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難 波 神 社
大阪市中央区博労町4-1-3
祭神--仁徳天皇
配祀--素盞鳴尊・倉稲魂尊
                                                  2020.05.30参詣

 大阪都心を南北に走る幹線道路・御堂筋の中程(大阪メトロ御堂筋線・本町~心斎橋駅の中間)西側に鎮座する。
 御堂筋側にも鳥居があるが正面鳥居は南側。

※由緒
 頂いた難波神社案内記には、 
 「当社は、西暦406年、反正天皇が河内国丹比柴籬宮(現在の河内松原市上田)に都をうつされた時、同時に父帝仁徳天皇をしのんでお建てになったのが始まりといわれています。
 その後、朱雀天皇・天慶6年(943)に天皇の命で大江の坂平野郷(現在の天王寺区)にうつり、摂津国の総社として『難波大宮』又は『平野神社』と呼ばれていました。
 延久3年(1071)の正月、後三条天皇が住吉に行幸される途中の夢のお告げにより、万民の病疫をすくわれる素盞鳴尊と五穀豊穣を誓われる倉稻魂尊をご一緒にお祭りするようお命じになったと伝えられています。

 今の地に遷されたのは天正11年(1583)豊臣秀吉が大坂城をたてた時で、当地は上難波村と云われ、当社も『上難波宮』又は『仁徳天皇社』と称しておりましたが、明治8年(1875)『難波神社』(ナンバ)と改めました。

 当社の建物は、寛文6年(1583)12月8日火災にあい、神宝・御輿等多数が焼失しました。
 その後再建された建物は、御堂筋の開通に伴い、昭和10年(1935)から神域の拡張・改築を行い、昭和14年(1939)2月完成し、壮麗な四方鳥居を建造して旧観をしのびえるら至りましたが。
 しかしながら、昭和20年(1945)3月14日の空襲により、鳥居と玉垣を残して全焼、仮御殿(昭和23年造)によっていたのを、昭和49年(1974)7月、大阪の中心地・御堂筋に面する由緒ある神社にふさわしい立派な姿となって再建されたものです」(一部省略あり)
とある。

 当社に関連する古資料として、
*摂津名所図会(1798・江戸後期初)には、
 「上難波仁徳天皇宮  上難波町にあり。
  鳥居の額に仁徳天皇宮祭神鷦鷯聖帝(ササキセイテイ・仁徳天皇)。相殿の額に摂津惣社難波皇大神宮と書す。
  社説に曰く、肇(ハジメ)は、反正天皇元年冬10月、詔によって大江坂平野郷に鎮座あり。
  後世、天正年中金城御造建の時、神領地によって此の上難波に移す。
  むかし旧社の時、後三条院の帝住吉行幸に当社へ詣し玉ふ。その時は延久5年(1073)2月なり。
  又将軍頼朝卿及び足利将軍家社参ありて神領寄附し給ふ。これを上難波・下難波といふなり。
 社説に云 世人博労稲荷と称するは誤なり」
とあり、右の絵図が載っている。 
 
上難波仁徳天皇宮(摂津名所図会)

*大阪府誌(1903)
 「上難波南之町に在りて仁徳天皇を本宮とし素盞鳴尊・倉稲魂を祭り、反正天皇元年冬10月河内国丹治比の柴垣宮に移り給ひし際、丹治比北の郡に鎮座ありしが、朱雀天皇の天慶6年9月勅に依りて平野郷に遷り、正親町天皇の天正年中現今の地に奉遷し難波大宮と称せしものなりと伝ふ。

 摂社稲荷社は迷信の徒の尊崇厚く、今は本社の名よりも博労稲荷の称を以て世に知らる。

 然れども又曰ふ、反正天皇元年冬10月勅に因りて後の大江坂平野郷に鎮座ましまし、延久5年2月後三条天皇住吉行幸の砌、当社に詣し給ひ、其後源頼朝・足利尊氏も亦参拝して神領を寄附し、天正年中錦城築営の際今の地は神領地たりしを以って此に移し、是より上難波下難波の称起ると」


*大阪府全志(1922)
 「難波神社は博労町5丁目(今は4丁目)にあり、仁徳天皇・素盞鳴尊・倉稲魂尊を祀れり。
  社記に依れば、反正天皇元年冬10月河内国丹比柴籬宮に遷都ありし時、其の附近に祀られしが、天慶6年(643)9月勅に依り当国大江坂の平野に移りて、平野神社と称せられ、天正年中(1573--92)今の地に遷座ありて上難波神社と称せられると。
  明治5年(1872)郷社に列し、同8年(1875)5月難波神社と改称し、同34年(1901)府社に昇格せらる」
などがある。


 今の当社は、ビル街にある神社だが、当地遷座時の当社は秀吉の庇護を受け、広大な境内(約6万坪・住吉大社の2倍という)の四方に鳥居をもつ大社だったが、大坂の陣で豊臣方に加担したことから大きく削減されたという。
 上記絵図は江戸時代の当社を描くものだが、東西南北に鳥居をもつ境内、二層楼門を有する瑞籬(今はない)の中に入母屋造本殿を有する神社として描かれている。

 案内記は、当社創建を反正天皇の柴籬宮(シバカキノミヤ)遷都と同時というが、反正天皇の都については、書紀・反正天皇元年条に
  「冬10月、河内の丹比(タジヒ)に都つくる。是を柴籬宮と謂す」
とあり、大阪府松原市上田に比定され、同地にある柴籬神社の南門前に「反正天皇柴籬宮址 昭和19年1月 大阪府建立」との石碑が立つというが、この辺りに宮の存在を確かめる遺構・遺物は発見されていないという。

 反正天皇は5世紀中頃(古墳時代中期)の天皇だが(仁徳の2代後)、その頃、古墳上での祭祀(祖先祭祀)が行われていたのは確かだろうが、今見るような社殿を持つ神マツリの場があったとは思われず、何らかの伝承に基づく創建由緒・時期であろう。

 朱雀天皇の勅により丹比より遷ったという“大江坂平野郷”について、案内記は天王寺区内というがそれが何処かは不祥(難波百事談には天王寺村南平野町とあるが不明)
 ただ摂津名所図会に、
  「大坂といふ号は上古聞こえず。按ずるに大江坂の略訓なり。大江は難波津の一名にして・・・。金城(大阪城)より南一帯の丘山(上町台地)にして、大江の岸との古詠多し。
 明応の頃、蓮如上人の文に、“摂州東生郡生玉庄内の大坂”とあり。今は大阪の生玉と称す
とあり、近鉄上本町駅の西にある生玉町・上汐町・上本町の辺りかと思われる。
 なお、朱雀天皇の頃に遷ったという大江坂平野郷を、反正天皇時の創建の地とする資料もあり(摂津名所図会他)、創建伝承に混乱がみえる。


※祭神
   (主祭神)仁徳天皇  (配祀)素盞鳴尊・倉稲魂尊(ウカノミタマ)

 明治以降の古文書は、祭神を上記3神とするが、江戸時代の古文書(蘆分船・1694他)には、
 「第一平野大明神〔仁徳天皇〕 ・第二祇園牛頭天王 ・第三稲荷大明神也。
  そのかみ、上難波には平野大明神を尊崇して上の宮と号し、下難波には祇園牛頭天王を勧請して下の宮と称す。
  第71代後三条院延久3年正月当社へ行幸ありし時、一人の老翁まかり出て道案内をなす。其名を問へば『われは是稲荷大明神なりと』て、忽ち跡をうしなふ。是によりて右三社の神あいならへて御建立あり」
とあり、まず仁徳天皇社に牛頭天王を勧請して祀り、更に稲荷神を勧請合祀したという。

 これによれば、当社三座のうち、仁徳天皇と稲荷神(倉稲魂)は今と同じだが、江戸時代には牛頭天王が祀られていたようで、この牛頭天王が明治の神仏分離により素盞鳴に替えられたと推測される。


※社殿等
 当社は、御堂筋線の西側、南久宝寺町通と博労町通間の一街区を占め、高い石垣を積んだ上に鎮座し、石垣に挟まれて立つ鳥居は御堂筋に面している(東面)

 
難波神社・社頭(北より)
 
同・社頭(南より)

 石段を上って境内に入ると、右手基壇の上に唐破風・千鳥破風を有する入母屋造・銅板葺きの拝殿が、その奥に二間社流造の本殿が南面して鎮座する。
 社殿は戦後・昭和49年の再建で、いずれもコンクリート造。

 
同・拝殿1
 
同・拝殿2
 
同・本殿

◎境内社
*稲荷神社(博労稲荷社ともいう)
   祭神--倉稲魂尊(ウカノミマ)

 本殿の向かって左(西側)に南面して鎮座し、朱塗りの鳥居の奥に社殿が建ち、中に本殿が鎮座する。
 社殿は、稲荷社だけあって外も内も朱色に塗られている。

     

 案内記には
 「本社の西側にある。浪速の町が栄えるに従って、船場の商家が中心となり、イナリへの信仰あつく、古い記録にも当神社のことを『稲荷社』『稲利宮』としてあるのもあります」
とあるが、嘗ての当稲荷社は博労稲荷社とも呼ばれ、江戸時代の古資料に
  「人みな稲荷ある事をしりて、平野ある事をしらず」
とあるように(蘆分船)、稲荷社の方が本社よりも信仰を集めていたといわれ、その後の古資料にも
 ・大阪府誌(1903)
   摂社稲荷社は迷信の徒の尊崇厚く、今は本社の名よりも博労稲荷の称を以て余に知らる。
 ・大阪府全志(1922)
   稲荷神社は特にその名高く、本社の名より却て博労稲荷の名を以て世に知らる
 ・当社案内記(注記)にも、
   神社の正式名は上難波仁徳天皇宮あるいは上難波神社ですが、正式名を知る人は殆どいませんでした。
   江戸初期でに出された大阪最初の案内記『芦文船』にも、『稲荷有るを知りて、平野有るを知らず』と書かれています」
とあるように、当社は難波神社というより、博労稲荷社との名で広く知られていたという。

*金刀比羅神社
   祭神--大物主大神

 境内西側、西門横に鎮座する小社。
 案内記には、
  「西門横にある。もとは堀江のお旅所の東南隅にお祭りしてありました。
  由緒は不祥ですが、江戸時代の創建当初に祭られたものと思われます。明治41年(1908)9月、お旅所から当社に移転しましたが、事情は不明です」
とあり、摂津名所図会大成(1855)には
  「上難波宮御旅所  南堀江橘通にあり(現西区南堀江1-26)。・・・行宮の傍らには金毘羅稲荷の小祠あり」
とあり、南堀江の御旅所からの遷座というのは平仄があう(不参詣)

*十四柱相殿神社(ジュウヨンバシラアイドノ)
   祭神--天照皇大神・豊受姫大神・応神天皇・春日四柱大神・猿田彦大神・罔象女神・迦具土神
         ・菅原道真公・楠正成公・豊臣秀吉公・徳川家康公

 境内東南部にある14柱合祀殿。
 案内記には
  「以前は数社に分かれてお祭りしていたようですが、火災・模様替え等により、末社の移転・併合がおこなわれ、明治21年(1888)に鉾蔭神社・安邦神社を六柱相殿神社に合祀、十四柱相殿神社と改称しました」
とある。
 ただ、14柱相殿というが社頭に記されている祭神は11柱しかない。鉾蔭・安邦神社の祭神(神名不明)を加えて14柱ということか。


金刀比羅神社 
 
十四柱相殿神社 

◎ご神木
 境内のほぼ中央に、ご神木・楠の巨木が大きく枝葉を張っている。
 案内記(注記)には、
 「当社のご神木・楠は、大阪市指定の保存樹第1号です。
  樹齢400年以上(業者によれば約700年)で、幹廻りは4.3mあります(樹高:約11m)
  戦災により火傷を負いながらも逞しく生き残る市内中心部で最古の楠です」
とある。

◎算額顕彰碑
 境内の隅にあるが、殆どの人は無視している。
 算額(サンガク)とは、江戸時代、絵馬に和算(数学)の問題やその解法を記して社寺に奉納したもので、
 碑文には
 「江戸時代『算額』は全国各地の神社仏閣を公開場所として数多く奉納されました。
  算額とは、数学の問題を額に掲げ出題したもので、それをお互いに解きあい、技術の向上に努めた。
  その一方で、難問が解けたことを神仏に感謝するなど、社会全体で数学を楽しむことが、当時の一般的な習慣であった。
  船場三社(難波・坐摩・御霊神社)にも算額が数多く奉納されていたものの、現在では焼失して残っていない
 算額に裏付けられた和算の普及が、幕末維新の近代日本を支え、わが国の発展に貢献したことは周知の事実である」
とあり、船場を発祥の地とする順天堂塾(維新後に東京へ移転した私学・順天学園-中・高校)が、創立180周年記念事業の一つとして平成30年にこの顕彰碑を奉納したという。
 
◎稲荷社文楽座跡の碑
 鳥居脇の石垣の外に立つ石碑で、傍らの案内には、
 「植村文楽軒が当社境内に人形浄瑠璃の小屋を開いたのは、文化8年(1811)のことで、その後一時移転、安政3年(1856)再び当地に復帰した頃から『文楽軒の芝居』と呼ばれるようになった。 
 明治5年(1872)三世文楽軒の時に新開地の九条に移ったが、17年(1884)に三味線二代目の豊沢団平を擁する『彦六座』が当社北門に開場して任期を集めたため、文楽軒も近くの御霊神社境内に小屋を移して対抗した。(以下略)
とある。
 石碑に「稲荷社」とあるのは、昔の当社が稲荷社と呼ばれたことによるのであろう。

 
ご神木・楠
 
算額顕彰碑

文楽座跡の碑 

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