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摂津(西成郡)の式内社/坐摩神社
大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺
祭神−−生井神・福井神・綱長井神・波比祇神・阿須波神
                                                               2009.4.29参詣

 延喜式神名帳に、『摂津国西成郡 坐摩神社 大 月次相嘗新嘗』とある式内社(摂津国西成郡では唯一の式内社)

 大阪市都心を南北に貫く御堂筋の西側、東本願寺(南御堂)の西に鎮座する。地下鉄御堂筋線・本町駅の西南約300m。

 坐摩とは“イカスリ”と読むが、古くはヰカシリ・ヰバテリなどとも読んだという。“座摩”と記すことも多く、“ザマ”とも呼ぶ。
 イカスリの語源には諸説があるが、神社では“土地又は居住地を守る”の意味の“居所知”(イカシリ)が転じた名称という(由緒略記)。一説として、上町台地の西斜面中腹にあった旧地(現中央区石町)の傍らに清水が湧きていたが、当社がその“井頭”に当たることから“井ガシリ”と訛り、これに座摩の好字を宛てた、ともいう(式内社の研究1977)

 東側道路沿いに立つ鳥居は、主鳥居の両脇に脇鳥居をもつ三門形式という特異な形をしている(同種の鳥居に奈良・大神神社があり、三輪鳥居という)。ただ、脇鳥居の扉は閉まっている。
 江戸時代の名所図会には普通の鳥居が描かれ、境内中央の社殿の周りに摂末社とともに茶店などが見え、神社というより民家が密集した町中の行楽地といった雰囲気で描かれている。

 今の社殿は唐破風をもつ壮麗な建物だが、これは戦災で焼失した昭和11年(1936)造営のものを昭和34年(1959)に再建したもの(鉄筋コンクリート造)。:境内右手に末社5社の祠が並び、広い境内は清楚な雰囲気がただよっている。

 社殿裏(西側)に境内末社・陶器神社と稲荷神社があり、他に境外末社として、旧社地跡に残る“行宮”(中央区石町)と末社・“浪速神社”(浪速区浪速西)がある。

坐摩神社/大鳥居
大鳥居
坐摩神社/拝殿
拝 殿
坐摩神社・古図
座摩神社の図(摂津名所図会・1798刊)

※祭神
 坐摩神(イカスリ)とは、生井神(イクイ)・福井神(サクイ)・綱長井神(ツナガイ)・波比岐神(ハヒキ)・阿須波神(アスハ)5座を総称した神名という。

 その坐摩神(五座)を祀るのが当社で、当社由緒略記には、
 「坐摩神とは、土地又は居住地を守り給う神」
とあるが、当社以外にも、
 「坐摩巫祭神(イカスリのミカンナギが祭る神)五座 並大 月次新嘗」(延喜式神名帳・宮中神条)
とあるように、宮中祭祀三十六座中の五座として神祇官西院において祀られている。

 この神祇官西院における祭祀について、古語拾遺(807、齋部氏系の歴史書)には、
 「坐摩 是、大宮所の霊(ミタマ)なり、今坐摩巫(イカスリのミカンナギ)の齋ひ奉れるなり」
とあり、神武天皇が即位に際してアマテラス・タカミムスヒ2神の神勅に従って宮中に祀ったとある。

 坐摩巫とは、坐摩神に奉仕する巫女を指すが、延喜式臨時祭に
 「坐摩巫 都下(ツゲ)国造氏の童女七歳以上の者を取りて、これに充てる。若し嫁する時には、弁官に申して替えて充てる」
とあり、当社の祭祀氏族である都下国造の娘をこれに充てるとの特別のきまりがあったという。
 都下(闘鶏・都祁とも記す)国造氏とは、神武天皇の皇子・神八井耳命を祖神と称する氏族で、大和国山辺郡都祁(奈良市東南部)が本貫というが、本来の出身地は当社の旧社地(現大阪市中央区石町、大川に架かる天萬橋南詰の西すぐ)付近だったともいう。

 なお、“ツゲ”(都下・都祁・闘鶏)とは古代朝鮮語で“トキ・トチ”といい、“迎日”・“日の出”を意味するといわれ、旧社地付近は古代には“菟餓野”(トガノ−トガは呉音・ツゲの漢音読み)と呼ばれ、東方・大阪府(八尾市)と奈良県(平郡町)の境にある高安山(H=488m)に昇る冬至の朝日が直刺す地(タダサス−真っ直ぐに射し込む地の意)で、迎日(日神)祭祀がおこなわれた地という。
 当社は日神祭祀の聖地から発した社と思われ、迎日を意味するツゲを負うた都下国造氏は日神祭祀を司ったと思われ、その祭祀にかかわる七歳以上の童女とは、日神を迎えて御子を生む神の妻(日妻)としての巫女が原点であったと思われる(日光感精説話)

 その日神祭祀の神が宮中に祀られる由緒ははっきりしないが、旧社地付近は応神天皇の行宮・大隅宮(応神紀22年条に、「天皇難波に行幸して大隅宮に居られた」とある)があったといわれ(山根徳太郎−難波宮跡の発掘者、大隅宮跡については異論あり)、大隅宮の守護霊として宮中に祀られたと思われる。

 坐摩神あるいは生井神以下の5座は、一般には知られていない神々だが、イカスリ神5座の神格は、おおきく二つに分かれる。
まずイクイ・サクイ・ツナガイの3神は文字通りの井泉の神で、
  生井神(イクイ)−−生々活発な生命力を司る井泉の神
  福井神(サクイ)−−幸井・栄井で、繁栄を司る井泉の神
  綱長井神(ツナガイ)−−釣瓶を吊す綱の長くて深く清らかな井泉の水、綱が長いことから長命を司る神
という。換言すれば、生命の維持に必要な水を守る神であり、また日の御子生誕にかかわる神でもあるという。

 次のハヒキ・アスハの2神は、諸説があってよくわからないが、古事記(大年神の神裔段)
 「(オオトシ神が)アマチカルミズヒメを娶って生んだ子、・・・庭津日神・阿須波神・波比岐神、・・・」
と出てくる神で、古く、本居宣長は古事記伝(1798)のなかで
  阿須波神(アスハ)−−足踏み立つる地を守り坐す神(足場を確実に守護する神か)
  波比岐神(ハヒキ)−−門から家屋までの庭を守り坐す神
とあり、また近年になっての説として、
 「宅地の神もしくは庭燎(ニワビ)の材料としての薪や柴の神」
 「宅地の基礎を堅固にする神」
 「蛇神(ハハキ神)が転訛して大宮地の霊になった神」
 「宅地の端から端へ線を引いて境界を守る神」
など諸説があるが、何れにしろ、宅地・居宅にかかわる“宅神”という意味をもつ。“屋敷神”といってもいい。そこから“竈神”という説もあるが、竈神は火の神・水の神的性格が強くアスハ・ハヒキ神とは少し違う。

 これらからみて、イカスリの神は生誕にかかわる井泉神3座と居住地を守る宅神2座の総称で、宮中に祀られるイカスリ神は“日の御子が生まれ育つ大宮地の守護神”ということができる。

 なお当社祭神について異説があり、
 神功皇后を祀るとするもの(和漢三才図会1712・難波丸綱目1748)
 神功皇后が主神で、坐摩五座は相殿神とするもの(諸社一覧・名葦探杖)
 住吉大神を祀るとするもの(難波芦分船1675)
などがある。下記の鎮座由緒からすると、神功皇后を祭神とするのも解せる。
 住吉大神とは、住吉大社神代記に「仁徳天皇の御代、天皇の子・波多毘若郎女(ハタビノワカイラツメ)の夢に顕れた神が、『吾は住吉大神の御魂ぞ、イバテリ亦はイカシリと号す』と告げた」とあり、又、「坐摩(イカシリ)(二前 一名イバテリ神)・子神(末社的存在)」と記すからであろう(イバテリ=イカスリ)

※鎮座由緒
 当社由緒略記には
 「当社の創祀には諸説があるが、神功皇后が新羅よりご帰還の折、淀川南岸の大江・田蓑島のちの渡辺の地に奉祀されたのがはじまり」
とある。
 管見した諸資料のひとつに、
 「坐摩神社は大阪市南区渡辺町(現中央区石町)に鎮座あり。当社は神功皇后御宇10年に鎮め給へる処にして・・・。
 いにしえ神功皇后三韓御親征ありて、凱旋の際、神武帝東征の吉例により、御船を浪速国浮見石に上によせ、皇后、陸に上らせ給ひて、其地に休ひたまふ[これ大江の岸にて、此時皇后の座したまひし石を神石と崇め、今も石町の行宮に祀れり]
 而して皇后神霊を齋ひたまふ時に、賤女、醤を上りければ、献じまつらせ給へり。是今の行宮の地と云ふ。
 或説には、今の行宮地より東なりとも云ひ、又神体もことなれりと云ふ如何」(浪華百事談・1895頃、他同意の資料多し)
がある。
 簡単にいえば、“神功皇后が三韓から帰還されたとき、淀川(現大川)沿いの渡辺の地に上陸され、そこにあった石の上で休息をとられた。そこで神を祀られたとき、賤女が食事を献じた”というもので、今、行宮とされている旧社地の創建由緒である。
 また
 「本社は神武天皇4年大和国鳥見の山中(高見山中ともいう)に祭り給へるに起り、爾後宮中八神殿に齋き祭らせ給ひしを、神功皇后10年初めて大江岸に鎮座せりと云ふ」(大阪府史蹟名勝天然記念物、大阪府誌1922)
との資料もあり、これによれば、イカスリ神がまず宮中に祀られ、後に旧社地に祀られたとなる。

 また、旧社地の地名を“大江岸国府町”とする資料もある(摂陽名所図会大成)。国府町とは、古く、この辺りに国府が置かれていたことからの地名で、後に渡辺町に変更されたともいう。

 ただ何れの資料をみても、神功皇后が祀られた神がイカスリの神だとは明記されておらず、何故イカスリ神を祀ったか、その由緒は不明。上記にように、旧社地が大隅宮近くにあったことから、その守護神として祀られたのかもしれない。

 なお、鎮座異説として、神社覈録(1870)
  「摂陽群談に、社記云、祭神は神功皇后也。凱旋の日此所に於いて飲食也。
 誉田天皇(応神)3年11月、百済辰斯王叛す、紀角宿祢・羽田矢代宿祢を遣わして之を伐たしむ。その日難波沼中に於いて之を祀り、住吉第一摂神と為す云々といへり、一説なるべし」
とあるとして、当社の創建を応神3年とする説を紹介している。
 書紀・応神天皇3年条には「百済辰斯王が天皇に対して礼を失することをした云々」とはあるが、祭祀についての記述はなく、その時、当社が創建されたという確証はない。
 また、4世紀前期といわれる応神朝に恒久的な神社が造営されたとは思えない。

◎現在地への遷座
 旧社地・石町から現在地への遷座について、
 ・由緒略記には
   天正10年(1582)、豊臣秀吉の大阪城築城(天正11年・1583)に当たり替地を命ぜられ、寛永年間(1624--44)現在地に遷座
とあるが、
 ・神社覈録(1870)他の古資料には、
   摂津志に云。旧八軒屋南石町に在り。今尚鎮護石有り、方五丈許り。・・・其北を楼岸と曰。旧数十小祠有り、皆城内に属す。天正中(1573--92)圓江側に遷置
とあり、旧社地・八軒屋石町(下記)が大阪城内に属したことから、天正年間に圓江に遷したという。
 この圓江が何処を指すのか不明だが、
 ・大阪府全志(1922)
   旧社地より一旦淡路町に遷座し、そこから現在地に遷った
とあることから、圓江とは淡路町付近を指し、淡路町から現在地への遷座したのが寛永年間であろう。

 なお、現在地の地名の最後に“渡辺”なる地名が付いている。旧社地(八軒屋)附近の地名・渡辺が、全国の渡辺姓のルーツともいわれることから(おとぎ話の大江山鬼退治に登場する“渡辺綱”は当地出身という)、昭和の町名変更に際して、由緒ある地名を残すよう運動して付された地名という(大坂では、戦後の町名変更で由緒ある地名の多くが消えている)

※境内末社
 境内右手に、境内末社5社が並んでいるが、由緒略記には社名のみで祭神名・鎮座由緒などなく、詳細不詳。
◎大江神社
 摂陽名所図会(1798)には、「本社の傍らにあり。神功皇后を祭る」とある。“大江”とは旧社地名“大江岸”によるもので、旧社地にいう神功皇后関連の伝承にもとづくものであろうが、坐摩神社の本来の祭神が神功皇后であったのを、何時の時代化にか末社に貶めたとも考えられる。
 なお、神功皇后神社は摂社・『田蓑神社』とする資料もあるが(摂津名所図会、寛政10年・1798刊)、今、田蓑社なる社は見当たらない。
 当社の一間流造の社殿は他末社の切妻造社殿に比べてやや大きく、末社の中でも特別な社との印象をうける。
◎繊維神社
 ネット資料には、アメノハヅチオ・アメノタナバタヒメを祀るという。
 アメノハヅチオとは古代の機織氏族・倭文(シトリ)氏の遠祖・シドリ神で、アメノタナバタヒメとともに織物に関係する神。
◎大国主神社
 摂陽名所図会大成にいう「事代主大国主二座相殿」が当社らしい。
◎天満宮−−祭神:菅原道真
◎相殿神社
 ネット資料には、春日・住吉・大神受美・猿田彦・大宮比売・多賀・天御中主・産産・直比・諏訪・事平・大蔵を祀るとあるが、古資料になく真偽不明。いずれにしろ、境内に祀られていた末社群を集めて祀った社であろう。

坐摩神社/末社・大江神社
末社・大江神社
坐摩神社/末社・繊維神社
末社・繊維神社
(大国主社以下も社殿同型)

◎陶器神社・稲荷神社
 本社社殿背後に『陶器神社』・『稲荷神社』の2社が並んでいる。

 陶器神社について、大阪府全志には、
 「明治40年、・・・西区靱南町1丁目の無格社・陶器神社[大山祇神・迦具突智命]を合祀し」
とあり、その前身について、摂津名所図会(寛政10年1798)に、
 「瀬戸物町とは新橋橋西詰めより北方京町堀西詰めに至る西横堀川一帯の総称にして、陶磁器の販売家多きを以て此の名あり。靫南通り一丁目に陶器神社あり地蔵尊を祀る。維新の際廃せられしが後旧に復せり。・・・後、社殿を設けて祀り防火の神として尊崇せられ、・・・」
とある。
 由緒略記に祭神名はみえないが、府全志にはオオヤマツミ(山の神)とカグツチ(火の神)とある。火の神・カグツチは防火の神でもあることから、これを陶器商等が齋き祀ったのであろう。

坐摩神社/末社・陶器神社
末社・陶器神社
坐摩神社/末社・稲荷神社
末社・稲荷神社


※境外末社

◎豊磐間戸・奇磐間戸神社−−坐摩神社行宮
  大阪市中央区石町2丁目
  祭神−−豊磐間戸命(トヨイワマト)・奇(櫛)磐間戸命(クシイワマト)

 京阪本線・天満橋駅の西約250n、ビルに挟まれた狭い谷間に位置する。
 貫1本を通しただけ簡単な鳥居をくぐった参道奥の、覆屋の中に小祠が鎮座し、その前に神功皇后が休息されたという“鎮座石”がある。
 神社移転の時、この石が大きすぎて動かせなかったので残したともいうが(浪華名所図会大成)、今、ステンレス製の枠に覆われていて石の全体は見えない。
 この鎮護石について、摂津志(1733)には
  「鎮護石 俗に神功皇后憩息石と呼び、因りて神幸地と為す」
とあるという(神社覈録他)
 当地の辺りに、神功皇后が新羅より帰還の折に休まれたとの伝承があったのは確からしいが、それが当地だという確証はなく、
 「元禄年間、民地だったこの地で一石を発掘し、これを影向石または鎮座石と称し、ここに末社を建造し、菅田町すなわち徳井町の御旅所をこの地に移した」(大阪府史蹟名勝天然記念物資料)
ともいう。“元禄時代に発見された石を神功皇后が休まれた石だとして創建された”というもので、当地が旧坐摩神社だとの確証にはなり得ない。


坐摩神社・行宮/鳥居

同/社殿(祠)

同/鎮座石

 祭神・トヨイワマト・クシイワマト両神は“門の守護神”で、イカスリ神と同じ宮中神で、延喜式には「御門巫祭神八座」とある。八座とは、宮殿の四方の門それぞれに二座ずつ坐すことを意味する。磐間戸は“石窓”(イワマト)とも書く。
 古語拾遺に
 「(天の岩屋から出たアマテラスが、新殿に移られたあと)トヨイワマト命・クシイワマト命の二柱の神をして、(新殿の)殿門(ミカド)を守衛(マモ)らしむ。太玉命の子なり」
とあり(フトタマ命とは、宮中の祭祀に係わる神で忌部氏の祖)、祈年祭祝詞には
 「四方の宮門に立ち塞がって御門の開閉を掌り、地下や上空から侵入しようとする邪なるものを遮る神」(大意)
とある。
 大宮地の守護神・イカスリ神を祀ったとされる旧社地に、宮門を守るイワマト両神を祀るのは、いずれも宮地を守る神々ということからであろう。ただ、坐摩神社が当地にあったとき、イワマト両神を祀っていたかどうかは不明。

 平安時代、当社の北を流れる旧淀川(現大川)の川辺には『窪津』(あるいは「渡辺の津」)と呼ばれる船着場があった。京から船で下ってきた熊野詣の人々はこの地に上陸し、すぐ南にあった『窪津王子』(熊野王子の第一王子)に参詣したのち、陸路紀州熊野を目指して南下したという。
 藤原定家の「熊野御幸記」(1201)に、後鳥羽上皇の一行が「申の刻(午後4時頃)にクボツに着き、幣帛を奉り、経典供養をなし、里神楽を見た・・・」(大意)と記されている。
 その窪津王子が、旧坐摩神社の附近(境内ともいう)にあったとされ、今、当行宮内に合祀されている。

 なお窪津の船着場は、江戸時代には“八軒家”と呼ばれて繁盛したといわれ、行宮東の道端に記念碑が立っている。今、新しい八軒家船着場が建造され、大川遊覧の基地となっている。

◎浪速神社
 大阪市浪速区浪速西3丁目
 祭神−−坐摩神五座(坐摩大神と総称する)・猿田彦大神

 JR環状線・芦原橋駅の西南南約500m、市営の高層住宅群のはずれに位置し、『坐摩神社末社 浪速神社』と称する。
 隣接する浪速西公園と一体となったような(区画らしきものはある)広い境内の東側に社殿が建ち、他に末社・稲荷社3社(白金大神・白辰大神・白髭稲荷大神)がある。閑散とした境内は、清掃などほとんどされていないようで、軒下には汚れた布団が散見される。

 大阪城築城に際して移転を強要された旧渡辺の人々のうち、南渡辺の人々は久太郎町に移ったが(現坐摩神社)、川向こうの北渡辺(旧称:新羅江)の人々の移転先が決まらず、各地を転々とし、ようやく元禄時代(1688--1704)になって当地に移り、坐摩五座を奉じて氏神としたといわれ、明治40年(1907)、政府の神社統廃合政策に際して、祭神が同じことから一旦坐摩神社に合祀され、その後、旧に復したという。

 今、当社は浪速神社と称しているが、北渡辺村の旧地名が“新羅江”であったことから“白木神社”と称したともいう(神と人の古代学・2012)
 ただ、一部の人が別に“白木神社”を建てて祀ったともいわれ、それが浪速区に鎮座する白木神社(下記)と思われるが、その創建由緒とは異なっている。

 南側鳥居の脇に、柵に囲まれて磐座らしき石があり、前に白い鳥居が立っている。旧坐摩神社の神功皇后鎮座石を模したものかもしれないが、詳細不明。

坐摩神社/境外末社・浪速神社鳥居
鳥 居(南側)
坐摩神社/境外末社・浪速神社拝殿
拝 殿
坐摩神社/境外末社・浪速神社・磐座?
磐座らしき石

追記−−白木神社
 大阪市浪速区木津川2丁目
 祭神−−白蛇宇賀神(ハクジャウガノカミ)・倉稲魂神( ウカノミタマノカミ)

 浪速神社の西約300m、市営浪速第二住宅の南側にある小社。
 社頭の由緒書によれば、
 「明治41年(1908)、この神祠に白蛇が依憑していたので神使・守護神“巳の神”として祀られた。水難ごとに霊験あらたかな加護があり、更に船玉神として船舶航行の守護神となり、後には“白蛇宇賀神・倉稲魂神”として人々の生活保護の神となり、・・・大正4年(1915)現在地に祀らる」
とある。
 祭神の白蛇宇賀神とは、中世以降・宇賀弁才天として信仰された神で、頭に白蛇を頂くことから、白蛇が憑依したという当社に祀られたのであろう。
 ウカノミタマは穀物神で稲荷社の祭神。
白木神社
 由緒書に坐摩神社との関係は記されていないが、上述したように、元禄時代に移住した北渡辺の人の一部が別れて祀ったという白木神社が当社かもしれない。
 とすれば、明治40年(1907)、政府の神社合併政策で坐摩神社に合祀されたが、その後復帰したともいわれ、由緒書に“大正4年、現在地に祀った”というのは、復帰を指すのかもしない。とすれば、当社も坐摩神社に関係した神社となる。

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