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深江稲荷神社
大阪市東成区深江南
祭神--稲倉魂大神・猿田彦大神・天鈿女太神
                                              2020.09.29参詣

 大阪ミナミから東へ伸びる国道308号線(千日前通り)・新深江交差点の東北東約400m、道路北側に「深江稲荷神社 参道」との案内表示が立ち、その角を北へ入った左側(西側)に鎮座する。
 大阪メトロ千日前線・新深江駅の東北東約750mにあたる。

※由緒
 境内に掲げる案内には、
 「深江稲荷神社は垂仁天皇の御代、笠縫氏(カサヌイ)の祖が摂津国東生郡笠縫島の宮浦の地(今の深江南3丁目の地)に居を定め、下照姫命を奉祀したのが始まりとされ、その後、元明天皇和銅元年(708)に山城国稲荷神社の御分霊を勧請したと伝えられています。

 慶長8年(1603)、豊臣秀頼が片桐市正・加藤左馬介に命じ、社殿が改築されましたが、慶長19年(1614)に兵火により消失、
 その後、宝暦10年(1760)に本殿及び絵馬堂を再興し、寛政8年(1796)に本殿・拝殿に修理を加え、同時に石鳥居が再建されました。、
 文化14年(1817)9月本殿拝殿に修理を加え、明治25年(1892)11月拝殿を改築し、弊殿が新築されました。
 また明治5年(1872)に村社に列せられました。
 昭和47年(1972)、大阪府教育委員会から大阪府史跡『摂津笠縫邑』に指定され、平成5年(1993)に本殿・拝殿・社務所が改築されました」
とある。


 これによれば、笠縫氏の祖が当地・笠縫島にやってきて下照姫をまつったことに始まるというが、笠縫島についての資料として
 *玉勝間(1795~1812、本居宣長)
  「笠縫島は今、摂津国東生郡の深江村といえる所なるべし」
 *東成郡史(1798)
  「大字深江の地なるべし。玉勝間に曰、笠縫島は今東生郡の深江村といふところ是なるべし。
  此所菅田多く有て、其菅他所より勝れたり。里人むかしより笠を縫うことを業として名高く、童謡にもうたへり。
  今も里長・幸田喜右衛門といふ者の家より、御即位の折は内裏へ菅を献る。又讃岐殿へも圓座の料の管をまいらすとぞ。
  延喜式内匠寮式に伊勢斎王・野宮の装束の中に御輿中子の菅の蓋一具(菅幷骨料 材従摂津国笠縫氏参來作)とあり、笠縫氏は此所の人にぞありけむ。(以下略)
 *大阪市東成区HP(史跡・名勝)には、
  「昔は、この一帯は笠縫島と呼ばれ、笠を織ることを職業とした笠縫氏の一族が、大和の笠縫邑から良質な菅(スゲ)の生い繁った深江の地に集団移住したと伝えられ、その歴史は2000年程になります」
などがある。

 ここでいう大和の笠縫邑とは、古事記・崇神天皇条に、「天照大神を豊鋤入姫命に託し、大和の笠縫邑に祀った」とある笠縫邑で、天照大神が伊勢に鎮座する以前、一時的に祀られていたという聖地を指す(比定地には諸説あるが奈良・桜井の檜原神社が有力--別稿・檜原神社参照)

 案内が創建時期を垂仁天皇の御代というのは、この御代に天照大神が大和を出て伊勢に赴いていることから、笠縫氏一族もそれに合わせて大和から摂津に移ったというのだろうが、それが垂仁朝というのは伝承にしかすぎない。
 (笠縫については下記)


※祭神
 境内の案内には
*本社 三柱
  稲倉魂大神(ウカノミタマ) 猿田彦大神(サルタヒコ) 天鈿女太神(アメノウズメ)

 本社の主祭神・ウカノミタマは、古事記にはスサノオの御子(宇迦之御魂神)、書紀にはイザナギ・イザナミの御子(倉稲魂命)とある神で、神名・ウカノミタマの“ウカ”(ウケ)が食物の霊を指すことから食物の神、特に稲の神であって、一般には稲荷神をいう。
 当社が深江稲荷社と称することから、ウカノミタマを主祭神とするのは当然だが、創建由緒からみると、当社本来の祭神は笠縫氏が祀ったシタテルヒメであったはずで、後世の稲荷神勧請にともなって主祭神の座に変化があったかとも思われる。

 相殿のサルタヒコ・アメノウズメを祀る所以は不明。(明治末の神社統廃合で当社に合祀された神社の祭神かと思われるが、資料はない)

◎境内社
*摂社 天津社
  月読大神(ツキヨミ) 稚日女大神(ワカヒルメ) 軻遇突智大神(カグツチ) 下照姫大神(シタテルヒメ)

 ・月読大神
  黄泉の国からかえったスサノオが橘のあわき原で禊ぎをしたとき成りでた三貴神(アマテラス・ツクヨミ・スサノオ)の一で、スサノオが右の目を洗ったとき成りでたという(古事記・書紀5段本文)
 また書紀5段一書1には、イザナギが「天下を治めるべき尊い神を生みたい」として、右の手で白銅鏡を取られたときに生まれたとある。

 ・稚日女大神
  書紀7段一書1にでてくる女神だが、天照大神とも、その御子とも妹とも、大日女(オオヒルメ=アマテラス)に対する稚日女ともいうが正体不祥。
  書紀一書1には、機織殿で神衣を織っていたとき、スサノオが投げ入れた馬の皮に驚いて機織器から落ち、持っていた梭で身体を傷つけて死んだとあり、天照大神とするのには無理がある。

 ・軻遇突智大神
  イザナギ・イザナミが生んだ火の神で、イザナミはこの神を生んだことでホトを灼かれて亡くなったとされる。

 ・下照姫大神
  オオクニヌシとタギリヒメの娘で、国譲り交渉のために天降ったアメノワカヒコの妻。
  アメノワカヒコが亡くなったとき、それを歎くヒメの声が高天原まで届いたといわれ、また葬儀の場に現れた同母兄・アジスキタカヒコがアメノワカヒコと似ているとして取り違えられたとき、歌によって兄の名を顕かにしたという。
  その名がこの場面のみにしか記されていないことから、後世、多くの女神と習合して幾多の伝承が作られている。

 由緒によれば、笠縫氏はシタテルヒメを奉祀して当社を創建したというが、笠縫氏とヒメとの間に接点はなく、如何なる所以で奉祀したのかは不明。
 また、天津社祭神4座のうちツキヨミ以下の3座は天つ神であるが、シタテルヒメは国つ神であって、それが天つ神3座とともに天津社に祀られる所以も不明。

 臆測すれば、当社本来の祭神はシタテルヒメであったが、稲荷神・天つ神の勧請によって主神の座から摂社の神へと貶められたのかもしれない。

*末社 笠縫神社
  祭神--天勇蘇命(アメノユソ) 天津麻占曽曽命(アマツマウラソソ) 天津赤麻良命(アマツアカマラ) 笠縫氏祖

 天勇蘇命以下2神は記紀にはみえない神々だが、物部氏系史書・先代旧事本紀(9世紀前半)によれば、饒速日命に従って天降った神々の中に、
 ・笠縫部らの祖--天曽蘇(アマツソソ)
 ・笠縫らの祖--天津麻占(アマツマウラ)
 ・曽曽笠縫らの祖--天津赤麻良(アマツアカマラ)
の名がみえ(天神本紀)、何れも笠縫氏らの祖神という。

 これによれば、笠縫氏は物部氏系氏族となるが、古代の豪族・物部氏は幾多の職能集団を傘下に従えていたといわれ、笠縫氏も笠作りを以て物部氏に従属していたことから、その祖神を饒速日の降臨神話に結びつけたのであろう。

*末社--御食津神社(榎稲荷神社)
  祭神--豊受大神(トヨウケ) 御食津大神(ミケツ)
 いずれも食物の神で、稲荷神としての奉祀。

*祖霊社

※社殿等
 道路脇に鳥居が立ち、その背後に瓦葺きの神門があり、左右に玉垣が伸びる。


深江稲荷神社・社頭 
 
同・鳥居

同・神門 

 神門を入った境内の正面中央に、唐破風向拝を有する入母屋造の拝殿が東面して建つ。


同・境内 

同・拝殿 
 
同・拝殿(側面)

 拝殿背後、弊殿を介して一間社流造の本殿が東面して鎮座する。
 ただ、外から見える本殿は覆屋で、中に本殿の社殿が鎮座するらしいが、詳細不明。


同・本殿 

同・本殿(側面) 
 
同・本殿(背面)

 境内右手、玉垣で囲まれた中に攝末社4社が南面して鎮座する。
 社頭の案内には、摂社・天津社、末社・笠縫神社、末社・御食津神社、祖霊社とあるが、現地には社名表示なく何れがどの社かは不明。
 ただ資料によれば、右端の朱塗りの小祠が祖霊社というから、右から御食津社・笠縫社・天津社と並ぶのかもしれない。
 (下写真は左から並べている)


攝末社4社 











以下
左より 
     


【笠縫】
 笠縫とは菅笠を作ることで、古く深江の地は笠縫島の地名で知られていたようで、万葉集(759以降)にも
 ・四極山(シハツヤマ) うち越え見れば 笠縫の 島漕ぎ隠る 棚なし小舟(オブネ)  高内黒人・巻3-272番
  (四極山を越えて見渡すと 笠縫の島に漕ぎ隠れゆく 舟棚もない小舟がみえる)
 ・おしてる 難波菅笠 置き古し 後に誰が着む 笠ならなくに  読み人知らず・巻11-2819番
  (難波の菅笠を 長い間捨て置いて あとで誰がかぶる 笠でもないのに・・・この笠(私)は 貴方以外にかぶるべき人はないのに 長い間顧みもしないで)
などがあり、8世紀には知られていたことが窺われる。

 境内右手、楠の巨木の下に、上記高市黒人(タカイチクロヒト)の“四極山云々”の歌碑が立ち、側らの案内には、

 「四極山について、賀茂馬淵は「摂津国西生郡にあり」と記し、本居宣長も『住吉の山阪神社の辺りが四極山だ』と書いています。
 住吉津から大和の竜田に通ずる磯歯津路(シハツミチ)があり、その途中住吉より喜連に行く間の小高い丘が四極山とされ、ここから河内湖を眺めて詠んだと推察されます。

 笠縫の島については、本居宣長は古事記伝の中で、『摂津国の笠縫の島という所は東生郡の深江村である』と述べている。
 この深江村に宮浦・水鶏田・菅島・島の岸という字名があり、これが島であったことを彷彿させます。

 約2000年前、大倭にあった笠縫邑で、現在は伊勢神宮に祀られている御神体を護りながら、菅で笠などの祭具を作っていました。
 第11代垂仁天皇の御代に御神体が伊勢に遷幸された後、祭具の需要は減りましたが、菅笠が高貴な人々のためだけでなく、一般の人も使用し始め需要が増えましたので、菅草の豊富な場所を求め生駒山の山並を越えてきました。 

高市黒人の歌碑 

 そして時代が進み、経済文化が発達するに伴い菅笠の需要がますます多くなり、中世には奈良興福寺の大乗院賀詞は位した“48座”の中に“菅笠座”があり、畿内の菅笠を独占していました。
 江戸時代にお伊勢参りが全国的に盛んになり、暗峠(クラガリトウゲ)を通る人が、月間4・5万人あったといわれ、街道沿いには数件の菅笠屋があり、人々は旅の安全を祈って菅笠を買い求め参詣したといわれています。
 伊勢音頭の中にも唄われ、摂津名所図会にもその賑わいが描かれています」
とある。

 今、当深江地区では「菅笠の里」として宣伝しているようで、国道308号線から当社へ至る角に立つ案内板には、
  「ようこそ菅笠の里へ  深江 お伊勢参りの旅立ちのまち
とあり、菅笠の絵が添えられている。


摂津名所図会・深江 
 
「菅笠のまち」案内表示

 菅笠は一般には道中用の日よけ・雨よけとして用いられる円錐状の被り物だが、古代にあっては神社の神事に用いられる奉納品だったといわれ、延喜式(927)に、
 ・荒祭宮装束  菅笠一枚(径四尺五寸 金飾)
 ・野宮装束    御輿中子菅蓋一具(菅幷骨料 材従摂津国笠縫氏参來作)
とあり、これら御笠は摂津国の笠縫氏からの奉納品だっといわれ、
 また、神宮に伝わる皇大神宮儀式帳には
 「4月14日、天照大神に新しい着物を差し上げる祀りの日であり、この日、御笠縫内人と称する神官が、蓑と笠を22張りずつ作って神に差し上げる」
とある(意訳)
 古代にあっては蓑笠を身につけることは神の証しであり、丸い形をした笠は太陽のシンボルとして太陽祭祀(日祈-ヒノミの祭り)に欠かせない祭具だったという。

 ただ、これらの神事に用いられた菅笠は、後世の日よけ・雨よけとして頭上に被るものではなく、
 式年遷宮時などでの御神霊の移動に際して、その御神霊の上に差しかける大きな傘のような威儀具(菅御笠、右図)で、 
 他にも、天皇即位式などでも、同じような菅笠(菅蓋・カンガイと称する)が天皇の上に差しかけられるという。

 

 なお、当地に残る深江菅細工の伝承は、平成11年に大阪市指定無形文化財に認定され、当社最寄り駅である大阪メトロ・新深江駅の通路には菅笠と、菅笠を被ったお伊勢参りの群衆が描かれている(下写真)

       

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