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 杭 全 神 社
大阪市平野区平野宮町
祭神--第一殿:素戔鳴尊
                    第二殿:伊弉冊尊・速玉男尊・事解男尊
      第三殿:伊弉諾尊
                                                               2017.05.19参詣

 JR関西線・平野駅の東南東約300mの線路南側に鎮座する、式外社。

 駅南から出てまっすぐ直進、国道25号線・平野元町交差点を左折、南東方に進んだ宮前交差点北側に大鳥居が立つ。
 社名は“クマタ”と読む。大阪難読地名のひとつ。

※由緒・祭神
 当社には本殿3宇があり、それぞれ創建由緒・時期が異なり、頂いた参詣の栞平野郷惣社 杭全神社)によれば、

◎第一殿
 平安の初期、征夷大将軍・坂上田村麿の子・広野麿が杭全荘を荘園として賜ってこの地に居を構え、その子・当道が貞観4年(862)に氏神として素戔鳴尊を勧請し祇園社を創建したのが第一殿である。

 当社所蔵の『平野郷社縁起』によると、
  「昔、坂上某に神託ましまして、我はこの郷の地主の神也。時に至を待つこと久し、則ち山城の国愛宕郡八坂郷祇園社の牛頭天王(ゴズテンノウ)これなり、今よりこの郷にあがめ祭りなば安穏人民豊楽を守らんと宣ひ、まのあたり影向し給ひしかば、有難く覚え侍りて、勧請し奉りしと也。其の比(コロ)影向し給へる所に生えた松なれば、今に残りて当社影向の松とぞいひ伝へ侍りける」
 とある。

◎第三殿
 降って、建久元年(1190)に熊野信仰の流行するに及び、熊野證誠権現(伊弉諾尊)を勧請建立したのが第三殿である。

 同じく、郷社縁起によれば、
  「抑当社に熊野證誠大権現の尊形遷座ましましけるは、後鳥羽院の御宇・建久元年3月3日、当社へ山伏一人笈を負ひ来り社僧にかたりて曰く、役の小角(エンノオズヌ)御手づから彫み給ふ熊野證誠大権現の尊形を付属すべし。当社牛頭天王とならべてあがめ奉りなば、此の郷を守らせ給ひ長く繁栄の地とならんといひ侍りしかど、社僧うけひかざれば、山伏跡をけちて帰り去りしが、当社より四五町ひつじさる(未申)の方なる一本の松に件の笈をかけ置きぬ。
 其夜、今の権現鎮座ますほとりへ此松より光をはなてり、笈かけ松とて今に残れるは是なり。之に加えて、その比当社境内において一夜に梛(ナギ)の木三本生出て烏三羽飛び来たり、人をも恐れず三本の梛にやどれり、今の世までも梛を神木とあがめ烏を使鳥とするは是なり。
 其時、人々奇異の思ひをなし松にかけ置し笈を開き見侍るに、微妙瑞厳の尊形おはしましければ、身の毛もよだちて有難く覚へ、まぎるべくもあらず熊野證誠大権現と拝み奉りぬ。
 殊更種々の奇瑞ありしかば七名の長是をはかり、日あらずして社壇あらたにし奉り、尊形鎮座ましまして證誠殿とあがめしかば、貴賤心を傾け遠近歩を運び、神慮を仰がざるはなかりき」
と證誠殿勧請の由来が記されている。

◎第二殿
 更に、元亨元年(1321)に熊野三所権現(伊弉冊尊・速玉男尊・事解男尊)を勧請建立したのが第二殿であり、この時、時の帝・後醍醐天皇より『熊野三所権現』の勅額を賜った。

 郷社縁起では、
  「後醍醐天皇の御宇・元亨元年、当社熊野権現影向の来由を天聞に達せしかば、叡慮浅からず詔勅ましまして、證誠殿の社再興ありて更に熊野三所権現を勧請し奉り、此一郷の惣社といはひ、若一王子等の諸社、熊野権現の本地・阿弥陀如来安座し給へる宝塔以下の諸堂修造こと終り、華表(鳥居)の額・熊野三所権現と宸翰をそめさせ給ひ、神宮寺僧宝祚長久を祈り奉るべき宣旨を下し給ひぬ」
とあって、この時荒廃していた諸殿・諸堂が修復され、詔勅によって熊野権現社が総社となり、第一殿の祇園社と並び称されるようになった。

◎明治以降
 明治3年(1870)社号を杭全神社と定められ、本来の祇園社を本社、熊野三所を雑社熊野神社とし、證誠殿を摂社、田村堂を別社、その他を末社と定められた。
とある。


 杭全郷社縁起とは江戸中期の享保3年(1718)にまとめられという古資料だが、その時期が神仏習合思想が風靡していた江戸時代中期のこことて、原文は仏教的色彩が強いが(近代デジタルライブラリーで検索可能)、上記由緒ではその部分のほとんどが省略・改変されている。

 当社が鎮座する住吉区平野宮町から南にかけての一帯は、嘗ては平野郷と呼ばれ、和名類聚抄(937)に摂津国住吉郡杭全郷とある古くからの地区で(鎌倉末期頃から平野庄とも呼ばれた)、平安初期の征夷大将軍・坂上田村麿の子孫と称する坂上一族が開発したという。
 それに関連して、貞享5年(1688・元禄元年)、平野庄の年寄・庄屋らが連名で代官所に提出した口上の覚に、
 「平野庄は坂上田村麿将軍御息、広野卿御知行所御城郭に御座候。家臣此地に相残、只今の平野庄年寄先祖に御座候」
とあり(大阪市史3巻・1989)、地元ではそういう伝承があったのは確かであろう。

*第一殿
 参詣の栞は、第一殿の創建を桓武朝での征夷大将軍・坂上田村麻呂の孫・当道(マサミチ・813--67)に求め、その創建を清和天皇・貞観4年(862)としている。
 当道の出身氏族・坂上氏は渡来人・阿知使主(アチオミ)の後裔で、阿知使主10代の後裔・田村麻呂の次男・広野(787--828)が平野庄を賜り開発したことから「平野殿」と呼ばれたという。
 (書紀・応神20年9月条に「倭漢直の祖・阿知使主が人々を率いてやってきた」とあり、
  姓氏録には「右京諸蕃 坂上大宿弥 後漢霊帝の子・延王より出」とあり、延王の子が阿知使主という)

 その広野の子(広野の弟・浄野789--850の子ともいう)が当道で、自家の所領・平野庄の鎮守として奉斎したのが当社という。

 古代にあって、自家の所領に神社を創建する場合、その祭神は自家の始祖(氏神)とするのが多いが、当社は何故か坂上氏とは繋がりのない牛頭天王となっている。
 牛頭天王とはインド・祇園精舎の守護神というが、わが国では備後国風土記にいう蘇民将来伝説にみるように強力な疫病神として畏れられ、それを祀ることで、逆に疫病や災厄から守ってくれるという防疫神へと転じたもので、その信仰は長岡京時代(784--94)には一般に広まっていたという(長岡京跡から「蘇民将来子孫」と墨書した木簡が出土している)
 その防疫神としての牛頭天王を山城祇園社から勧請したのが当社第一殿というが、創建当初は坂上氏の始祖だったものが疫病退散を願う時代の要請から牛頭天王に変わったのかもしれない。

 いま、第一殿の祭神は素戔鳴尊となっているが、本来のそれは郷社縁起がいうように牛頭天王であって、明治の神仏分離によって牛頭天王が排斥されたことから、同じ神格(防疫神)をもつ素戔鳴尊に替えられたのであろう。
 なお、第一殿中門前の立札には「牛頭天王(御祭神・素戔鳴尊)」とあり、旧態を残している。
 また、牛頭天王を祀ることから、江戸時代までは第一殿を祇園社(祇園宮)と称していたようで、廻廊の右手に「祇園宮御旅所」と刻した古い石灯籠2基が立っている(奉献時期不明)

*第三殿
 参詣の栞は、第三殿(證誠殿)は熊野誠證殿(セイショウデン・現熊野本宮大社)を勧請したものという。
 その創建について、郷社縁起には「後鳥羽院の御宇・建久元年」とあるが、建久元年(1190)は後白河上皇の院政期であって、その時の後鳥羽院は未だ天皇であって上皇(院)ではない(後鳥羽上皇の院政期は建久9年-1198から承久3年-1221。後鳥羽院とは後鳥羽天皇の誤記かもしれない。

 また参詣の栞は、證誠殿勧請は「熊野信仰の流行に及び」というが、建久元年前後(平安末期)の熊野信仰(熊野詣)は上皇を中心とする上層階級によるものであり、これが一般民衆までに広がったのは鎌倉から室町時代にかけてのことという。
 これからみると、證誠殿の勧請年次は建久元年というより、すこし時代が降った鎌倉時代以降とみるのが順当かと思われる。
 因みに上皇による熊野詣では、宇多上皇の延喜7年(907)に始まり亀山上皇・弘安4年(1281)まで続いたといわれ(上皇9人・延べ99回)、後白河上皇は上皇在位18年間に34回、続く後鳥羽上皇は23年間に28回熊野に詣でたという。

 今の熊野本宮・誠証殿の祭神は家津御子大神(ケツミコ)だが、誠証殿が熊野詣の対象とされるのは、これの本地仏が阿弥陀如来とされたことによるもので、熊野詣の人々は家津御子大神参拝というより、阿弥陀如来による救済を求めて、険しい山道を踏み分けて参詣したという。

 今の当社では證誠権現を伊弉諾尊とするが、熊野本宮では家津御子大神の別名は素戔鳴尊であり、当社が證誠殿祭神を伊弉諾尊とする由縁は不明。
 憶測すれば、素戔鳴尊は既に第一殿に祀られていることから伊弉諾尊としたのかもしれない。

*第二殿
 郷社縁起には、「後醍醐天皇の御宇・元亨元年に熊野三所権現を勧請」というが、元亨元年(1321)とは即位3年目の後醍醐天皇が、それまで続いていた院政を廃止して天皇による親政を始めた年で、熊野信仰が盛んだったとはいえ、親政開始の慌ただしいなかでの第二殿創建は疑わしい。
 憶測すれば、後醍醐天皇時代創建という伝承があって、それを親政開始の元亨元年に充てたのかもしれない。

 当社では、熊野三所権現を伊弉冊尊(イザナミ)・速玉男尊(ハヤタマオ)・事解男尊(コトサカオ)というが(郷社縁起には三所権現の神名は記載されていない。後世になって充てられた神名であろう)、通常は
  熊野本宮大社(証誠殿)--家津御子大神、別名:素戔鳴尊、本地仏:阿弥陀如来
  熊野速玉大社(新宮)--熊野速玉大神、別名:伊弉諾尊、本地仏:薬師如来
  熊野那智大社(那智)--熊野牟須美大神、別名:伊弉冊尊、本地仏:十一面観音菩薩
とされ、当社三所権現とは異なっている。

 当社がいう三所権現のうち速玉男尊・事解男尊とは、書紀5段・一書10に
 「伊弉諾尊が泉平坂(ヨモツヒラサカ)で、追ってきた伊弉冊尊に離別を告げられたとき、吐かれた唾から生まれた神を速玉之男という、次に掃きはらって生まれた神を泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)と名付けた」
とあることから、この2神は伊弉諾尊から生まれた兄弟神ともいえる(速玉大神の別名を伊弉諾尊・事解男尊とする資料もある)

 熊野三所権現といえば、熊野三山(本宮・新宮・那智)の神々を充てるべきだろうが、当社三所権現は熊野三山それぞれの神名ではなく(本宮大社の神が入っていない)、当社が上記3神を以て三所権現とする根拠は不明。

 これらからみると、当社3殿の祭神は熊野三山のそれとは整合せず、後世の賢しら人が勝手に祀った神々との感が強い。
 (熊野の神々については、別項・熊野の神々参照)

 因みに、熊野の神々を三所権現として崇敬したのは、その本地仏、本宮・阿弥陀如来に来世の救済を、速玉・薬師如来に病気治癒を、那智・十一面観音に現世での救済、所謂現当二世(現世と来世)の救済を願ってのことともいう。

※社殿等
 国道25号線・宮前交差点北側に立つ大鳥居(明治32年-1899再建のもの)を入り、平野小学校(明治5年開校)東側塀に沿った参道を進んだ先に、注連縄を張り渡した標柱(シメハシラ)が立つ。
 標柱を入った左(西側)、玉垣に囲まれて樟の巨樹が亭々と聳え、傍らの立札には「幹周り約10m、高さ約30m、樹齢千年、大阪府指定天然記念物」とある。


杭全神社・大鳥居
 
同・標柱
 
同・樟の巨樹

 標柱を入った参道の先に大門と称する四脚門があり境内に入る。大門は鎌倉時代のもので、当社で最も古い建物という。

 境内に入ると、正面に拝殿(唐破風向拝付き入母屋造・瓦葺)が建つ。安政5年(1858)建造、平成2年大改修
 拝殿内陣は3本の御幣が立ち大太鼓を置いただけの簡素な造りで、素通しになった奥に第二殿の中門がみえる。

 
同・大門
 
同・拝殿
 
同・拝殿内陣
(奥に第二殿中門がみえる)

◎本殿

 拝殿の背後(北側)少し離れて中門と称する横に長い朱塗りの廻廊(瓦葺透塀)が建ち、左(西側)から千鳥破風を有する第一殿・第二殿・第三殿の中門が開き、第一殿中門前のみに朱塗り鳥居が立っている

 廻廊(中門)の奥が本殿域で、左から
 ・第一殿--春日造(妻入り、檜皮葺)・祭神:素戔鳴尊(牛頭天王)
 ・第二殿--三間社流造(平入り、檜皮葺)・祭神:熊野三所権現
 ・第三殿--春日造(妻入り、檜皮葺)・祭神:伊弉諾尊
が東西に並んで鎮座する。

 本殿3宇ともに国指定の重要文化財
 第一殿は元禄3年(1690)造の春日大社第三殿を正徳元年(1711)に譲り受け移築したもので、現存する春日社旧社殿の内、由緒が明らかで年代の古いもののひとつという
 第二・第三殿はともに大阪市内最古の神社建築で、所蔵する棟札には永正10年(1513・室町時代)とあるという

社殿配置図(拝殿・本殿部分)

 ただ、廻廊の格子(青色部)の隙間が狭く、内部の様子はよくみえない。

 
廻廊(西側より)
 
廻廊(東側より)
 
本殿(左より第一殿・第二殿・第三殿)
(参詣の栞から転写)
 
第一殿中門
 
第二殿中門
 
第三殿中門

第一殿・本殿正面 
 
第二殿・本殿正面
 
第三殿・本殿正面

◎境内社

 本殿域内第三殿の右側(東側)に、境内末社
 ・若一王子社--祭神:若歳神  
            永正10年、第二殿と同時造営という
        若歳神とは穀物神・大歳神の御子だが、熊野における若一王子(ニャクイチオウジ)はアマテラスとされることが多い
        当社が若歳神とする由来は不明。
 ・八王子社--祭神:天忍穂耳命・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野久須比命
               多岐理比売命・多岐津比売命・狭依比売命
           永正10年第二殿と同時造営という
        アマテラスとスサノオの誓約(ウケヒ)によって成り出た8柱の御子神だが、
        当社本来の祭神が牛頭天王であることからみると、本来は牛頭天王の御子神8柱だったかと思われる。
 ・天満宮--菅原道真公
 ・皇大神宮--天照皇大神
が鎮座するが、廻廊格子の隙間が狭くて実見不能。

 境内左側(西側)に、境内末社5社が鎮座する。北より
 ・吉岡稲荷社--宇賀御魂神(ウガノミタマ)
 ・源光稲荷社--同上--吉岡稲荷社の右奥に鎮座し、自然石に「源光大神」と刻した石碑が立つ。

 
吉岡稲荷社・正面
 
同・側面
 
源光稲荷社・側面
 
同・内陣

 ・十柱社--加茂社(別雷神)・愛宕社(火産霊神)・金比羅宮(金山彦命)・松尾社(大山祇命)
         ・八幡宮(誉田別命)・住吉社(中筒男命)・中井社(素戔鳴尊)・多賀社(伊弉諾尊)
         ・大国社(大己貴命)・戎社(事代主命)
    明治末の神社統合整理政策によって、郷内各所に鎮座していた小社を当社に統合合祀したものであろう。
 ・田村堂(祖霊社)--坂上田村麿・広野麿及び坂上家の祖霊
               平野郷七名家祖霊・平野郷の功労者
               日清・日露両戦争から第二次世界大戦に至る戦没者の霊
    この小社は、神仏習合時代当社内にあった神宮寺の弘法大師堂(慶安2年・1649建造)で、今に残る唯一の仏堂で、
    明治の神仏分離の際、ここに祀られていた弘法大師像と長宝寺(平野本町3丁目・天平年間・806--10創建、坂上氏の氏寺)の坂上田村麿像とを交換し、建物はそのままに田村堂として祀ったという。
    平野郷七名家とは、坂上広野麿の後裔と称する7軒の家々で、年寄として平野郷の自治を主導したという。
 ・恵比須社--事代主命

 
十柱社
 
田村堂(祖霊社)
 
恵比須社

 境内右側(東側)に鎮守社(栗栖神)との小祠が、その南に社務所に連なって連歌所がある。

 鎮守社の祭神・栗栖神の出自神格は不明。
 ただ、姓氏録・河内国神別氏族に「栗栖連」があり、「饒速日命(ニギハヤヒ)の子・于摩志摩治命(ウマシマジ)の後也」とあることから、この物部氏系氏族・栗栖連が関係するのかもしれないが、当地に物部氏系氏族が居たとの資料はみえない。

 連歌所について、参詣の栞には
  「当社の連歌所は連歌のために建物として現存するわが国唯一のものである。最初の建物は大阪冬の陣で破壊され、宝永5年に再建されたもの。・・・・
 連歌会は明治以降廃されていたが、昭和62年に復活し、現在も月一回定期的に開かれている」
とある。

 また、田村堂の前に社名不明の小祠があり、注連縄を張った柱4本で囲った区画があって6基の釜が置いてある。 釜があることからみれば、此処で湯立神事が行われるのかと思われるが詳細不明。


鎮守社 
   
不明社と湯立神事の釜

◎境外末社
 ・宇賀社--市杵島姫命(イチキシマヒメ・弁天さん)
   大鳥居から標柱に至る参道中程の左側(西側)にある弁天池の中に鎮座する小祠
   嘗ての弁天池は南から西へ廻って神社を囲む濠に連なっていたという。

 
宇賀社・全景

同・鳥居 

同・社殿 

 なお、境外末社として宇賀神社の他に赤留比売神社(アカルヒメ・平野区平野東2丁目)がある。(別項・赤留比売神社参照)

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