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神 津 神 社
大阪市淀川区十三東2-6
祭神ーー神津神社大神(応神天皇以下9座)
                                                        2020.11.17参詣

 阪急電鉄・十三駅(ジュウソウ)の東約250m、駅南の東改札を出てすぐの駅前通り(商店街)を東へ抜け、淀川通りに出て次の角を左(北)へ入った突き当たりに鳥居が立つ。

※由緒
 頂いた「神津神社略記」によれば、
 「神津神社は明治42年(1909)、法令により数ヶ村の氏神合祀の実行に際し、旧神津村の内字三津屋を除き、小島(現在の十三東)・木川(同木川・西宮原の一部・三国本町の一部)・野中(同野中)・新在家(同新高)・堀上(同三津屋南1・野中の一部)・今里(同十三元今里・田川の一部)・堀(同十三本町)の七ヶ字協議の上、小島村の村社八幡神社を中央適当地と定め、各産土神社お呼び末社を此所に合祀したものです。

 小島村の八幡神社は、その創祀年代は古く、今をさること四百数十年前の天正年間(1573--92)に遡ることができます。
 恐らくは、それ以前より現在地に鎮守の社として神鎮まりましたものと思われます。
 然し、この地は南に中津川、北に神崎川を控え、数度の水害に遭い旧古記録の流出したのは誠に惜しむべきことであります。
 偶偶、昭和4年に、社掌・足立正嗣が社殿改築に際し、旧社殿の本殿内より桧の棟札が現われ、そこには
  正八旛宮  天正年間勧請より不知
          細川氏神主足立氏
          文禄年中、再建 摂州西成郡小島、船越五右兵衛様領地除地
          延宝年中再建 小島村青山大膳様領地御除地  
          宝永7、庚寅年四月二十八日再建氏子共
との文字が記されていました。

 この様に八幡神社は文禄年間(1592--96)・延宝年間(1673--81)・宝永7年(1710)年に再建、又寛政11年(1799)にも再建されています。
 神津神社と改称されてからは、昭和4年(1929)・同24年(1949)の改築となり、同47年には現社殿、翌年には参集殿が立派に造営されました」
という。

 明治42年、法令により云々というのは、明治39年(1906)の神社統廃合令によるもので、その時
  小島村-猿田彦神社、  木川村-産土神社・天満神社、  野中村-野々宮神社、
  新在家村-東宮稲荷神社・西宮稲荷神社  堀上村-稲荷神社、 今里村-八幡神社、  堀村ー稲荷神社
の9社が小島村の八幡神社に合祀されたという(略記)

 淀川区の沿革について、大阪市HPには
 ・淀川区の辺りは太古の昔は海中だったが、淀川・大和川・猪名川などの河川が運ぶ土砂が堆積し、中島・加島・姫島など難波八十島と呼ばれた多くの小島を中心に陸地化していった
 ・天武天皇・朱雀元年(786)6月1日条に『槻本(現塚本)村主(スグリ)勝麻呂に連(ムラジ)の姓を賜った』(書紀)とあり、このころ当地に豪族がいたことが窺われる(村主というから渡来系人物か)
 ・続日本紀には、『延暦4年に三国川(今の神崎川)の開削工事が行われた』とあり平安時代は水上交通の要所として栄えたという
 ・江戸時代には、中津川(現淀川)の洪水に悩まされながらも、肥沃な農業地帯であったようで、この頃、農民達が自力で中島大水道を開削した
  (中島大水道--延宝6年-1678、悪水と滞留水を海に流すために地元22ヶ村の農民が自力で開削した大排水路、現東淀川区西淡路から淀川区伝法まで延長9.5km、幅平均22m、新淀川開削により使命終了、別稿「さいの木神社」参照)
 ・大正14年、西成郡中津村・神津村・西中島村・北中島村が大阪市域に編入され東淀川区となる
 ・昭和39年、新幹線開通に伴う新大阪駅開業、急速に市街化が進行
 ・同45年、新御堂筋開通、地下鉄御堂筋線延長
 ・同49年、行政区画再編により淀川区誕生
とある。


※祭神
 略記には
  ・応神天皇 ・神功皇后 ・底筒男命 ・中筒男命 ・表筒男命 
  ・宇賀御魂神 ・菅原道真 ・少彦名神 ・猿田彦神
の9柱とある。

 旧八幡神社の祭神・応神天皇以下明治末期に合祀された諸社の祭神と思われるが、合祀された神社名と結びつかない神もあり詳細不詳。


※社殿等
 淀川通りから北へ、民家に挟まれた参道の突き当たりに鳥居が立ち境内に入る。

 
神津神社・参道
 
同・鳥居
 
同・境内

 境内北側中央に、唐破風向拝・千鳥破風を有する入母屋造・朱塗りの拝殿が南面して建つ。

 
同・拝殿
 
同・拝殿

 拝殿背後に本殿が鎮座するが(中に本殿が鎮座する覆屋であろう)、境内からは側面の一部が見えるのみ。
 また、拝殿内陣の奥に見えるのは本殿正面のみで、社殿様式は不明。


同・本殿 
 
同・内陣(本殿正面が見える) 

◎境内社
 境内左側(西側)に攝末社4社がある。本殿側より
*福永稲荷神社--摂社
   祭神--福永稲荷大神受気持神・ウケモチ、保食神と記すのが普通)

 本殿左にある小社、切妻造妻入りの社殿中に、狐一対を侍らした一間社流造の小祠が鎮座する。
 略記には
 「古地図(文化3年など)にも小島村宮稲荷社と載っており、ある時期、稲荷信仰の厚い崇敬を集めたものかと思われる」
とある。


福永稲荷神社・社殿 
   
本殿小祠

*山之稲荷神社--末社
  祭神--山之稲荷大神

*六社神社--末社
  祭神--天照皇大神・天児屋神・姫大神・事代主神・武甕槌神・経津主神
 伊勢神宮・春日大社・恵美須社の祭神が並んでいるが、その勧請由来等は不明。

 
山之稲荷神社・鳥居
 
同・社殿
 
六社神社

*祖霊社--摂社
 境内西側にある小祠で、日清・日露戦争以降の戦死者の霊及び当社関係物故者を祀るために創祀した社。

*十三戎社--摂社
  祭神--十三戎大神
 境内東側に鎮座する社で、朱塗りの社殿が映える社で、略記には
 「氏子区域内の商工業が益々発展するように、今宮神社の御分霊を頂いて奉斎しました」
とある。


祖霊社 
 
十三戎社 

◎吉向窯(キッコウカマ)
 社務所右端にみえる格子扉の上に『吉向窯』との扁額が架かっている。
 略記には
 「伊豫大洲出身の戸田治兵衛が京に出て陶つくりを学び、享和の初め(1801頃)大阪十三に窯を築きました。
 時の将軍家の慶事に際して鶴と亀の食籠(ジキロウ・蓋付きの菓子器)を献上した折、海亀の食籠が非常に気に入られ、亀甲即ち“吉の向かう”に因み『吉向』(キッコウ)の窯号を賜りました。
 当社境内の吉向窯は、昭和59年の第3回十三文化祭で十三小学校校庭に再現したものを移築したものです」
とある。

 吉向焼の初代・戸田治兵衛(1784--1861)について、資料によれば
 ・伊予国大洲村(現愛媛県大洲市)の出身で、はじめ伊予の砥部焼(トベヤキ)の技法を身につけ、享和年間(1801--04)に京へ出て楽焼(ラクヤキ)を学んだ
 ・文化元年(1804、20歳)、大坂・十三渡しの附近(妻女の実家近くという)に窯を築き、最初は旅人相手の土産物を売っていたが、次第に茶碗や置物・飾り物など本格的な焼き物を焼くようになり、これを『亀甲焼』と名づけ、是が長寿の象徴で縁起がよいとして参勤交代の大名等の目に留まるようになった
 ・33歳の時、時の寺社奉行・水野忠邦の依頼で鶴と亀の食籠(ジキロウ・蓋付きの菓子器)を製作、11代将軍・家斉の慶事に際して是を上納
 ・是が家斉の気に入られ、面目をほどこした忠邦から亀甲改め『吉向』の窯名と金印・銀印を与えられ、以降、吉向を名乗る
という(大要)

 資料によれば、曾てはこの窯で神職自らが正月に土鈴を焼いて頒布していたというが、今は止めているようで、雑多な物が置かれた物置然とした部屋に窯が埃を被っている。

 
吉向窯
 
同・内部
 
焼成中の窯(ネット資料より)

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