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生野八坂神社
大阪市生野区生野東4-7-11
祭神--素盞鳴尊
                                                      2020.07.22参詣

 JR大阪環状線・寺田町駅の東約1.5km、駅東から国道を越えて東へ伸びる長い商店街(幾つかの商店街が連なっている)の東端を北へ入ったすぐの西側に鎮座し、周囲には商店と民家が密集している。

※由緒
 拝殿前に置かれていた御由緒略記には、
 「旧東成郡林寺村字林に鎮座する当社の創建の起源は、『神社明細帳』(明治12年)に元禄二巳年(1689)勧請(勧請の語より神社の創祀ではなく、新たに御神霊を仰いだ年か)とあるが、根拠も残さず、始祖神を祀るべき村自体の歴史は遙かに古く、その他の説もあり不祥。

 そもとも当地は、上町台地の東端に位置する舎利寺台地(我孫子丘陵)上にあり、河内湖の時代も陸地であった可能性が高く、宝永元年(1704)に大和川が改修される迄は、最古のダムといわれる狭山池から発する東除川と合流した旧大和川(現平野川)と、同じ狭山池を元とする西除川(現今川・駒川)が合流する地であり、古代の主たる交通手段が川運であったことや、飛鳥・奈良朝とされる『林寺遺跡』の存在からも古代から主要な地であったと思われる。

 神社前の道筋を『桑津街道』と称し、この道筋(西除川筋)には応神・仁徳期の伝承を多く残し、当村も摂津名所図会大成には『速志津(はやしづ)・・・林寺の古名なり・・・允恭天皇の寵臣・速志津彦命の居住の地・・・伝う』として同時期の允恭天皇期の伝承が存する。
 又、古よりこの周辺地を百済野と称し、当村も百済郡(後世、闕郡と称され、のち消滅)に属していた。

 応永31年(1424)の天王寺金堂舎利講記録や文明3年(1471)の天王寺執行政所引付に『林地庄』とあり、室町期には当村の一部は四天王寺講の料足地や荘園であった記録が残されている。

 浪華往古図(応永年代作説)に『林津』、天正12年(1584)と記述の『摂津国東生郡浪速総社生国玉大明神御神名記』には『林神社・・・林津邑坐』と記され、一時期『津』として設けられた関所的な役割を果たしていたとも推測される。

 天正20年(1592)、『豊臣秀吉朱印状(知行方目録之事)』には、北政所の所領として「はやし寺」と記され、又、慶長19年(1614)、冬の陣に『舎利寺・林寺両村に、本多忠純・酒井出羽守兵五百余を以て屯し・・・云々』と東成郡誌にある。

 林寺(ハヤシジ)の地名の謂れは諸説あるが、元々『林地(ジ)』と称し、一時期『林津』と称していた可能性から『寺』への変更、又、当時、寺の存在自体が見当たらない等より、当社の御祭神が神仏習合から『祇園様』と信仰され、その祇園・精舎と祇陀林・寺の関係も一考を要する。

 江戸時代に入り摂陽郡談等様々な文献に、蛙岩が記述される著名な邑として紹介され、目前を平野川・今川・駒川が流れ、西には猫間川が流れる当村は、素盞鳴尊を御祭神とする多くの地域と同様、川水(交通・生活・農耕・氾濫・水難除・疫病除等)の信仰と共に、水利に恵まれた村として発展を遂げ、前鳥居(現存せず)には、『文化五年戌辰年九月吉日当村氏子若中』(旧由緒書)、狛犬の台座に『天保十五年甲辰三月吉日』の金石文を有する。

 明治期、神仏分離の影響をうけ、弥栄神社・素盞鳴尊社と改称され、又、合祀令により明治41年(1908)、天王寺区の河堀稲生神社へ合祀され、同社の御旅所となる。
 しかし戦後、国家管理から離れると敬神崇祖・報本反始の念篤き全氏子の熱誠により、昭和28年(1953)に本殿・拝殿・社務所を竣成、同30年、神霊の還御を仰ぎ、同年『生野八坂神社』として独立、『生野の祇園様』として親しまれ現在に至る」

 また、東成郡史(大正11・1922)には
 「素盞鳴尊神社(廃)  大字林寺字林に鎮座せり。祭神素盞鳴尊。元禄2年の勧請なり。社格村社。・・・
  明治41年2月27日、許可を得て大阪市南区(現天王寺区)大道3丁目村社・河堀稲生神社に合祀せらる」
とあるが、創建由緒・時期等についての記述はない。


※祭神
   素盞鳴尊
 創建由緒等不明のため、素盞鳴尊が創建当初からの祭神かどうかは不祥。
 推測すれば、元々の祭神は行疫神・牛頭天王で社名も牛頭天王社であったが、明治初年の神仏分離に際して、京都祇園の八坂神社と同じく祭神・素盞鳴尊、社名・八坂神社に変更されたかと思われる。

 因みに、江戸中期の随筆集・塩尻(1697頃)には、貞享元年(1684)4月頃(旧暦)に長崎で疫病(ハシカ)が発症し、それが九州から中国地方を経て同年6月には大坂・京都へ入り(特に堺で大流行)、東海地方を経て7月中旬には江戸に入って大流行したとの記事(大略)があるという(ネット資料)
 当社の創建が元禄2年(1689)であれば、この痲疹大流行の余韻が未だ収まっていない時であり、有効な治癒・防疫手段がなかった当時、疫病退散・再発防止を願って、疫病除けの神として流行していた牛頭天王を祀ったのが当社の始まりかと推測される。


※社殿等
 東から商店街(イクノ銀座街)を入ってすぐの辻を北へ入った左手にある石垣の上に鎮座する。
 10段ほどの石段を上り、鳥居を入り、参道途中の〆鳥居をくぐって境内に入る。

 
生野八坂神社・社頭
 
同・鳥居
 
同・境内

 境内正面に入母屋造銅板葺きの拝殿が東面して鎮座し、その奥に本殿があるはずだが外からはみえない。

 
同・拝殿
 
同・拝殿(側面)

◎境内社
  境内社として3社あるが、いずれも案内等なく、鎮座由緒等詳細は不明。

*歓喜殿
   祭神--伊邪那岐命・伊邪那美命
 拝殿の右に鎮座する切妻造平入りの社殿だが、社名・歓喜殿の由来、岐・美両神を祀る所以等不明。
  中を覗くと、注連縄を巡らせた大きな切り株が置かれているようだが、よく見えない。

*大楠稲荷神社
   祭神--宇迦御魂神
 境内右手のご神木・大楠の下に鎮座する小祠

*三宝荒神神社
   祭神--奥津日子神・奥津比売神・火産霊神(いずれも火の神)
 大楠稲荷神社の右に鎮座する小祠

 
歓喜殿
 
ご神木・大楠

大楠稲荷社 

三宝荒神社 

◎その他
*地名・林寺
 当社は今、生野区舎利寺に属しているが、前面道路(旧桑津街道)の南に林寺の町名があり、古くは東成郡林寺村に属していたらしい。
 地名・林寺について、生野区町名の由来(生野区役所)には
 「町名・林寺の由来は、東成郡史によれば『里人の説によれば、昔は此地方一帯に林あり、加えて光明寺があった』とあり、大阪府全志では、『同名の寺院があったため』(現存せず)といわれている。

 読み方としては“林テラ”・“林ジ”があるが、郡史では大字林寺に“ハヤシデラ”、林寺新家に“ハヤシジ”とルビを振っている。
 一方、古く秀吉の正室北政所(高台院)の所領表示に、“はやし寺”(天正20年)、“林寺”(文禄4年)、“はやしじむら”(慶長9年)とあり、古くには“林ジ”と呼ばれていたようです。
 現在は、住居表示では『林ジ』、地域の施設では林寺小学校が『林デラ』と呼ばれてます」
とある。

*蛙石
  略記には、「文献に蛙岩が記述される著名な村云々」とあるが、
  東成郡史には、
  「蛙石  
   諸国里人談に、『摂津国東成区林寺村の民家の裏にあり。鳥虫の類此の石の上に止まれば、石の頂き二つに割れて、口自ら開くが如くにして鳥虫を墜し入れて、又元の如くなる。
  蛙の物を呑むに似たり。依って此の名あり。又殺生石とも云ひ伝へたり』とあれども今其所不明なり」
とある。

 その後の経過は不祥だが、伝承によれば、石を好んだ秀吉に献上されて大坂城にあったといわれ、大坂城落城後所在不明になっていたが、昭和32年に法円坂付近で発見、奈良・元興寺(奈良市中院町)に運び込まれたという。

 いま元興寺境内の北側に「蛙石」との大石があり、側らの案内には
 「江戸時代の奇石を集めた“雲根志”(1801)に載せられている大阪城の蛙石である。
  河内の川べりにあった殺生石だった様だが、後に太閤秀吉が気に入って大坂城に運び込まれとも、淀君の霊がこもっているともいい、近代には乾門から堀をはさんだ対岸隅にあった。
 大坂城にあった頃は、堀に身を投げた人も、必ず此の石の下に帰るといわれた。
 ご縁があってこの寺に移され、極楽堂に向かって安置された。
 福かえる・無事かえるの名石として毎年7月7日に供養される」
とある(元興寺HP)。 

伝・蛙石(HPより転写)

 この石が東成郡史がいう蛙石かどうかは判然としないが、ネット資料に載っている写真(右上写真)を見ると、うずくまった蛙のように見えなくもなく、“これが蛙石です”といわれると“そうですか”と答えるほかはない。

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