トップページへ戻る

大 江 神 社
大阪市天王寺区夕陽丘5-40
主祭神--豊受大神
相殿神--素盞鳴尊・大己貴命・少名彦命・欽明天皇
                                                      2020.06.16参詣

 大阪メトロ谷町線・四天王寺夕陽丘駅の西南西約200m強。
 谷町筋の西側、大阪星光学園北側の辻を西へ約150m程、勝鬘院愛染堂前を過ぎた先に鳥居が立ち境内に入る。

※由緒
 社頭に掲げる由緒には
 「当神社は、伝うる所によれば、上之宮・小儀(オギ・四天王寺東門外・北側)・土塔(南門外・東側)・河堀・堀越・久保の各社と共に天王寺七宮(テンノウジシチミヤ)と称し、四天王寺の鎮守として聖徳太子が祀られたものであると云う。
 大江の社号は、慶応3年(1867)この地が大江岸の続きであるを以て時の祀官が斯く改称せしなりと云う。

 当社は天王寺北村の産土神として、祭社主神に豊受大神を祀り、稲荷社と同一神にて五穀豊穣・食糧保持の神であり、また明治40年(1907)神仏分離により本社へ合祀せられた東門外の元村社・小儀神社及び南門街の元村社・土塔神社の祭神・素盞鳴命・少彦名命の何れをも祭神とする(以下略)

 また、当社HPには、
 「当大江神社は、上之宮・小儀・土塔・河堀・堀越・久保の各社と共に四天王寺七宮(シテンノウジシチミヤ)と云われ、四天王寺の鎮守として聖徳太子(厩戸皇子)が祀られたものと伝えられています。
 当社は、天王寺北村の産土神で豊受大神を祭神としています。

 いつの頃よりか神仏を混淆して毘沙門天を祀り、乾(イヌイ)の社と称して(四天王寺の北西方にあたる)四天王寺の所管となり、境内に神宮寺を建て祭祀も僧侶(四天王寺東光院神宮寺の別当)が当たっていましたが、明治維新後神仏が分離され、慶応3年今の社名に改められました。
 社名は、大江岸(かつて海が迫っていたという上町台地の西岸一帯)に続いた社地であったことから大江神社となりました。

 明治4年(1871)郷社に列せられ、明治40年、大道1丁目土塔の村社・土塔神社(素盞鳴尊)、上之宮町字上之宮の村社・上之宮神社(欽明天皇、相殿:大己貴命・少名彦命)、同41年、勝山通1丁目字小儀の村社・小儀神社(素盞鳴尊)を合祀しました。

 先の戦争にて絵馬堂と神器庫を残してすべて焼失しましたが、昭和38年(1963)、氏子崇敬者により本殿・拝殿等が復興されました。
 1,800坪の広い境内には約130本もの榎木・楠木等の樹木が覆い繁り、大阪市の保存樹木の指定を受けています」
とある。

 また、大阪府全志(1922)には、
 「大江神社は同町字北村にあり。豊受大神を祀れり。上之宮・小儀・土塔・河堀・堀越・久保の各社と共に天王寺七宮の称あり。
 七宮は四天王寺の鎮守として聖徳太子の祀られしものなりと伝へ、当社は旧北村の産土神たり。
 天王寺の乾位(イヌイ・北西)に当れるを以て乾社と称し、聖徳太子自作の毘沙門像を祀りて、四天王寺の僧徒之が祭祀を掌りし為め、神仏混淆して神宮寺乾社とも呼び、明治維新後の神仏分理に至るまでは四天王寺中の東光院は神宮寺の別当となり、其の下に神職(天王寺公人)ありて奉祀したりしが、神仏分離の後今の社名に改めらる。
 社名は、大江岸に続きたるを以て、此の社名を選びしものなりといふ」 (以下略)

 同じく大阪府史蹟名勝天然記念物(1931)には
 「当社社記は四天王寺と共に数次火災に罹り、其由緒を詳する能わず。
 口碑の伝ふる所によれば、当社は天王寺北村の産土神にして豊受大神を祭祀せしが、何時の頃よりか神仏を混同し毘沙門天を祭り、乾の社と称し四天王寺の所管となり、境内に神宮寺を建て、祭祀も僧徒の司る所となり、殆ど仏堂の如くなりしも、社殿は猶神殿の態を保存せり。
 明治初年神仏の分離さるるに至り、神宮寺を壊ち仏像を退け、明治4年郷社に列せられ、爾來漸次其面目を革めたり。
 大江の社号は、慶応3年此社地が大江岸の続きなるをもって、時の祠官が斯く改称せしなりといふ」
とある。


 当社は聖徳太子(574--622)が四天王寺建立に際して、その外護鎮守として祀られた天王寺七宮の一社というが、推古紀にそれを示唆する記事はない。
 ただ、書紀・推古15年(607)春2月15日条に、
  「皇太子(聖徳太子)と大臣は、百寮を率いて神祇を祀り拝された」
とあり、何らかの神マツリがおこなわれたことを示唆するが、その神マツリが如何なる形のものだったかは不明で、且つ、この記事が天王寺七宮に結びつくかどうかも不明。

 当社祭神が穀神・食物神である豊受大神(伊勢外宮祭神)であることからみると、五穀豊穣を願う在地の人々が奉祀した神マツリの場だったものが、後世、聖徳太子と結びつけて四天王寺建立時云々の伝承が生まれたか、と思われる。


 当社創建後の経緯は不明だが、神仏習合が進んだ江戸時代の当社は、神社というよりお寺として信仰されていたようで、明治以前の古資料として、
*浪華百事談(1805頃)
 「明治以前には、今大江神社の祭れる社には毘沙門天王(ビシャモンテンノウ)をまつりて乾の社と称し、例年4月15日に土塔会あり。(中略)
 当社は世人勝鬘(ショウマン)の毘沙門と称し、社前の坂を勝鬘坂とよべり。其頃は大江神社は乾社の東の側らに祭りて、小祠にて大江社とも称さず、太神宮と称せしかと思へり。
 祭神は豊受太神なり。当社は古への野々宮にて、上古此の丘の下には有栖川とよぶ川ありて、伊勢斎宮帰京し給ふとき、田蓑島にて御祓し給ふ。若し波あらき時は、此有栖川にて禊ぎあり、其時の野々宮なりと云へり。
 又大江の神号は、此地は古の大江の岸のうちにて其南方なり、因て大江神社社官より名づけられしか。
 維新の際毘沙門天は天王寺に納めて、今の如くなりしなり」

*摂津名所図会(1798)には、
 「荒陵山四天王寺敬田院乾社(イヌイノヤシロ)  
 天王寺北村にあり。如意山神宮寺と号す。毘沙門天(身二尺七寸)・脇侍吉祥天女・禅膩師童子、倶に太子の御作なり。
 土塔会4月15日、夏祭6月16日、むかしは御輿を葭島(ヨシジマ、現大正区三軒家東町付近にあった中洲)へ致し神供を備ふ。此式今は絶えたり。
 白河院永保2年(1082)に天下旱す。此尊天を葭島に渡して雨を祈るに、忽ち霊応あり。此の例によるなり」
とあり、絵図には毘沙門堂の名で隣接する勝鬘院(愛染堂)とともに描かれている(下絵図)

 絵図によれば、当社は石段を上った丘の上に鎮座し、中央左に描かれた石段の上に拝殿・弊殿・本殿が西面してみえ、その右上に“毘沙門”と記してある。
 今、当社の西側は高い崖となっており長い石段があり、絵図にみえる石段が是だと思われる。
 ただ、今の社殿は南面であり西面する絵図とは異なっている。

 
大江神社・古絵図(摂津名所図会)
中央:毘沙門堂 上:勝鬘院
 
同・毘沙門堂部分・拡大
 
西へ下る石段
(境内から下を望む)

*摂津名所図会大成(1855)には
 「乾社  勝鬘坂の上にあり、如意山神宮とも号す。四天王寺境内にして伽藍の乾にあたるをもって、斯くは称せり。尤も今は社司のみにして僧坊の類ひなし。
 本殿:毘沙門天王 社壇造りにして拝殿あり。中央毘沙門天 左右天女禅膩師童子を祭る。三像ともに聖徳太子の御作なりといふ。
 摂社天照皇大神宮 本社の東傍らにあり。道祖神社 本社の西にあり。
 仏堂 本社の後の西にあり。中央毘沙門天、左準抵観音、右辨財天女を安置す。此堂は往昔神宮寺たりし時の遺風なるべし」
とあり、いずれも、当社は嘗て毘沙門天を本尊とする神仏習合の社寺で、乾社と呼ばれていたという。
 乾社とは、当社が四天王寺の乾(北西)の方にあることによる。


※祭神
   豊受大神・素盞鳴尊・大己貴命・少彦名命・欽明天皇

*豊受大神
 古事記(神生み段)に、イザナミが火の神・カグツチを生んで病み、苦しみながら幾柱かの神々を生み出した時、
  「次ぎに尿(ユマリ)に成りし神の名は・・・和久産巣日神(ワクムスビ)。この神の子は豊宇気毘売神(トヨウケヒメ)と謂ふ」
とある神で(書紀にはみえない)、神名・トヨウケの“ウケ”が食物を指すことから食物・穀物の神とされる。

 今、伊勢神宮外宮に祀られているが、外宮社伝(止由気宮儀式帳)によれば、
  「雄略天皇の夢枕にアマテラスが現われ、『自分一人では安らかに食事ができないので、丹波国の比治里のにいる御饌の神・等由気太神を近くに呼んでほしい』といわれので、驚いた天皇が伊勢外宮を造営して豊受大神を祀った」
という。

 当社が食物・穀物の神を祀るのは、五穀豊穣の神として祀ったものと思われ、聖徳太子云々というのは後世の付会であろう。

*素盞鳴尊
 合祀された土塔神社及び小儀神社の祭神

*大己貴命・少彦名命・欽明天皇
 合祀された上之宮神社の祭神

*毘沙門天
 江戸時代・神仏習合時代の当社の本尊・毘沙門天とは、
 「ヒンドゥー教における財宝の神・クベーラの別名で、福徳の名が遠く聞こえるということから多聞天という(四天王の一)
 仏教神話では、須弥山の第4層にいる四天王のうちで最も由緒正しい神で、夜叉・羅刹らを率いて北方を守護するという。
 財を授けるから施財天ともいわれ、北方守護の武神として尊崇される神」
で、四天王の一としては多聞天、単独では毘沙門天と呼ばれる。(岩波版仏教辞典・1989)

 毘沙門天祀られたのは、当社が四天王寺の北西方にあたることから、それを広く北方に含めて、その守護神として祀られたものであろう。 

 右写真--毘沙門天像(国宝)・右:吉祥天女、左:禅膩師童子・・・鞍馬寺蔵


※社殿等
 鳥居から短い参道を通って境内に入ると、右に根元から幹別れした楠の大樹が亭々と枝葉を伸ばしている。

 
大江神社・鳥居
 
同・境内の楠巨木 

 境内北側に唐破風付き向拝を有する入母屋造・銅板葺きの拝殿が南面して建ち、その裏に、一間社流造・銅板葺きの本殿が独立して鎮座する。

 
同・拝殿(正面)

同・拝殿(側面) 
 
同・本殿

◎境内社

*日吉稲荷神社
 本殿の左、朱塗りの鳥居列と赤い幟列の奥に南面して鎮座する稲荷社。
 ただ、一間社流造・銅板葺きの社殿は朱塗りではなく又白狐像も置かれていない。
 案内なく鎮座由緒・時期等は不明。


日吉稲荷神社・鳥居列 
 
同・社頭
 
同・社殿

*羽呉神社(ハクレ)
 社頭の案内に境外末社として記されているが、案内等なく詳細不明。
 この神社について、
 ・摂津名所図会大成には
 「羽黒社  高津新地掘止にあり、天王寺乾社の祭礼に御輿此所に渡御あり、故に毘沙門の御旅所といふ。
    此辺を御蔵跡と号す、是は寛政の頃まで此地に御米藏ありしが、水のさばけあしく湿気をほき故に米穀の為よろしからずとて今の難波の地に引き移されしゆへ、今尚御蔵跡の名あり。(以下略)

 ・大阪府全志には
 「羽呉社  羽呉神社は御蔵跡町にあり、稲荷大神を祀り、当所御蔵の鎮守なりしが、御蔵の難波に移転せし後は同町民の崇敬する所となる。
        もと無格社なりしが、明治39年11月大江神社の境外末社となれり」
との古資料がある。

 御蔵跡町が何処なのかは不明だが、
 “大阪あそ歩”(ネット資料)には
   羽呉神社 はきもの神社
     大阪市浪速区日本橋東1-1
   ・元文5年(1740)鎮座の大江神社の境外末社で、かつては天王寺御蔵の鎮守であった
   ・戦災にあった大江神社が社殿復興の資金調達のため、羽呉神社の再建を条件にこの土地を売却
   ・履物協同組合が購入して大阪履物会館を建設
   ・その南隣に羽呉神社を再建、商売繁昌を願って“はきものの神”を合祀した、全国唯一の履物神社
   ・この神社は、羽呉神社とはきもの神社の二つの社名を持つ
とある。(未参詣)

◎その他
*芭蕉句碑
 境内西側に、松尾芭蕉の句
  「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」
と刻した句碑が立ち(摩耗していて読みづらい)、側らの案内には、次のようにある。
 「俳句碑  文化14年(1817)建立
 この俳句碑は、松尾芭蕉(1644--94)が元禄7年(1694)9月9日に大阪入りし、同月26日、当社南隣にかつて存在した料亭・浮瀬(ウカムセ)にて句会を開いたことに因み、建立されました。
   あかあかと 日はつれなくも 秋の風  芭蕉
   よる夜中 見ても桜は 起きて居る  三津人
   網の子の 名にやあるらん 杜宇(ホトトギス)  千季
   春風の 夜は嵐に 散れ鳧(ケリ)  暁臺 」。

*夕陽岡の碑
 同じく西側・芭蕉句碑の近くに、自然石に「夕陽岡」と刻した石碑がある。
 これについて社頭の案内には、次のようにある。
 「上町台地の西端に沿う一帯は『夕陽ヶ丘』と呼ばれており、その昔、この台地のすぐそばまで海がせまり、西の海に夕陽が沈みゆき、茜色に染まる空の美しさにいつしか『夕陽ヶ丘』と呼ばれるようになったと云う。

 
芭蕉句碑
  夕陽岡の碑
 

トップページへ戻る