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御津八幡宮
大阪市中央区西心斎橋2-10-7
祭神--応神天皇・仲哀天皇・神功皇后
                                                 2020.05.30参詣

 大阪市の中央を南北に走る大阪メトロ御堂筋線・心斎橋駅の南南西約300m。
 駅をあがって御堂筋線を南下し、御堂筋八幡町信号の角を西へ入った次の角に鎮座する。通称アメリカ村の一本南の通りにあたる。

※由緒
 境内に案内板はないが、頂いた由緒書には、
 「当宮、御津宮(御津八幡宮)は現在の心斎橋一帯の産土の社です。
 この地は、江戸時代初期以来全国有数の街として発展し、今日では辺り一帯は『みなみ』と呼ばれ、繁華街を形成しています。
 故に、ここを氏子としている当宮は、境内こそ約400坪と狭いものの、常時参拝紗も多く、今も神社前を東西に伸びる街路は「八幡町通り」の名で呼ばれ、大阪人にとって親しみある社として今日に至っています。

 当宮縁起によれば、孝謙天皇の天平勝宝元年(749)、手向山八幡宮が東大寺の守護神として宇佐八幡宮から勧請された折、宇佐からの御輿がこの地に上陸し、一時三津の寺に安置され、後にこれを御津八幡宮と改めたとなっております。

 しかし、創祀については明確に記した文献でのこっているものはなく、諸説があります。
 或るものは、仁徳天皇の御代、味原郷(天王寺区)に営んだ応仁天皇をお祀りした社を、後に此処に遷したものであるといい、
 また法学者瀧川政次郎氏は、この地の歴史的背景から、延久元年(1069)より承久2年(1220)の150年間が、この地が石清水八幡宮の荘園となった年代であり、石清水八幡宮が源氏の氏神として勢力を伸ばしたこの時代に、当宮が創祀されたのであろうという推定を下しておられます。

 いずれにしても、当宮が古い歴史を有する神社であることは間違いありませんが、戦国時代の兵火に焼かれ、旧記も失われてしまいました。
 また昭和20年には、大阪大空襲のため、本殿・拝殿すべてが焼失し、現在の社殿は昭和35年に再建されたものです」
とある。

 管見した近世以降の資料として、
*摂津志(1733)
 「三津八幡宮記に云、神亀年中(770-80)此の御津に行基菩薩八幡の御本地堂を建て弥陀を安置し給ふ。世に御津の寺と云ふ(三津寺のことなり)(今、当社の東・御堂筋東側に三津寺あり)
 宮記は、後三条天皇・延久2年(1070)の創建となせり」

*摂津名所図会大成(1798)
 「島ノ内木綿橋筋にあり、此近辺の生土神なり。
  本社 応神天皇
  社説云 当社は清和天皇の御宇・貞観元年(859)8月豊前国宇佐神山城国男山に鎮座の時、始て至り給ふ洲中なり。其の旧蹟を祀ひ祭るところ也
  大坂鑑云 当社は応神天皇なり。此帝御在位の時難波に御幸ありて此辺に鳳輦をめくらし給ふ所となり。
  抑此帝神とあらわれ大菩薩とあがめ国々処々に跡を垂給ふことは欽明天皇の御宇なり。然るに此時難波に未だ八旛宮有ことを聞ず。孝謙天皇の御宇天平勝宝元年(749)此地に八幡宮を婚理由せらるゝと也。
  其濫觴を尋ぬるに、聖武天皇宇佐より八幡を勧請し給ふ時、最初御在位の旧迹なるが故に、難波の三津に移らせ給ふ。
  此時にあたりて、神告て曰 三津寺は是行基菩薩止住の所なり、我此所に鎮座有るべしとの神勅にまかせ寺を以て宮とすれば、行基此所において葦の葉のそよぐを聞給ひて、『葦そよぐ しほせの浪のいつまでも 浮世の中に浮び渡らん』
  其後物かわり星移りて幾ばくの年序を経といへども、今に至りて霊験あらたなり

*大阪府全志(1922)
 「御津八幡宮は八幡町にあり。正しくは御津宮と云ひ、祭神は応神天皇にして仲哀天皇・比咩大神を配祀せり。
 社家の説によれば、孝謙天皇の天平勝宝元年11月己酉、八幡大神の託宣に京に向はんとありしを以て、迎神使を遣はされて筑紫の宇佐より京に遷座あるに際し、西海より初めて着し給ひし行宮の址に祀りしものならんといふ。
 文禄年間兵燹に罹り社頭烏有に帰し、旧記焼失して由緒の詳ならざるは惜しむべし」
などがある。

 これらによれば、当社は天平勝宝4年(752)の大仏開眼に先立つ八幡神の上洛の時、海路浪華・三津の浜に上陸されたことを記念して、後世(延久2年というが傍証資料なし)当地に創建されたとなり、それには東大寺建立を主導した僧正行基が関与したとなるが、これは当社に関係する三津寺の開基を行基とすることからの付会であろう。

 これに対して、
*摂津名所図会(1798・江戸後期初)
 「三津八幡宮  島内木綿橋筋にあり。祭神応神天皇。 勧請の年暦 久遠にして詳ならず、
  八幡宮は仁徳帝の御父帝なれば、皇居ありし時、味原郷八幡山に社殿魏々としてありしなり。
  後世、これを爰(ココ)に遷しけるものにあらんか」

*大阪府史跡名勝天然記念物(1931)
 「南區島の内八幡町にあり、御津宮といひて応神天皇を祀り、島之内の氏神なり。
 文禄年中(1592--96)兵火に罹り、旧記焼失せしめを以て其創建の年月由緒詳かならず。仁徳天皇の浪華に都し給ひし頃、味原の郷にありしを、後世此処に奉遷せしならんと云ふ」
との資料もあり(由緒記にもある)、仁徳天皇の頃(5世紀中葉)に味原郷(現天王寺区味原本町付近か)にあったものを後に当地に遷したというが、これは信用できない。


※祭神
   応神天皇・仲哀天皇・神功皇后

※社殿等
 当社は東西に走る旧八幡町通りと南北の佐野屋橋筋の交差点・北西角に鎮座し、八幡町通りに面する鳥居を入って先に、唐破風向拝を有する入母屋造の拝殿が、その奥に流造の本殿が南面して鎮座する。

 ただ、本殿は拝殿左の狭い通路を入った処から屋根の一部がみえるだけで、全体は見えない。
 社殿は何れもコンクリート造。


御津八幡宮・全景 
 
同・鳥居 
 
同・拝殿
 
同 左
 
同・本殿

◎石宮龍王社
 境内の南東隅(鳥居を入った右手)に、朱塗りの鳥居をもつ小社が西面して鎮座する(玉垣に阻まれて外からはみえない)
 鳥居の神額に「石宮龍王」とあるから、水神としての龍神を祀るかと思われるが案内等なく詳細不明。

 
石宮龍王社・全景
 
同・社殿


◎旧地名継承碑
 境内西側に「旧町名継承碑」との碑があり、今はなくなった旧八幡通りについて、
 「当街は、明治初頭大阪三郷南組の南木綿町であったが、明治5年5月3日八幡町となった。
 同12年南区に、同22年市制施行にともない大阪市南区八幡町になった。
 平成元年2月、南区は東区と合併して中央区となり、同日付けの住所表示の実施にともない、新しい心斎橋筋2丁目・西心斎橋2丁目の各一部になった。
 町名は御津八幡宮がある町筋であることに由来する。平成7年3月 中央区役所
と記している。

 今の大阪市は、大規模な町名改変により昔の由緒ある町名が消えてしまい、古資料などを読むときにその場所がわからず困ることが多い。

◎石敢當
 また境内西南の隅に「石敢當」(イシカントウ)との石碑がひっそりと立っている。
 石敢當(当)とは一種の魔物除けの施設(石などに石敢當と彫り込んだものが多い)で、魔物は直進することから、Τ字路あるいはΥ字路に突き当たると、それを越えて家の中に侵入して悪さをするとされ、それを防ぐために交点に石敢當を設置し、これに突き当たった魔物は破滅するという。
 地方の町を歩くと、道が突きあたった石垣などに石敢當が置かれているのをみかけるが、大阪市内では未だみたことがない。
 当社の立地からみて、当地にΤ字路・Υ字路があったとは思えず、町中の何処からあったものを移したものかと思われる。


旧八幡町継承碑 
 
石敢當

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