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蒲田神社
大阪市淀川区東三国2-18-12
祭神--宇賀御魂大神・別雷大神
                                                   2020.11.17参詣

 大坂メトロ御堂筋線・東三国駅の東約200m、駅北の東西道路(東三国2丁目交差点)を東へ進んだ北側に鎮座する。

※由緒
 参詣の栞
 「遠い遠い昔、摂津国の蒲田の里に暮らしていて人々は、この地に二柱の神様をお迎えしてお祭りしました。
 土地を開きお守りしてくださる別雷大神と、生活の基盤となる衣食住をつかさどりお守りくださる宇賀御魂大神です。
 神様は里の人たちの心の支えとなり、その霊徳を仰ぎ感謝の祈りを捧げながら、日々の仕事に励みました。
 おかげさまで里は豊かで、代々守り伝えられています。

 別雷大神については、このような話も伝えられています。
 今から千年あまり前の藤原時代前期の頃です(天禄・970--73の頃という)、京都の上賀茂神社のご祭神である別雷大神のご分霊をお乗せして播州へお渡りになる船がありました。
 ところが、この地を通りかかった時につむじ風にあい、この蒲田の社で一時停まって風よけをされました。
 このようなご縁があって、当社にもお祭り申し上げることになったとのことです」

 社頭に掲げる「蒲田神社由緒略記」には
 「宇賀御魂神は伊勢の外宮(豊受大神宮)また稲荷大神と異名同神であります。
 五穀をはじめとする食物・衣服のもととなる蚕や屋船(建物)など、衣食住を司り守護されています。
 別雷神は京都の賀茂神社の神で、土地開拓守護と雷の如き強烈な御神威による火鎮めの神・厄除の守護神でもあります」

 つづく「別雷神勧請の由来(古伝)」には
 「人皇第64代円融天皇の天禄年間(970--73)、当社に伝わるところに依ると〔藤原時代前期・天禄の頃〕に、播磨国室明神は京都の上賀茂社御分霊を勧請に際し、当地を船で通過時、烈しい飆風(ツムジカゼ)に遭遇、当神社神域にて風待ちの事あり、その御縁を以て当神社にも勧請し合祀の運びになったと言い伝わる」
とあり、別雷神勧請の由来を記しているが、その勧請時期が天禄年間なのか、後年なのかは不祥。

 つづく「御社名と地名、そして大樹の杜(モリ)」には
 「足利時代(南北朝・1334--92)には、当地を仏性院の村と称し居り、当神社は字・室(ムロ)にあって、室社・稲荷明神社と申し居て、明治時代〔明治43年頃より〕大字蒲田の字名から蒲田神社と申しています」
とある。

 一方、西成郡史(大正4年・1916)には、
 「北中島村大字蒲田にあり。
 由緒詳かならされども、口伝の伝ふる処によれば、当社は足利氏の中世(1392--1467)、仏性院村(今大字蒲田)に住せし仏性院又三郎が播州・室の宮祭神を分霊して祭祀せしに始まれりとぞ。
 斯くして社号を元稲荷神社と称せしが、明治42年12月24日許可を得て蒲田神社と改む」
とあり、
 大阪府全志(大正11年・1922)にも、
 「蒲田神社は北中島村大字蒲田字室の宮にあり。宇賀御魂神・別雷大神を祀れり。
 もと稲荷神社と号せしが、明治42年12月24日今の社名に改めらる。
 由緒詳ならざれども、口碑の伝ふる所によれば、足利氏の中世、本地に住せし佛生院又三郎の、播州・室の宮の祭神を分祀せしものなりと。明治5年村社に列す(以下略)
とあり、ネットにみる諸資料も之を以て創建由緒としているものが多い。

 ここにいう勧請元・播州室の宮とは、いま兵庫県たつの市御津町室津に鎮座する「賀茂神社」を指すといわれ、同社公式HPには、
 ・応徳元年(1084)の秋、白河天皇の勅許を得た賀茂社神官・源吉高が賀茂別雷大神の御分霊を頂き、御座船・付船2艘を仕立てて京を出立
 ・途中、播磨国室津で2泊、9月4日讃岐国・内海の津多島(現香川県三豊市仁尾町大蔦島)に到着、この地にご分霊を奉祭
 ・正平5年(1351・北朝年号:観応2年)、津多島より現在地(たつの市室津)に遷座
とあり(大略)、賀茂明神・室社・室明神社・室の宮とも呼ばれたという。

 栞がいう「播州への船旅の途中、つむじ風に出逢って当社で風待ちをした」とは、賀茂神社HPがいう讃岐国への遷座途中の出来事かと思われ(但し、年代的には約100年の隔たりあり)、この故事を縁として、正平5年以降に、当地の有力者・仏性院又三郎が津多島から遷った室津の賀茂神社から分霊を勧請したとも推測されるが、案内がいう天禄の頃(10世紀末)と賀茂神社HPがいう正平5年(1350)との間には300余年が経過しており、どちらが真なのかを判断できる資料はない。

 ただ、これらは賀茂別雷神の勧請由緒であって、それ以前から祀られていたと思われる宇賀御魂神(稲荷神)の勧請由緒・年代等は不明。

 なお仏性院又三郎による勧請について、当社宮司さんは「そういう説もあります」というだけで触れたくない様子だった。


※祭神
   宇賀御魂太神(ウガノミタマ)・別雷大神(ワケイカヅチ)

 宇賀御魂大神とは、古事記ではスサノオの御子、書紀ではイザナギ・イザナミ二神の御子とされ、食物の神・特に稲の神とされることから、一般には稲荷神として崇敬される。
 稲の神であることから、豊饒神として祀られたので、曾ての当社が稲荷神社と呼ばれていたのは、宇賀御魂神=稲荷神としてのことであろう。

 別雷大神とは、京都・賀茂別雷神社(通称:上加茂神社)の祭神で賀茂別雷大神ともいう。
 山城国風土記・逸文によれば、賀茂氏の祖・建角身命の娘・玉依姫が賀茂川の上流から流れ来た丹塗矢を持ち帰り、家に置いていたところ懐妊して生んだ御子という。
 農耕に必要な雨を呼ぶ雷神であることから、宇賀御魂大神と併せて豊穣の神として祀られたのであろう。

※社殿等
 新御堂筋の東二つ目のブロックに鎮座し、正面の表鳥居は当社境内西の角を北へ入った右側に立つ。
 西側道路から短い表参道が東へ延び、鳥居を入った先が境内。
 なお、東西道路に面して南鳥居が立つ。

 
蒲田神社・表参道
 
同・表鳥居(西側正面)

同・南鳥居 

 表鳥居を入り表参道を進んだ途中に〆鳥居が立ち、その先、正面に唐破風向拝を有する入母屋造の拝殿が西面して建つ。
 なお、境内掲示の案内に載っている大正時代の写真によれば、境内には樹木が多いものの、拝殿様式そのものは変わっていない。


同・境内 

同・拝殿 
 
大正時代の拝殿

 拝殿背後、透塀に囲まれた中に本殿が鎮座するが、見えるのは屋根のみで、社殿様式など詳細は見えない。
 ただ、拝殿内陣からみたところでは、一間社流造の社殿かと思われる。

 
同・本殿
 
同・拝殿内陣

◎境内社
*白光社--巳さん(蛇:水神)
  境内右側、拝殿の右前に北面して鎮座する小祠。
 多角形をした玉垣の中、大樹の切り株の上に一間社流造の小祠が乗っており、栞には、
  「稲と水の神様で、巳(ミ)さんをおまつりしている」
とある。
 ただ、社殿の両側に白狐像一対が置かれていることから、稲荷神としても信仰されているらしい。

 大樹の切り株について、資料には、
  「樹齢650年の大樹が明治12年に枯死した」
とあり、切り株の大きさ(径2mほど)からみて相当な大樹だったと思われる。

     

*恵美須社--事代主命
  本殿の左、境内北東部に鎮座する小社。
 草木の中に小さな鳥居が立ち、その奥、簡単な覆屋の中に一間社流造の社殿が西面して鎮座し、その左右に戎・大黒の小像か置かれている。

*祖霊社
  境内北側、恵美須社の西に南面して鎮座する。


恵美須社・鳥居 
 
同・社殿
 
祖霊社

◎千年杉
  本殿の右背後に、注連縄を巡らした大楠が亭々として聳え、「蒲田千年楠」との名札が下がっている。
  栞には、「樹齢千年を超える大楠。まるで象のようにやさしい大木です」とある。

 
千年楠
   
同・下部の幹部

◎十二支方位盤
  祖霊社の右奥にあり、五角形台座の中に、干支の十二支(動物)を鋳出した平亙12箇が取り巻いている。

 十二支方位盤(干支方位版ともいう)とは、干支の十二支をもって方位を示すもので、北にあたる“子”(鼠)から時計回りに丑(牛)・寅(虎)・卯(兎)・・・と配置したものをいう。
 干支を平瓦に鋳出したところが珍しいが、この方位盤が置かれた由縁等は不明。


十二支方位版 
 
左:丑(牛)・右:子(鼠) 

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