トップページへ戻る

柴島神社
大阪市東淀川区柴島(クニジマ)3-7-30
祭神--八幡大神・春日大神・天照皇大神
付--柴島晒
                                                       2021.06.21参詣

 阪急電鉄千里線・柴島駅の北東約350m、線路沿いの道路を北東へ進み、突き当たりを右に進んだ突き当たりを左に入った右側(東側)にある柴島西公園の奥に鎮座する。

 「柴島」は「クニジマ」と読むが、その由縁について、大阪府全志(1922)には
 「本地は古来西成郡に属し、下中島の内なり。往古に於ける難波八十島の一にして、莖島(クキジマ)と呼びしが、後柴島村と称す。柴島は莖島の転ならん。一に国島に作れるものあり。
 村名の起原として両説あり。
 その一説は、柴島は檞(クヌギ)島ならんか。檞は普く柴薪となる木なれば、古へ此所に多く檞を植えて薪の料とし遠近へ送りしゆえ檞島と呼びたりしを、いつしか略して柴島といひたるなるべしといひ、
 又一説には、四条院の貞永元年の洪水に際し、柴に乗りたる小社の漂着せしを奉安したるにより柴島と名づけたりと、
 共に俗伝ならん」
とある。

※由緒
 境内に掲げる案内には、
 「昔から淀川の氾濫により流域地帯は度重なる洪水の為苦しめられていた。鎌倉時代の貞永元年(1232)仲秋の大洪水は30日余りの間大海の如き有様であったと伝える。
 当地域に在った仲哀天皇を祀る森は、他所より一丈(約3m)ほど高所であったので、村人達が避難していた、その処へ柴の束に乗った小祠が漂着した。時は貞永元年菊月27日の事である。
 其の後日毎に水も引き助かった村人達が産土神としてこの小祠をこの地に斎き祀ったのが起源と伝えられている。

 当社は元字白妙(今の淀川河川敷)に在り、樹木繁茂し村社の社格を与えられ、神饌幣帛料供進社に指定された。
 明治時代の淀川大改修工事の為、現在地(旧字調布)へ移転され、仲哀天王社も境内に移された。明治34年4月26日の事である。

 宝暦5年6月、正親町三条殿より三十六歌仙額並びに灯篭一対奉納され、年号不祥年6月園前大納言より神号額並びに灯篭一対が奉納された。
 特に社宝の御神刀は室町鎌倉時代の作と鑑定され、文化財の指定をうけ博物館で保管されており、当社の起源の古さを表している」
とある。

 なお、当社には、
 「当時、この地は仲哀天皇を産土神として奉祀し『仲哀天皇の森』と呼ばれ、他所より一丈ばかり高地であったので、人達は当地に避難した。
 9月27日になり、柴に乗った小社が流れてきて、人々が見守るうちに当地に漂着した。
 村人達が不思議に思っていたその夜、里長3人夫々の夢に白髪の老翁忽然と現れ、一人は弓矢を携え白馬に乗り、一人は寿木の杖にて鹿を愛で給う。
 3人とも夢心地に不審に思い『如何なる御方にて渡らせ給う』と尋ねれば、『我は八幡、我は春日、中は天照皇大神にて、今より後は此の里の産土神となりて守護す。
 柴に乗り来る儀を祝い、里の名を柴島と名付け、汝が子孫永く末まで繁栄せよ。我が告げ知らす言葉をよく覚えて人々子孫へ伝えよ』と宣る御声とともに小社にお入りになるのが見えた。

 3人とも夢覚めてお互いに同じ夢を見たことを知り、これは神のお告げと急いで林の中に美しい白砂を敷きて御安座とし、里の名を柴島と改めるは神勅なりと、夢に見たことを詳しく書き残し時の記録所に訴えて、柴という字は『くに』という読みがあるので、柴島と書いて『くにじま』と呼ぶようになった。以前は国島と書いていたといわれる。
 神勅のとうり八幡大神・天照皇大神・春日大神の三柱を産土神として奉祀し、特に八幡大神は初めに3人の里長にお告げになったので主神としている」
との伝承が伝わっているというが、社務所不在のため確認できていない。


※祭神
 社頭の案内には、
  御祭神  八幡大神(応神天皇・神宮皇后)
         春日大御(天児屋根命・建御雷命・経津主命・比売神)
         天照皇大神     (相殿)天満天神
とある。

 伝承にいう、漂着した柴の束に乗ってきたという3柱の神を祀るのだろうが、それが八幡大神以下の3柱だったという由縁は不祥。
 臆測すれば、室町中期頃に始ったとされる『三社託宣信仰』に関係するのかもしれない。

 三社託宣信仰とは、中央に天照皇大神、右に八幡大菩薩(八幡大神)、左に春日大明神(春日大神)の神名を、その下に三神がくだした託宣を記した掛軸(右図)を床の間に掛けるなどして信仰したもので、江戸時代に流行したという。 

 三神の託宣とは(漢文読み下し)
 ・天照皇大神--謀計は眼前の利潤たりといえども、必ず神明の罰に当たる。正直は一旦の江怙(エコ)に非ずといえども、ついには日月の憐れみを蒙る 
 ・八幡大神--鉄丸を食すといえども、心汚れたる人の物を受けず、銅焔(ドウエン)に座すといえども、心穢れたる人の処に至らず 
 ・春日大神--千日の注連を曳くといえども、邪見の家には到らず、重服深厚たりといえども、慈悲の室(イエ)におもむくべし
であって、正直・清浄・慈悲を勧める託宣という。

※社殿等
 道路脇に鳥居が立ち柴島西公園へ入り、その奥、玉垣で区切られた中が境内。


柴島神社・鳥居 
 
同・境内

 境内の左側(北側)に唐破風向拝・千鳥破風を有する入母屋造・亙葺きの拝殿が南面して鎮座する。
 拝殿の背後に本殿があるが、周りの建物に邪魔されて、見えるのは屋根の一部のみ。


同・拝殿 
 
同・拝殿(側面)
(左に本殿の屋根のみが見える)

◎境内社
 境内東奥に小祠2社が西面して鎮座する。
*仲哀天皇社(摂社)
   祭神--仲哀天皇
 右側に鎮座する小祠で、傍らの案内には
 「創建年代不詳。柴島神社創建以前、此地は『仲哀天皇の森』と呼ばれ、産土神として信仰を集め、仲哀天皇御休息の地と伝えられている」

 Wikipediaには、
 「仲哀天皇が熊襲追討のため長門国り穴門へ旅する途中、この地に逗留して日和待ちをしたが、村人たちが新鮮な野菜を献上したところ、大変喜ばれ、自らの木造(木像か)を刻み残されたのが起源と伝えられる」
とある。

 
摂社-仲哀天皇社・鳥居
   
同・社殿

*住吉社(末社)
   祭神--住吉大神・稲荷大神・水波能売神(ミズハノメ)
 左側に鎮座する小祠で、傍らの案内には
 「創建年代不詳。 明治の頃、末社『水神社』を合祀。昔から合祀されている『お稲荷さん』は人々に親しまれている」

 Wikipediaには
 「水波能売神は井戸水の神で、淀川の水害から守り、飲料水や晒業(江戸時代、当地は柴島晒が盛んであった)の守護神である。『柴島の水神さん』の名で親しまれている」
とある。

 
末社-住吉神社・鳥居
 
同・社殿 

【柴島晒】
 境内に入った左に、『柴島晒ゆかりの地』との石碑が立ち、傍らの案内には
 「江戸時代、大坂の周辺では綿花の栽培が盛んで、それを原料として木綿業が発達していました。
 柴島一帯では、淀川の流れを利用して木綿を洗い、それを干して乾燥させ、陽にあてることで白く加工するという晒業が営まれていました。はじまりは文禄2年(1594)にさかのぼるといわれています。

 明治の末には年間800万反を生産し、大阪の主力産業のひとつでしたが、淀川改修工事や柴島浄水場の建設などの影響もあり、昔からの晒業は衰えてしまいました」
とあり、淀川の堤で木綿を晒している様子を描いた浪花百景の絵図(下右絵図)を載せている。


石 碑
(柴島晒ゆかりの地) 


柴島晒堤
(浪花百景・資料転写)

 柴島晒について、摂津名所図会(1798)には、
 「柴島  今土俗国島と書す。此辺淀川の流れを汲んで布木綿を晒す。これを柴島晒といふ」
とあり、
 また摂津名所図会大成(1855)には
 「柴嶋  淀川の側(カタワラ)にあり今俗に国嶋と書す。
 此辺り淀川の流れをくみて布木綿をさらす。是を国嶋晒といふ。
 此堤の傍辺一園に布木綿を延べ敷て乾し晒すゆへに恰も雪の降つみしごとく、其眺望景なり。
 俗にさらし堤と号し、浪花の貴賤舟行して此処に遊ぶこと平生にありて風流の地なり」
とある。 

 わが国への綿花伝来は延暦18年(799)といわれ、日本後紀・延暦18年秋7月条に、
 「本月、小舟に乗り三河国に漂着した人がいた。布を背に巻きつけ褌を身につけるも袴を着せず、年齢は20ほど。(中略)
 持ち物を調べると草の実のようなものがあり、綿の種子という。(以下略)
とあり、資料によれば、若者はその栽培を広めようとしたが1年足らずで途切れたという。

 その綿花栽培が一般に広まったのは戦国時代(16世紀)以降といわれ、全国的に綿布の使用が普及したことから、江戸時代に入ると急速に綿花の栽培が拡大し、大阪近郊では平野郷(現大阪市平野区)を中心として綿花産業が盛んとなり、大阪市史(1989)によれば、平野郷村における綿花作付面積は全耕作地の約7割を占めており(延享2年-1745)、各村で生産された綿布は、『河内木綿』との総称のもと、木綿問屋を通じて全国に広まったという。

 ただ、その生産は家内産業としてのそれであったようで、河内名所図会(1801)には、
 「名産高安木綿  高安郡(現八尾市附近)の農民綿を多く作りて、夜は家毎に老若男女のわいためなく紡績(クリツムギ)て、女はこれを織りて商ふ。他郡に勝れて幅広く、染めるに色よく、着るに強地(ツヨヂ)也。是を河内木綿といふ」
として、下の図会が載せられ、
 そこには、左に農家の軒先での商談の様子が、その右の部屋で女性が綿布を織る様子が描かれている。


河内名所図会・高安木綿の図 


 

同・左部分拡大

 当地・柴島での綿花栽培の状況は不祥だが、近傍の十八条村(現淀川区)では、18世紀前半頃の綿花栽培地が全耕作地の約45%だったというから(大阪市史)、この辺りで織った木綿布を淀川の流れで晒して不純物や塵などを除去し、純白の木綿布として木綿問屋へ卸したのであろう。

トップページへ戻る