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鵲 森 宮
大阪市中央区森ノ宮中央1-14
祭神--用明天皇・穴穂部間人皇后・聖徳太子
                                                  2019.08.13参詣

 JR大阪環状線・森ノ宮駅前の南北道路・玉造筋の西側、駅北の改札を出た角・森ノ宮駅北交差点から玉造筋を南へ行った3軒目、低い石垣の上に鎮座する。式外社(式内社とする資料もあるが、延喜式神名帳にはみえない)
 社名は“カササギモリノミヤ”と読み、俗称・森の宮神社。当地の地名・JR駅名の“森の宮”はこれによるという。 

※由緒
 頂いた「鵲森宮 由緒書には、
 「大阪が“押照や難波”と詠まれた今から千四百数年前、崇峻天皇2年(589)7月、聖徳太子は物部守屋との戦いに必勝を祈願され、勝った暁には四天王像を造ることを誓われました。
 その戦いに勝利されて、先ず父母の用明天皇と穴穂部間人皇后(アナホベノハシヒト)を神としてお祀りなさいました。

 その後、太子は四天王像を造り、この森に元四天王寺を創建されたのです。

 御父用明天皇崩御の後、追慕の御孝心が深かったので、太子は自ら尊像を彫刻なさって、かつ宮殿を造営なさり、そこは四方の崇敬いよいよ篤い神廟となりました。

 初め境内地も方八町あったといいます。そして本殿・拝殿始め楼門に至るまで、華麗で目を驚かすばかりだったようです。
 それゆえ、古地図・古文書等にも多数記された由緒ある古社であり、さらに人皇31代用明天皇並びに穴穂部間人皇后(欽明天皇第4皇子、橘豊日命)を祭る日本唯一の神社です。

 しかしながら、時移り世が替わると、御社の衰えも大層甚だしく、今は小社に鎮座していますが、この宮所は実に千四百年の星霜を経ています。このように歴史が古く由緒正しい社は、日本が広いといえども数少ないのです。
 なお、用明天皇御陵は南河内郡太子町にあります。磯長原陵(シナガハラリョウ)です」
とある。

 この由緒によれば、当社は聖徳太子が父母・用明天皇と間人皇后を祀った神社ということで、その点では由緒・年代がはっきりしている珍しい古社であることに間違いはない。
 ただ、太子の両神を祀る神社が、いかなる由縁で、飛鳥から遠く離れた難波の上町台地の北端近くの地に造営されたのか、という点では疑問もある。


 これに答えるものとして、当地には四天王寺の前身となる寺があったといわれ、その鎮守社として創建されたのが当社という。

 四天王寺は、一般には、推古元年(593)に大阪市天王寺区の現在地に建立されたといわれるが、書紀によれば、四天王寺の建立について、
 ・崇峻天皇即位前紀(587、用明2年4月の用明崩御後翌春の即位までの間、以下、用明2年という)
  「乱(蘇我・物部の争乱)が収まって後に、摂津国に四天王寺を造った。大連家の奴の半分と居宅とを分けて、大寺(四天王寺)の奴(ヤッコ)・田荘(タドコロ)とした」
 ・推古天皇元年
  「この年、はじめて四天王寺を難波の荒陵(アラハカ)に造り始めた。この年、太歳癸丑(ミズノトウシ・593)
との二つの記事がある。

 また、扶桑略記(フソウリャッキ・平安後期-1094以降に刊されたの私撰歴史書、仏教史的色彩が強いという)・用明天皇2年(丁未歳・587)条に
  「同年 摂津国玉造岸上に四天王寺を草創 ・・・」
 推古天皇元年(癸丑歳・593)条に
  「是歳 四天王寺 始めて難波荒陵東下に移す・・・丁未歳に始めて玉造岸上に建て 癸丑歳に壊し 荒陵東に移す」
とあって(漢文意訳、聖徳太子伝補闕紀など太子関連の伝記にも同意の文ありというが未確認)
 書記(用明2年)にいう摂津国に造られた四天王寺が、略記にいう玉造岸上に造られたそれに当たるという。

 これによれば、
 四天王寺は、先ず用明2年に摂津国の玉造の岸上に建立され(以下、原四天王寺という)
 ・その6年後の推古元年に、荒陵の東(現在地)に金堂・講堂・塔を有する本格的な寺院が建立されて、此処に移され、
 ・当社はそのまま残った
となる(用明2年の建立を否定する説もある)
 なお、当地に建立された原四天王寺の規模は、おそらく草葺・萱葺あるいは板壁の掘立柱程度の四間四面の堂一宇であって、7月3日立柱、8月20似た落慶という記事からも、その規模の小さかったことが察せられる、という(今井啓一)

 この原四天王寺の地は、今の当社鎮座地の辺りとされるが、その根拠として
 ・崇峻天皇2年条に
  「物部守屋大連の近侍・捕鳥部万(トトリベノヨロズ)は百人の兵を率いて難波の守屋の宅を守っていたが、大連が亡くなったときいて、馬に乗り夜逃げした・・・」
とあり、聖徳太子伝補闕記(平安初期)
  「平群臣神手(ヘグリノオミカミテ)余党を撃ち平らげ、虜賊の首を家口に係け、玉造の東岸上の営に覆奏す(東生郡にあり)
   即ち営を以て四天王寺と為す。始めて垣基を立て、大臣・太子と営へ覆奏す。・・・四天王寺、後に荒陵村に遷る」
とあり、当地には(守屋の将)捕鳥部万が守っていた守屋の居宅があって、これを占拠して本営とした太子は、、そこを四天王像を祀る寺とした、という。

 今の当社は、大阪市中心部の東、JR環状線・森ノ宮駅の西に鎮座し(上町台地北側)、周囲は市街地となっているが、その地は上町台地北側先端部にあたり(玉造の岸上)
 当社に残る承徳2年(1088・平安後期)の古絵図には、台地の先端部、東側を流れる猫間川の西岸上に、
  “森宮 用明天王”と記された社殿が描かれ、その左(北側)に“天王寺跡”との書き込みがある。

 
承徳2年・古絵図
(左上・赤枠部に当社がある)
 
同・当社付近拡大図 


 今、森の宮に原四天王寺があったことを知る人は少ないが、摂津国名所図会(1796--98)
 「森宮  玉造森村にあり。詳しくは鵲森なるべし。推古天皇6年夏4月 鵲二羽を難波の杜(モリ)に養(カ)はしむとは、即ち此地なり。
  祭神用明天皇 上宮太子の御父帝なり。崇峻天皇2年(即位前記の間違い)秋7月、聖徳太子此地にはじめて四天王寺を建立す。25年を経て今の荒陵山へ移し給ふ。故に此辺旧址に金堂・講堂・駒が池・大池の淵などといふ字地今にあり」
とあり、江戸時代には広く知られていたらしい。


 ただ、書紀・用明2年条には、「摂津国に四天王寺を造営」とあるのみで、その所在地が記されていないため、これを現四天王寺と解することもできるが、推古元年条に「はじめて四天王寺を荒陵に造りはじめた」とあることから、原・現四天王寺は別々の寺とみるべきで、その原四天王寺が玉造の岸上にあったとみても誤りはないと思われる。

 また、当社由緒書をみれば、当社は、先ず太子の両神を祀る社として創建され、後に四天王像を安置する原四天王寺になったともとれるが、下記する四天王寺に伝わる守屋怨霊伝承などからみて、原四天王寺としての建立があって、その鎮守として創建されたのが当社の始まりとみるのが順当かと思われる。

 因みに、当社名に冠する鵲(カササギ)の由来として、書紀・推古6年(598)条に
 「夏4月 難波吉士磐金(ナニワノキシイワカネ)が新羅から帰って、鵲二羽を奉った。それを難波杜(ナニワノモリ)に放し飼いにさせた。これが木の枝に巣をつくり雛をかえした」
とあり、当社HPには
 「この森に飼わせたことから『鵲の森』と称(トナ)え、遂に宮の名となり、略して『森の宮』又は『森明神』とも云うようになった」
とある。


※祭神
 鳥居左に掲げる祭神案内には
  創建 崇峻2年(589)
  奥社  天照大御神 素盞鳴尊 月読命
  本社  用明天皇(人皇31代) 穴穂部間人皇后 聖徳太子
  五幸稲荷社  猿田彦命 大己貴命 宇賀魂神 熊鷹大明神 烏丸明神 布留魂神 天神 八幡大明神
とある。

 ここには本社以外に奥社とあるが、今の境内にはそれらしき社殿はみえない。本殿の中に相殿神として祭られているのであろう。

 五幸稲荷社は境内南(鳥居を入った正面)にある社で、その祭神は宇賀御魂神(ウガノミタマ)であり、猿田彦命以下の7柱は平成の遷宮時に合祀されたものという(下記)


※社殿
 玉造筋の西側、低い石垣の南端に鳥居が立ち、傍らの社標には「旧名鵲杜 森の宮神社」とある。
 鳥居左に立つ“祭神案内板”の下には、
 「此の地は、大和政権で軍事・警察・裁判を担当した物部氏の本宅があった地です。
  (平成7年4月、物部氏の末裔である守屋氏が来られ、語っておられます)
 聖徳太子が率いる蘇我馬子と皇族の連合軍が、物部守屋に勝利した後、此の地に父・用明天皇をお祭りするため、当神社が創建されました。後に聖徳太子も祭られています」
と記した紙が下がっている。


鵲森宮・全景(道路反対側より)
右から本殿・拝殿左端:鳥居 
 
同・鳥居
(正面の赤い社は五幸稲荷社)

 石段数段を上り、境内に入った右に、大きな唐破風向拝を有する入母屋造の拝殿が南面して建つ。
 その奥に本殿があるが、境内狭く、且つ高い瑞籬に阻まれていてよくみえない(撮影ポイントなし)

 境内の南側、鳥居を入った目の前に入母屋造・朱塗りの五幸稲荷社が東面して鎮座し、案内板には
 「五幸稲荷社は、火難・水難・盗難飢餓・産難を除く宇賀御魂命を祀る日本唯一の神社です。
  平成の遷座で、猿田彦命・大己貴命・熊鷹大明神・烏丸明神・天神・八幡大明神・忌部社(手置帆負命・彦狭命)・真目宮(布留御魂神)等を合祀しております」
とある。


同・拝殿 
 
境内社・五幸稲荷社 

 今の当社は、東方を道路に、残る三方をビルに囲まれた狭い区画に押し込められ、その中に本殿・弊殿・拝殿・社務所等が軒を接して鎮座しているが(社殿両側には人一人通れる通路があるだけ)、かつては、それ相応の境内を有していたようで、
 由緒書きには、
 「当社の造営当時は、方八町(約800m四方)にして神領神田広大といいます。・・・
  その後織田信長の石山攻めの時、武人の為に略奪され、かつ建造物もまた兵火に被って、社殿はことごとく灰燼と化しましたが、御霊体は事なく別所に奉安することを得た、と伝えられています」
とある。

 江戸中期の摂津名所図会・森宮の図(1798)には、石垣上の広い境内の中央に千鳥破風をもつ流造の本社が、
 その周囲に数棟の社屋が描かれている。
 信長の石山攻めで灰燼に帰した後に再建された社殿で、江戸時代にも相応の敷地を有していたと推測される。

 また、社務所の壁に掛けられていた天保9年(1838)刊の古絵図(猫間川堀浚絵図)には、絵図の下方に楼門があり、境内の中央に拝殿・弊殿・本殿が縦に並び、周囲には稲荷社・やくし堂(薬師堂)他の社屋が描かれ、境内の左にも神社らしい社殿がみえる(いろいろ書き込みがあるが読めない)


摂津名所図会・森宮の図 
   
天保9年刊古絵図


[付記]
 四天王寺の建立由緒としては、蘇我・物部合戦の時、これに従軍した聖徳太子が、『戦勝の暁には、護世四王のため寺塔を建てましょう』と祈念し、争乱終結後、この誓いにもとずいて四天王寺を建立したと、いうのが定説のようになっているが、
 源平盛衰記(鎌倉時代)の「守屋啄木鳥(キツツキ)となること」との項に
 「昔聖徳太子の御時、守屋は仏法を背き、太子はこれを興し給ふ。互いに軍を起こししかども、守屋遂に討たれけり。
  太子仏法最初の天王寺を建立し給ひけるに、守屋が怨霊、彼の伽藍を滅ぼさんが為に、数千万羽の啄木鳥となりて、堂舎をつつき亡さんとしけるに、太子は鷹と変じて、かれを降伏し給ひけり。
 されば今の世までも、天王寺には啄木鳥の来ることなしといへり。昔も今も怨霊はおそろしきことなり」
とあり、
 和漢三才図会にも
 「昔 初めて玉造に天王寺を建つる時に、啄木鳥群がり来て寺の軒を啄(ツツ)き損す。故に寺啄(テラツツキ)と名付く、守屋の怨霊、災を為すとの謂なり」
とあり(ここでは原四天王寺での話としている)
 四天王寺には、啄木鳥が大挙飛来して堂舎を啄き損じようとしたが、太子が鷹と化してこれを逃散させた。この啄木鳥は破れた守屋の怨霊が化したものである、との伝承があるという。

 これは、四天王寺に伝わる伝承の一つで、古くから敗者の怨霊は祟りを為すとして畏れられたが、敗死した守屋も怨霊として畏れられたようで、
 摂津名所図会に
 「守屋祠  太子堂の後ろにあり。いま参詣の者守屋の名を憎むや、礫を投げて祠を破壊す。寺僧 これを傷んで熊野権現と表をうつ。祭る所、守屋大連・弓削小連(守屋の弟又は子)・中臣勝海連(守屋の盟友)の三座なり」
とあるように、今も、
 ・四天王寺境内には敗軍の将・守屋を祀る小祠が鎮座し、
 ・金堂2階の高欄部分に、太子が化した鷹が止まる“止まり木”らしいものがある。
 なお、境内地図によれば、守屋祠は、中心伽藍東側の一画、太子殿の隣りにある八角形の奥殿の東に位置する。常時の参詣はできない(右図・赤丸が守屋祠)
 

 これらの伝承、守屋祠の存在などから、谷川健一は
 ・四天王寺建立の目的は、守屋祠の存在にみるように、守屋の怨霊の鎮魂であって
 ・乱がしずまった直後に玉造に原四天王寺を造ったのは、守屋の怨霊をとりあえず鎮めるためであり
 ・その6年後に、荒陵の地に改めて本格的な寺院・四天王寺を造り移転したが、鎮魂の社という性格は引き継がれている
という(四天王寺の鷹・2006、大意)

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