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高津宮神社
大阪市中央区高津1-1-29
主祭神--仁徳天皇
                                                  2020.05.30参詣

 大阪メトロ谷町筋線・谷町九丁目駅の西北西約380m、谷九交差点から一本北の通り(高津表門坂)を西へ入った北側に鎮座する。

※由緒
 頂いた参詣の栞(案内記)には、
 「当宮は浪速の地を皇都(高津宮)と定められ大阪隆昌の基を築かれた仁徳天皇を王神と仰ぐ神社であります。
  仁徳天皇が高殿に昇られて人家の炊煙の乏しいのをみられて人民の窮乏を察し、直ちに諸税を止めて庶民を救済されました御仁政はあまねく国民の敬慕する処であります。
  その御仁政を慕い、平安朝の初期清和天皇の貞観8年(866)、勅命によって旧都の遺跡を探索して社地を定め、社殿を築いてお祭りしたのを創始といたします。
 以降、世々皇室を始め時の幕府等の度々の御造営寄進を重ねて、浪速津の守護神と仰がれ、御神威輝きわたったのでありますが、その後700年を経た正親町天皇の天正11年(1583)豊臣秀吉が大阪城の築城に際し、比売古曾社の現在地に御遷座になって今日に及んでおります。
 (中略)
 昭和20年3月の第二次大戦の戦火を浴び、御輿庫を一つ残して社殿ことごとく焼失しました。
 しかし戦後、氏子を始め崇敬の厚い奉賛により、昭和36年6月社殿以下ことごとく復興完成をみました」
とある。

 当社に関する古資料として、

*摂津名所図会(1798)
 「高津宮  西高津にあり  
  祭神・仁徳天皇 但し往古下照姫を祭れり 延喜式にいう比売許曾神社是なり   中古より比売許曾を別社に祭り、境内にあり。
  当社の旧地は是より北、今の御城の辺に有りしなり。天正年中(大坂城築城)に此の地に移りしなり。
  抑高津宮は、神代に下照姫命の住ませ給ふ地にして、高津といへる名は、大江の岸の尤も高き処にて、北は淀川、東は倭川、西は海浜にして、其中へ押し出たるが如き地なるが故に、おしてるとも和歌にはよめり。
  仁徳天皇下照姫の旧跡をしたひ給ひて、都をうつし給ふにより、高津宮と号し、其下照姫命を祭り給ふを比売社と称し給ふ。(中略)
  天正年中、太閤秀吉公其地に府城を築き給ひしにより、神社等を遙か南へ遷し給ひぬ。今此高津宮といふ是なり。(以下略)
とあり、下の絵図が載っている(“おしてる”とは難波にかかる枕詞)

 

*大阪府全志(1922)
 「高津宮は高津町一番町に在り。祭神は仁徳天皇にして仲哀天皇・応神天皇・神功皇后・華姫皇・履中天皇を配祀せり。
 勧請創建の年月祥ならず。社記に依れば、貞観8年(866)正月12日朝廷より奉幣あり、尋(ツイ)で社殿を造営し、御供料として河内国古市郡に於て方50町の神田を寄せられ氏より以来、毎年幣帛を捧げられたるも、世移り時去りて社頭漸く頽廃しけるに、村上天皇の康保3年(966)貞観の例に倣ひ社殿を造営して奉幣の儀あり。
 崇徳天皇の天治元年(1124)復た造営あらせられ、降りて後花園天皇永享2年(1430)足利義教社殿を造営し奉れり。
 当時、社は大坂城の辺りにありしが天正11年(1583)秀吉の大坂城を築くに当りて今の地に遷座し、承応2年(1889)に至り氏子の協力に依りて更に社殿を造営せり。現在の社殿即ち是にして、寛保元年(1741)以後屡々修理を加へられたりと」

*大阪府史蹟名勝天然記念物(1931)
 「本社の創建沿革は詳なざれども、本社所蔵の記録及び摂津名所図会等によれば、元は比売許曾神社にして、今の大阪城址にありしが、何時の頃よりか仁徳天皇以下本社祭神を配祀し、後、元の比売古曾神社は遂に末社となるにいたれるなりと。(以下全志と略同じ)
などがある。

 資料の殆どが、当社は清和天皇・貞観8年奉幣・社殿造営というが、三代実録・貞観8年条にそれを示唆する記述はない。

 仁徳天皇の都について、書紀・仁徳元年条に「難波に都を造る。是を高津宮(タカツノミヤ)と謂す」とあり、“高津”ということから上町台地の何処かにあったのだろうが、未だその跡は見つかっていない。
 今、中央区法円坂1丁目にある高津宮跡(現高津宮跡史跡公園)は、孝徳天皇(36代)が造営(645)した前期高津宮(難波豊崎宮、686年に全焼)と聖武天皇(45代)が造営(744)した後期高津宮(平安京の副都)の跡であって、仁徳のそれではない。

 しかし、天正11年の大阪城築城に際して現在地に遷座というから、現大阪城周辺の何処かにあったと思われるが、その旧地については、諸説あるものの(ネット資料では5ヶ所ほどあがっている)何れも確証あってのものではない。現大阪城近傍の何処かにあったのであろう(中央区馬場町から法円坂にかけての何処かというのが、確証あってのものではない)

 その旧鎮座地候補の一つという天王寺区餌差町にある高津高校校内に立つ「高津宮址」との石碑には、「明治32年、府より諮問を受けた13名の学識経験者の総意にもとづき、(高津宮址は)この地・高津高校の一帯をその他であると定められた」とあるが、ネット資料を見ても比定根拠不祥で、当地にあったことを証するものではない。
 また、天王寺区東高津町にある東高津宮神社も、当社の元地であるとして元高津と称しているが、これも確証はない。

※祭神
 参詣の栞には
 ・本殿--仁徳天皇(第16代)
 ・左殿--応神天皇(仁徳の父)・仲哀天皇(仁徳の祖父)・神功皇后(仁徳の祖母)
 ・右殿--履中天皇(仁徳の長子)・葦姫皇后
とある。

◎仁徳天皇
 河内王朝の始祖・応神天皇の第4子で『大鷦鷯天皇』(オオササキ)とも称する。
 父・応神天皇の死後、皇太子である異母弟・菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)との間で皇位を譲り合い、郎子自死のあと皇位に付いたという(皇位を廻っての両者間の争いがあったとみる説もある)
 仁徳の仁政とは、4年条にいう
 ・高殿に登って遙かに眺めると、人家の煙が見えなかったので、人々は窮乏しているとして、その後3年間すべての課税を止められた
 ・7年、高殿に登り人家の煙が盛んに上がっているのをみて、「人民は豊かになってき、だから吾も富んだ」と喜ばれた
との伝承をさす。

◎葦姫皇后(華姫とする資料もある)
 記紀にみる仁徳の皇妃に葦姫皇后の名はみえないが、履中天皇と共に右殿に祀られていることから、磐之姫皇后を指すかと思われる。
 磐之姫命(イワノヒメ、古事記では石之比売)について、書紀には
 ・仁徳天皇の皇后で、武内宿禰の子・葛城襲津彦の娘。仁徳2年に立后。皇族以外からでた初めての皇后で、履中天皇(17代)・住吉仲皇子・反正天皇(18代)・允恭天皇(19代)の母。
 ・古事記に「大后石之比売命(イハノヒメ)、いたく嫉妬(ウハナリネタミ)したまひき」とあるように、嫉妬深かったといわれ、
 ・書紀によれば、天皇が八田皇女(ヤタノヒメミコ・応神の皇女)を妃として入れようとされたが、皇后は承知されなかった(仁徳22年)
 ・皇后が新嘗祭の酒宴を催すための御綱柏(ミツナカシハ)を採りに紀伊国に出かれられた留守中に、天皇が八田若郎女(ヤタノワキイラツメ・八田皇女)を召して宮中に入れられた(仁徳30年)
 ・これを聞いた皇后は怒って、御綱柏を海に投げ捨てて、皇居に帰らず淀川を遡って山城に帰り、故郷葛城高宮(父襲津彦の本貫地)がみえる筒城岡に宮室(筒城宮・ツヅキノミヤ、京都府田辺町付近)を造って住まわれた
 ・天皇が筒城宮にお出でになっても、使者を遣わされても会おうとされず、そのまま筒城宮で亡くなられた(仁徳35年)
 ・その後、天皇は八田若郎女を立てて皇后とされた(仁徳38年)
とある(大意)


※社殿等
 今の当社は市街地の中に立地し高台ともみえないが、嘗ては、摂津名所図会に、
 「此社頭は道頓堀の東にありて一堆の丘山なり。遙かに望めば、大阪の市街の萬戸・川口の帰帆・住吉の里・敷津・三津の浦まで一瞬のうちにありて、難波津の美観なり」
とあるように見晴らしの良い場所だったようで、江戸時代の錦絵には当社境内から市街地越しに遠く夕日を眺める様が描かれている。

 
高津宮・境内図(左が北)
 
錦 絵

 南の道路脇に立つ鳥居を入り、叢林に挟まれた長い参道を進んだ途中に〆柱が立ち、その先に境内入口がある。

 
高津宮神社・鳥居
 
同・参道途中の〆柱
 
同・境内入口

 境内正面に、唐破風向拝を有する堂々たる入母屋造・銅板葺きの拝殿が南面して建ち、内陣には、本・左・西3殿にあわせて3本の金の御幣が奉納してある。


同・拝殿1 
 
同・拝殿2
 
同・内陣

 拝殿の後ろには、弊殿を介して入母屋造・銅板葺きの本殿が鎮座するが、塀に囲われていて全体は見えない。

 
同・本殿(側面)

◎境内社
*比売許曾神社(ヒメコソ)--摂社
   祭神--下照姫命

 本殿の左奥(境内北西隅)、御輿庫の右隣りに鎮座する小社。
 傍らに立つ案内には、
 「比売古曾神社は延喜式内の神社にして、古くより高津宮社地に奉斎されていたが、高津宮が大坂城築城により現社地に遷座以来、高津宮の地主の大神として奉斎された」
とあり、高津宮遷座以前から当地に鎮座していたという。

 比売古(許)曾神社は、延喜式神名帳に『摂津国東成郡 比売許曾神社 名神大』とある式内社で、東成区東小橋3丁目にある比売許曾神社とするのが有力という。
 ただ、この神社は織田信長の石山本願寺合戦(1576)までは東小橋以外の何処かにあったが、それが合戦により類焼したことから東小橋に遷ったといわれ、その旧社地として幾つかある伝承地の一つが当社であって確証があるものではない。(別稿・比売許曾神社・同高津神社摂社産湯稲荷神社参照)

 なお、比売古曾社の南側に『郡戸王子 推定地』との石碑が立っている。
 大阪市内に残る熊野九十九王子跡推定値のひとつだが、此処に王子があったとの確証はない。

 
比売古曾神社・鳥居
 
同・社殿

同・社殿(側面) 
 
郡戸王子跡
石碑

 大阪府全志には、末社として皇大神宮宮以下22社の社名を記しているが、今、境内にみえるのは高倉稲荷神社・安井稲荷社・千年(歳)社・白菊社・常高神社の5社のみ。

*高倉稲荷神社
   祭神--宇賀御魂神(ウカノミタマ)

 本殿の向かって右(東側)に鎮座するが、鎮座由緒等は不明。
 朱塗りの鳥居列の奥に、唐破風向拝を有する朱塗りの社殿が南面して鎮座する。

 
高倉稲荷神社・鳥居
 
同・社殿 

*安井稲荷神社
   祭神--宇賀御魂神 (相殿)安次霊・道頓霊・道卜霊・安富霊

 高倉稲荷の右に西面して鎮座する。
 大阪府全志には、
 「大正元年(1912)12月長堀橋筋2丁目の無格社・安井稲荷神社を合祀せり。
  稲荷神社は安井稲荷と呼び、慶長年間(1596--15)道頓堀開削の時、宇賀御魂神を安井家の廷内に勧請したのに創まり、定次は道頓の父、安富は5代目九兵衛の妻・久氏なり」
として、久氏とは、宝栄年中に道頓堀を埋め立てて川幅を狭めようとの企てがあったとき、住民からの不平の声を受けて、幕府に不許可とするよう願い出、これを阻止した人物とある(大意)

 これによれば、当安井稲荷社は、道頓堀の開削者・安井道頓一家が祀っていた稲荷社を当境内に遷したものとなるが、その経緯は不明。

 
安井稲荷神社・社頭
 
同・社殿 

 安井稲荷神社の左奥に、境内北東隅の低地へ下る石段があり、その左隅に谷末社と称する小祠が南面して鎮座する。

*谷末社
  間口三間の横に長い朱塗りの社殿で、石段上の案内には、右から
   白菊社:草野姫命(野の神) ・千年(歳)社:大市姫命(市場の神) ・常富社:大山祇命(山の神) 
とあるが、勧請由緒・時期等は不明。

 
谷末社への石段
 
谷末社 

*陰陽石
 谷末社に降る石段の中程に陰陽石と呼ばれる2箇の奇石がある。

 陰陽石とは、男女の生殖器に似た石で、女性の陰部に似たものを陰石、男性のそれを陽石と呼ぶ。
 古来からの性信仰によれば、生殖器には潜在的に強力な呪力があるとされ、これを村境などの境界に祀ることで、邪鬼や悪霊あるいは外敵の侵入を阻止できるとされてきたもので、所謂道祖神・塞の神の一形態である。

 当社が如何なる由縁で陰陽石を祀るのかは不明だが、石段上の案内には、
 「女陰や男根に似た自然石は、生命力や繁栄の象徴であるとともに、豊穣祈願・商売繁昌祈願の対象として崇敬されてきた」
とある。
 当社の陰陽石は、自然石のままというより、人の手が加えられているようにもみえる。

 
陰 石
 
陽 石

◎絵馬殿
 境内西側に絵馬殿が建つ。昭和28年造営、平成11年改築とかで 屋根は入母屋造で内部は四方吹き放し。
 背後は石垣を積んだ崖で、樹木越しに高欄の付いた懸け造りの社殿がみえる。

 絵馬殿左前に立つ案内には、
 「高津宮の御祭神である仁徳天皇が、往古、高津宮(皇居)より民の家々を望み、「高き屋にのぼり・・・」と詠われた高殿をイメージした建物。
 昭和30年代頃までは、ここから大阪の市中を一望でき、よく晴れた日には大阪湾や六甲の山麓を見ることができた。江戸時代には茶店があり、雪見の名所として知られていた」
とある。


絵馬殿・正面 
 
同・背面

 殿内外上部に何枚かの絵馬が掲げられている(一般からの奉納絵馬はない)。その内の3葉。傍らの案内には
 ・左--高津宮の御祭神である仁徳天皇が高津宮の高き屋より国見をして、民の竃に煙が立ち登る故事を描いたもの
 ・中--4代目中村鴈治郎襲名記念として奉納されたもの
      襲名披露公演「廓文章/吉田屋」の主人公・伊左衛門を演じた場面を描く。
 ・右--4代目坂田藤十郎襲名記念として奉納されたも
      襲名披露公演「夏祭浪花鑑」で演じた団七の山場を描く。
とある。


仁徳天皇・皇后 
 
4代中村鴈治郎
 
4代坂田藤十郎


◎参道途中
 参道の途中、〆柱の先に「梅乃橋」と称する小さな石橋が架かり、その少し先に「梅ノ井」との井戸があり、その横に「献梅碑」との石碑が立っている。
 これらについて、浪速百事談には
 「社地の南に梅の橋と号く石橋を架け、其下小流れあり。こは梅川の名残にて・・・。
  此石橋のほとりに井あり。東柳水と石の井筒に彫したり。この井、いかなるものか 未だ考え得ず。
  高津神社の東南谷町筋辺りに梅ケ辻といふ字あり。是梅川の古の河畔の地にあたれり。
  梅川および此名は難波の梅の名所なるより名づけしものか。或ひは此辺、昔し梅林なりしや」
とある。

*梅乃橋
 高欄も低く目立たない石橋で、水は流れていない。
 傍らの案内には
  「現在の石橋は、1768年(明治5年) 天満9丁目の長浜屋五兵衛が奉納した。
  かつて高津宮一帯は梅の名所であり、橋名の由来となった。
  橋の下には梅川が流れていて、摂陽奇観(江戸後期)では、東から西へ流れる梅川を掘り下げたのが道頓堀とする“梅川道頓堀上流説”を紹介している」
とあり、摂津名所図会にも「高津鳥居 梅乃橋」として、鳥居から続く参道上に木橋が描かれ、下に小川が流れている。

 
梅乃橋(現在・北より望む)
 
摂津名所図会・梅乃橋(部分) 

*梅ノ井・献梅碑
  梅乃橋から少し行った参道脇の玉垣の中、左に献梅碑、右に梅ノ井がある。

 今の梅ノ井は、四角い井戸枠の上に石蓋が乗せてある空井戸で、井戸枠正面に五三桐の紋が、側面に文政貳歳・・・と刻され、右前に“梅ノ井”との石碑が立つ。
 傍らの案内には、
 「江戸時代、梅川のほとりにあった名水で、上町台地の伏流水が湧いていた。
 現在の梅ノ井は石蓋をした空井戸であり、高津宮南側の蓮光寺境内にあった井桁を移設したものらしい。
 右側の梅ノ井の碑は、仁徳天皇1500年(明治32年)東町有志によって建てられた」
とある。

 献梅碑は、自然石に「献梅碑」と刻された石碑で、傍らの案内には、
 「昭和3年(1928)に高津宮献梅会によって建立された。
 わが国に論語と千字文を伝えたとされる王仁博士が、梅花に和歌を添えて仁徳天皇に奉ったという話をもとに、毎年2月11日、献梅会の氏子らが梅花を神前に奉納している。
 王仁博士の歌
  難波津に咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと咲くやこの花」
   (歌意--難波津に梅の花が咲いた 冬ごもりが過ぎて春が来て 梅の花が咲いた--仁徳即位を祝っての歌ともいう)
とある。

 この歌が王仁の作かどうかは不祥だが、古今和歌集仮名序(905・紀貫之)
 「難波津の歌は、帝の御初め也。おほさざきの帝(仁徳天皇)の難波津にて皇子と聞こえける時、東宮を互いに譲りて、位につき給はで三年になれば(大鷦鷯皇子・仁徳と菟道稚郎子皇子が皇位を譲り合ったという伝承)、王仁といふ人 いぶかり思ひて奉りける歌也」
とあるように、平安の昔から王仁の作とされていたらしい。

 なお王仁博士とは、書紀・応神16年条に
 「春2月、王仁が来た。太子菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)はこれを師とされ諸々の典籍を学ばれた。すべてによく通達していた
 王仁は書首(フミノオビト)らの先祖である」
とあり、大阪府内には王仁に関係する伝承・遺跡等が点在するが確証のあるものはなく、伝説的人物ともいえる。


左:献梅碑・右:梅ノ井
 

梅ノ井 
 
献梅碑

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