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南長柄八幡宮
大阪市北区長柄中1-4-25
祭神--応神天皇
                                                     2020.10.27参詣

 大阪メトロ谷町線堺筋線・天神橋六丁目駅(天六交差点)の東約400m弱、駅から都島通を東南東に進み、4っめの角を左折、北へ進んだ左側(西側)に鎮座する。

※由緒
 境内に案内等なく、且つ社務所も無人だったため由緒等不明。
 ネット検索の結果、最も詳しいと思えるものとして
 「創建年月日は詳。
  昔はとっても大きかったところで、今の鶴満寺公園の辺りにあった。
  その頃の境内には、織田信長が石山合戦で本願寺を攻めるための兵糧を備蓄する古い倉庫があったという。
  1744年頃(江戸中期)は鶴の八幡と呼ばれ、境内に鶴が子育てしていて、見物人が大勢やってきたという逸話が残っている。
  一度豊﨑神社に合祀されたが、地元の厚い要望で再建された」
がある。

 一方、合祀されていた豊﨑神社から別れて現在地に再建された後、その初代宮司の手でまとめられた由緒には、
 「当宮は、承徳2年(1098・平安後期)の難波八十八島の古地図に記された宮で、当時は広大な境内に鎮守されてあった。
  御神体は一寸五分の金立像であらせられる。
  古老の申し伝えでは、江州八幡社の本社にして水中より流れ着かれ水中八幡宮、また神木に鶴の子を育てたるを見て鶴の八幡宮と称し親しまれました。
  明治41年(1908)豊﨑宮に合祀されていたが、昭和23年(1948)に当地に遷御鎮座されたのです。
  その後、地域の氏神様として本殿・社務所が造営され昭和40年(昭和30年の誤記ともいう)竣工、今日に至りました」
とあるという(ネット資料・天満ながら名所図会・南長柄八幡より、以下「前掲資料」という)


 当社は、中世からの長柄村が江戸初期に分村した北長柄村・南長柄村のうち、南長柄村の氏神として奉斎されていたというが、その創建由緒・時代等は不明。
 かつての当社は承徳2年(1098、平安後期)の古地図にみえるというから、北・南長柄村分村以前からあったと思われるが詳細不明。

 当社の社地は、明治末までは当社の東に位置する鶴滿寺(カクマンジ)公園付近にあったといわれ、資料には、
 ・かつて公園のすぐ東には旧淀川の堤があり、その東は堤外流作地(低湿地)となっていた、
 ・大川便覧(1843)との絵図によれば、北から鶯塚・南長柄・国分寺と続く絵図の中央・南長柄の処に鶴満寺との寺名ががみえ、それに隣接してみえる社が当社ではないか
 ・旧の当社は長柄砂洲の北部西岸という水上交通の要所にあって、川を背にし、川に向かって拝する神社ではなかったか
とある。


鶴滿寺公園道路西側より)

 鶴滿寺公園辺りにあったという旧社を、織田信長が石山合戦の折に兵糧備蓄地として利用したというが、それは旧社が川に近接していて、物資の集散に便利だったことからであろう。

 鶴滿寺公園は、今も当社の東・天満橋筋に面しているが、平坦な市街地の中にある普通の公園で、その東にも平坦な市街地が広がり、その辺りに川が流れていた痕跡はない。 

 かつての当社は“水中八幡宮”あるいは“鶴の八幡”と呼ばれという。
 鶴の八幡とは、延享元年(1744)当社境内の松に鶴が巣をかけ子を育てるということがあり、それが珍しいとして多くの見物人が集まったからといわれ、
  「鶴も巣をかけずは こうも見られまじ 今も長柄に続く人橋」
  「吹く風も 納まる御世の松ヶ枝に 千代の数添ふ 鶴のみどり子」
などと詠まれたという。

 水中八幡について、前掲資料には「江州(近江国)八幡社の本社にして水中より流れつかれ水中八幡宮・・・」とあるが、これは
  江州八幡社から流れつかれた何かを御神体として祀ったのが当社
を意味するかと思われるが、前文だけをみれば、当社が江州八幡社の本社ともとれ、この一文だけでは、水中八幡宮と呼ばれた由縁ははっきりしない。
 また、江州八幡社が近江の何処にあった八幡宮かもはっきりしない。


※社殿等
 境内東側の南北道路に面して鳥居が立つが、周囲を民家・商店に囲まれた境内は狭く、そこに拝殿・社務所の建物が密集していて、スペースなく拝殿正面の写真は撮れない。
 鳥居及び拝殿扁額に「八幡宮」とあるだけで、案内等なし。
 また、拝殿背後の本殿も、拝殿横の隙間から屋根と側面に一部が見えるたけで、流造社殿らしいが詳細不明。

 
南長柄八幡宮・社頭
 
同・鳥居 

同・拝殿 (右は社務所)
 
同・内陣
 
同・本殿

[付記]
 地名・長柄について
 この辺りは旧淀川・中津川(長柄川ともいう)の沖積作用でできた土地で、時代によって流路が変遷したが、新淀川開鑿後は平坦な土地となり、かつての面影はない。

 かつて、この地一帯は
 ・「ものいはじ 父は長柄の人柱 雉も鳴かずば射られざらまし」との歌で知られる「長柄の人柱伝説」にいう「長柄橋」は、今、新淀川に架かる現長柄橋の北方にあったという
 ・その長柄橋について、摂津名所図会(1798)・長柄橋跡項には
  此橋の旧跡古来より定かならず。何れの世に架け初(ソメ)て何れの世に朽ち崩れけん、これ又分明ならず。橋杭と称する朽木所々にあり
  難波江・難波入江・・・の中に嶋々多くあり
  孝徳帝豊碕宮の御時より、かの島々に掛け架(ワタ)して皇居への通路なり
  今諺に云ふ、長柄橋は長さ一里ありしと云ひ伝えたり。一橋の名にあらずして島より島へ架して、橋の数多くあれども地名により皆長柄橋といひならわしけり
  孝徳帝崩じ給ふのち大和の飛鳥宮に遷都し給ひ、橋の修理も怠り、風威の時江海■芒して落損しける事多し
  その後嵯峨天皇の御時、弘仁3年(812)夏6月、再び長柄橋を造らしむ。人柱は此時なり(時期については諸説あり)
  後世に及んで江海みな変じて田園となり、今の如く村里食田多し。桑田変じて海となるよりは大なる益ならんか
とある(要点抄記)

 ・当地の西方には(現豊﨑神社一帯)、孝徳天皇が遷都したという難波宮即ち「難波長柄豊碕宮」(652完成)の旧跡という伝承地があり、その宮名・長柄は当地の地名によるものと思われる(今、難波宮は中央区法円坂にあったとするのが定説)
 ・斉明天皇の御代(7世紀中頃)に造営されたという長柄寺が、その『後摂津国分寺』と改称し(741)、当社の南にある国分寺がその後裔寺という(別稿・淀川天神社参照)
ことなどからみて、広い範囲が『長柄』と呼ばれていたらしい。

 その後の沿革は不祥だが、
 ・中世の頃には、この辺りに「長柄村」という集落があったが、江戸時代初期に「北長柄村」と「南長柄村」に分村
 ・明治以降の町村等改変による変遷を経て、大正14年(1925)の大阪市第二次市域拡張の際に東淀川区に編入され、同区北長柄町・南長柄町と改称
 ・昭和2年(1927)、町名を長柄浜通り・長柄東通・長柄中通・長柄西通に分割改称
 ・昭和18年(1943)、大淀区の新設に伴い大淀区に所属
 ・昭和52年(1977)、新住居表示施行により北区に所属し、長柄東・長柄中・長柄西に改称
という。

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