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御幸森天神宮
大阪市生野区桃谷3-10-5
祭神--仁徳天皇・少彦名命・忍坂彦命
付--猪甘津橋跡(つるのはし跡公園)
                                                     2020.07.22参詣

 JR大阪環状線・桃谷駅の東約500m、駅から東方のバス通り(道路名不明)の御幸通バス停前に境内への入口がある。

※由緒
 頂いた由緒略記によれば、
 「今から1600年程前の猪飼野は猪甘津(イカイノツ)と呼ばれ、難波の入江の港であり、猪甘部(イカイベ・猪を飼育していた古代の官職。鷹甘部などと同じ)が住まいしていた所でありました。
 日本書紀・仁徳天皇14年(5世紀中頃)条に『猪甘津に橋為(ワタ)す。即ち其の処を号けて小橋(オバシ)といふ』とあり、当宮の前を流れていた百済川(旧平野川)に架けられた文献上に残る日本最古の橋が是です。

 さて、難波に都を定められた仁徳天皇は鷹狩りの折、また、当地の東南方(現在の東住吉区あたり)に渡来して住まいする百済の人達の様子をご見聞の為の道すがら度々当地の森にご休憩され、その由縁により御幸の森と呼ばれるようになりました。
 天皇崩御の後、西暦460年、人々はこの森に社を建立し天皇のご神霊を奉祀し、御幸の祠とも御幸宮とも称したと伝えられています。

 年代は下って西暦850年頃、この地方に疫病が流行し人々が罹病に悩まされていた折り、当宮の社僧・大蔵院行綱は京都五条天神社(京都市下京区)に参籠して災厄追放を祈願し、同社の御祭神・少彦名命のご神霊を当宮に勧請奉斎したところ、さしもの疫病も治まったといいます。なお、この頃から天王天神社とも天神社とも呼ばれるようになりました。

 次に玉造清水谷付近に忍坂彦命を奉祀し地主神として崇敬していた社がありましたが、大坂夏の陣の兵火に遭い消失、それを畏憚(イタン・畏れはばかる)した大坂城主・松平忠明は、当宮にご神霊を奉遷するように指示し、旧平野川中洲の地3000歩と灯明台1基を寄進されました。

 昭和43年10月1日、境内の椋の木(樹齢凡そ700年)5本が大阪市の保存樹に、平成12年4月28日本殿・弊殿・拝殿・透塀が国の登録有形文化財に指定されました。
 平成18年(2006)創祀1600祭を斎行し、記念事業としてご社殿のお屋根葺替えを致しました。(以下略)
という。

 また、大阪府史蹟名勝天然記念物(1931)には
 「東成区鶴橋村猪飼野北町。地は昔の百済郷に属し、仁徳天皇の行幸ありし御幸の森の名を得たりと伝ふ。
 社は其創建甚だ古しといふも、記録の徴すべきもの更になし。
 祭神は仁徳天皇・少彦名命・押坂彦命の3柱にして明治5年村社に列せらる」
とある。


 これによれば、当社は仁徳天皇の当地への御幸に因んで創建されたとなるが、仁徳紀に当地方への御幸(行幸)を示唆する記述はなく、何らかの伝承があったかもしれないが傍証となるものはない。
 また、平成18年に創祀1600年祭を執行したというが、とすれば当社創建は西暦400年頃となり、通常いわれる仁徳天皇の治世年次(430年頃)とはズレがある。

◎地名・猪飼野
 今の当地に猪飼野との町名はないが(昭和48年-1973-消滅)、昭和8年の古地図(ネット資料)によれば、JR大阪環状線・鶴橋桃谷駅間の東、旧平野川と現今里筋に挟まれた辺りに猪飼野との町名が見え、当社は旧猪飼野西3丁目に鎮座していた(旧平野川の西側は鶴橋町)

 猪甘部とは、古代朝廷に必要な特殊技能・技術を以て仕えていた職業部の一つで、猪即ち豚の飼育に携わり、これを朝廷に貢納していた集団で、朝鮮半島からの渡来人が多かったという。

 仁徳紀にいう「猪甘津の橋」の比定地として、
 ①東成区東小橋(当社の北西方)
 ②生野区桃谷3丁目(旧猪飼野西3丁目)の「つるのはし跡公園」(当社の南約200m)
との2説がある。
 ・東小橋説--摂津名所図会(1922)に「猪甘津橋 小橋村の東、くだら川に架す橋をいふ。一名・鶴の橋」とあり、この小橋村が現東小橋付近を指すのであれば、その辺りにあったとなるが、場所の特定は出来ない。

 ・つるのはし跡公園説--元禄14年(1701)の「大和川・平野川絵図」にみえる平野川筋に架かる橋に『鶴の橋』との橋名が見え、その東に猪飼野村(現桃谷)・中川村(現中川)との村名が見えることから、つるのはし跡公園付近というのが有力で、大阪市では②説を以て猪甘津橋(小橋)の跡としている(下記)


平野川・大和川絵図
(左下に朱書きで鶴の橋とある) 
 
同・鶴の橋部分拡大
 
浪速百景・猪飼野鶴のはし
(右下に鶴の橋がみえるが欄干はない)


※祭神
   仁徳天皇  少彦名命  忍坂彦命

*仁徳天皇
 当社創建が、仁徳天皇の御幸に関わるものであれば、天皇を主祭神とするのに異議はない。
 ただ、摂津名所図会には、「御幸宮 猪飼野村にあり。祭神祥ならず」とある。

*少彦名命
 HPがいう“西暦850年頃の疫病流行”にかかわる記録として、書紀・文徳天皇仁寿3年(853)条に
 ・2月 是月 京師及び畿外 疱瘡(ホウソウ)の患者多く 死者甚だ多し
 ・3月 疱瘡流行し人民死す 故に賀茂祭停止す
との記録があり(漢文意訳)、当地にも疱瘡が広がったため、その疫神退散を念じて現京都下京区の五条天神社の祭神・少彦名命を勧請したのであろう。

*忍坂彦命(オシサカヒコ)
 忍坂彦命とは、書紀・敏達天皇(30代)4年条に、「息長真手王の女広姫を立てて皇后とした。一男二女を生んだ。第一が押坂彦人大兄皇子(オシサカヒコヒトオオエ、又の名:麻呂子皇子)・・・」とある敏達天皇第一皇子を指す。
 母が息長氏系であったことから蘇我氏系の皇子に押され皇位継承はならなかったが、御子に舒明天皇(34代)・孫に皇極天皇(35代、重祚して斉明天皇:37代)がいる。

 忍坂彦命を祀っていたという玉造清水谷附近の神社の社名・由緒等詳細は不明。

 忍坂彦命の当社への合祀を命じたという松平忠明(タダアキラ・1583--1644)とは、大坂夏の陣での豊臣家滅亡(1615)後、大坂に置かれた大坂藩(1615--19の間)の藩主を指す。
 なお、大坂藩は忠明一代のみで元和5年(1619)に廃藩となり、その後の大坂は幕府直轄となり大坂城代・大坂町奉行が置かれた。


※社殿等
 入口から東へ延びる参道の途中に鳥居が立ち、更に参道を進んで境内に入る。
 当社名は「御幸森天神宮」だが、鳥居及び拝殿に掲げる扁額には『天神宮』とある。

 
御幸森神社・社頭
 
同・鳥居

同・境内(左:天神宮、右:御幸戎社) 

 境内左側(北側)に、唐破風付き向拝を有する入母屋造・銅板葺きの堂々たる天満宮拝殿が南面して建つ。
 当社HPによれば、現社殿は昭和5年(1930)の造営で、平成18年(2006)に屋根を葺替えたというが簡単すぎて詳細不詳。


天神宮・拝殿(正面) 
 
同・拝殿(側面)
 
同・内陣

 拝殿背後、透塀に囲まれた中に三間社流造・銅板葺きの本殿が南面して鎮座するが、透塀の隙間が狭く全体はみえない。


同・本殿(側面) 
 
同・本殿(背面)

◎境内社
*御幸戎神社
   祭神--戎大神
 参道から入った正面(境内東側)に西面する境内社で、入母屋造・銅板葺き。
 HPには、昭和27年(1952)勧請とあるが勧請元・経緯など詳細不明。
 通常、エビス神といえば蛭子神・事代主命の何れかだが、当社祭神がどちらかは不明。
 境内社というものの堂々たる社殿で、小神社の拝殿としても通用する。

 拝殿背後に本殿が西面して鎮座するが、屋根の一部がみえるだけで詳細不明。

 
御幸戎神社・拝殿
 
同・本殿(屋根の一部のみ)

*御幸稲荷神社
   祭神--稲荷神(宇迦御魂神と想われるが祭神名の表記なし)
 御幸戎神社の右にある稲荷社で、朱塗り鳥居列の奥に朱塗りの社殿が鎮座する。
 HPには、文政13年(1830)京都・伏見稲荷神社より勧請とある。

*天満宮
   祭神--菅原道真
 境内西側・稲荷社の向かい側に鎮座する小祠。
 HPには、明治18年(1885)猪飼野小路(現勝山北5丁目)よにあった小祠を合祀とある。

 
御幸稲荷神社・鳥居
 
同・社殿
 
天満宮

*遙拝所
 境内東側、御幸戎神社の左にある小祠。
 玉垣に囲まれた中、巨石の上に一間社流造・銅板葺きの社殿が鎮座する。
 社頭の案内には
 「故郷の あるいは遠くの神様を遙拝する所です。
  玉垣内にある大きな石は、仁徳天皇が鷹狩りなどのおりに腰を掛けて休憩された石と伝えられています」
とあり、HPには「腰掛石」とある。
 仁徳天皇云々とは後世作られた伝承で、曾ての磐座信仰の痕跡かもしれない。


遙拝所・正面 
 
遙拝所・社殿
 
腰掛石

*水神社
 参道脇の手水舎の中、手水槽の左横に祀られている小祠だが、祭神等詳細不明。
 手水艘とともに水神が祀られるのは珍しい。

◎その他
*王仁博士歌碑
 拝殿の東側に立つ歌碑で、
  「なにはつに さくやこの花 ふゆこもり いまははるへと さくやこのはな」
   〔難波津に咲くやこの花 冬籠り 今は春べと 咲くやこの花〕
との歌詞を刻した石碑が大亀の上に乗っている。

 この歌は、古今和歌集仮名序(912、紀貫之)の中に、
 「仁徳天皇がまだ皇子であらせられたとき、弟皇子と東宮を地位をお互いに譲り合ってとちらも皇位におつきにならず、3年も空位となっていたので、王仁(ワニ・応神朝に招聘された渡来人で、論語・千字文をもたらしたという)という人が気がかりに思って お詠み申しあげた歌で、“この花”とは梅を指すのだろう」(意訳)
とあるもので、その歌意は
 「難波津に花が咲いた 冬の間籠もっていて 今 春になったので咲いたよ この花が」
で、大鷦鷯皇子(オオササキ・仁徳天皇)と弟・菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)との間で皇位を3年間も譲り合ったときに王仁博士が詠んだ歌というが、歌意からみると仁徳天皇即位を寿いだ歌ともとれる。

 石碑碑文及び側らの案内には、日本語と共に韓国文字での歌詞が記されており、日韓交流を祈念しての建立かと思われる。

 
水神社(左側)
 
歌 碑


◎付記
 【猪甘津の橋跡】
   生野区桃谷3-17
 仁徳紀にいう猪甘津(イカイツ)の橋とは、猪飼野西部を蛇行しながら南北に流れていた百済川(旧平野川)に架かっていた橋で、別名『鶴の橋』とも呼ばれ、今、『つるのはし跡公園』として整備され、大阪市顕彰史跡に指定されている(1991)

 公園は、御幸森神社前の道路を約200mほど南下した東側にあるコンビニ(セブンイレブン)の裏(東側)に位置するが、枝道(茨神社通)に面していて表道路からはみえず、公園に気づく人は稀であろう(一般の地図には表示なし)

 公園内にある案内には
 「『つるのはし』は、日本最古の橋として名高い『猪甘津の橋』の古跡とされています。日本書紀の仁徳天皇14年条に、『冬11月、猪甘(イカイ)の津に橋わたす。すなわちその処を号(ナヅ)けて小橋という』と記されていて、これが我国での架橋記録として最も古いものです。
 仁徳天皇の頃(5世紀、河内湖の時代)には、ここより4少し北のあたりは“小橋の江”(オバシノエ)と呼ばれた入江があって、そこには百済川(のちの平野川)が注いでいたと考えられます。
 その河口付近は、人や物資を運ぶ船の盛んに出入りする港として栄え、“猪甘の津”と呼ばれていました。
 その港には当然、上町台地にある高津の宮からの官道が通じていたわけです。
 そして、そこからさらに河内・大和方面への交通路をひらくために橋が架けられたというのが、この記録の意味するところです。
 小橋(小椅)は東成区東小橋。猪甘の津はここ猪飼野(現桃谷3丁目を含む一帯)がその伝承地です。

 『つるのはし』の名の由来については、江戸時代の地誌“摂陽群談”(1701)に『むかし、この辺りに鶴が多く群れあつまったためという』と記されています。また一説には、“津の橋"が訛ったものとも言われています。

 江戸時代の“猪飼野村明細帳"などの古記録(御幸森天神宮所蔵)に、『この橋は河内大和への街道筋ゆえ、往古より御公儀様(お役所)の費用で掛け替えて頂いています』とか、『過去いついつに掛け替えられた』とか、橋の規模・構造などが詳細に記されており、それによると橋の全長は20間(36.4m)幅7尺5寸(2.3m)の板橋となっています。

 近代に入ってからは、明治7年旧平野川を深く掘り直した際に石橋に掛け替えられ、同32年国庫補助により欄干付き・長さ7間(12.7m)幅一間(1.8m)の石橋に改修されました。
 その後、大正12年(1923)に鶴橋耕地整理組合の手によって新平野川が開削され、不要となった旧川筋は昭和15年(1540)に埋立てられ、つるのはしは廃橋となりました。

 この由緒ある橋の名を後の世に伝えるため、昭和27年(1952)ここに記念碑を建て、当時の親柱4本を保存しました。
 なお、つるのはし跡公園は旧平野川の流路の上に位置し、公園入口前の道路上に“つるのはし”がありました」
とある。


 公園は、コンビニの裏手、茨神社通りへ入ったすぐ左に位置するが、巨木の下に記念碑があるだけで、ベンチなどはない。
 公園奥に、自然石に「日本最古 つるのはし跡」と刻した記念碑が立ち、その前に設けられた小さな橋の欄干、四隅に置かれた旧橋の親柱4基が曾ての面影を残している。


つるのはし跡公園・全景
 
 
同・中央部
(四隅に旧橋の親柱が置かれている)
 
同・記念碑

 公園内に「つるのはし顕彰碑」との石碑が立ち(平成9年建立)説明文が刻してあるが判読不能。
 また、公園奥に小野小町の「忍ぶれど 人はそれぞと御津の浦に 渡りそめにし 猪甘津の橋」との歌碑が立つが、小町が如何なる経緯でこの歌を詠んだかは不明。
 
つるのはし顕彰碑
 
小野小町・歌碑
 
旧橋・親柱(「つるのはし」とある)
 
旧橋・親柱(「鶴の橋」とある)

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