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西 宮 神 社
兵庫県西宮市社家町1-17
祭神--第一殿:えびす大神(蛭児大神)
     第二殿:天照大神・大国主大神
第三殿:須佐之男太神
                                                       2019.05.13参詣

 阪神本線・西宮駅の西南約300m、駅西の“えべっさん筋”(県道193号線)を南下、道路西側(左側)に連なる築地塀(大練塀)の中に鎮座し、国道43号線(阪神高速・3号神戸線)へ出る直前に表大門(赤門)が立つ(南側の国道43号線沿いに南門がある)

※由緒
 頂いた参詣の栞には、
 「西宮のえびすさまは、茅渟海(チヌノウミ・大阪湾)の神戸・和田岬の沖より出現された神様です。
 鳴尾村(現西宮市)の漁師が御神像をお拾い申しあげ、お祀りしていましたが、御神託により、西の宮地(西宮)にお遷しし、祭られたのが起源と伝えられています。
 平安時代後期には、すでに様々な文献に記載されていることから、平安中・後期と推測されます。
 古くより漁業の神として厚く信仰されてきましたが、この地は西国街道の宿場町としても開け、市も立つことから、やがて市の神、そして商売繁盛の神様として、灘五郷の銘酒と共に隆盛を極めるようになりました。(以下略)
とある。

 当社鎮座の契機となった、神戸・和田岬沖での神像出現とは、
 (伝承1)
 ・昔、鳴尾浦の漁師が武庫の沖で漁をしていたとき、網に神像らしきものが掛かったが気にもせず海に投げ捨てた
 ・漁場を和田岬の沖に移したところ、ここでも先ほど武庫沖で投げ捨てた神像が再び網に掛かってきた
 ・これはただごとではないと感じた漁師は、その神像を家に持ち帰って祀っていた
 ・ある夜の夢に、「吾はヒルコ神である。諸国を廻ってここまで来たが、ここより少し西に良い宮地があるので、そこに鎮まりたい」との神託があった
 ・驚いた漁師は村人と相談して、神像を輿に乗せて西へ向かったところ、御前浜(ミサキノハマ)で御神像が停まったので、その地の里人と相談してここに社を建てて鎮め奉った
との伝承をいう(成立時期不明)

 また、奈良・手向山八幡宮所蔵の「大倭神社註進状奥書」には
 (伝承2)、
 ・古伝によれば、ある夜、大倭氏(オオヤマト)の祖・椎根津彦命(シイネツヒコ)が海原を眺めていると、天の一角から怪しい霊妙な光が流れ海上を照らしていた。
 ・命は、これを不思議なことと思い、そこに到ると磐櫲樟船(イワクスブネ)が浮かんでいたので、それを引き上げ海浜に安置した。
 ・ところが、翌日の夜にも怪しい光がその浜を照らしていたので、命は、これは尊い神の出現に違いないと考えて、武庫の浜(御前浜)に社を建てて、その船を納め、これを蛭児神すなわちエビス神のご神体としてお祀りした。
 ・これが広田西宮三良殿(現西宮神社)の起こりである。
 ・また、奥夷(オクエビス・沖夷とも荒夷ともいう。現沖恵美酒社)は、これを奉斎した椎根津命を祭神としている。
との伝承が記されているという(西宮神社・2003、以下・冊子西宮という)

 御前浜について、摂津国風土記(逸文)には
  「神功皇后は摂津国の海浜の広田の郷においでになった。いま広田明神というのが是である。それ故、その海浜を名づけて御前の浜といい、御前の沖という。・・・」
とあり、既に8世紀前期の時点で、広田神社南方の浜が御前浜と呼ばれていたことを示す。

 なお、伝承2でエビス神を奉斎したという椎根津彦命とは、神武東征の途上、速吸之門で亀に乗って現れ、海路、神武を浪速(大阪)まで案内したという神話上の人物で、大倭国造(大倭直)の祖という(書紀・神武紀、古事記では槁根津彦・サオネツヒコ)
 速吸之門とは、一般には豊予海峡とされるが、古事記では、神武の吉備国滞在の後に記されていることから明石海峡とみるのが妥当で、伝承2は是によったもので、椎根津彦はこの辺りの海人を統括していた首長ではなかったかともいう。

◎おこしや伝説
 阪神西宮駅の東側、札場筋を南下、国道43号線との交差点(西宮本町)北西角に小さな広場があり、植え込みの中に、「蛭児大神御輿屋伝説地」との石碑が立っている。御輿屋は“オコシヤ”と読む。

 この地は、ヒルコ神が鳴尾浦から輿に乗って西へ遷られたとき、この辺りで寝込んでしまわれたので、村人たちが“申し訳ないと思いながら、ヒルコ神のお尻をつねって起こし奉った”との伝説が残る地で、“おこしや”とは、“神さんを早よおこしいや”(神様を早く起こしましょう)と云ったことからきたという。
 毎年6月4日に「御輿屋祭り」がおこなわれ、伝説に因んで“尻ひねり祭”ともいう。

 
御輿屋伝説地・全景
 
御輿屋伝説地・石碑
 
同 左


 今の西宮神社は、商売繁盛の神・エビス神(大阪近郊ではエベッサンという)を祀る神社として多くの参詣者を集めているが、元々は、当社の北約2kmに鎮座する広田神社(西宮市大社町)の境外末社だったという。
 広田神社は、延喜式神名帳に『摂津国武庫郡 広田神社 名神大 月次相嘗新嘗』とある式内社で、祭神は天照大神荒御魂(正式:撞賢木厳之御魂 天疎向津媛命・ツキサカキイヅノミタマ アマサカルムカツヒメ)だが、伊呂波字類抄(平安末期)には、
  「諸社  広田 五所大明神 本身:阿弥陀  在摂津国
とあり、平安中期頃から“五所大明神”と称して、八幡(応神天皇・神功皇后)・住吉(住吉三神)・広田(天照大神荒御魂)・南宮(大山咋神)・八祖神(高産霊神以下の神祇官坐御巫祭神八座)の5座を祀るとされ、

 その攝末社として
  「矢州大明神(観音) ・南宮(阿弥陀) ・夷(毘沙門・エビス) ・児宮(地蔵) ・三郎殿(不動明王) 
    ・一童(普賢) ・内王子(観音) ・松原(大日) ・百大夫(文殊) ・竈殿(二所)
との10社があったという。

 さらに、当時の海浜であった御前浜(現西宮神社鎮座地)には、広田神社の別宮(摂社)として同じ神を祀る“浜南宮”が鎮座していたという。
 その創建時期は不詳だが、長承元年(1132)の古文書に、「武庫川付近の山手・河手にある広田社の神領こから得た木材を、北南両社の修理料に充てた」とあり、そこでの北社が広田社を南社が浜南宮を指すとみられることから、平安後期にはあったと思われるという。

 加えて、この浜南宮の社域内には、
  「児御前・衣毘須(エビス)・三郎殿・一童・松原」
と称する末社があり、その一つ衣毘須社が現西宮神社(西宮戎)の前身という。

 この浜南宮社が海浜に位置することから(嘗ては当社のすぐ南、現国道43号線の辺りまで海が来ていたという)、その辺りに魚介類・海産物と里の産物とを物々交換する“市”が開かれ、その市の神(市場の守護神)として衣毘須社のエビス神が祀られ、
 中世の頃になると、浜南宮の門前市場として発展し(今、当社の西にある市庭町がその跡という)、海産物のみならずそれ以外の多くの品物を取り扱うようになると、エビス神も商売繁盛を見守る市の神として隆盛化し、次第にその勢いが浜南宮をしのぐようになり、西宮のエビス社として広く知られるようになったという。

※祭神
 今の祭神は
  第一殿(東、向かって右)--エビス大神(蛭児大神)
  第二殿(中央)     --天照大御神・大国主大神
  第三殿(西、向かって左)--須佐之男大神

 社殿3連が並ぶ場合は中央殿が主祭神されるのが普通だが、当社では左殿(東殿)のエビス大神を主祭神とする。
 ただ、貞享3年(下記)の古絵図によれば、中央・天照大神、東殿・蛭児尊、西殿・素盞鳴命とあり、そこには大国主神の名はなく、古くは3神の奉祀だったと思われる。

*当社の主祭神・蛭児神(ヒルコ)とは
 ・古事記--天降ったイザナギ・イザナギの両神が、最初に造った淤能碁石呂島(オノゴロシマ)に柱を立て、柱を両方から廻って出合ったところで結婚しようとされた。
 出合われたとき、まず先にイザナミが「良い男だなあ」と声を掛けたので、イザナギは「女が先に言葉を発したのは良くない」と仰せながらも、その場で聖婚したところ、不具の子・水蛭子(ヒルコ)を生まれた。この子は葦の船に乗せて流し棄てた

 ・書紀(5段本文)--イザナギ・イザナミの両神が、「天下の主たるものを生もう」として、先ず火の神・天照大神を、次ぎに月の神を、次ぎに蛭児を生んだ、3年経っても足が立たなかったので、天磐櫲樟船にのせて風のまにまに放流した。次ぎに素盞鳴尊を生んだ
 ・書紀(一書2)--イザナギ・イザナミ尊が柱を廻られたとき、女神が先に言葉を発せられたが、それは陰陽の道理に適っていなかった。そのため蛭児が生まれたので、鳥磐櫲樟船に乗せて放流した
とある神で、手足が萎えていて3年経っても足が立たなかったので、葦船に乗せて海に流したという。

 当社では、この蛭児神を以てエビス神として奉祀しているが、それは
 ・不具として海に流されたヒルコが、神となって和田崎の沖から蘇ったとして、海神・漁業神との神格をもつエビスと照合したもので、そのはじまりは
 ・神皇正統録(鎌倉中期)--蛭児とは西宮の大明神、夷三郎殿是也。此御神は海を領し給ふ
 ・源平盛衰記(鎌倉中期or末期)--蛭子は3年まで足立ぬ尊とておはしければ、天石櫲樟船に乗せ奉り、大海原に推出して流され給ひしが、摂津国に流れ寄りて海を領する神と成りて、夷三郎殿と顕れ給て、西宮におはします
 ・二十に社本縁(鎌倉末期)--摂社に夷と号するは蛭子にて坐すとも申し伝ふ
とあるように、鎌倉時代中期から南北朝初期にかけての頃(13世紀後期から14世紀初頭頃)ではないかという。

 この両書では西宮の神は夷三郎殿(エビスサブロウドノ)と呼ばれている。
 この夷三郎殿とは、浜南宮社の末社・夷社と三郎社とを一体とみたものというが、両神の本地が夷・毘沙門天、三郎殿・不動明王であるように、両神は本来別々の神であったのは自明のことで、西宮神社の祭神・夷三郎殿説は由緒不祥の俗信とみるべきであろう。

 エビス神は当社のヒルコ神のほかに事代主命(コトシロヌシ・大阪今宮戎社の祭神)とする説などがあるが、参詣人にとっては西宮神社の神は商売繁盛の神・エベッサンであって、それがヒルコ・コトシロヌシの何れであっても関係ないといえよう。

*天照大御神
  嘗て当社が広田神社の境外摂社・南宮神社の末社であったことから、広田神社の主祭神:天照大神荒魂(撞賢木厳之御魂天疎向津姫命・ツキサカキイツノミタマ アマサカルムカツヒメ)を祀るものであろう。

*須佐之男大神
  広田神社祭神にその名はなく、当社に祀られた由縁は不明。

*大国主大神
 今の当社祭神は4座であるにもかかわらず、社殿は3棟しかない。
 この3社構成は古くからのもので、貞享3年の古絵図(下記)には、「祭神は、中央:天照太神、東殿:蛭児尊・西殿:素盞鳴命」の3座とあり、そこに大国主命の名はない。

 当社祭神に大国主命が加わったのは、明治になって、西宮神社は延喜式神名帳いう摂津国莵原郡の大国主西神社であるとの説が提唱され、蛭児神は大国主命なりとされた時期があったといわれ、それを別神として祀ったのが是と思われる。
 しかし、下記(末社:大国主西神社)するように、西宮神社=大国主西神社説には疑問があり、当社に大国主命を合祀する所以はない。

※社殿等
 西宮神社は、東はえべっさん筋、南は国道43号線(阪神高速3号神戸線)に面し、西・北面をエビスの森(天然記念物)に囲まれた一区画占める。
 当社の古態を描くものとして、貞享3年(1686・江戸前期、広田西宮両社の神職等が作成し大阪町奉行所に提出したもの)の古絵図があり、その解説書(ネット資料)には
 「西宮社は、本社三殿 中央に天照大神、東殿に蛭児尊、西殿に素盞鳴命を奉祀してある。百太夫社・神明社は未だ境外にあった。境内には阿弥陀堂や不動堂・鐘楼なども存在したこともあったのだが、主な布置構成は概して現在と大差はない」
として、神仏混淆の時代には仏堂等が幾つかあったが、主たる社殿構成は現在とほぼ変わっていない、とある。


西宮神社・境内図(境内掲示) 
 
古絵図・貞享3年(当社部分)


 えべっさん筋に面して石造の大鳥居が、その奥に朱塗りの表大門が東面して建ち、その左右に大練塀が延びる。

●表大門(通称:赤門、重要文化財)
 頂いた参詣の栞には、
 「通称赤門といわれる表大門は、豊臣秀頼公の奉献によるものとされ、桃山建築の遺構を残し、その左右に連なる全長247mにに及ぶ大練塀とともに国の重要文化財に指定されています(昭和25年指定)
 冊子・西宮には
 「当社は西国街道に面し市中人家にも近いことから、何回となく回禄(火災)をうけた。
 記録に残る最後の災厄と思われる承応3年(1654)の社殿炎上の際に、幸いにして火をのがれ、昭和20年の戦火と平成7年の震災にも難をまぬがれて、今に至るまで、慶長年間の遺構を伝えているのが表大門である。
 その概要は、桁行19尺4寸5分、梁行15尺5寸、軒高18尺、木部丹塗りの単層四脚門で、同種の門としては大型に属する」
とある

●大練塀(オオネリヘイ、重要文化財)
 社域の東面と南面を画する築地塀で、冊子・西宮には
 「西宮神社12,000余坪の境内地を囲む築地塀のうち、東面及び南面に築かれている練塀(屋根は本瓦葺き)は、他に類をみないものとして、延長804尺(約247m)にわたって重要文化財に指定されている。
 その建築年代については諸説があるが、確たる史料なく確定不可能。
 ただ、戦後、昭和25年から1年余にわたっておこなわれた修理のとき、練塀の中から古銭4枚(宋銭3枚・元銭1枚)が発見され、その元銭に“洪武通宝”と印されており、この洪武通宝がわが国の南北朝末期から室町初期にかけての鋳造とみられることから、この練塀は、当社社勢が盛大だった室町初期頃の築造と推定される(大意)
とある。

 
西宮神社・大鳥居
 
同・表大門(赤門)
 
大練塀(南門左部分)

 表大門を入って参道を進み、途中の〆鳥居から斜め右に折れ、二の鳥居から延びる参道の先が境内で、正面に社務所がみえる。


表参道 
 
〆鳥居
 
二の鳥居

◎社殿
 冊子・西宮には
 「本殿・拝殿共に寛文3年(1663)建立。昭和20年8月の空襲で焼失したが、昭和36年に復旧。
 本殿は木造で旧態と同じ姿に、拝殿は旧来の木造割拝殿から鉄筋コンクリート銅板平屋根葺きに大きく変貌して再建し、東西両渡廊下によって本殿と連携し、本殿・拝殿の間に新しく斎庭(ユニワ)を設けた」
とある。

●拝殿
 広い境内の正面やや左手に、大きな唐破風付き向拝を有する入母屋造(千鳥破風付き)・朱塗りの拝殿が、南面して建つ。


境内全景(右は社務所) 
 
拝殿・正面
 
拝殿・側面

●本殿
 拝殿の背後、斎庭を介して朱塗りの本殿が3棟横に連なって鎮座し、これを三連春日造という。
  祭神--上記の通り

 参詣の栞には
 「国宝であった三連春日造りという珍しい構造の本殿は、昭和20年の戦災で烏有に帰しましたが、昭和36年に再建されました。
 これよれ数えて50年の平成23年、ほぼ50年ごとの式年造替の佳例に従い、本殿拝殿の修復、祈祷殿の新築等をおこないました」
とある。


本殿(資料転写) 
 
本殿・正面(拝殿より)
 
本殿・屋根(境内からは屋根だけしか見えない)

 三連春日造とは、一間社春日造の社殿を3棟横に並べ、屋根で連ねた構造をいう。

 
本殿・正面図
   
社殿・平面図
 
社殿・側面図(右が本殿)


◎境内社
 境内には南宮神社以下の境内社が12社が鎮座する。
●南宮神社
   祭神--豊玉姫神・市杵島姫神・大山咋神・葉山姫神
 表大門(赤門)を入って参道を少し進んだ西側(左側)にあって、規模としては西宮神社本殿より小さいが、白壁に囲まれた一画に独立して鎮座する神社。
 西宮神社の境内社でありながら、広田神社の摂社としてその管轄に属し、社殿も北面して広田神社の方を向いている。

 嘗て当地にあったという広田神社南宮の別宮(境外摂社)・浜南宮の後継社で、参道に面して大きな千鳥破風形向拝を有する拝殿が、その背後に接して一間社流造の本殿が鎮座する。

 傍らの案内には
  「当社は西宮市大社町に鎮座する広田神社の摂社で、『浜南宮』とも称されました。
  平安時代には都の貴族が参詣され、梁塵秘抄には、『浜の南宮(ナング)は 如意や宝珠の玉を持ち 須弥の峯をば櫂として 海路の海にぞ遊びたまふ』(276番)と歌われています。
  神功皇后が豊津浦で得られたという広田神社の宝物・剣珠(ケンシュ)は、もと南宮に納められていました」
とある。

 
南宮神社・拝殿
 
同・本殿
  剣珠とは、いま広田神社の社宝となっている珠で、嘗ては浜南宮で奉斎されていたという。
 この珠は、書紀・仲哀2年秋7月5日条に、「皇后は豊浦津に泊まられた。この日皇后は如意の珠を海から拾われた」とある如意の珠(全ての願いをかなえてくれるという宝珠)を指すといわれ、
 梁塵秘抄には、「浜の南宮は 如意や宝珠の玉を持ち 云々」と詠われ、
 謡曲・西宮には、「抑も剣珠と申すことは 水精の玉の中に一つの利剣おはします・・・」とあるという。

 剣珠は径約6cmの珠で(材質不明・水晶か)、その中にみえる長約3cm程の細長い影を剣とみての呼称であろう(右写真、資料転写)

剣 珠

●児社(コノヤシロ)

 表大門を入って左手(南宮神社の手前)に東面して鎮座する小祠で、隣接する南宮神社の末社。嘗ての浜南宮の末社・児御前社の後継社であろう。
   祭神--児尊(コノミコト)
 冊子・西宮には
 「梁塵秘抄(1169)に、
  『南宮の御前(ミマエ)に朝日さし 児の御前に夕日さし 松原如来の御前には 官位昇進(ツカサマサリ)の重波ぞたつ』(416番)
とあり、平安末期には存したと思われる。
  祭神・児尊の神格不明。神祇官長官の白川伯雅光王(元禄宝永頃の人)は、児社の祭神について「児尊一座也 戎社と同体」といっているから、沖戎・荒戎・今戎などと同じく戎神の眷族神の一つではないか」
とあるが、よくわからない。
  一般には、児社という社名から“子供の守り神”とされているともいう。 

児 社

●火産霊神社(ホムスヒ)

 境内左奥、本殿の左にある小祠。
   祭神--火皇産霊神
 当社HPには
 「貞享3年(1686)の絵図にも“火之大神”とあり、通称・愛宕さんと呼ばれ、火伏せの神として信仰されています
  尚、貞享17年(1732)、当時の神主が垂加神道を奉じる人であった故、若林強斎と山本復斎を合祀したとされています」
とある。
 垂加神道とは、江戸前期の儒学者・山崎闇斎(1619--82)が提唱した神道と儒学とか混淆した神道の一派。
 若林強斎・山本復斎は、山崎闇斎の流れを引く垂加神道系の儒学者か

火産霊社

●百太夫神社(ヒャクタユウ)
 火産霊神社の左に並ぶ小祠。
   祭神--百太夫神(ヒャクタユウ)
 社頭の案内及び冊子・西宮によれば、
 「社名は早く伊呂波字類抄にもみえ(広田神社攝末社のなかの一社・百太夫社)、平安末期には既に存在していた社である。
 西宮神社の北側に位置する産所村(サンショ、散所とも記す。現産所町)に住んでいた傀儡師(クグツ)集団が、村内に百太夫神を祀っていたが、幕末のころに村が衰微したことから、天保10年(1839)に境内の現在地に遷したものである。
 百太夫神は、人形操りを営んだ産所集落の人々(傀儡師・傀儡子、いすれもククツ)の祖神であると信じられていたもので、伝説では、往古 百太夫という翁が人形操りにたいへん優れており、西宮大神の神慮を慰めまつるとともに、多くの弟子を養育したとも伝えている」
という。

 百太夫神とは、傀儡師集団が祖神として奉斎していた神というだけで詳細は不詳だが、社頭の案内板に「百太夫神の御神影札(江戸末期)」との絵図がみえ、
 そこには、『日本一躰 道君坊百太夫大神』との神名の下に(百太夫は道薫(君)坊とも呼ばれた)、百太夫神のご神体として狩衣を着て正装した童子の像が描かれ、その前、三方にのせた串団子の供えられている(左右の文字は読めない)
 伝承での百太夫神は翁だが、この神影図では童子形となっている。百太夫神が子供の疱瘡に霊験があると信じられていたことから、その姿も翁から童子へと変わったのではないかという(冊子・西宮)
 また、社殿左右の壁には、白扇に御神影札と同じ百太夫神を中心に、串団子・小鼓・扇子などを描いて、習い事・諸芸上達を願う『芸能上達扇子』が多数奉納されている。  


百太夫社
(左壁の白いものは奉納された芸能上達扇子)
 
百太夫神・御神影札

芸能上達扇子(一部)

☆傀儡師(クグツシ、カイライシともいう)とは
 傀儡師(傀儡子とも記す)とは人形遣いの呼称で、中国で操り人形を傀儡と呼び、日本に入って、これにクグツの語をあて、人形遣いをクグツ・クグツマワシなどと称したという。
 傀儡師に関する古書、大江匡房(1041--1111)の傀儡子記(カイライシノキ・1087・平安中期)には、
 ・傀儡子は、水草を追って移動するのを常として、定まった住処にない。
 ・男は皆馬上に弓矢を携えて狩猟をもって事とし、あるいは木人(木製の人形)を舞わせたり相撲をとらせたりする。また幻術を使って沙石を変じて金銭としたり、草木を鳥獣にしたりして人の目をくらまかす。
 ・女は美々しく化粧しての歌舞音曲を業とし、ときに男をたぶらかす。
 ・彼らは一畝の田も耕さず、一枝の桑も採らず、県官に属せず、農民ではなく浪人に等しいが、“課役がないことを一生の楽しみ”としている。
 ・夜には百太夫神を祀って歌い踊り、以て福の来たらんことを願う。
とあり(大意)、これによると、彼らは農耕等に従事する一般の常民から外れ、誰の支配もうけずに諸国を漂泊する流浪の民だったと思われる。

 室町時代になると、傀儡師の一部は流浪の生活から、散所(サンショ)と呼ばれる無主の地での定住の生活へと変化していったといわれ、
 西宮においても、彼らは西宮神社北側の一帯(現産所町)に住み(元禄の頃-17世紀末頃-には30~40人の傀儡師がいたという)、神社の庇護をうけてその雑役に従事するとともに、諸国を廻って人形を舞わせながらエビス神の御神徳を語り、神社のお札・戎像神札(戎像を描いた神札で幕府の許可を得た当社のみが配布できたという)を配るなど、エビス信仰を全国に広げて廻ったといわれ、
 当社がエビス神社の総本宮として広く知られるようになったのには、これら傀儡師たちの諸国巡廻が大いに寄与したともいう。

 西宮の傀儡師は、胸の前に吊した小箱の上で小型のエビス人形を操り舞わすのを業とし(下図左)、“エビスかき”あるいは“エビスまわし”とも呼ばれたという。


傀儡師(摂津名所図会より、部分)
 
戎像神札(宝暦頃、資料転写)

 なお、傀儡師たちが住みついた散所とは、公権力・私権などが一切及ばない無主の地(神のみが支配する地で境界の地ともいう)のことで、河川の河原・村はずれの荒地・山麓・社寺の門前などがこれに当たり、今、当社の北に接する産所町がその跡という。

☆傀儡師故跡(人形操り発祥の地)
 えべっさん筋が阪神電鉄高架と交差したすぐ南の西側(積水ハウス阪神支店前)に、「史跡 傀儡師故跡」との石碑が立ち、傍らの台座の上に傀儡師のブロンズ像が座っている。

 
傀儡師故跡・全景
 
傀儡師像
 
跡地・石碑

 ブロンズ像が乗る台座には
 「人形操り発祥の地
 傀儡師は一名“くぐつ師”とも云い“人形まわし”のことであります。
 現在も、この地を産所と云いますが、中世以来、西宮のえびすさまに係わる人形まわしの一団がこの付近に定住し、傍ら全国津々浦々に人形をあやつりながら戎神の神徳をわかりやすく説いて廻りました。
 室町時代の末には京都の宮廷にも参入して上覧に供したことが屡々記録にみえ、また此処の人形芝居の小屋へは尼崎城主松平候の息女たちも度々見物に来、当時一般大衆に歓迎されてなかなか盛大であったのが、幕末の頃から衰微して惜しくも消滅してしまいました。
 西宮から操りの技を伝えられたと云われる淡路や大阪文楽座の人形浄瑠璃は、わが国固有の伝統芸術として尊重され今日に到っているのであります。  西宮神社名誉宮司 吉井良尚 撰」

 傍らの説明板には
 「傀儡師(カイライシ) 故跡
 この付近は、昔産所といわれた所で、1690年頃(江戸前期)には40軒程の傀儡師(人形操りを業とする者)が住んでいた。
 傀儡師は遠く平安末期に現れ、傀儡師・木偶(デク)まわし・人形まわしなどと呼ばれ、諸地方を巡廻興行していたが、室町時代に入ると、その一部がこの産所の地に住みつき、西宮神社の雑役奉仕のかたわら、神社のお札を持って諸国をめぐり得意の人形を踊らせながらご神徳をひろめた。
 1590年頃(織田豊臣時代末)には、その人形芸が「えびすかき」又は「えびすまわし」と云われて全国的に知られるようになり、たびたび京都の宮廷で天覧を受けるまでにもなった。
 さらにその後発展して淡路の人形座や文楽人形浄瑠璃へと成長していった。
 しかし1850年(江戸末期)ごろから、彼らは何故かこの地から姿を消してしまった。おそらく世相の変遷や好みの変化によるものと思われる。
 傀儡師らは永らくこの産所の地に住み、祖神と信ずる百太夫を崇神して神社にまつり守護神としたが、その社は江戸末期(1840年ころ)に産所の地が衰微するに至った時、すぐ近くの西宮神社の境内に移され現存している」
とある。

 説明に“度々天覧に供した”とあるが、御湯殿上日記(御所に仕える女官によって書き続けられた日記)などの記録によれば、永禄11年(1568)以下数度にもわたって天覧に供されたとあり、天正18年(1580)の記録には
 「この程参り候エビスカキ、皆々一段と上手にて、ほんの能のごとくにしまいらせて、一段一段おもしろきことなり」
とあるという。

●六甲山神社(ムコヤマ)

 百太夫神社の左に並ぶ小祠
   祭神--菊理姫命(ククリヒメ)
 冊子・西宮には
 「慶長期以前から六甲山山頂に白山権現を祀り、これを石宝殿(イシノホウデン)と呼んでいた。
 そのはじめは、往古六甲山一帯が広田西宮社領であった頃に祀られたものであろう(広田神社末社)
 山頂の神祠は現存するが(広地神社の管轄)、遠隔の地であるため、寛政元年(1789)に当社境内に遙拝所(末社)として勧請したものである」
とあり、社殿は石宝殿の方向に向かって建っているという。

 なお社名は“ムコヤマ”と読む。 

六甲山社

 石宝殿とは、六甲山最高峰から東へ約1kmにある六甲山神社の本殿のことで、石造の神祠が現存する(西宮市山口町船坂)
 その創建由緒年代は不詳だが、宝殿の石扉に慶長18年(1613)との刻銘があり、江戸前期頃に山麓の越木岩新田(現西宮市甑岩町)辺りの住民が農耕に必要な水を司る神として祀ったのではなかろうかという。
 なお、白山の神・白山比売命の別名・菊理姫命を祭神とすることから、加賀・白山系の修験道と関係するのではともいう。
 今の祭神は菊理姫命となっているが、嘗ては六甲山大権現と称していたともいう(Wikipedia、大意)

 祭神・菊理姫とは、書紀一書10に、黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが、黄泉比良坂でイザナミと口論したとき、姫がそれを仲裁するような言葉をかけたといわれ、それを聞いたイザナギが喜んで、口論を止めてその場を去ったとある。
 その神格は不明だが、ギ・ミ両神の仲を取りもったことから縁結びの神とも、ククリと水を潜る(ククル)との類似、黄泉比良坂を去ったイザナギが禊ぎをおこなっていることから、穢れを祓う禊ぎに関係する神では神かともいう。

●大国主西神社
  境内北西奥(六甲山神社の左)に東向して鎮座する小社で、拝殿の裏に一間社流造の本殿が鎮座する。
   祭神--大己貴命・少彦名命
 当社HPには
 「大国主西神社とは、延喜式神名帳・摂津国莵原郡にある大国主西神社とも言われているが、元は境内の阿弥陀堂という仏堂であったが、享保20年(1735)、大己貴命・少彦名命を勧請し神社にしたものという。
 明治7年(1874)11月、西宮神社・大国主西神社共に県社と定めるとの指令があり、西宮神社の境内に同じ県社の大国主西神社が存する関係にあったが、社務社入を司る祠掌は西宮神社にあり、戦後は当然の如く大国主西神社は社格を持たぬ神社として、西宮神社の境内社となっている」
とある。


大国主西神社・拝殿 
 
同・拝殿側面
(左側瑞垣内に本殿が鎮座する)

同・本殿

 この神社は、延喜式神名帳に、『摂津国莵原郡 大国主西神社 鍬靫』とある式内社の論社の一つとされるが(もう一社は、同市甑岩町にある越木岩神社)、その創建由緒等は一切不明で、鎮座地も莵原郡というのみで何処にあったかも不明。

 大国主西神社が西宮神社の境内社となった経緯について、資料(吉井良尚選集より)によれば、
 ・明治6年6月 広田神社から分離した西宮戎神社の祠掌・吉井良幹が、西宮戎神社を大国主西神社と改称した(改称根拠は不明)
 ・同7年4月  この大国主西神社(西宮戎神社)を村社から県社への昇格を願い出、同年6月30日に大国主西神社として県社に昇格
 ・同年8月28日 教務省が先の大国主西神社の社格(県社)を取り消し、西宮神社ともども広田神社の摂社と定める旨の通達があった
 ・これに対して氏子総代が異議を申し立てたが、同年11月7日、摂社の儀はそのまま、西宮・大国主西両社共に県社と定めると指令があり
 ・氏子総代等納得せず、さらに嘆願した処、県及び教務部は考証の結果として、
 ・明治8年4月28日付で、今更広田神社摂社の名称の取消しはできない。大国主西神社の由来については確定できないので、両社とも県社のままとする。但し、西宮神社は県社として別に祠官を定め社務社入も別途とするも差し支えなし、として一応の決着をみた、
 ・教務省が西宮・大国主西両社の県社指定を取消し、広田神社の摂社としたのは、教務省がこの両社は別々の神社と認識していたことを示唆し、神社側は両社は同じ神社と認識していたことからの紛糾であろうという。
 ・戦後の宗教改革で、両社は別々の宗教法人となり、大国主西神社は無社格の神社として、西宮神社の境内社となり現在に至っている
とある。

 しかし、
 ・西宮神社は旧摂津国武庫郡の領域であり、大国主西神社は延喜式では摂津国莵原郡に属していること
 ・現大国主西神社の前身が境内にあった阿弥陀堂であること
から、これを式内・大国主西神社に比定し、且つ西宮神社と同体というには無理があり、別々の神社とみるのが妥当であろう。

●神明神社
  境内西側のえびすの森に接し、東面して鎮座する小祠(大国主西神社の南)
   祭神--豊受比女神(トヨウケヒメ)
 社頭の案内には
 「この神社は、明治6年に元大阪奉行所西宮勤番所敷地から移転されたもので、稲荷神を合祀することから『おいなりさん』として多くの信仰を集めている」
とある。
 朱塗りの鳥居列の奥、朱塗りの社殿には稲荷大神の提灯が下がっており、稲荷社として遇されていることを示しているが、トヨウケヒメは穀物・食物の神であり稲荷神も同じことから、稲荷社として信仰されてもおかしくはない。

 
神明神社・鳥居
 
同・社殿 

●松尾神社

 神明神社の南に東面して鎮座する小祠
   祭神--大山咋神・住吉三神・猿田彦命
 社頭の案内には、
 「お酒の神・海上安全船玉の神また道案内の神さまとして信仰されている三柱の神さまをお祀りしています。
  寛政2年(1790)に当地の酒造家一同によって建てられました」
とある。

 当社は、京都嵐山の松尾神社からの勧請と思われ、とすれば大山祇神を祀るのは理解できるが、住吉三神(海上安全の神)・猿田彦命(道案内の神)を祀る由縁は不明。
 

松尾社 

 松尾大社の祭神・松尾大神(大山祇神)が酒の神とされる所以は、同社蔵の“酒由来の事”との記録に
 「遠く神代の昔、八百万の神々が松尾山に神集いされて、皇国の守護について話し合われたが、その場には酒はなかった。
 そこで、松尾大神が山田(嵐山)の米を蒸し、山裾から湧き出る清らかな水を汲んで、一夜にして酒を醸され、その酒を大杉谷の杉でこしらえた器をもって諸神に饗応され、大いに喜ばれた」(大意)
とあり、
 また、祭神・オオヤマツミを酒の神(本来は山の神)とするのは、
 「オオヤマツミの娘・コノハナサクヤヒメが天孫・ホノニニギの御子三柱を産んだとき、それを喜んだオオヤマツミが、狹奈田の稲穂を以て天甜酒(アメノタムサケ)を醸し、諸神にふるまわれたのが、わが国における造酒の始まり」
との伝承によるという。

●庭津火神社(ニワツビ)
  表参道の一本東の小道沿いに鎮座する小祠
    祭神--奥津彦神・奥津比売神
 社頭の案内には、
 「社殿がなく、塚の形をした封土を拝する古い姿を残した神社で、この神域を守護する神をお祀りし、荒神さまとして信仰されています」
とあり、貞享3年の古絵図には荒神とある。
 奥津彦・奥津比売神はスサノオの御子・大年神の御子(スサノオの孫)で竈の神ということから、台所の神・荒神として祀るのであろう。

 拝殿奥の疎林の中に、3・40cmほど小高くなった区画があり、数本の樹木が生えている。
 この区画は、嘗て神が降臨する聖地として信仰の対象になっていた磐境(イワサカ)の跡であろう。

 
庭津火社・拝殿
 
同・磐境


 境内のほぼ中央部(拝殿の南側)に神池と称する池があり、池中の小島に末社2宇が鎮座し、真ん中付近に神宮遙拝所がある。
●宇賀魂神社(ウガノミタマ)
   祭神--宇賀御魂命(ウガノミタマ)
 社頭の案内には、
 「すべての生き物の成育を司どられる神さまをお祀りしています。
 文明年間(1469--87)以前から、ここにお祀りされていたと記録されています」
とある。

 宇賀御魂とは“食物(特に稲)の御魂”を意味し、宇迦之御魂神・倉稲魂神(いずれもウカノミタマ)とも記され、一般には稲荷神として知られている。

●市杵島神社(イチキシマ)
 宇賀魂神社の南に鎮座する小祠
   祭神--市杵島神
 社頭の案内には、
 「厳島に鎮座される市杵島姫の神さまをお祀りしています。、
  貞享3年に描かれた絵図には“弁才天”と記されている」
とある。

 市杵島姫とは宗像三女神の一(宗像神社・辺津宮の祭神)だが、福の神・弁財天と習合しており、当社でも弁財天としての勧請かと思われる。

●神宮遙拝所
 小島のほぼ真ん中の高所に鳥居だけが立つもので、神宮遙拝所というが詳細不明


宇賀魂社
 
市杵島社
 
神宮遙拝所

☆瑞宝橋(ズイホウバシ・国登録有形文化財)
 拝殿前から神池内の小島に渡る太鼓橋で、今は注連縄を張って通行禁止となっている(横にコンクリート橋あり)
 傍らの案内には、
 「境内中央に配された神池に架かり、拝殿正面に位置する石造の太鼓橋で、六甲山産の花崗岩が用いられている。
 円弧状の桁石の上を17等分して敷石を割り付け、青銅製の欄干を備えた丁寧な造り。(中略)
 明治40年(1907)白鷹酒造初代辰馬悦叟氏が奉納、大正11年(1922)令孫悦蔵氏が改修。橋長:5.5m、幅員:2.5m。(以下略)
とある。

 
神池北側全景

瑞宝橋
 
神池(一部)

 表大門(赤門)及び国道43号線側の南門の傍らに、それぞれ一社が鎮座する。
●梅宮神社
  表大門外の北側(右側)に鎮座する小祠
   祭神--酒解神(サカトケノカミ)
  冊子・西宮には
  「貞享3年の絵図には、現在の場所に松の大木があって『梅の宮』と表示され、元禄5年(1692)の書上書には『祠無し 神木あり』とあるように、松の木が神降臨の依り代とされていたが、天保年間(1830--44)に枯れたという。
  その後、嘉永4年(1851)にご神木の代わりに社殿が造営され、現在の社殿は昭和8年(1933)の改築という(冊子・西宮)

  京都市右京区の梅宮神社からの勧請というが、そこでの酒解神は大山祇神(オオヤマツミ)とも塞の神(サイノカミ、道祖神と習合して道中安全の守護神という)ともいわれ、はっきりしない(別稿・梅宮大社参照)
  当社が正門前の道路脇にあって神木を祀っていたことから、お酒の神というより、道中安全の守護神・塞の神としての奉斎かと思われる。


梅宮社付近 
 
梅宮社

●沖恵美須神社(オキノエビス)
  南門を入ったすぐの北側(左側)、少し入った処に鎮座する小社で、拝殿の後ろに一間社流造の本殿が鎮座する。
   祭神--沖恵美酒大神
 社頭の案内には
 「『あらえびすさま』し崇められ、室町時代の文書に度々西宮荒戎社鳴動と記録されていて、霊験あらたかな神さまです。
 もと 荒戎町に鎮座していたのを明治5年こに移されました」
とある。
  創立年代不明だが、荒夷社とも呼ばれ、後崇光院御記・応永26年(1419・室町前期)7月25日条に「西宮荒夷社鳴動」とあるが当社の初見というから、かなり古くからある神社である。


南 門 
 
沖恵美須社・拝殿

同・本殿

☆銅鐘堂
 神池内の小島に渡る瑞宝橋の左にある小堂で、菱形格子で囲われたの中に古い銅鐘(市指定需要美術品)が座っている。
 冊子・西宮には
 ・天和4年(1684)・元禄5年(1692)の記録に「しゅろうどう」とあるから、この鐘が吊されて朝な夕なに時を告げていたと考えられる
 ・鐘面に陰刻された文字に、「奉建立摂州武庫郡 西宮 御戎之鐘 一口・・・慶長戌庚15年(1610)3月8日 施主敬白」と、西宮のエビス神へ寄進された鐘であることが明記されている
 ・慶長15年とは、豊臣秀頼の社殿再興の翌年にあたることから、秀頼による寄進であろう
 ・全高:4尺三寸一分(130.4cm) 口径:二尺六寸5分(79.3cm)・・・
とある。


銅鐘堂 
 
銅 鐘

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