トップページへ戻る

摂津(東生郡)の式内社/生国魂神社
大阪市天王寺区生玉町
祭神−−生島大神・足島大神・(相殿)大物主大神
                                                                 2009.5.26参詣

 延喜式神名帳(927撰上)
 「摂津国東生郡  難波坐生国咲国魂神社(ナニワニイマス イククニ サキクニタマ)二座 並名神大 月次相嘗新嘗」
とある式内社。社名を“生国魂神社”(イクタマ)と称し、地元では親しんで“イクタマさん”と呼んでいる。
 ミナミの繁華街を貫く千日前通りと、都心東部の南北幹線・谷町筋との交差点・谷町9丁目(通称:谷九)から南へ約150m、谷町筋の西側に参道が見える。
 大鳥居を入った境内正面に東面して拝殿・本殿が建ち、その右手一帯(北側)に末社群が点在する。境内右手(北東部)に“生玉の杜(モリ)”があり、散策路が巡っている。

生国魂神社/大鳥居
生国魂神社・大鳥居
生国魂神社/摂津名所図会
摂津名所図会・生国魂神社
生国魂神社/境内社殿配置図
同・境内社殿配置図

※祭神
 延喜式における当社社名の生国魂とは生島神(イクシマ・生国神とも記す)を、咲国魂とは足島神(タルシマ・足国神とも記す)を意味する。
 生島・足島神とは、延喜式神名帳に
  『神祇官西院坐御巫等祭神 二十三座』のうち、『生嶋巫祭神二座 生嶋神・足島神』
とある神で、延喜式に載る祈年祭祝詞の生嶋巫の段には、大略
  「生嶋の御巫(ミカンナギ)が皇神等に申しあげます。御名を生国(イククニ)・足国(タルクニ)と申してお祀りするのは、皇神がお治めになる嶋の八十嶋(ヤソシマ)は、・・・、残るところなく皇神等がお依りになっているから、・・・、そのお礼として幣帛を捧げ奉ります」
とあり、古語拾遺(807撰)
  「生嶋 是大八洲之霊、今生嶋巫が齋祭る所也」
とあるように、イクシマ・タルシマ神とは“大八洲(オオヤシマ・八十嶋の別名)の霊”すなわち“国魂”であり、当社略記にも
 「生島・足島神は国土・大地の守護神で、大地に生をうけるすべてを守護される広大無辺な御神徳がある」
と記している。

 なお、イクシマ=生魂(イクタマ)とは“生まれたばかりの魂”で、それが“身体の中府に鎮まる”ときタルシマ=足魂(タルタマ)になるとされ、また、八十島祭(下記)で筥を開いて招かれた魂がイクシマで、その筥を振ることによってタルシマとなるともいう。そこから、イクシマとタルシマは一対のものだけれども元々は一体のものと解されている。

 ただ、この神は最初から宮中に祀られていたのではなく、八十嶋といわれた難波の海辺で生活する人々が、島々の霊を讃えた尊称であり、瀬戸内特に難波地域の海人たちが豊漁や海路の安全を祈っていた精霊的な神であって、オオヤシマ云々という国家的観念とは無関係だったという。それが難波王朝(応神王朝)の祭祀に取り込まれ、平安時代になって宮中祭祀制度が整うなかで神祇官西院に祀られた神で、そこには平安前期にはじまる八十島祭が関係しているのではないか、という。

 当社に祀られるイクシマ・タルシマ神は、いまだ宮中に祀られる前の段階の神で、応神王朝あるいはそれ以前から祀られていたと思われる。

 なおオオモノヌシは、「往古より境内に奉斎していたものだが、永禄元年(1558)の社殿造営時に本殿に配祀された」との伝承があるという。

◎八十島祭(ヤソシマ マツリ)
 八十島祭は文徳天皇即位の嘉祥3年(850・平安前期)に始まり(それ以前からあったともいう)、御堀河天皇即位の元仁元年(1224・鎌倉初期)までの30代・約370年間に22回おこなわれた祭祀で、新天皇即位時におこなわれる大嘗祭の翌年(初回のみ前年)に、即位儀礼の一環として難波津の海辺でおこなわれたという。
 その祭祀次第は、宮廷から派遣された祭使(女官・新天皇の乳母が任じられたという)が、神祇官の官人や生島巫などの巫女を従え、新天皇の御衣を納めた筥(ハコ)を捧持して難波津に下向し、海辺に設けられた祭場で、“神祇官が御琴を弾じ、女官が御衣筥を開きて之を振る”のが中心となる神事で、終了後、御衣を京に持ち帰って天皇のもとに返却したという(江家次第・11世紀末頃)

 八十島祭の性格については、古くから“禊祓説”と“国土の生成発展を祈願する祭儀説”とがある。
 *禊祓説とは、難波の浜から海に向かっておこなわれること、奉られる幣帛のなかに“金銀人像”など祓つ物(ハラエツモノ)と思われるものがあること、祭式次第のうちに修祓があること、延喜式で主祭神とされる住吉神がイザナギの禊ぎのときに誕生した神であること、などからくるもので、
 *国土生成発展の祈願説とは、この祭祀に生島巫が参加していること、招魂呪術的神事があることなどを重視し、大八洲の霊(国魂)である生島神・足島神を祀る祭儀とするもの、という。
 しかし、禊祓的要素が含まれているとはいえ、それは末梢的なもので、中心となる神事が、
 “神祇官が弾じる琴の音に合わせて、女官(生島巫であろう)が御衣の入った筥を開いて振り動かす”
こと(招魂呪術)であったことからみて、この祭祀は、新天皇治世の最初に当たって、大八洲と総称される八十嶋の霊を招いて筥のなかの御衣に憑依させ、それを新天皇の身体に付着させることで、国土の支配者としての資格を呪術的に保証しようとする祭祀であったろう、という。
 因みに、琴を弾ずるとは音楽を演奏するのではなく、その単調な弦の響きによって神(又は霊魂)を招き寄せる手段であり巫女を憑依状態にする手段でもある。また御衣は、天皇の身体を包むものであるとともに、玉体を象徴するものとして天皇そのものとみなされていた。

 ただおかしいことは、延喜式・臨時祭の項に載る当祭の祭神名は、
 「住吉神四座・大依羅神四座・海神二座・垂水神二座・住道神二座」
と、住吉系の神々となっていて、そこに生島神の名は見えない。
 しかし、この祭祀に参加する神官は、同じ延喜式に、
 「朝廷から派遣される宮主・神琴師・生島巫・御巫と、地元・難波津から参加する住吉社の神主と祝・大依羅社祝・海神社祝・垂水社祝・住道社祝”」
とあり、生島巫の名が記されている。
 この祭祀が新天皇即位に係わる国家的祭祀であり、宮廷から生島巫が派遣されるかぎり、生島巫が齋祀る大八洲の霊・生島神が主祭神であったはずで、延喜式が成立した10世紀前半には、主祭神の名が忘れられていたのではないかという(時代が下ると、住吉神中心的色彩が強くなるともいう)

※鎮座由緒
 生国魂神社略記によれば、
 「社伝によれば、神武天皇が九州より難波津にお着きになった際、現在の大阪城付近(のちの石山碕)に、生嶋大神(イクシマ)・足島大神(タルシマ)を祀られたのが当社の創祀と伝えられている。そののち、相殿神として大物主大神をお祀りした」
とあるように、古来の鎮座地は現大阪城域内で、略記には「大手門(生玉門)近傍」とあるが、その場所は未詳。
 
 国史上の初見は、日本書紀・孝徳天皇(645--54)即位前記に記す
 「仏法(ホトケノミチ)を尊び、神道(カミノミチ)を軽(アナヅ)りたまふ。生国魂社の樹を伐りたまふ類、是なり」
との記事で、孝徳天皇は大化元年(645)12月に難波豊碕宮に遷都しているから、その宮殿造営の用材として生国魂神社の神木を用いたということであろう。
 神木伐採の理由は別として、この記事は、孝徳朝以前から上町台地の北端附近に生国魂神社が鎮座し、宮殿造営の用材となるような大木が茂る森があったことを示す。孝徳天皇は、新王朝と目される継体(507年即位)皇統の11代目の天皇であるから、継体以来の直系の先祖が創建した神社の神木を伐ることは有り得ず、神木を伐ったということは、当社が前王朝(応神王朝)以前に創建された神社であることを示唆している。

 大阪府神社史資料(昭和52年1977編)に記す当社関係古資料のほとんどに、「神武天皇が即位前戊牛の年・難波津に着かれたとき、難波津に祀ったのが当社の始まり」とある。神武天皇云々は古く見せるための加飾としても、当社が相当の古社であることは間違いない。しかし、その創建年代ははっきりしない。

 当社創建後の経緯もまた不詳だが、大阪府全志(大正11年1922)に、本願寺八世の宗主・蓮如(1414--99)が現大阪城の辺りに石山本願寺を建立したときのこととして、
 「明応5年(1496・室町中期)僧蓮如の山城より来りて本願寺別院を建立するに及び、寺傍に遷座ありしが、永禄元年(1558)正親町天皇勅して社殿を造営あらせ給へり。大国主命も此の時本殿に配祀せられしものなるべし」
とあり、石山本願寺建立時に近くにあったことは確かである。ただ、江戸期の古書・葦分船(1675)には、
 「明応年中、本願寺の僧侶、此処に来たりて寺院を創し神地を境内にまじへければ、神不潔なるを憎み給ひ、彼の僧に祟り咎め給ふによりて、神殿をつくりかへんことをおもひ、ついに神殿を別所にうつしかへけり」
とあり(生国魂神社の神官が、これを忌み嫌った、ともいう)、本願寺建立に際して、当社との間で一悶着があったらしい。

 その後の経緯については、年表様に記す。
 ・天正年中(1576年か)−−織田信長の本願寺攻めのとき兵火にかかり社殿焼失
 ・天正11年(1583)−−かろうじて残った神爾を奉じて小祠を営む
 ・ 同 13年(1585)−−豊臣秀吉が大阪城築城に際し、社領を寄進し現在地に遷座・新社殿造営
 ・明治45年(1912)−−南の大火により社殿焼失、仮殿に遷座。
 ・大正 3年(1914)−−国費により再建
 ・昭和20年(1945)−−戦災により焼失
 ・ 同 25年(1950)−−ジェーン台風により本殿倒壊
 ・ 同 31年(1976)−−再建(鉄筋コンクリート造)

※社殿
 境内正面に横長の大きな入母屋造拝殿が建ち、左右の脇殿の背後・回廊内に本殿と弊殿が建つ。
 当社本殿は“生国魂造”と呼ばれる特異な造りで、本殿とその前の弊殿とが一体構造となった三間流造で、正面は本殿の千鳥破風・すがり唐破風と弊殿の千鳥破風の三つの破風で飾られている。ただ、拝殿・脇殿が大きくて本殿の千鳥破風・唐破風の一部が見えるだけ。

生国魂神社/拝殿
生国魂神社・拝殿
生国魂神社/本殿
同・本殿(神道事典より転写)

※境内末社
 社殿右手の疎林のなかに末社12社が大きく3っのブロックに別れて鎮座している。

*社殿の右手にある末社
 ◎皇大神宮−−アマテラス−伊勢内宮より勧請
 ◎住吉神社−−住吉大神−住吉大社より勧請
 ◎天満宮−−菅原道真

生国魂神社/末社・皇大神社
皇大神宮
生国魂神社/末社・天満社・住吉社
左:住吉神社・右天満宮

*境内北西域にある末社
 ◎城方角八幡宮(キタムキハチマングウ)−−誉田別尊・気長足媛・魂依比
    大阪城鬼門の守護神として鎮際されることから、城方向と書いて北向(キタムキ)と称す。かつて大阪城に登城する武士が当社に武運長久を祈ったという。
 ◎鞴神社(フイゴ)−−天目一箇神(アメノマヒトツ)・石凝抒神(イシコリドメ)・香具土神(カグツチ)
    アメノマヒトツ・イシコリトメは製鉄・製鋼・鍛冶などの守護神、カグツチは火の神でカマドの守護神。
 ◎家造祖神社(ヤヅクリミオヤ)−−手置帆負神(タオキホオヒ)・彦狭知神(ヒコサチ)
    家造りの祖神である両神を土木建築の守護神として祀る。祭神の出自など詳細不明。
 ◎浄瑠璃神社
    近松門左衛門以下浄瑠璃(文楽)関係の物故者を祀る。
 以上4社は、同じ瑞垣内に左より城方面八幡・鞴・家造祖・浄瑠璃と並んで鎮座する。

生国魂神社/末社・城方面八幡宮
城方向八幡宮
生国魂神社/末社・鞴神社
鞴神社
生国魂神社/末社・家造祖神社
家造祖神社
生国魂神社/末社・浄瑠璃神社
浄瑠璃神社

*社殿右奥にある末社
 ◎精鎮社(セイチン)−−事代主神(コトシロヌシ)・比淘蜷_(ヒメ)
    表参道蓮池(現生玉公園)に祀られていた弁財天社を遷した祠。コトシロヌシはエビス神と同体とされるから、
    所謂“福の神”を祀ったものか。祠前面に池(方形水槽)があり、鳥居が立っている。
 ◎稲荷社2社
    源九郎稲荷−−奈良県吉野郡の源九郎稲荷を勧請した祠
    稲荷神社−−佐賀県の祐徳稲荷を勧請した祠
 ◎鴫野神社−−市寸島比売(イチキシマヒメ)・大宮売神(オオミヤノメ)・淀姫神
    かつて大阪ビジネスパーク(OBP)の辺り(大阪城の東側)にあった“弁天島”に祀られていた「鴫野弁天」を遷座した祠。
    秀吉の妾・淀君が篤く崇敬したことから、没後、“淀神社”として祀られ、今“淀姫神”として合祀されている。
    大阪城落城のとき、白蛇に化した淀君が城を抜け出して昇天したとの伝承から“巳さん”(蛇)とも呼ばれ、
    背後のご神木の根元に小さな祠が祀られている。

生国魂神社/末社・精鎮社
精鎮社
生国魂神社/末社・稲荷2社
稲荷2社
生玉神社/末社・鴫野神社
鴫野神社・内陣
生国魂神社/巳さん
巳さんの祠

 境内には、上記の他、浄瑠璃記念燈・井原西鶴座像・芭蕉句碑などが散在している。

トップページへ戻る