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摂津(住吉郡)の式内社/生根神社
大阪市住吉区住吉3丁目
祭神−−少彦名命
                                                                2009.5.14参詣

 延喜式神名帳に、『摂津国住吉郡  生根神社  大 月次新嘗』とある式内社。

 南海電鉄・住吉大社駅の北東約500m、住吉大社・摂社・大海神社の北門から緩やかな坂を降りた突き当たりに鎮座する(約200m)。社地の辺りは、古く、直接海に臨む崖となっていたという。
 道路脇の大鳥居から石段を登った先、枝を張ったモチノキの脇に桃山時代の建築様式をもつ社殿(本殿は豊臣・淀君の寄進という−1600頃、大阪府重文)が建ち、背後に天満宮以下の末社が並んでいる。
 古くから住吉郷の郷社だったが、徳川時代に神宮寺とともに住吉大社の管轄下に入り、明治5年(1872)に元に戻ったという。

生根神社/正面鳥居
生根神社・正面鳥居
生根神社/拝殿
同・拝殿

※祭神
 今の祭神はスクナヒコナとなっているが、異説として
 ・活津彦根命(イクツヒコネ) 東生郡生國魂同神 在所不詳 住吉村に在りとも云ふ 今奥天神社と称す−−神名帳考証(1813)
 ・祭神在所不詳−−神社覈録(1870)
 ・今大海神社の北一町許に在り、奥天神社と云ふ 住吉の摂社也−−神祇志料(1871)
等がある。

 祭神・スクナヒコナは、オオナムチとともに国造りをする神。カミムスヒ(記、書紀ではタカミムスヒ)の指の間からこぼれ落ちた小さな神で、海上からカガミの皮の舟に乗り、小鳥の皮を着て顕れたという。オオナムチと協力して農耕や医療を始め、後、熊野の御崎から(あるいは淡島で粟茎に登り弾かれて)、常世(トコヨ)の国へ渡ったとされる。
 常世国から福をもって現れる客人神(マレビト)であるとともに、穀物の神・医療の神であり、「酒は百薬の長」ということから造酒の祖神とされるなど多彩な神格をもつ神。大阪・道修町の少彦名神社では医療の神として祀られている。

 別説の祭神・イクツヒコネとは、アマテラスとスサノヲの誓約(ウケヒ)によって生まれた五男三女の四男で、アマテラスの左手に巻いていた玉から生まれたとされる神で、生国魂神社の祭神・生島神・大八洲霊などとも関係するというが、詳細不明。

 スクナヒコナあるいはイクツヒコネが当社に祀られる由緒は不詳だが、スクナヒコナが海からのマレビト神ということで、海辺に鎮座する当社に祀ったのかもしれない。

※創建由緒
 当社由緒略記によれば、
 「当社の創立は不詳だが、住吉大社鎮座以前から奉祀されている神で、延喜式神名帳でも式内官弊大社に列し、年四度の官弊に預かる」
とあるが、住吉大社神代記には生根神の名はみえず、詳細不明。天満宮合祀(下記)以降は、「奥の天神社」として知られていたという。
 式内社の研究(1977)には
 「生根はイクネではなくキネであろう。キネは巫女で、住吉の巫女は有名であったことは梁塵秘抄によって知られている。・・・当社は、大海神社と同じく住吉大社よりも古いから、始めは大海神社の、後には住吉大社の巫女社となったのであろう。住吉・大海が西面(海の方向)しているのに、当社のみは南面(住吉・大海社の方向)しているから」
とあるが、巫女社という意味はわからない。

※境内社
◎天満宮
 徳川時代に“紅梅殿”と呼ばれた祠で、一間流造の祠は江戸後期のもの。ご神体の菅原道真像について、住吉松葉大記(18世紀末頃)には
 「奥の天神社  社内に菅神の尊像を安置し奉る。尊像の座下に年月を記す。・・・天台法室宰相律師融円作 文明十四年(1482)十二月廿五日」
と記している。
 生根神社は別名“奥の天神”と呼ばれ、住吉大社の“奥の天満宮”と称したといわれ、一説によれば、スクナヒコナを沖の天津神ということからともいう(由緒略記)が、松葉大記がいうように、当天満宮の鎮座からであろう。
◎塞神社−−2社
 明治時代に中在家と今在家(現粉浜)から移築されたもの。祭神・ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメは、境界にあって邪霊・悪神の侵入を遮る神。
◎種貸神社
 元禄12年(1699)の棟札を有する古い祠で、明治時代に敷津村村上神殿(現東加賀屋)から移築されたもの。由緒略記には、祭神・宇賀鬼神とあるが、食物の神・稲の神である宇賀魂神(ウカノミタマ)の誤植であろう。同じ種貸社を名乗る住吉大社・摂社との関係不明。
◎竜王社
 住吉村竜王(現万代大領)から移築されたもので、時期不明。祭神の彦竜神・姫竜神は水神で、保食神は食物の神。
◎稲荷社
 第2次大戦後、帝塚山地区から移築されたもの。

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