トップページへ戻る

中 井 神 社
大阪市東住吉区針中野2-3
祭神--素盞鳴尊
                                                  2020.09.14参詣

 近鉄南大阪線・針中野駅の北東約350m、駅南の東西道路を東へ、最初の信号の角を北上した旧庚申街道の右側に鎮座する。

※由緒
 境内の案内(石版)には、
 「当神社は、三代実録に田辺東の神として祀られていたと記されていた。
 古くは御祭神にちなんで『牛頭天王社』とよばれていたが、その昔、社前に清水の湧く井戸があり、村人等は、その井戸を『汚れのない霊泉』として大切にしていた。
 そこで、中野村の井戸がある処のお社として、明治時代の初めに中井神社と改められた」(東住吉区HPも同じ)

 また、東成郡史(1922)には
 「大字中野字中野にありて庚申街道に接して鎮座す。祭神素盞鳴尊なり。
 創立年紀詳なせざるも、三代実録に田辺東神といふるは本社なり。伴信友の神名帳考証ら『式外旧社田辺東神田辺西神共に住吉郷にあり』とあり、
 三代実録・貞観4年(862)11月11日、『摂津国正六位上田辺東神・田辺西神に、並に従五位下云々』とあり、
 田辺東神は平野中野村(現針中野2丁目)に在り今天王と称す、田辺西神は南田辺村(現山阪2丁目)に在りて山阪明神と称す。
 住吉郷に北田辺・南田辺り二村ありて、この社を氏神と称す。古の東西今の南北に転せるか、或は国史文字の誤かと見えたり。
 元は牛頭天王社と称せしが、明治5年村社に列せられ、天王号を廃して現社号に改めたり。(以下略)
とある。


 三代実録(901)・貞観4年11月11日条に、
  「摂津国正六位上田邊東神・田邊西神に、並びに従五位下を授けき」
とあり、ここにいう田邊東神社が当社の前身という。(田邊西神社は当市山坂2丁目の山阪神社の前身という)

 この両社の関係について、当社には何らの記述はないが、田辺西ノ神社(現山坂神社)の由緒略記には
 ・元々、両社は田辺神社と称する一つの神社で
 ・これが東西に分かれたのは平安朝以前のことで(9世紀以前)、西ノ神社がまず田辺神社として創立され、
 ・その後、田辺郷が東方に発達するに伴い新たに田辺東ノ神が勧請され、何時しか東西を附して区別されたと思われる
とあり、当社は旧田辺西ノ神社からの分祀という。


※祭神
   素盞鳴尊

 当社本来の祭神は牛頭天王であって、明治初頭の神仏分離に際して、牛頭天王が仏教色か強いとして排斥されたことから、同じ神格(疫病除け)をもつとされる素盞鳴尊に変えられたものであろう。

 牛頭天王とは猛烈な疫病神であり、これを逆に祀ることで疫病等を防いでくれるとして祀られた神だが、牛頭天王に神階を授けたとの記録はなく(牛頭天王社の総本社ともいうべき京都・祇園社-現八坂神社にも神階は授叙されていない)、従五位下を授叙された当社祭神を牛頭天王とみるには疑問がある。

 当社案内には、「社前に湧く井戸を汚れなき霊泉として大切にした」とある。
 これからみると、当社祭神は生活および穀物の豊饒に必要な水、即ち水神を祀っていたが(その痕跡が境内社・白龍社か)、何れの頃かに防疫神・牛頭天王を勧請したとも思われる。

 ただ、当社が旧田辺西ノ神社(現山阪神社)からの分祀とすれば、その祭神は山阪神社の祭神と同じだったと推測されるが、それを示唆する資料はない。

※社殿等
 鳥居のすく奥に朱塗りの門があり左右に白壁が延び、参道を進んだ奥に拝殿が建つ。
 社頭・境内に楠の大樹が数本あるのみで、特記するものなし。


中井神社・社頭 
 
同・鳥居

同・境内 

 拝殿は、向拝のない入母屋造・瓦葺きの建物だが、正面扉のガラスが反射して内陣の様子はよくわからない。
 拝殿の背後、弊殿を介して二間社流造・銅板葺きの本殿が鎮座するが、内陣の様子は不明。


同・拝殿 

同・本殿(側面)
 
同・本殿(背後)

◎境内社
*白龍社
   祭神--白龍大神・光蛇大神
 拝殿の向かって右前にある小社で、覆屋の中にまだ新しい社殿が鎮座している。
 龍蛇神を祀ることから、曾て、この地にあった霊泉に関係する小祠かと思われるが、鎮座由緒等不明。


白龍社・鳥居 
 
同・社殿

 白龍社殿の背後、簡単な覆い屋の中に、注連縄を巡らした巨木が枯木の状態で納まっている。
 資料によれば、白龍社のご神木で樹齢1000年以上といわれ、口伝によれば、世に異変あるときは、夜間に轟音を発したという。
 昭和9年の台風で、幹の途中から折れ、今は根本5mほどが残っている。

 
ご神木・榎(枯木)覆屋
 
同 左 

*大神宮社

   祭神--天照大神

  案内等なく、詳細不明







トップページへ戻る