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香具波志神社
大阪市淀川区加島 4-4-20
祭神--宇迦之御霊神・保食神・天照皇大神・稚産霊神
埴山姫神・住吉大神・八幡大神
                                                      2020.11.17参詣

 JR東西線・加島駅の北東約500m、駅南改札を出た処から北東へ延びるやや広めの道を道なりに進んだ右側に鎮座する。
 社名は“カグハシ”と読む。

※由緒
 境内に掲げる案内には、
 「平安時代の天徳3年(959)に御奉斎申し上げた宇迦之御霊神(穀物の神)・保食神(食物の神)が当社の始まりの神様です。
 後に、天照皇大神(日照の神)・稚産霊神(結実と生産の和合の神)・埴山姫神(土地の神)を御奉斎申し上げ、香具波志稲荷大神として崇敬されました。
 淀川水系・猪名川水系の川の港、中国街道の要衝として氏子地域が繁栄し始めた鎌倉時代には、住吉大神(海や河川の神)・八幡大神(海運の神)を併せて御奉斎申し上げるようになりました」
とある。


 社名“香具波志”(カグハシ)の由来について、資料によれば、孝徳天皇が大化3年(647)有馬の湯に行幸された時、当地を通られ
   『かこはしや此花 いもみせぬかもや この花』
と詠まれたとの伝承に因るといわれ、
 書紀・孝徳3年条に
 「冬10月11日、天皇は有馬の湯においでになった。左右の大臣・群卿大夫らがお供した」
とあり、その途中に立ち寄ったということらしいが、書紀に、その道程は記しておらず当地を通った確証はない。

 孝徳帝の御製について、“かこはしや”を“香ぐはしや”とする資料もあり(社名は是によるか)、香り高い花を詠んだものらしいが、“いもみせぬかもや”は意味不明で、全体の歌意は不祥。

 ただ、この孝徳御製を
  『伊耶古梯母怒毘流都美邇和賀田久美知能迦具波斯』
とする資料もあり、表記が万葉仮名のため、最後の“迦具波斯”は“カグハシ”と読めるものの、他の読みは不明で(読みを記した資料はみあたらない)歌意は不明。


※祭神
   宇迦之御霊神(ウカノミタマ)・保食神(ウケモチ)・天照皇大神・稚産霊神(ワカミムスヒ)・埴山姫神(ハニヤマヒメ)・住吉大神・八幡大神

 今の祭神は宇迦御霊神以下7座を祀るが、元々の祭神は宇迦御霊神と保食神で、共に穀物・食物の神であることから、豊饒を願って祀られたものと思われる。
 また由緒は、天照皇大神以下の5座は後年の勧請というが、その勧請由来・時期等は不明。

 なお由緒によれば、震災(平成7年・1995)後、元境内社であった
 ・摂社--天満宮・四柱相殿神社・天神社の祭神を本殿左殿に
 ・末社--玉垂稲荷神社・三柱神社の祭神を本殿右殿に
祀るとあるが、これらの神々の勧請由来・時期等は不明。

※社殿等
 道路東側、鬱蒼と繁った樹木下の入口を入り、短い参道の途中に朱塗りの鳥居が立つ。


香具波志神社・社頭 
 
同・参道
 
同・鳥居

 鳥居を入ったすぐに神門(四脚門)が建ち、境内に入る。境内は広い。

 
同・神門
 
同・境内

 境内正面に、唐破風向拝を有する切妻造・平入りで横に長い拝殿が西面して建ち、その奥、弊殿を介して千鳥破風を有する流造の本殿が鎮座する。
 ただ、外から見えるのは側面のみで内部の様子は不明。


同・拝殿 
 
同拝殿(側面)

同・本殿 


◎境内社
*岩木神社
   祭神--木霊神(コダマカミ)・地神

 拝殿の向かって左、境内北側入口脇の大楠下、植え込みの中に南面して鎮座するが、草木に囲まれていて見付けにくい。

 鳥居脇の案内には
 「年月日は不明ですが、本社殿の神様の磐座として奉斎されていました『石社』と合祀され、岩木神社と呼ばれ現在に至ります。
 ・御神木・磐座は共に神道の原始の姿を伝え、木霊神・地神を通して八百万の神々の霊威にふれる斎地として崇敬されるお姿です」
とあり、
 祭神を木霊神・地神ということからみて、当社は古代の樹木信仰・磐座信仰の流れをひくものと思われるが、創建由緒等は不明。

 
境内北側入口
(入った右に岩木神社が鎮座する)
 
岩木神社を覆う大楠
 
岩木神社・鳥居
(左の建物は幼稚園舎)

 植え込み中の小さな鳥居の奥、柵に囲われた中に春日造の小祠が南面して鎮座し、
 その背後に切妻造妻入りの小祠を乗せた大樹の切り株があり(直径2mほど)、これが楠正儀の駒つなぎの楠で、
 案内には
 「社殿うしろの楠は、南北朝時代の貞治元年(1362・北朝年号、南朝年号では正平17年)に、楠正成の三男・楠正儀(マサノリ・伝1331--89)が馬を繋いたとの記録があり、『駒つなぎの楠』と呼ばれます」
とあり、資料によれば、
 「社殿背後の駒つなぎの樟は、今は切り株のみが残り、その上に小祠が鎮座しているが、曾ては樹高:27m・幹廻り:7.5m・樹齢:800年超の大楠で、昭和13年(1938)に天然記念物に指定されたが、戦後の公害等のためか同43年(1968)に枯死し、しばらくは樹先や枝をはらった状態で残されていたが、それでは危ないとして同51年(1976)に現在の姿になった」
という。

 
岩木神社
 
正儀駒つなぎの楠 


 楠正儀・駒つなぎの楠に関連して、「大阪史蹟辞典」(1986)には
 ・正平6年(1351、正平17年が正しいらしい)頃、楠正儀は、河内・和泉の守護職・摂津守佐々木秀詮(ヒデアキ、?--1362)と争い、神崎川をはさんで戦うことになった。
 ・その直前、正儀は香具波志神社に参詣し、この楠に愛馬をつないで必勝を祈願したところ、霊験あらたかで快勝し、やがて京に攻め入って足利義詮(ヨシアキラ、足利幕府2代将軍、1330--67)を近江に敗走させるきっかけとなった。
 ・太平記に
  『楠正儀五百余騎河内国を出て・・・神崎川近く加島に陣をとる。加島明神の森に駒をとめ、道にそひし楠樹日を受けて繁茂する状を見て、いたく喜び駒をつなぎて社前に祈願もうしける・・・』
と出ている。
とあり、これが案内にいう駒つなぎ楠の根拠らしい。

 太平記(新編日本古典文学全集判・巻36)には、
 ・康安元年(1361・北朝年号、南朝年号では正平16年)、足利幕府では摂津国守護代の交替にからんで内紛が生じていた。
 ・これを知った南朝方の楠正儀・和田正武両将が、時機到来とばかり五百騎を率いて渡辺橋を渡って天神の森(現大阪天満宮辺り)に布陣した。
 ・これに対して、摂津国守護職・佐々木道誉(1290--1373)の孫・佐々木秀詮・氏詮兄弟が千余騎を率いて馳せ向かい、神崎橋の辺り(三国川に架かっていた橋で、当地近傍という)で合戦に及んだ。
 ・南朝方を侮った幕府勢は、さしたる戦略もなしに橋を渡って攻め入ったが、南朝方の巧みなゲリラ戦略で苦戦し敗色濃厚となり、一旦橋を渡って引き返そうとするところを南朝側に攻められ、多くの兵が物具・太刀などを捨てて川に飛び込んで逃れようとした。
 ・佐々木兄弟も橋の袂まできたが、橋桁が落とされていて渡れず、引き返して南朝勢に突入して討ち死にした。
とあり(概略)、史蹟辞典に“太平記にいう”とあるのはこの合戦を指すかと思われる。
  (ただ、尊卑分脈には秀詮の死は貞治元年-正平17年とあり、とすれば当社案内と整合する)

 ただ、そこには南朝方(楠正儀・和田正武)と幕府方(佐々木秀詮・氏詮)が神崎橋附近で戦ったとはあるものの、楠正儀が当社に参詣したとの記述はなく、駒つなぎの楠が史実かどうかは不明。


 本殿背後に境内社3社が横に並び、左(北側)から
*八幡神社--応神天皇
 社頭の案内には
 「年月は不明ですが、氏地の三津屋に祀られていた3社の八幡神社の内の2社、または氏地の御幣島に祀られていた四柱相殿社の末社・八幡宮をこの地にお祀りしたものと推定されます」
とある。

*厳島神社--市杵島姫命
 案内には
 「勧請年月は不明ですが、江戸時代の文化3年(1806)に社殿改築の記録があります。
 当初は、表門左の池端に祀られていましたが、池涸れのため昭和34年に当地に移築されました」
とある。

*皇大神宮--天照皇大神・豊受大神
 案内には、
 「伊勢神宮の内宮外宮の神様を勧請して、江戸時代の慶安年間(1648--52)に奉祀されました。
 当初は本殿の右側に祀れていましたが、明治42年に当地に移されました」
とある。

 
八幡神社
 
厳島神社
 
皇大神宮

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