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摂津(西成郡)の式内社/坐摩神社(改訂)
大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号
祭神−−生井神・福井神・綱長井神・波比祇神・阿須波神
                                         2009.4.29参詣 2019.08.24再訪

 延喜式神名帳に、『摂津国西成郡 坐摩神社 大 月次相嘗新嘗』とある式内社(摂津国西成郡では唯一の式内社)で、摂津国一の宮(摂津国では住吉神社も一の宮といわれ、一の宮が2社ある)

 大阪めとろ(地下鉄)・本町駅の南西約300m。
 大阪市都心を南北に貫く御堂筋と東西にはしる中央大通りとの交差点を西へ、最初の辻を南(左)へ入ったすぐの西側(右)に鎮座する。東本願寺(南御堂の西にあたる。

 坐摩とは“イカスリ”と読むが、古くはヰカシリ・ヰバテリなどとも読んだという。“座摩”と記すことも多く、“ザマ”とも呼ぶ。
 イカスリの語源には諸説があるが、社頭の案内には、“土地又は居住地を守る”の意味の“居所知”(イカシリ)が転じたと伝えられています、とある。
 一説として、上町台地の西斜面中腹にあった旧地(現中央区石町)の傍らに清水が湧きていたが、当社がその“井頭”に当たることから“井ガシリ”と訛り、これに座摩の好字を宛てた、ともいう(式内社の研究1977)


※由緒
 頂いた坐摩神社御由緒略記(以下、由緒略記という)によれば、
 「当社の創祀には諸説がありますが、神功皇后が新羅より御帰還の折、淀川南岸の大江の岸・田蓑島(タミノシマ)、のちの渡辺の地(現在の天満橋の西方、石町-コクマチ付近)に奉祀されたのが始まりとされています。
 平安時代の延喜式には、摂津国西成郡の唯一の大社と記され、産土神として今日に至っています。
 また、朱雀天皇の御代、天慶2年(939)以来祈雨11社中に列し、以後たびたび祈雨(雨乞い)のご祈祷・奉幣に預かりました。
 天正10年(1582)豊臣秀吉の大阪城築城に当たり替地を命ぜられ、寛永年間(1624--44)現在地に遷座されました。

 現在の鎮座地名を渡辺と称するのも、元の地名が移されたもので、全国の渡辺・渡部等の姓の発祥の地でもあります。
 旧社地と伝えられる石町には、現在も当社の行宮(アングウ・御旅所)が鎮座します」
とある。

 由緒略記は、当社創建由緒を神功皇后に付託しているが、これは広く巷間に知られていたようで、当社関連の古資料のほとんどがこれを以て当社創建由緒としている。
 管見した古資料のうち、最もまとまっているおぼしき「浪華百事談」(明治28・1895頃)には
 「坐摩神社は今社格府社にして、大阪市東区南渡辺町(現鎮座地の旧町名)に鎮座あり。
 当社は神功皇后の御宇10年に鎮めまつりたまへる処にして、祭神は福井神・生井神・綱井神[以上三座は井の神なり]、波比祇神・阿須波神[以上二座は竈の神]五柱の神を祀りて本社とす。
 抑当社は、いにしへ神功皇后三韓御親征ありて、御凱旋の際、神武天皇東征の吉例により、御船を浪速国浮見石の上りによせ、皇后、陸に上らせ給ひて、其地に休みたまふ[これ大江の岸にて、此時皇后の座したまひし石を神石と崇め、今も石町の行宮に祀れり]
 而して、皇后神霊を齋ひたまふ時に、賤女、醤を上りければ、献じまつらせ給へり。是今の行宮の地と云うふ。
 或説には、今の行宮地よりは東なりとも云ひ、又神体もことなりと云ふ如何。
 而して難波小郡(後の西成郡)の大社と崇め、皇后の休みたまふ石あるを以て、坐摩の神社と号く。

 坐摩神社旧鎮座地は、則ち今の行宮の所とも、又その東の地とも云ひて、此に祭ること年久し。
 然るに天正年中(1573--92)、豊臣秀吉、石山に府城を築く際転地す[神石は其儘おきしとなり]
とある。

 これらによれば、当社は 
*神功皇后が新羅からの帰還の途中、当地(大川岸上・現中央区石町付近)に上陸され、賤女が奉った醤(食べものらしいが詳細不明)を召し上がり、神マツリをされたのが当社の始まりとなる
  しかし、
  ・神功皇后の実在は疑問というのが一般の理解で(津田左右吉は神功皇后は作られた神話上の人物という)
  ・よしんば居られたとしても、書紀によれば、皇后は「南海から紀伊水門に至り、そこから難波に向かうも船がぐるぐる回って進まなくなり、やむなく武庫の港に還って占われた云々(大意)とあり、難波に上陸されたとの記事はなく
  ・神功皇后と坐摩神との接点はなく、皇后が当地で神マツリをおこなわれたとしても、それは天神地祇に対する祭祀と思われることから
 当社創建を神功皇后に付託するのは、後の世に広まった神功皇后伝承のひとつであって、その点からみて、当社本来の創建由緒・年代は不明とするのが妥当かと思われる。

 ただ、当社に関する公的史料として
 ・新抄格勅符抄所載の大同元年牒(806)−−坐摩神 二戸摂津
 ・三代実録(901)・貞観元年(859)正月27日−−摂津国従五位下勲八等坐摩神 従四位下
があり、大同元年に封戸二戸が贈られていることから、9世紀初頭に実在したことは確かといえる。

 なお、百事談に“神武天皇の吉例により云々”とあるが、これは古語拾遺・神武天皇段に
  天皇が二柱の祖(天照大神・高皇産霊尊)の詔に従って、神籬を建てて高皇産霊・・・坐摩神な12柱の神々をを祀った(大意)
とあるのを指すかと思われるが、そこに「坐摩 是 大宮地の霊なり 今坐摩の巫の斎ひ奉れるなり」と注記されていることから、ここにいう坐摩神は宮中の神祇官西院に祀られる坐摩神(下記)を指すと思われる。

 一方、当社創建にかかる異説として、大阪府史蹟名勝天然記念物には 
 「社記によれば、本社は神武天皇4年大和国鳥見の山中に祭り給へるに起こり、爾後、宮中神祇官西院に斎き祭らせ給ひしを、神功皇后10年、初めて大江岸に鎮座せりと云ふ」
とある(書紀・神武4年2月23日条に、天皇は神々の祀りの場を鳥見山に設けて高皇産霊尊を祀ったとある)
 これによれば、坐摩神は先ず宮中神祇官西院に祀られ、神功皇后10年、そこからに当地へ勧請されたとなるが、同じ坐摩神であっても、神祇官西院の坐摩神と当社のそれとの関係がはっきりせず、この説の信憑性は不明。

*その後、豊臣秀吉の大阪城築城により、天正10年遷座を命じられ、寛永年間に現在の地に遷座した(由緒略記)
 これによれば、当社は石町の旧鎮座地より直接現在地へ遷ったことになるが、それが寛永年間であれば、命をうけて約半世紀ほど後となり、その間どうなっていたかははっきりしない。
 これに対して、特選神名牒(1876)他に
 「按に、摂津志に曰、旧八軒屋南石町に在り、今尚鎮座石有り、方五丈許り、俗に神功皇后憩石と称す。
 其の北を樓岸と云う、数十の小祠有り、皆城内の為、天正年中圓江に遷置す」
とあり、当地が城内となったため“圓江の地”に遷ったとある。

 この圓江の地が何処なのかは不明だが、大阪府全志に「或は云う、淡路町一丁目に移りしことありと」とあることから、圓江とは石町の南西約500mの淡路町一丁目辺りかと思われ、とすれば、当社は一旦石町から淡路町へ遷り、寛永年間になって現在地へ遷ったことになるが、それを証する資料はない。

(付記)
 当社の鎮座地は久太郎町との地名の後に“渡辺”と付いている。
 これは旧鎮座地の古地名・渡辺が全国の渡辺・渡部姓のルーツといわれることから(おとぎ話の大江山鬼退治に登場する渡辺綱は当地出身という)、昭和の町名変更に際して、由緒ある地名を残すよう運動して残ったもので、珍しい地名といえる。


※祭神
 坐摩神(イカスリ)とは、生井神(イクイ)・福井神(サクイ)・綱長井神(ツナガイ)・波比岐神(ハヒキ)・阿須波神(アスハ)5座を総称した神名という。

 その坐摩神(五座)を祀るのが当社で、由緒略記には、
 「坐摩神とは、土地又は居住地を守り給う神」
とあるが、当社以外にも、
 「坐摩巫祭神(イカスリのミカンナギが祭る神)五座 並大 月次新嘗」(延喜式神名帳・宮中神条)
とあるように、宮中祭祀三十六座中の五座として神祇官西院においても祀られている。

 この神祇官西院における祭祀について、古語拾遺(807、齋部氏系の歴史書)には、
 「坐摩 是、大宮所の霊(ミタマ)なり、今坐摩巫(イカスリのミカンナギ)の齋ひ奉れるなり」
とあり、神武天皇が即位に際してアマテラス・タカミムスヒ2神の神勅に従って宮中に祀ったとある。
 延喜式神名帳には、・宮中に祀られる神祇官西院坐神巫等祭神廿三座のなかに
 ・坐摩巫祭神 五座〔並大 月次 新嘗〕 上記神名を列記
とある(9巻)

 坐摩巫とは、坐摩神に奉仕する巫女を指し、延喜式臨時祭に
 「坐摩巫 都下(ツゲ)国造氏の童女七歳以上の者を取りて、これに充てる。若し嫁する時には、弁官に申して替えて充てる」
とあり、当社の祭祀氏族である都下国造の娘をこれに充てるとの特別のきまりがあったという。
 都下(闘鶏・都祁とも記す)国造とは、神武天皇の皇子・神八井耳命を祖神と称する氏族で、大和国山辺郡都祁(奈良市東南部)が本貫というが、本来の出身地は当社の旧社地(現大阪市中央区石町、大川に架かる天萬橋南詰の西すぐ)付近だったともいう。

 なお、“ツゲ”(都下・都祁・闘鶏)とは古代朝鮮語で“トキ・トチ”といい、“迎日”・“日の出”を意味するという。
 旧社地付近は古代には“菟餓野”(トガノ−トガは呉音・ツゲの漢音読み)と呼ばれ、東方・大阪府(八尾市)と奈良県(平郡町)の境にある高安山(H=488m)に昇る冬至の朝日が直刺す地(タダサス−真っ直ぐに射し込む地の意)で、迎日(日神)祭祀がおこなわれた地という。
 当社は日神祭祀の聖地から発した社と思われ、迎日を意味するツゲを負うた都下国造は日神祭祀を司り、その祭祀にかかわる七歳以上の童女とは、日神を迎えて御子を生む神の妻(日妻)としての巫女が原点であったと思われる(日光感精説話)

 その日神祭祀の神が当社に祀られる由緒ははっきりしないが、旧社地付近は応神天皇の行宮・大隅宮(応神紀22年条に、「天皇難波に行幸して大隅宮に居られた」とある)があったといわれ(山根徳太郎−難波宮跡の発掘者、大隅宮跡については異論あり)、大隅宮の守護霊として当社に祀られたと思われる。


 当社祭神・生井神以下の5座は、一般には知られていない神々だが、イカスリ神5座の神格は、おおきく二つに分かれる。
 まずイクイ・サクイ・ツナガイの3神は文字通りの井泉の神で、
  生井神(イクイ)−−生々活発な生命力を司る井泉の神
  福井神(サクイ)−−幸井・栄井で、繁栄を司る井泉の神
  綱長井神(ツナガイ)−−釣瓶を吊す綱の長くて深く清らかな井泉の水、綱が長いことから長命を司る神
という。換言すれば、生命の維持に必要な水を守る神であり、また日の御子生誕にかかわる神でもあるという。

 次のハヒキ・アスハの2神は、諸説があってよくわからないが、古事記(大年神の神裔段)
 「(オオトシ神が)アマチカルミズヒメを娶って生んだ子、・・・庭津日神・阿須波神・波比岐神、・・・」
と出てくる神で、本居宣長は古事記伝(1798)には
  阿須波神(アスハ)−−足踏み立つる地を守り坐す神(足場を確実に守護する神か)
  波比岐神(ハヒキ)−−門から家屋までの庭を守り坐す神
とあり、また近年の説として、
 ・宅地の神もしくは庭燎(ニワビ)の材料としての薪や柴の神
 ・宅地の基礎を堅固にする神
 ・蛇神(ハハキ神)が転訛して大宮地の霊になった神
 ・宅地の端から端へ線を引いて境界を守る神
など諸説があるが、何れにしろ、宅地・居宅にかかわる“宅神”という意味をもつ。“屋敷神”といってもいい。
 そこから“竈神”という説もあるが、竈神は火の神・水の神的性格が強くアスハ・ハヒキ神とは少し違う。

 これらからみて、イカスリの神は生誕にかかわる井泉神3座と居住地を守る宅神2座の総称で、宮中に祀られるイカスリ神は“日の御子が生まれ育つ大宮地(宮廷)の守護神”ということができる。

 なお当社祭神について異説があり、
 神功皇后を祀るとするもの(和漢三才図会1712・難波丸綱目1748)
 神功皇后が主神で、坐摩五座は相殿神とするもの(諸社一覧・名葦探杖)
 住吉大神を祀るとするもの(難波芦分船1675)
などがある。

 神功皇后とするのは、当社創建由緒によるもので、その点では主祭神としてもおかしくはない。
 住吉大神とするのは、住吉大社神代記に「仁徳天皇の御代、天皇の子・波多毘若郎女(ハタビノワカイラツメ)の夢に顕れた神が、『吾は住吉大神の御魂ぞ、イバテリ亦はイカシリと号す』と告げた」とあり、又、「子神(末社的存在)の中に坐摩神〔二前 一名イバテリ神〕」と記すからであろう。


※社殿等
 境内東側の道路沿いに立つ鳥居は、主鳥居の両脇に脇鳥居をもつ三門形式という特異な形をしている(同種の鳥居に奈良・大神神社があり、三輪鳥居という)。ただ、脇鳥居の扉は閉まっている。
 江戸時代の摂津名所図会(1796--98)には普通の鳥居が描かれていて、三門鳥居はその後の建立かもしれない。
 また、境内中央の社殿は、拝殿は今と略同形で、背後には切妻造妻入りの東西に長い本殿が描かれ、周りには摂末社とともに茶店などが見え、神社というより民家が密集した町中の行楽地といった雰囲気で描かれている。


坐摩神社・三門鳥居 
 
同 左
 
摂津名所図会・坐摩神社

 鳥居を入った境内正面に、唐破風を有する入母屋造・銅板葺きの拝殿が東面して建つ。


坐摩神社・境内 
 
同・拝殿(正面)
 
同・拝殿(側面)

 拝殿の背後、練塀に囲まれて中に、入母屋造(向拝付)・銅板葺きの本殿が東面して鎮座するが、練塀が高く全体はみえない。
 資料によれば、
 「従来の本殿は、祭神五柱別棟の春日造であったが、昭和9年(1934)の室戸台風で罹災、同11年(193)の再建に際し、これを一棟にまとめて入母屋造・銅板葺きの本殿としたが、昭和20年(1945)の戦災で全社殿焼失、同34年(1959)6月、戦前の姿のままに鉄筋コンクリート造にて復興された」
という(式内社調査報告・1977)
 ただ、摂津名所図会にみえる本殿は切妻造一棟であって、春日造五棟・切妻造一棟のいずれが真なのかは不明。


坐摩神社・本殿 
 
同 左 


【境内末社】
 境内右手(北側)に、横長の建物(末社拝所か)があり、その奥に境内末社・5社が東西に並ぶ。
 南側(本殿側)より
 ・大江神社
  摂陽名所図会(1798)には、「本社の傍らにあり。神功皇后を祭る」とある。
  “大江”とは旧社地名“大江岸”によるもので、旧社地に残る神功皇后関連の伝承にもとづくものであろうが、坐摩神社の本来の祭神が神功皇后であったのを、何時の時代化にか攝末社に貶めたとも考えられる。
  なお、神功皇后神社は摂社・『田蓑神社』とする資料もあるが、今、田蓑社なる社は見当たらない。
 当社の一間流造の社殿は他末社の春日造社殿に比べてやや大きく、末社の中でも特別な社との印象をうける。

 ・繊維神社
  ネット資料には、アメノハヅチオ・アメノタナバタヒメを祀るという。
  アメノハヅチオとは古代の機織氏族・倭文(シトリ)氏の遠祖・シドリ神で、アメノタナバタヒメとともに織物に関係する神。

 ・大国主神社
  摂陽名所図会大成にいう「事代主大国主二座相殿」が当社らしい。

 ・天満宮−−祭神:菅原道真

 ・相殿神社
  ネット資料には、春日・住吉・大神受美・猿田彦・大宮比売・多賀・天御中主・産産・直比・諏訪・事平・大蔵を祀るとあるが、古資料になく真偽不明。いずれにしろ、境内に祀られていた末社群を集めて祀った社であろう。


境内末社・拝所か 
 
境内末社・大江神社
 
同・繊維神社

 また、社殿裏(西側)に境内末社・陶器神社と稲荷神社が東西に西面して並ぶ。

 ・火防 陶器神社
  祭神−−大陶祇神(オオスエツミ)・迦具突智神(カグツチ)
 社殿軒下に掲げる陶板には、
 「嘉永の頃、愛宕山将軍地蔵を祀ると伝えられた火除けの神として崇敬厚く、特に陶器商人は守護神と仰ぎ、7月23日の大祭には陶器造り人形を各戸競って奉納し、地蔵会とともに盛んでした。
 当時は靫南通りに鎮座しましたが、明治40年、市内電車敷設のため坐摩神社に移転合祀されました。(中略)
 その後、昭和20年戦災に遭い、26年西横堀浜筋に再建、せともの祭と共に復興しましたが、46年阪神高速道路敷説により再度立ち退きのやむなきとなり、陶器神社の名にふさわしく陶器の宮として当所に御造営の上、同年11月遷宮鎮座奉りました」

 大阪府全志には、
 「明治40年、・・・西区靱南町1丁目の無格社・陶器神社[大山祇神・迦具突智命]を合祀し」
とあり、その前身について、摂津名所図会に、
 「瀬戸物町とは新橋橋西詰めより北方京町堀西詰めに至る西横堀川一帯の総称にして、陶磁器の販売家多きを以て此の名あり。靫南通り一丁目に陶器神社あり地蔵尊を祀る。維新の際廃せられしが後旧に復せり。・・・後、社殿を設けて祀り防火の神として尊崇せられ、・・・」
とある。

 ・稲荷神社−−案内表示・資料なし。

 なお、稲荷神社前に当社の裏鳥居が立ち(境内西側)、右に「坐摩神社」との石柱が、左に「火防 陶器神社」との銘板がたつ。


境内末社・陶器神社 
 
同・稲荷神社
 
坐摩神社・裏鳥居(境内西側)


【境外末社】
 当社には、境外末社として 坐摩神社行宮・浪速神社がある。
*坐摩神社行宮  別名:豊磐間戸・奇磐間戸神社
  大阪市中央区石町2丁目
  祭神−−豊磐間戸命(トヨイワマト)・奇(櫛)磐間戸命(クシイワマト)

 京阪本線・天満橋駅の西約250n、土佐堀通り・天満橋交差点を西へ、2本目の辻(エルおおさかの東角)を南(左)に入った東側に、ビルに挟まれて鎮座する。

 拝殿前の案内には、
 「是地は坐摩神社の旧鎮座地であって、天正11年(1583)豊臣秀吉大阪城築城に際し地域に当たる為、現在の大阪市中央区久太郎町4丁目に遷座されるまで当地に鎮座し給うた。
 社伝によると、神功皇后が新羅よりご帰途の折、この地に坐摩神を始めて奉祀され、また石上に御休息されたと伝えている。
 今も境内に鎮座石が残り、故にこの地を石町と称するともいう。

 平安期、熊野詣でが盛んとなり、京都から摂津 ・和泉をへて熊野本宮に至る熊野古道沿いに熊野王子社が数多く設けられたが、淀川を船で下り、最初に参詣する第一王子とも呼ばれる渡辺王子(別名・窪津王子)社のもとの鎮座地と云う」
とある。

 貫1本を通しただけの簡単な鳥居の左に「坐摩神社行宮」と刻した石標が立ち、鳥居をくぐった境内奥に簡単な拝殿が建ち、その奥に本殿の小祠が鎮座する。


坐摩神社行宮・鳥居 
 
行宮石標

同・拝殿 
 
同・本殿

 拝殿の中には神功皇后が休まれたという“鎮座石”がある。
 神社移転の時、この石が大きすぎて動かせなかったので残したともいわれ(浪華名所図会大成)、今、ステンレス製の枠に覆われていて石の全体は見えないが、古資料によれば“方五丈(約1.5m)許りの大きさ”とある。

 当地の辺りに、神功皇后が新羅より帰還の折に休まれたとの伝承があったのは確からしいが、
 「元禄年間、民地だったこの地で一石を発掘し、これを影向石または鎮座石と称し、ここに末社を建造し、菅田町すなわち徳井町の御旅所をこの地に移した」(大阪府史蹟名勝天然記念物)
ともいう。 
 
鎮座石・覆枠

 “元禄時代に発見された石”を神功皇后が休まれた休息石とし、当地に末社を造営し、御旅所を移したというが、とすれば、古く当地にあった坐摩神社が遷座した後の当地は、一旦は城内に取り込まれたが、後に民有地となり、この石の発見を契機として改めて末社を建て御旅所としたことになり、当行宮の歴史がそう古いものではないことを示唆している。

 祭神
 祭神・トヨイワマト・クシイワマト両神は“門の守護神”で、イカスリ神と同じ宮中神で、延喜式には「御門巫祭神八座」とある。八座とは、宮殿の四方の門それぞれに二座ずつ坐すことを意味する。磐間戸は“石窓”(イワマト)とも書く。
 古語拾遺に
 「(天の岩屋から出たアマテラスが、新殿に移られたあと)トヨイワマト命・クシイワマト命の二柱の神をして、(新殿の)殿門(ミカド)を守衛(マモ)らしむ。太玉命の子なり」
とあり(フトタマ命とは、宮中の祭祀に係わる神で忌部氏の祖)、延喜式・祈年祭祝詞には
 「四方の宮門に立ち塞がって御門の開閉を掌り、地下や上空から侵入しようとする邪なるものを遮る神」(大意)
とある。
 大宮地の守護神・イカスリ神を祀ったとされる旧社地に、宮門を守るイワマト両神を祀るのは、いずれも宮地を守る神々ということからであろうが、坐摩神社が当地にあったとき、イワマト両神を祀っていたかどうかは不明。


 平安時代、当社の北を流れる旧淀川(現大川)の川辺には『窪津』(クボツ、あるいは「渡辺の津」)と呼ばれる船着場があった。
 京から船で淀川を下ってきた熊野詣の人々はこの地に上陸し、すぐ南にあった『窪津王子』(熊野王子の第一王子)に参詣したのち、陸路紀州熊野を目指して南下したという。
 藤原定家の「熊野御幸記」(1201)に、後鳥羽上皇の一行が「申の刻(午後4時頃)にクボツに着き、幣帛を奉り、経典供養をなし、里神楽を見た・・・」(大意)と記されている。
 その窪津王子が、旧坐摩神社の附近(境内ともいう)にあったとされ、今、当行宮内に合祀されている(今、その痕跡はない)

 なお窪津の船着場は、江戸時代には“八軒家”と呼ばれて繁盛したといわれ、行宮東の道端(道路南側)に小さな記念石碑が立っている。今、大川端には新しい八軒家船着場が建造され、大川遊覧の基地となっている。

*浪速神社
 大阪市浪速区浪速西3丁目
 祭神−−坐摩神五座(坐摩大神と総称する)・猿田彦大神

 JR環状線・芦原橋駅の西南南約500m、駅南口を出て新なにわ筋を南下、4っめの信号を右折し西へ進んだ先の南側に鎮座する。

 当社は、境内の南北に鳥居が立つが、その北側鳥居横の案内には
 「坐摩神社末社 浪速神社
  御祭神  生井神−住居・土地の神
        福井神−井戸および水に関する神
        綱長井神(ツナガイ)−井戸および水に関する神
        波須波神(ハスハ)−安産の神
        波比岐神(ハヒキ)−空・海・陸の交通・旅行安全の神
         以上 五祭神を総称して坐摩大神と申します
        猿田彦大神−方位除・地祭・土地開発・開業・除災・家業繁栄・交通安全・病気平癒・開運」
とあるが、創建経緯・年代等については記していない。

 大阪城築城に際して移転を強要された旧渡辺の人々のうち、南渡辺(大川の南)の人々は久太郎町に移ったが(現坐摩神社)、川向こうの北渡辺(大川の北、旧称:新羅江)の人々の移転先が決まらず、各地を転々とし、ようやく元禄時代(1688--1704)になって当地に移り、坐摩五座を奉じて氏神としたといわれ、明治40年(1907)、政府の神社統廃合政策に際して、祭神が同じことから一旦坐摩神社に合祀され、その後、旧に復したという。

 今、当社は浪速神社と称しているが、北渡辺村の旧地名が“新羅江”であったことから“白木神社”と称したともいう(神と人の古代学・2012)
 ただ、一部の人が別に“白木神社”を建てて祀ったともいわれ、それが浪速区木津川2丁目に鎮座する白木神社(下記)かとも思われるが、同社の由緒には旧北渡辺あるいは浪速神社との関係は記されていない。


浪速神社・鳥居(北側、南側にも鳥居あり) 
 
同・社殿全景(左は社務所・無人) 

 境内左手(東側)に、三間社流造・銅板葺きの社殿一棟が西面して鎮座するだけ。
 本殿は社殿の中に別棟として鎮座するかと思われるが、扉が閉まっていて中の様子は見えない。
 今、祭祀にかかわる人は少ないようで、境内はだいぶ荒れている。


同・社殿(正面) 
   
同・社殿(側面)

 社殿右側(南側)、白木の鳥居の奥に小祠2社が西面して並ぶ。
 社頭の案内に、
  境内末社  白辰大神−白辰さまで、商売繁盛に霊験あらたかな神(稲荷社らしい)
          白金大神−土地の神、特に眼病に霊験あらたかな神
とあるのみで、詳細不明。
 なお、案内には、この2社以外に猿田彦大神・白鬚稲荷大神を祀るとあるが、それらしき社殿はみえない。


末社・社頭 
 
白辰大神

白金大神 

(付記)
 坐摩神社あるいは浪速神社に関係するかと思われる神社として、浪速区木津川2丁目に「白木神社」がある。

*白木神社
 浪速神社の西北約300m、市営浪速第二住宅の南側にある小社。
 祭神−−白蛇宇賀神倉稲魂神(ハクジャウガノカミウカノミタマカミ)

 社頭の由緒には、
 「明治41年(1908)、この神祠に白蛇が依憑していたので、神使・守護神“巳の神”として祀られた。
 水難ごとに霊験あらたかな加護があり、更に船玉神として船舶航行の守護神となり、後には“白蛇宇賀神倉稲魂神”として人々の生活保護の神となり、家内安全・無病息災・商売繁盛と広く人々の信仰・崇敬の神となった。
 大正4年(1915)8月現在の地に祭られる」
とある。

 祭神の白蛇宇賀神(ウガノカミ)とは、中世以降・宇賀弁才天として信仰された神で、頭に白蛇を頂くことから、白蛇が憑依したという当社に祀られたのであろう。
 倉稻魂神(ウカノミタマ)は穀物神で稲荷社の祭神。

 民家に挟まれた境内は細長く、鳥居の奥に入母屋造・瓦葺きの社殿か西面して建ち、その右に白富龍王社(中に赤い小鳥居をもつ古い小祠あり)との末社がある。
 龍王とは蛇と同意であることから、この小祠が憑依したという白蛇(巳の神)を祀る祠だったのかもしれない。

白木神社・社頭 
 
同・社殿

末社・白富龍王社 

 社頭の由緒書に坐摩神社との関係は記されていないが、上述したように、元禄時代に浪速神社を奉祀した北渡辺の人の一部が別れて祀ったという白木神社が当社かもしれない。
 当社は、明治末期の神社合併政策で坐摩神社に合祀され、その後復帰したともいわれることから、由緒書に“大正4年、現在地に祭った”というのは、復帰を指すのかもしれず、とすれば、当社も坐摩神社に関係した神社となる。

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