と習合し一般に広まったが、明治の神仏分離によって鎮宅霊符神が邪神とされたことから、天御中主神を主祭神とする神道系(星田妙見など)と妙見菩薩を主尊とする仏教系(能勢妙見など)に別れたという。

 因みに、交野市・星田妙見では“太上神仙鎮宅七十二霊符”とのお札(下写真右)が授与されている。

 
鎮宅霊符社・棟門
 
同・社殿
 
鎮宅霊符のお札

 境内北門の右手に末社2社(熊野第一王子宮・黒龍社)が鎮座する。
*熊野第一王子之宮
 熊野九十九王子の第一番・窪津王子が移ってきたという小祠で、社頭の案内には、
 「平安時代に“蟻の熊野詣”といわれるほど賑わった熊野詣は、熊野権現の分霊を祀った九十九の王子社を巡拝しながらたどっていきます。
 京の都から船で淀川を下り、上町台地へ上陸する天満の港に『窪津王子』がありました。
 ここが熊野への出発点で、九十九王子の第一王子・窪津王子に参拝して御祓を受けた後、熊野詣でに出発したといわれます。
 この窪津王子は、其の後、四天王寺の正門鳥居近くの『熊野神社』に鎮座していたと伝えられていますが、後に堀越神社に合祀され、『熊野第一王子之宮』として現在に至ります。(以下略)
とある。(上記参照)

*黒龍社
 案内等なく鎮座由緒等詳細不明。

 
熊野第一王子宮
 
黒龍社

*茶臼山稲荷神社
 本殿向かって左に鎮座する。
 参詣の栞には、
 「茶臼山稲荷社は、その昔、天王寺茶臼山の山頂に祀られていました。
  大坂夏の陣の際に徳川家康が茶臼山稲荷の白狐に危機を救われたことから、家康の信仰が厚かったと言われ、夏の陣の後、現在の処に祀られるようになりました。
  徳川時代、大阪城代が新たに任に就くと、茶臼山の家康陣所の跡に敬意を表すのを例としましたが、その都度、堀越神社に詣で幣帛を奉り、燈籠を献じ、盛んに礼典に尽くしたと伝えられています」
とある。


茶臼山稲荷社・鳥居 
 
同・社殿

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