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河堀稲生神社
大阪市天王寺区大道3-7-3
祭神--崇峻天皇・宇賀魂大神・素盞鳴尊
                                                 2020.06.16参詣

 JR大阪環状線・寺田町駅の北西約430m、駅北の国道25号線を北西へ、玉造通りを越えた最初の辻を左折、南へ入った処に鎮座する。

※由緒
 社頭に掲げる案内には、
 「当社は、景行天皇の御代己亥年の秋、夏目入穂の孫・逆輪井が、鍬津の西・浪速潟昼ヶ丘に神地を賜り、稲生の神を奉斎し、代々祭祀するようになった。

 後に、聖徳太子が四天王寺建立(伝593)と共に、此の地に社殿を建て崇峻天皇を祭祀し、四天王寺七宮の一宮として稲生大明神と併祀することとなった。
 又、此の地を古保礼(コボレ)と云う。

 延暦7年(788)3月、摂津大夫和氣清麿が河内摂津両国の堺に川を掘り堤を築き、荒陵の南より河内川を導き、西の海に通せんとして当社に祈願した。
 以降、河堀と書いて“コボレ”と称す」
とある。

 またネット資料には、
 「大阪市天王寺区大道にある神社。祭神は宇賀魂大神・崇峻天皇・素盞鳴尊。
  古代、景行天皇の時代、当時昼ヶ丘と呼ばれていたこの地に稲生の神を祀ったのが最初とされている。
  聖徳太子が四天王寺を建立した際に社殿が造営され、崇峻天皇を合祀して四天王寺七宮の一つに数えられた。

  続日本紀によれば、延暦7年(788)3月、摂津大夫・和気清麻呂が農業の振興と水害の防止を目的に、摂津国と河内国の国境に河川を築いて西方の海に流し込む大規模土木事業を提案し、工事の安全を祈願した。
  この工事を境に、付近一帯の地名表記は古保礼から河堀と改まった。

  江戸時代初期、片桐且元の寄進により壮麗な権現造の拝殿に改まった。
  元禄2年(1689)素盞鳴尊を合祀し、明治40年(1907)清水谷にあった稲荷神社を合祀して、現在の社名に改まった。この稲荷神社は大阪城内の屋敷の鎮守であった。

  昭和20年(1945)の大空襲により江戸時代からの壮麗な社殿は焼失、現在の社殿は昭和25年(1950)に再建されたものである」
とあり、やや詳しくなっている。


 当社関連の古資料は少ないが、摂津名所図会(1798)にみえる「崇峻天皇社」が当社にあたると思われ、そこには
  「崇峻天皇社  天王寺東門より四町許り、江掘口(河堀口か)にあり。此の地の生土神とす」
 また、大阪府全志(1922)には
  「河堀神社は天王寺大道3丁目字河堀にあり、崇峻天皇を祀る。もと天王寺七宮の一にして旧河堀村の産土神なり。
  明治5年村社に列し、同40年10月清水谷の無格社稲荷神社を(宇賀御魂神)を合祀して今の社名に改め、同41年2月林寺の村社素盞鳴神社(素盞鳴命)を合祀す」
とあり、江戸時代の古資料にも祭神・崇峻天皇とある。

 両資料ともに、当社を聖徳太子の四天王寺建立にともなって造営された四天王寺七宮の一というが、7世紀初頭に今に見るのような神社があったとは思えず、天王寺七宮とは伝承的色彩が強い。

 古代にあっては、現鎮座地・大道3丁目辺りは“昼ヶ丘”と呼ばれていたという。
 案内にいう夏目入穂の孫・逆輪井が如何なる人物かは不祥だが、社伝によれば、
 ・昼ヶ丘は、景行天皇の御代、小碓命(日本武命)が熊襲征伐の帰路、難波の柏の渡しで悪神達を追討した縁りの地であり、
 ・その時、土地の夏目逆輪井という者が船師として功あり、妻の日柿とともに「宇賀魂大神を祀れ」との命を受けて、昼ヶ丘に稲生の神々を祭祀した
との伝承があるといわれ、夏目一族とは在地にあって当地一帯の有力者で水運等を掌握していたかと思われるが、資料なく詳細は不明。
 また、記紀に日本武命と当地との関係はみえず、社伝がいう“難波の柏の泊まりで云々”とは、命に仮託して作られた伝承であろう。

 上記案内等によれば、
 ・当社は先ず景行天皇の御代に稲生の神を祀る神社として創建され、地元の産土神として崇敬されていたが、
 ・そこに聖徳太子が四天王寺七宮の一つとして社殿を建てて叔父・崇峻天皇を合祀したことになる、
 ただ、古墳時代前期(4世紀後半頃)とされる景行天皇の頃に社殿を有する神社があったとは思えず、如何なる形での神マツリがおこなわれていたかは不祥。

 また、稲荷信仰が形をなすのは奈良朝頃(8世紀)とされることから、古墳前期にあたる景行天皇時代に稲荷神を奉祀したというのは疑問で、大阪府全志がいうように、まず崇峻天皇を祀る社があって(6世紀以降か)、そこに明治末の神社統廃合によって稲荷社を合祀したとみるのが妥当かもしれない。

 末尾にいう延暦7年・和気清麿云々の記事に関係して、続日本紀・桓武天皇延暦7年(788)3月16日条に
 「中宮大夫・従四位上で民部大輔・摂津大夫を兼任する和気朝臣清麻呂が次のように言上した。
  『河内・摂津両国の境に川を掘り堤を築きたいと思います。荒陵の南から河内川(今の平野川筋か)を西方に導いて海に通じさせます。そうすれば肥沃な土地が広がり、開墾することが出来ます』と。
 そこで清麻呂を遣わしてその事業を担当させ、延べ23万余人に食料を支給して事業に従事させた」
とあり、摂津名所図会大成(1855)には、続日本紀の記事につづけて、
 「即ち其河を掘し古跡なる故今尚名に遣れり。是より西方に堀越といへる名あるも此の河條を掘し遺名なりと云うへり。
  河堀といふべきを後世古保礼と誤れるなり」
とある。

 徳川5代将軍綱吉の時代(1680--1709)に公儀普請として施行された大和川付け替え(宝永元年-1704竣工)とほぼ同じような工事が、千年ほど前の桓武天皇時代に計画され一部施行されたらしいが、上町台地を切り開くという難工事であり、費用も嵩んだことから完成には至っていない。
 なお、今、天王寺公園内・茶臼山の南にある河底池はこの工事の残痕ともいうが確証はない。


※祭神
 社頭の案内には、右から
   宇賀魂大神  崇峻天皇  素盞鳴尊
とあり、崇峻天皇を主祭神とするらしい。

 崇峻天皇は第29代欽明天皇の第12子(泊瀬部皇子)で、第31代用明天皇の後を継いだ第32代天皇(在位:587--92)
 なお、欽明天皇の御子は、30代敏達(第2子)・31代用明(第4子)・32代崇峻(第12子)・33代推古(女帝・第2女)と帝位に就き、用明天皇の御子である聖徳太子からみて父天皇の異母弟である崇峻天皇は叔父にあたる。

 当社が案内にいうように聖徳太子による創建とすれば、叔父である崇峻天皇を祀るのは有り得ることたが、それを証する史料はない。

 崇峻朝での主な出来事として、書紀には、
 ・用明天皇2年(586)
  仏教伝来(欽明朝)にともなう崇仏排仏論争に端を発した大臣・蘇我馬子と大連・物部守屋との勢力争いが、用明天皇の死後、両者の戦いへと展開し(泊瀬部皇子-崇峻天皇・厩戸皇子-聖徳太子も蘇我馬子方として従軍)、それが物部守屋の敗死と物部本家の没落という形で決着した8月、馬子以下群臣からの推挙を受けて即位
 ・崇峻5年(592)10月
  即位後、政治の実権を握っている馬子へ不満をもった天皇が、献上された猪を指して「いつの日か、この猪の首を斬るように、自分が憎いと思う人を斬りたいものだ」といわれた
 ・これを聞いた馬子が、天皇は自分を嫌っておられるとして、天皇暗殺をはかり
 ・同年11月
  馬子は東漢直駒(ヤマトノアヤノアタイコマ)を使って天皇を殺させ、その日のうちに倉梯岡陵(クラハシノオカノミササギ、桜井市倉橋にありというが諸説あり)に葬った
とあり、時の権力者・蘇我馬子との確執のあげく暗殺された悲運の天皇といえる。


※社殿等
 境内東側道路脇に鳥居が立ち、石段を上って境内に入る。


河堀稲荷神社・社頭 
   同・鳥居

 境内正面に、向拝を有する入母屋造・銅板葺きの拝殿が、その裏に本殿が東面して鎮座するが、本殿は屋根の一部が見えるだけで様式等詳細は不明(屋根の形から神明造かと思われる)


同・拝殿 
 
同・拝殿(側面)
 
同・本殿

◎境内社
 拝殿向かって左に鳥居2基が立ち、その奥に一間社流造の小祠2宇が鎮座する。
  左:桜樹稲荷社  右:若宮八幡宮
 いずれも祠前に社名を記した提灯が下がるだけで、鎮座由緒等は不明。

 
末社・鳥居
 
末社・桜樹稲荷社
 
末社・若宮八幡社

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